- 第3書 新しい価値定立の原理(意訳版)
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- T認識としての権力への意志
- a)研究の方法
- 現代の特徴は科学の勝利ではなく、人間が科学的方法を理解できたからである。
- その科学的方法とは哲学である。長い間人類は真実を美しいものと誤解してきた。
- 結果を考慮しないで問題を真剣に取り上げることが科学的性格を作り出す訓練になる
- b)認識論的出発点
- 考えることをやめて安らぐことは避けるべきだ。
- 人間の世界では根底はきわめて道徳的になっているので、人間の理性こそが正しいという考えは昔の神を信じていた時代の名残である。
- 意識するものはほとんどが間違っている。真実の観察は困難である。
- 知性は違った種類の知性とは比較できない。ほかの知性を批判するためには、自分が絶対者でなくてはいけない。
- 主観も客観も粗雑な意識で分けられているので、それについて正しくいうことはできない。
- 近代哲学では、意識の事実には間違いはないという思いこみがある。
- 私たちの中にある意志も感情でもおおむね表面的なものしかない。
- 私たちが意識するものはすべて意識の中で図式化されている。思想や感情や欲望の因果関係は自分たちからは全く意識されない。その欲望の因果関係はあまりに素早いので見落とされ、ついには否定される。
- 長年人類は快を求め、不快をさけてきた。しかし、これ以外でもすべてのものが同一の因果関係によって物事が経過している。それには作用反作用の関係ではなく、すべてが随伴症状として起こってくる。
- 外界からの影響は意識されないので,つい自分の内側からのものと錯覚してしまう.たとえ外界からの原因が意識されても,それはすでに起こってしまった後に意識されているものである.いつも我々は起こってしまった後に,その起きた原因を想像している.内的経験ではそれによって原因を特定したつもりでいるが,それは本当の原因では絶対にあり得ない.すでに過ぎ去った外的な原因だからである.内的経験は所詮は自分音記憶をたよりに探り当てるので,もし自分の中に誤った習慣があればその推理した原因も間違ってくる.つまり内的な尺度は外界には通用しないので,図式でもって外界を理解しようとする.自分の中に経験による解釈があると意識できるときは,自分の中に起こった新しいものを自分の既知の古い言葉で置き換えることが出来たときに起こる.たとえば幼稚な人間は,自分の気分が悪い原因が特定されたときに初めて自分の気分が明瞭になる.その間の解釈が成されないときは内的経験がもっともおくれている状態である.(ステレオタイプ,紋切り調など)
- 人にはあると思っている精神も理性も思考も意識も霊魂も意志も心理も無く,知覚的に相対的な正しさを保つことにより,繁栄できる動物種である.何事にもごまかされない認識は権力の増大とともに大きくなるし,大きくならなくてはいけない.
- c)自我に寄せる信仰.主観
- 人の世界ではあるのは事実に対する解釈のみである.なぜなら事実を確かめることは出来ないから.主観とはその人にとっての解釈である.この世界は認識する限り,解釈は何万通りもあり,解釈することは無意味である.世界を解釈しようとするのは私たちの欲求であり,支配欲であり,事実に対して自分の規則でもって,感情などを強制している.
- 更に自分の中に解釈できないものがあればそれを自我とか性格とかで解決をつけようとするがそれは真理では無い.
- 考えることによってそれ以上割り切れないものがあることが自分の中にあることを自覚しそれを自我とする.そしてその自我が思考することの原因になっている.
- 人間は存在するときから思考するというのは真実であるが,これは信仰に近いものがある.実体が証明されているわけではない.
- 主観があって実体が存在する.その逆は存在しない.主観とは実在感情であり信仰である.現実性とは生命感情や権力感情の度合いを示す.私たちはこの主観を通じて,実在性,実体性,真理を想像することが出来る.つまりそれは自分たちが作り出した虚構であり,存在していたのはそれらを真理と思わせる働きのみである.
- 実在するかどうかを証明するには自分を証明しなければいけないが,自分自身を証明することは出来ない.
- 私たちは自分を一つの実体として自我を信じている.それは人類の全宗教史が霊魂を迷信してきたことと同じである.この信仰を捨てることはもう思考するなと言うことである.しかし,ある信仰はその人にとってどれだけ必要なものであろうと,真理とは関係がない.ある信仰とは今日もっとも信じられている物理学も含んでいるが,それとても絶対的なものではない.
- 実在すると言うことは私たちの主観からやってくる.主観とは私たちの立場から解釈することで,これによって実体を働くもの,もしくは働く原因として実感する.いろいろな偶然を論理学や形而上学に求めることによって私たちの意志と意味づけ,多種多様の変化の中でも自我は消え去ることが無いと考えている.しかし,実際には意志なるものは存在しない.私たちは世界全体を現象としての世界と切り分けることが出来ない.私たちが理性と思っているものはすべて感覚的なものが起源である.すなわち経験から割り出されたものである.霊魂,自我と言う概念も呼吸や生命と同じである.つまり,物質的なものが何もないとすると,非物質的な概念も何もないと言うことになる.ギリシャ時代に考えられた一番小さなものというアトムという概念も現代では更に小さなものが考えられている.つまり,体系としての中心点はいつも変化している.
- 肉体の現象はよりとらえやすい現象である.その現象の意義を解明することなくその現象をそのまま捉えるしかない.
- 苦痛とは知的なものであるが有害と考えられている.ものごとの結果は常に無意識である.すなわちあらかじめ良さ嘔された原因が映し出されるだけである.快は苦痛の一種である.意志のみが力となって現れる.それは自己の中にある多くの主観に対して命令する.
- 肉体を信じることは自己の魂を信じることより基本的なことである.つまり魂とは肉体が最後の叫びを非科学的に考え出したものである.(霊魂不滅)
- 肉体に自分の原点を求める理由は,それが主観の統治者であるからである.霊魂や生命力が統治者ではなく.つまり,私たちが統治者と思っている霊魂が非統治者と考えている肉体とは同種である.たとえば肉体の運動とは肉眼に見える一つの表象であり,感情や意欲思考が含まれている.精神の自己反省は危険なことであるが,それはおのれを偽って無理して行動することが有用であるとか重要だと考えてしまうことである.それゆえに肉体を問いただすことは重要である.
- d)認識衝動の生物学.遠近法主義
- 真理とはそれがないと人間が生き残れないような誤解を与えてしまうような間違いである.
- 認識する知性が生の保存以上に発達することは無い.
- 真理や美への意志はものを作り出すことへの意志であり,権力を手に入れることへの意志である.ものを作り出すことに対する快感は根源的なものであり,私たちは自分たちが作り出した世界でのみ自分を生かすことが出来る.
- 自己と他人との関係は自分の中のものであり,他人の認識ではない.知識や認識は生存の条件である.
- 強く信じられてきた先天的な真理は信仰上の習慣であるが,それはすでに人間の血肉にまでなじんでいる.
- 私たちが生きるのに知性を必要としないなら,それは最初から無いだろう.と言うことは人間らしく生きるには知性が必要である.
- 人間の原始状態の中での思考の役割は,自分を形作る家庭である.その形は生涯変わらず,新しいものはその古い鋳型に合わせられ,新しいものとして認識される.
- 内と外の感覚があるが,それを規定しているのは肉体である.遺伝で私たちを形作る力が,外界に対しても働く.
- 新しい思考についてはそれを取り込み自分の思考にする.もしくは自分の思考だと偽装する.回想はすでに取り込みが行われた思考について行われる.
- 記憶があると言うことは霊魂(ゴースト)の存在を信じることの根拠になる.しかし記憶とは体験がその中で生き続けるだけであって,そのなかでは,自分の思想も意志も働かない.単なる記憶媒体である.しかし,その記憶をさまさせるのは霊魂だろうか?
- 認識とは抽象化,単純化であり,認識を目指しているのではなく,自分に取り込むことを目的としている.目的もその手段もその概念には近づくことが出来ない.概念とはこの取り込む課程を作り出しているものである.
- 意識とは最初は外面的に始まり,もっとも生物的な中心から離れたところに始まる.しかしそれは人間を深くし,内面化し,中心に近づく.
- 私たちが理解できる知覚を意識するとは,すべての知覚を必要とする.意識を形成する知覚は精選された知覚であって,自己保存には欠かせない知覚である.そして意識は意識が有用であるときのみ存在する.すべての感覚知覚が有用と有害快と不快でもって価値を決めている.たとえばすべての色彩は私たちにとってある価値を示している.それは特に昆虫に関して際だっている.
- 心象がどのようにして精神の中に発生するか?まず言葉で次に概念でもって現れる.言葉が統括する多くの心象を見聞きしたときにささやかな情緒を感じることが出来るが,これが概念である.しかし,そこには取り違えもあるが,それを確認するのは信じることがすべてである.すなわち,肯定することこそ知的活動である.はじめに真ありき!とはこのことである.しかし,それを真と信じ込むその力はいかなるものか?
- 私たちの認識機関や感覚器官は成長し保存されるものに対してのみ発達している.理性や弁証法への信頼,論理学の尊重は,経験によって証明されている有用性を証明することであって,真理を示しているわけではない.何者かが真であることを信じ込まなければならない状況があるわけで,決して何者かが真であるわけではない.私たちが保存され繁栄されるためには真の世界と仮象(鬼神・霊魂など
この世ならざるもの・目に見えないものが かりに現わしている姿や、それらが宿っていると考えられる場所=現世)の世界を価値に差をつけてきた.私たちは信仰で安定しなければならないので,真の世界は変化することのない,いつも変わらず存在している世界であると言うことを信じてしまった.
- e)理性と論理学の発生
- 多くの考えが淘汰された
- 論理学を生長させるのは畜群本能である.差があればならして平等にしようとするのが平等の魂である.それらを使って了解させて,支配することを目的としている.
- 論理学とはすべてを同等と仮定し,同等に見なす基本的性格が,有害と有用によって,また,効果によって,事実は変形され制御される.
- 粗雑な機関では多くの見せかけの平等性を見せる,精神は平等性を要求する.言い換えると感覚器官が自分の中にすでにある事柄に包括しようとする.論理学とは同等生を強調して権力を示す方法である.つまりなるべく多くのものが同等であるとすることである.
- 論理学にはいくつかの同じ場合があったときにと言う大きな前提条件がある.しかし,同じ場合などあるのだろうか?同じ場合など無いのに同じであると作り替えて判断すれば自分の観点から判断に過ぎないことが明らかである.つまり,論理学とは真理への意志から生じるのではなく,自分の都合からできあがっている.
- カテゴリーを決定してきたのは人間の欲求であるが,つまり確実性をもたらすために,記号や音階を使い速やかな離開を可能にした.実体や主観,客観,存在,生成で重要なのは形而上学的真理では無いのだ.事物の名称を法則化したのは,権力のある人々(知識という権力を持つ学者)である.
- ある道徳は長い時間が経過するにつれて,法則となる.そしてついには畏敬すべきもの,侵すべからざるもの,神聖なもの,真実のものになる.つまり,その由来が忘れ去られることが,それを助長する.理性のカテゴリーでも同じことが起こる.それらは真理ではないが,種族にとって合目的以外のなにものでもないのである.彼らにとっては有用性が真理なのである.(アメリカの主張するプラグマティズム,正義)
- 理性や論理やカテゴリーが形成されるとき,認識を目的とはせずに,理解しやすく数えやすくするためだけに,図式化されている.すべてが類似なもの,同等のものとして通過するものが作り替えられるのが理性である.ここで言う理性とはイデアではなく私たちが事物を粗雑に同等化して考えることである.理性における究極目的は結果であり,原因を知ることではない.見通しが効いて,生がたやすくなることを理性は求めている.カテゴリーはそれが私たちにとって生きていく条件の中では真理である.つまり,他の種族,もしくは他の生物にとっては真理ではない.有用性を求める本能がそれを作り出し,信じ込ませる.真理に抗論できないのは真理だからではなく,私たちが幼稚であるからだ.
- 一つのことに同意し否定することが出来ないのは経験からそう考えるのであってそれは我々の能力が無いからである.矛盾の原理が根本的な原理の大部分である.これに反する論理学とは私たちにとって経験上真と考えられるものに対して世の中の事柄を調整しなさいと言うことに他ならない.自己が矛盾しないものなど無く,矛盾しない面しか見ないならば論理学は一つの面での証明である.論理学は世の中にあるあるものをまねて作られる.このことをわきまえないで私たちが論理学を真であると論じるならば,実体や,客観,主観,作用の仮定された事柄は真と見なされることになる.言い換えると論理学が一つの真の世界を作り始めている.ここでは私たちの感覚は真理をおしえるとの粗雑で偽りの事実である.つまりあるものが柔らかく堅いと言うことはあり得ないという論理学が真実を思われている.概念上の矛盾を取り払うことが事物の本質を認識することに違いないと思い始めている.事実,論理学は私たちの作り上げた虚構の世界でのみ通用する.そして,数式化,計算しやすいものとして試みられる.なんと単純な人間の考え方よ!
- 存在するものを想定することは思考し推論するのに必要であるが,これでは本当に存在するものを証明する力は持っていない.たとえば存在するものすべては目に見えるものであり,触れるものや存在を認められていない.
- 主観や,実体,理性などの虚構の世界は人間には必要である.つまり,それで秩序付け,単純化し,偽造し,人為的に分離する権力が私たちの中にある.真理とはいろいろな感覚を支配しようとする意志である.いろいろな現象は私たちがそれらを信ずることから始まる.つまり事柄の生成より認識の方が先に存在する.
- 自我が私たちのや私たちに関連する諸々のものを作り上げる唯一の存在である.そこには見せかけの統一が見える.
- 自我のみが存在するもので形を変えないものとするなら自我を信じることが理性的論理学的院罹を信じることと同じである.反対に自我が何かを作り出すものとするなら,真理も作り出されたものである.
- 世の中は常に流動しているため,,運動しているものと制止しているものを区別することは出来ない.原因と結果も知ることも出来ない.同一であるという原理は見た目に同等のものが存在するという原則がある場合成立する.この流動の世界では厳密には概念し認識することは不可能かもしれない.架空のものの中から生を経験的に保存できたものが認識される.
- 類という表現は一つの目標を目指して生長しているものを表しているが,その中の形式は持続するものとして価値が高く思われている.しかしこれは私たちの錯覚であり,その中には娃tらしいものが生まれている.それを同等であるのでひとまとめにして考えているだけだ.形式,類,法則,理念,目的これらの働きと作用するものの区別が,人為的に成されている.その分別が絶対的と思いがちな形而上学,論理学から成されたに過ぎず,真実から分けられたのではない.形式,類,法則,理念,目的は私たちが生存できるように調整してくれる規則のようなものである.それによって私たちはこの世を理解しやすいものとして感じている.これと同じ規則が感覚器官にも認められる.本来,悟性とは単純で粗雑なものであるが,私たちに再認識させ,理解させるために現実性を得るために,精密化されてしまった.論理学は私たちが意識を持つ前から論理学を信じ込ませる術を持っていた.そのため物事が起こるたびに,自然に論理学的に物事を考えようとする.この世が論理的に見えるのは私たちが論理的に見えるようにしたからである.
- 理性とは概念の哲学であり,その言葉は幼稚である.しかし,私たちは問題を言葉で置き換えて考えるために,理性を永遠の真理として信じるのである.私たちが言語を使って考えることをやめるとき思考は止まる.そして,その思考の限界に現在は達している.合理的に考えるとは私たちがそれを放り出すことが出来ないできあがりの図式で解釈することである.
- f)意識
- 心的現象と物理的現象の二つは別に考えることは誤りを導く.実体を人が説明しようとするのは不可能である.一面の現象からもう一つの面の現象を推測しているに過ぎない.そのため複雑な現象を単純なこととして考えているのであり,人が見えない部分では,因果関係をねつ造している.いろんな思想のいろんな感情のつながりとはこの推測の経緯である.意識によって事物の原因と結果が解明されるわけでは無い.
- 意識を発達させたのは私たちと外界との関係である.これに反して肉体的な機能に関する反応はwたしたちの意識に上ってくることは無い.それは精神が蓄えられないことと同じである.快や不快はこれらの肉体からの意識されない信号である.
- 精神としての神は否定されている.
- 複雑な事物に対して表面的なものが先に感じられ,その合目的生を精神によって解明する.しかし,精神には組織化し体系化する力は無い.
- 生理学者も意識ははっきりさせるほど,その価値が高まると信じているが,本能に基づく判断が正確なときもある.
- 意識から遠ざかるほど曖昧になると考えられているが,もともと曖昧なものを曖昧だというのは明晰なことではないか.
- 意識に関するでっち上げがある.たとえば精神や霊魂など.原因として精神を考えることも間違っている.最高の形式として神を信じることも.偶然がもたらした結果に対して意志があると考えてしまう.認識されるものを意志による助けがあると考える.このことから進歩とはあらゆるものを意識することであり,退歩は無意識による欲望や官能へ陥ることである.動物化とも言う.真の存在には考え意識することにより近づくが,本能や官能や自動的なメカニズムはそれから遠ざかる.すべての善は精神性から始まる.意識化することで進歩する.
- g)判断.真ー偽
- どのようにすれば認識していることを証明できるのか?カントは認識を認識していたが,それは道徳的な存在を信じていたことと,必然的な妥当性を経験から導いてはいないと言うことと,道徳性は経験以外のところから根拠づけられ,認識によって生じるのではない.(純粋理性から生じる)ある信仰の発生やある強い確信の発生は,経験のみだけではなく,先天的な関与もある.
- 判断は私たちにとってもっとも古い信仰である.習慣的に真とか偽とか思いこむ働きである.結果が結果を引き起こしていると措定(
対象 (客体) として規定すること)しているのに,結果には必ず原因があるのではないかというわたしたちの思いがある.しかし,これは神話である.
- 判断にはこれまでにその人が同一の状況に出会ったことがあるということである.だから判断には記憶が関与している.しかし,このことは同一のことがあるという前提から成り立っている.それ自体は同一ではないのに無理矢理類似化しているのだ.このことには人の感覚の影響が大きく,等しい感覚を引き起こすものは等しい.と見なすことである.これではいかなる判断の成立しない.記憶とはすでに習慣になったものの中から自分が体験したことを強調することである.つまり判断が下される前に,自分の中ですでに判断がなされているのである.自分の中に記憶として取り込まれるときに,意識されない影響がすでにあるのである.本質的なことは肉体的なことが,観察を遙かに明瞭にしてくれるために肉体を信じることは精神を信じることよりもよく確立されている.ある事柄がどれだけ強く信じられようともそのことには真理の指標にはならない.そして真理とは生の条件にかなうものであり,強さがその指標になる.
- デカルトは真理の標識として論理的正確性,透徹性(すべてのものは明晰判明に知覚される)と言っているが,このことが世界は機械的に説明される根拠になっている.しかし,そこには単純さが真理の指標であると勘違いしている.私たちに知性と権力と生命の安全を与えるのが真理であると定義しているからである.知性は自分のもっとも自由で,もっとも強い能力を引き出すことを真と名付けている.つまり真とは感情をもっとも強く刺激するもの(お涙ちょうだいもの,感動ものなど)思考に最大の力を与えるもの,感覚に強く抵抗するもの(耳に優しいものではないと言うこと),ついには最高の活動性を持つものが真であり,現実でもっとも好ましいものと位置づける.力や闘争の抵抗の感情がこの世には何かがあると信じる根拠になる.(闘争は抵抗があるから真なのである)
- 真理があると感じるときの指標は権力の増大を感じるときである.
- ある誤謬は私たちがそれ無しでは生きていけない場合もあり,根絶しがたいものもある.
- 単純なものは人間が単に想像したものであり,真ではない.現実的で真なるものは一つでもなく一つにすることも出来ない.
- 真理とは惰性であり,精神的力が最小の消費でもって満足するものである.
- 単純な思考は複雑な思考に打ち勝つが,それが真理である理由にはならない.存在についての教えは作り出すことより,容易な教えである.論理学は出来るだけ思考の負担を少なくしたものであり,表現手段であって,真理ではない.
- パルメニデスは存在しないものは思考されないと言ったが,反対に思考されるものは偽りのものであるとも言える.
- 多種多様の真理がありことから,一つの真理は存在しない.
- 瘋癲:錯乱や感情の激発などのはなはだしい精神病(の人)が言うには思考は道徳になる.真理が否定できないならそれは真理である.
- 生存が偽物の集まりなら,真理とは私たちの世界には存在しない.偽物の偽物は真理になるのか?
- 本質的に偽物の厚め罹であるこの世界で誠実であることは,自然に逆らうことである.そのようなものは上に立つものがある虚偽のために使うだけである.真なる世界が仮に作り出されるためには誠実な者が作り出されなくてはいけない.単純で透明で,自己矛盾が無く,恒常的で,隠し事のない彼は神と呼ばれるだろう.誠実が人間世界で通用するには人間が,きわめて清潔で小さく尊敬するものでなくてはいけない.つまり誠実な者にすべての利益が与えられなくてはいけない.
- 人が上になればなるほど,偽装も大きくなる.有機物の世界では狡猾なものが優位になる.植物がそれである.手を変え品をかえやってくる老獪さは,人間が向上する本質である.すべての生命が持っている誤謬を認める必要がある.それは真理を思考する前に作られているものだ.
- h)因果律への反対
- 時間は永遠であるが,時間自体は空間を持たない.変化は私たちにとっての感覚器官の現象に過ぎない.現象は原因にはならない.
- 事物の原因を受動的なものか能動的なものか区別することは,原因を前提にしていることになる.
- 肉体は肉眼によって働くものと働きに分けられる.それによって働きと働くものをますます細かく感じてしまい,主観があると感じてしまう.
- 事物を思い出し簡約化し定式化することで私たちは本質と見なしついには原因と考えてしまうのは悪習である.たとえば電光については電光のようにきらめくと定型文化している.私という言葉さえも遠近法の視覚自身の元として決めている.
- 主観,客観,述語がいかにもあるようにねつ造されている.見せかけの事実の上に当てはめている.あるものを所有しあるものに働きかけ,あるものに働きを受けるのは私であると思っているのは勘違いである.(土地も所有していると思っているのは,表面だけであり,国が無くなれば所有権も消失する.お金も同じ)
- あらゆるすべての判断の中には主語と述語や原因と結果を強く結びつける信仰のようなものが存在していると信じている.結果は活動であり,活動には活動者が存在すると信じている.私たちがあるものに注意を向けてその原因になるものを探すのは,すべてのものの生起には何かある意図があり,その原因となる活動者や主体を探し求めてしまう.これが私たちのもっとも古い習慣である.動物はこのような習慣を持っているのだろうか?なぜという問いは,言い換えれば何のためにと言う問いである.因果を私たちに強く関心を引かせるものは,物事の生起が意図を持って起こるとしか考えられない私たちの無能力によるものである.物事を起こす出来事を必ず生命として考え,思考し,意図を持っていると信じる信仰である.意図とは生起そのものであり,生起の原因では無い.
- 私たちは原因に関して本当には何も経験していない.想像しているだけだ.力や緊張や抵抗の感情を原因であると誤解してきた.原因は私たちには悟られることは無い.私たちが生起を理解するために作られた原因は自己欺瞞である.私たちが生起を理解すると言うことはそれらが生起した仕方をねつ造すると言うことである.わたしたちの意志や責任の感情で原因と思いこんでいる考えでそれらを作り出した.しかし,原因と目的と結果はすべて一つのものである.結果がある原因が含まれているなら説明できうるものと考える.つまり私たちは結果を見て原因をねつ造しているのだ.逆に原因を見てどんな結果が待ち受けているのか知ることは私たちにはできない.事物,主体,意図は原因に含まれているので,私たちはあるものが変化した結果の説明を原因に求める.原子(誰も見た人はいないにもかかわらず)という考えも,結果から考え出されたものである.我々にとって事物は何も存在していないのと同じであり,実際には因果性という考えは当てはならない.生起は結果として引き起こされたものでもなく,結果を引き起こすものでもない.私たちがねつ造したものである.因果性を考えることは迷路に迷い込むことと同じである.科学は因果性の中で定式化できるものを抜き取り,概念として残っているが,この定式でどちらが原因か結果と見なすかは,それがはっきりしていない以上どちらでも良いことになる.物理の力関係に置いてはどちらの力の量も同じであると言うことが表現されているだけだ.カントの言うような感覚に因果性はない.驚いて不安を覚え何かすでに経験しているものを求めて少しでも安心しようとするだけである.新しいものの中に私たちの知っている古いものがあれば安心する.いわゆる因果性の本能(結果から原因を探ろうとする)はなれていないものに対する恐怖に過ぎない.つまり原因の探究ではなく,既知のものの探究である.
- あることが規則にかなっていて,予想されたように起こるからと言って,それは必然的に起こるのではない.機械的な必然性は私たちがその必然性を解釈としてすでに組み入れておいたからである.しかし私自身がもし何かを成すからと言ってもそれは必然的なものであるとは限らない.必然性とはいかなる事実でもなく,我々の一つの解釈である.主体(自分の自由意志で行動するもの)は結果を引き起こすものではなく一つのまやかしに過ぎない.私たちは主体をひな形として多くのものをねつ造しているが,最後には事物を引き起こすもの自体が無くなってしまう.つまりものを想定することは主体を想定することと同じであるからである.そうなれば結果としての客体も消失する.すべての事物は生起と結果の複合体である.生起の程度によって違いがあるが(静止と運動,固定と弛緩など)それはただ光学的な程度の差であり,本来は意味を成さない.主体と客体の概念を放棄すれば,実体という概念もまた存在しない.物質や精神や質量など永遠の不変性も存在しない.道徳的に言えばこの世は偽物である.しかも道徳がこの世界のものであるなら,道徳も偽である.真理への意志とは,固定的不変的永遠的なものをでっち上げることである.それらを存在するものと解釈することである.それゆえに真理とは発火円され見いだされるものではなく,作り出すべきもの,整復の意志に変わる役目を持つもの,権力への意志である.生は持続して繰り返されるものを信じるという前提に成り立っている.生が強力になればなるほど偽物の世界はそれだけ広がる.つまり論理化され合理化され体系化されると生は強力になる.人間は自分の目標を存在するものに置き換える.それが形而上学的なものであってもすでに存在する世界として作り上げる.創造者として人間は彼が関わる世界をすでに作り上げており,それに対する信仰(真理の探究)がその柱である.人間の関わるすべての事物が程度や力の確定と闘争である.私たちが神や自然を責任を担うものと想像するとき,また私たちの幸福や不幸を彼らに押しつけるとき,私たちは純粋な感情から見放される.その時私たちは,私たちを通じて私たちでもって何かを達成しようとする誰か(神,自然)がいることを認めることになる.個は社会の犠牲になるのではなく,社会的集団も遠くから見れば流動的であり,社会的集団がより強くなるための一つの結果である.人間が技術でもって達成しようとするやり方としての合目的性とは権力への意志に過ぎない.より強くなるためには合目的な秩序を必要としている.外見的には意図されているのではないが,優勢な権力が劣勢な権力の支配を達成し,弱いものが強いものの一部として働くようになった時,合目的性が発揮される.
- カントは現象とそのもの事態を区別していない.かれは現象から現象への推論を否定していたが,このような因果関係から物事を考えることは人間には致し方ないことであるが,物事がすでに決められているように決定するのは彼のやり方だ.
- 物自体も現象自体も因果関係は証明できない.すなはち,原因と結果という概念は物自体と現象自体を問題にしている場合は適用されない.カントがいうのは生ある物のみを,つまり魂のある物のみを信じる思考法である.機械的世界論では数学的公式がこの世を支配する.しかし,これはある物がそのように表示されると見誤っているのである.
- 最大のでたらめは認識についてである.人は物自体の性質について知りたがるが,物自体は何でもないのである.認識しようとすることはできない.無条件で存在している物は認識できないのである.認識とは自分自身を条件づけることだからである.自分と関係ない物を認識しようとするが,だれとも関わり合いのない物は存在していないという矛盾がおこる.認識とは条件を作り,表示し,意識することである.自分の本質を見つけることではない.
- 物自体とは私にとってこれは何かと言うことである.ある物が表示されるのはまさにその時である.しかし,そのもののまわりの環境や観察者が一人欠けても事物は不確定となる.つまり,事物の本質とは個人的な感想に過ぎない.個人な条件で存在すると言うことである.解釈する人がそのものに対しての権力者として示される.
- 事物の固有性とは他の事物に働きかける力のことである.
- 私がある物のすべての関係を無いものと考えるとそのものは存在しなくなる.事物の存在とは論理的欲求からそれを表示したり理解するために,私たちが作り上げた物である.
- 性質だけが存在する物は虚構そのものである.
- もともと事物は性質を持っていると言うことは,くだらない仮説であり,事物はすべての関係から解き放されても,事物であると言うことを前提にしている.事物の客観的な性格も,主観的な程度の差による物である.
- 私たちは事物の固有性の一部をとって原因と見なしている.すべての事物の統一化は人間Hさかいの共同体としての統一化と変わるところがない.つまり,一つの物を意味することは出来るが,一つの物は存在していない共同状態である.
- 思考が発達していくに従い,事物の性質とは感覚する主観の違いであることが明らかになった.事物の性質を示す物は言葉でしかなく,私たちの主観以外にはあり得ない.物自体はいかなる問題も私たちに起こさない.物事の生起は生起の以前のことについては目的として,生起のあとのことについては数学的物理的説明が出来る.感覚と思考から世界を描き出すのは物理学であり,感覚したり思考する原因を見つけることは物理学では出来ない.物理学的説明は人間やそれ以外の事物の目的を説明することは出来ない.
- 私たちの認識とは量を示すことによって成り立っている.質とは相対的な物であり,そのもの自体からは知ることは出来ない.渡すたちの感覚器官はこの器官が働く範囲で変動する.そのため和つぃたちの生の条件によって大きく上下に変動する.これによって私たちは生きることに有用な方向へ感覚が変わり,質として認識する.
- もしかしたら量とは質の表示かもしれない.大きな権力には小さな権力より異なった質がある.より大きくありたいという願望が大きな量を求める.そこには質的に活発である必要がある.
- 量の差を質の違いとして感じることに問題は無い.計算され計量され測定されるのは量であるが,我々にとって重要な物はすべて質に関する物である.それによって重要なことはすべて認識されないことになる.私たちと異なる人々には違った質を感じることによって私たちと違う世界を生きている.こうして私たちが普遍的な人間解釈を要望するのは無理である.
- 真の世界がどのように構成されてもそれは仮の世界である.
- 仮の世界とは価値によって変化する世界である.価値によってある特定の人々が自己の保存や権力上昇が有用な世界である.相対的な事柄を取り除いてもまだ権力が残っている.仮の世界と真の世界は言い換えればこの世界と無の世界である.真実とは無である.
- 仮の世界とは人に属している作られた世界である.私たちにとってはこの世界は完全に真である.この世界で私たちは生きていくことが出来る.世界の中で私たちが生きると言うことを否定された世界ではそれ自体存在していない.私たちの世界は本質的には関係の世界であり,それぞれの事情によってそれぞれの観点に応じてそれらは異なる世界になる.それらの観点はいびつであり,それぞれの権力によって違った対応を見せている.
- 私たちの心理学的に見える世界は伝達が必要である.伝達が可能な前提として,次の者によって再認識されなくてはいけない.調整され感覚されるためにそれらは論理化される.この世界は調整された世界であるが,私たちは良く調整されている世界を現実であると感じる.似通ったことが何回も起こることから,私たちは計算して論理化して行くことが出来ると考える.この調整された世界の反対には混沌とした定式化されない世界があり,認識できない.事物があると言うことを私たちはどのようにして感覚器官を使わずに知ることgが出来るのであろうか?事物は私たちが作り上げたものであり,その事物を作り上げたのものみが存在しているのである.そのような他の存在者が私たちに働きかけるのである.
- k)形而上学的欲求
- 哲学者は存在するものだけに目を向けている.しかし,存在するものは何もないのだから,その世界にあるものは創造物だけである.
- 私たちがその存在を知らない事物の存在意義があると言うことは,知らないことによる利益があると言うことである.しかしこれは幼稚な考えである.
- 芸術家はいかなる現実性にも目を背け,色彩や形や音や思想から得られる陰を持っていして価値あるものと信じている.ある人物やある事物が洗練され希薄化され単純化されるほどその価値が高まると考えている.プラトンは現実と思いこんでいるものは間違いでありイデアが真実であると考えたのだが,それを真理よりも仮象や虚言が良いと後のキリスト教は言った.現実的なものより非現実的なものを真実と信じるようにした.仮象を信じやすくするために,存在とか原因性とか前頭位言葉を書き添えた.そのからくりは価値自身が原因であると言うことと,理想こそが栄誉であるとしたこと.
- 真の世界や神という考えはそれに反対する考えがある場合の窮余の策である.己に勝つことや人間らしさは神々が人間化されるときに示された目標である.ギリシャ時代にはおのれ(人間)自身に恐怖を抱かず,幸福を覚えた.彼らは神々を欲情あふれると考えた.だから神という思想は進歩からはほど遠いのである.ゲーテも神や徳や精神を引き出すことは粗野な考えの段階であるとした.
- 思考とは制約されたものに制約されないものを加えねつ造するという特性がある.たとえば自我はまわりの事物に対して思考を加えねつ造する.つまり世界を自分で作った基準でもってはかろうとするのである.その基準とは制約を受けないもの,目的と手段,事物,実体を数と形で測定する.思考がこの世界を自己と同じものとしておかなければ,認識できるものは何もない.思考は導かれることがないが,これが思考が根源的な証拠にはならない.ただ私たちは感覚し思考するしかないから証明できないのである.
- 認識は怠惰と疲労で停止する.
- 恐怖の原因とはもっとも強い苦悩である.それは支配欲や情欲である.そしてこれらは敵意を持って真の世界からははずされている.言い換えれば欲望や欲情が存在から否定されてしまった.同じように不合理も思いつきも偶然的なものも人間の世界では肉体的苦痛を起こすとして嫌われている.従って人間はそれ自身で存在する情欲や偶然を否定し,合理性や合目的性を存在するものに当てはめようとした.無常性も恐怖されているがこれは合理的なことを望む人間に当てはまる.反対の人にとっては人生はおもしろくて刺激的だと思う.力あふれる人には危険や徹底的没落は欲情や不合理とともに幸福的に認めるであろう.
- 永遠に恒常的なものを輝く黄金のように感じるのはスピノザやデカルトのように幼稚である.
- 認識の中には道徳的価値として理性への信頼がある.それに従えば真の世界とは善い世界であると考えられる.
- 認識の中には道徳的理論があり,理性への信頼がある.そして真の世界は善い世界であると考えられている.途中で変わることや,矛盾があることや,争うことは非道徳的と非難される.また道徳的な自由が許されるための世界がねつ造される.徳に至るための弁証法がヘーゲルやプラトンによって導き出された.しかし,時間と空間は観念的なものであり,いかなる罪もいかなる悪もいかなる不完全性もない.それを認めたくないが為に道徳的価値を至高のものとし,認識は不可能であることをエピクロスやアウグスティヌスやパスカルはおこなった.デカルトもスピノザも変化するものは真では無いとした.
- この世は仮のものであるが,そうであるなら真の世界がある.この世は制約されているなら制約されていない世界がある.この世は矛盾に満ちているなら矛盾のない世界がある.と言う推論は全くの間違いである.これは理性への盲信であり,このような世界があると思わせるのは苦悩をもたらす.つまりそのような世界があればいいと言う願望である.苦悩のあるこの世界での憎悪は,よりよい世界を想像する.また苦悩は間違って認識することからやってくる.罪責は自然界や社会での経験が法則としてすべての人々に当てはめようとするから.勇敢で創造的な人は快と苦には決して勝ち的なものを見いださない.(快であるから良いとか,苦であるから善くないとか)それは随伴症状であって何かを達成しようとするなら両方とも覚悟しなくてはいけない.仮のものや間違って認識することは苦悩の原因となり幸福は真理と結びついているというのは迷信である.言い換えれば幸福は確実なものの中にあり,信仰の中にあると取り違える
- 認識する上で唯物論,感覚論,観念論でいまだにそれぞれに快の感情がもっとも価値が高いと考えられている.知識による価値の違いを感じることはそれほど重要なことではない.仏教が実在性を否定したのは(この世の仮象性が苦悩の原因である)正しい.世界全体が証明も到達もされない.絶対的な実在とか,存在自体は矛盾している.論理的に世界を否定してニヒリズムに陥るのは,事物の存在が証明されず,生成という概念も否定されるからである.それは仏教と通じるものがある.
- 生,魂を持っていること,意欲し作用すること,生成することは存在を意味するが,反対の魂を持っていないことは存在しないことを意味しない.仮象的なものでもない.霊魂や自我が生成するものとして存在している.
- 私たちは生きているという以外に私たちの属性を示すものがない.それ故に死んでいるものを存在しているとは言えないのである.
- 現在,科学が仮象の世界に基づかないで発展するのを恐れる.究極の科学は世界の無を証明することになるかもしれない.しかし,真実の世界がどのようなものであれ科学がそれを認識するのは不可能であろう.私たちが到達できるところは私たちに依存しているところでしかない.主観的な世界が存在するなら客観的世界が存在するとは限らない.私たちは存在するものや事物にはそれらとの関係でしかそれらを証明できない.仮象(非実在生のもの)と真のという対立でもってそのものの価値の高さを決めたりしてはいけない.仮象の世界を私たちは価値が無く,真の世界を価値あるものを見なすがこれは先入観そのものである.事物の真の性質は人間音生にとって有害であり,生の前提とは対立している.(自然界の保存には人間の存在そのものが有害である)つまり仮象が生のためには必要なのである.たとえば結婚など多くの習俗がそれにあたる.つまり私たちの経験的世界では自己保存のために生きるためにその限界が制約されている.私たちは自己保存のために有用なものを真,善,価値多きものと見なした.しかし,私たちは真の世界と下hそうの世界を分けるカテゴリーを持っていない.(存在するのはもしかすると仮象の世界だけかもしれないが,私たちの下hそうの世界のみではない)真の世界が想定されても私たちにとっては価値がない世界かもしれない.私たちの幻想がその価値を高いものと思いたがっているのかもしれない.価値の度合いと実在性の度合いに相関関係があるというのは形而上学の要求であり,私たちがそう思いこみたがっている.真の世界を排除する必要がある.真の世界があると想定することから,私たちの仮象の世界が価値がないと考えてしまうからである.真の世界の存在は私たちにとってもっとも危険なものである.真の世界がねつ造された背景には道徳的価値が至高の価値であると言うことがある.もっとも道徳的なものが非道徳的な一つの型であると証明されるなら,真の世界は見せかけのものになる.真理への意志を解明するとそれは道徳的な意志ではなく,(弱者強者含めて)権力への意志である.
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