原始仏教はキリスト教やイスラム教徒は違って、修行で解脱することによって神もしくはそれを超えることを目指す宗教です。このため仲介者(ミディアム、預言者)が存在しません。しかし、日本にそれが伝わった時には庶民は修行をするには金も暇もないため念仏を唱えるだけでよいと言う宗教に変化しました。

 仏教には仲介者はいないのですが、お坊さんたちは神(仏)の声を伝えることで生業としています。出家して世俗的な執着を離れることが基本であるというのに、お坊さんたちもこれを実行することはなかなか難しいようです。ここでは仏教の基本に戻って、初期の仏教の良い経典を集めてみました。みなさんもこれを読んで自分の生活を見直すことで幸せになる手掛りを見つけてください。


第119経 身体に向けた注意(ドクトル編)

 冷たい冬の空気が、遠くの山々の輪郭をはっきりとさせていた。日が当たると積もった雪に青白い光がまぶしく反射していた。ドクトルは冬が苦手である。おまけに除雪も嫌いである。おかげで医院の駐車場は、雪が積もったままでした。
 いつものように、暇をもてあました源さんがエッチラオッチラやってきた。足下が悪くて、少しふらふらしているけれど、駐車場の雪を蹴散らしながら歩いている。
源「もー、ドクトル。少しは雪除けをしたら良いのに。オイラがこうやって、踏み分けないと誰も此処にはやってこられないぞ。うわーっ!」源さんの蹴った雪の下が凍っていました。おかげで源さんは、思い切り尻餅をついてしまいました。「痛たたー、おー痛っ」源さんのガラガラ声が近所中に響きました。
あまり外が騒がしいので、ドクトルは気になって入り口のドアから顔を出しました。
ドクトル「なんだ賑やかだと思ったら、やっぱりお前さんかい。まあ、寒いから中に入って、ちょっとだけ話でもしていくかい?」
源「おう、ちょうど相談したいことが有ったから、聞いてもらおうかなぁ?」源さんはまだ腰をさすっています。
ドクトルはしまったという顔をしたけれど、もう後の祭りでした。源さんはさっさと診察室まで入り込んでいました。
源「なあ、ドクトル。オイラの知り合いの話なんだけど、めまいがするから何の科にかかればいいか聞かれたのだけれど、教えてくれないかなあ?ドクトルの所は患者が少ないけど、めまいがする患者は診たことあるかい?」
ドクトル「相変わらず言いたいことをはっきり言うのぅ。いや、どちらかと言えば思いついたことをお前さんは口にだしているようじゃ。人間は油断をするとあまり自分が何をしているか意識しなくなるのじゃな。うん。お前さんの場合、飯を食べていても他のことを考えておるじゃろ?」
源「そうそう、オイラの場合、メシの時はテレビを見ていることが多いなあ。歌謡番組なんかが楽しみだね。」
ドクトル「メシの時は食べることだけ考えないといかんのう。他のことを考えるから、連想ゲームのように、思いつくままにしていると、ロクでも無いことが頭に浮かんで来るじゃろう。その証拠に番組に飽きたら、次から次とチャンネルを変えないかの?」
源「オイラはCMが長いと変えちゃうねえ。それに見ていた番組が終わったら、変えちゃうけど、それはいいだろう?」
ドクトル「いやいや、それはだめじゃ。見たい番組が終了したら、もうテレビを見る理由はないから消したほうがいいぞ。決してテレビを見ちゃいかんと言うわけではないぞ。テレビを見ているときは自分は娯楽中だと自覚しなされ。そうすれば、興味のない番組をダラダラと見ることも無くなるじゃろう。」
源「うーん、なるほど。ドクトルは今日は哲学的だねえ。なにか有ったのかい?」
ドクトル「生憎じゃの。ワシはいつもと変わらないし、何も起こらない毎日じゃ。やれやれ、お前さんの話から、かなり寄り道をしてしまったのぅ。つまり、人の話を聞くときには人の話を聞くと考えなされ。そうすれば、思いついたことを口に出して仕舞うことも無かろう。」
源「うわー、これはオイラの負けだねぇ。やっぱりドクトルは口がうまい。」
ドクトル「今言った所じゃないかね。一言多いと。どうやらお前さんには、ありがたいお話も効果無しじゃ。実はワシが話したことは、ちゃんと昔のお経に載っているのじゃ。ワシはそれをチョコっとわかりやすくして、お前さんに教えたという訳じゃ。」
源「何だ、そうだったのかー。ドクトルの話はよくわかったけれど、オイラの口が勝手に回ってしまうのは、なかな止まらないないねえ。でも、少しは興味が持てたよ。その、お釈迦さんの話ってもんを。」
ドクトル「じゃあ、これからも少しずつ、ありがたい説教をしてあげようかの。」
源「う、うーん、興味はあるけど、昔から、小難しい話を頑張って聞いていると眠くなってしまうんだなぁ。わかりやすくお願いしまーす。でも、とりあえず今日はおしまいと言うことで。」
ドクトル「ホッホッホ。」
なにやら、いつもと違って、ドクトルと源さんの形勢が逆転したようです。
いつのまにかお日様も高くなり、屋根から落ちる雪解け水の音も賑やかになりました。




第110経 満月の晩の小さな教え
 
ある満月の夜、お釈迦様は修行僧たちと一緒に外で座っていました。そこでお釈迦様はみんなに「心の善くない人は、ある人を善い人かどうか、見分けることが出来るだろうか?」と問題を出されました。
修行僧たちは、ずいぶん長い時間考え込んでいましたが、ようやく、その中の一人が立ち上がりました。
「心の善くない人は、ある人を善い人かどうか、見分けることは出来ませんし、善くない人かどうかも見分けられないでしょう。」と答えました。
お釈迦様は、優しくほほえんで「よくわかりましたね。その通りです。心の善くない人は、やがて同じような人と仲間になって、良くない考えを抱いて、善くないことをします。さて、善くないこととはどんなことでしょう。自分を悩まし苦しめ、他人も悩まし苦しめることです。善くない人は嘘や陰口をたたき、きつい言葉を吐きます。人に感謝するときも、自ら手を下さず、他人を使って、心のこもらない気持ちでします。しかし、心の善い人は、ある人を善い人か善くない人か見分けることが出来ます。そして心の善い人は死後は偉大な人に生まれ変わります。」
それを聞いた修行僧たちは大いに喜んだ。

第66経 ラトゥキカー鳥のたとえ
 お釈迦様がアーバナ村に滞在していたときに、ウダーイという修行僧が、「昔、食事を一日3回摂っていたときの失敗談を話しました。昼食は摂らないことが出来ましたが、夕食はどうしても摂ることがやめられませんでした。そのせいで、夜に盗賊や強盗に出会い酷い目にあいました。反対に強盗と間違えられ、人を驚かせた事もありました。」それを聞いてお釈迦様は
「ある愚かな人は、ちっぽけな規則を守ることは、修行の結果には関係ないだろうと、決まりを破りましたが、そんな些細な事も守れないということは、その束縛から離れられないことを、表しています。ラトゥキカー鳥は弱い蔦の絡まりでもそれから逃れることが出来ません。本当に些細な規則なら、守ることは簡単なはずです。
 賢い修行者は、規則でいろいろなことが禁止されても、それにこだわらず、他の事で喜び、それに従うのです。それはまるで王様の象が、どんな戒めにも拘束されない事と同じように、心が自由で安穏に平和なのです。」
それを聞いたウダーイは、喜んで、お釈迦様の教えを受け入れました。

第65経 一日一回の食事
 ある時、お釈迦様は、修行をしている僧に「私は一日に一回の食事で済ませているが、おかげで病気もしないで、身体が軽快です。あなたたちも、それにならうと良いだろう。」と言われた。
 それを聞いて、バッダーリは「私は一日一回の食事では耐えられません。」と言った。
「それならば、一回の食事を全部食べないで、2回3回に分けて食べるが良いだろう。」
「いいえ、それも我慢できません。」
頑固にバッターリは言い張るので、お釈迦様は、3ヶ月間面会しないと言われた。
3ヶ月後に、お釈迦様は旅に出るので、バッターリは皆に促されて、面会を申し出ました。
「私の罰はなぜ長かったのでしょうか?」バッターリは聞きました。
「バッターリよ。このことをよく覚えておきなさい。忠告されると、腹を立て、話題をそらし、不満をあらわにするものには、懲罰の期間が長くなり、反対に腹を立てず、素直に謝罪するものには、懲罰の期間が短いのである。」
そこでバッターリは自分の過ちを認め、お釈迦様もそれを聞いて許されました。
「もう一つ質問させてください。昔は教義が少なくても、悟りにいたる人が多かったのに、最近は教義が増えたのに、悟りにいたる人が少ないのはなぜですか?」
「それは、宗教が広まると、煩悩を持つ弟子が増えてくるので、教義が増えるのである。修行する人数が少ないときには、煩悩を持つ弟子が少ないので、教義も少なくて済むのである。宗教が進歩して、更に高見に達すると、そこにいたるためには多くの教義が必要になるのだ。」
それを聞いてバッターリは喜んで修行を続けました。

第64経 5つの束縛
 
前回のお話で迷いが吹っ切れたマールンは一生懸命修行を続けていました。そこへお釈迦様がやってきてマールンにこれまでの修行の成果をお聞きになりました。
「マールンよ。人を解脱できないように下へ結びつける5つの束縛は知っているか?」
「はい、身体と疑いと間違った戒律と欲望と怒りです。」
「マールンよ。たとえば修行の初期にも至らないような人は幼児のようなものであるが、そんな人に5つの束縛を説いても理解できないのではないか?」
「いいえ、今の私にはちゃんと理解できています。どうぞ教えてください。」
「マールンよ。5つの束縛が何であるかを知っていても、実際にそれを実践できる能力が無くてはいけない。わかるな?。
 その実践の道とは執着や良くない事から離れ、小事にこだわらず、尚かつ詳細を考察し、束縛から逃れることが出来たならそれを喜ばなくてはいけない。
 解脱のやり方には、心の執着を消し去る方法と、自己の無知を克服して行う方法の2通りあることを覚えておきなさい。」
そのお話を聞いてマールンはとても喜びました。

第63経 毒矢の喩え
 お釈迦様がアナータビンディカに滞在していたときに、マールンという修行者は普段疑問に思っていることをお釈迦様に聞いてみようと尋ねてきました。しかも、お釈迦様がうまく答えてくれなかったら、もう修行は止めて世俗に戻ろうとまで考えていました。マールンはお釈迦様に会うと次の質問をぶつけてきました。「この世界は時間的に永遠なのですか?魂と身体は同一なのですか?涅槃に住む如来が死んでしまうこともあるのですか?私はこのことが解決されないと修行に集中することが出来ません。もし、これらの質問がわからないのであれば正直にわからないと答えてください。」
「マールンよ。私がそれに答えなければ、修行を止めるというのか?愚か者よ。そんなことをしていると答えがわからないうちにおまえは死んでしまうぞ。」
「マールンよ。こういうたとえ話がありますから聞きなさい。ある人が毒矢が身体に刺さったとします。それで医者に診てもらおうとしたときに、その人が『私を射貫いたものが誰かわからないうちに矢を抜くのは駄目だ。』と言い、手当を受けようとしませんでした。そうこうしているうちに手遅れになり死んでしまったのです。
 同じように、世界が永遠であるのか、死んでしまったら世界は終わるのか悩んでいても、今のおまえには生きる苦しみ、病める苦しみ、老いる苦しみ、死ぬ苦しみがあります。これを克服する修行を教えているのです。たとえ答えがわかっても生きていくことに意味のないことは知る必要は無いのです。」
それを聞いたマールンは自分の愚かさに気がついて、更に修行を続けることを受け入れました。

第62経 入出息念の修行法 精神統一と仏教の呼吸法についてのお話
 ある時ラーフラさんはお釈迦様に呼吸法を教えてほしいと頼みました。しかしお釈迦さんは呼吸法の前に心構えを修行すべきだと言いました。
「ラーフラよ。呼吸法を習う前にこの世にある物で自分の物である物は何もなく、なおかつすべては変化し常にある物は無い。ラーフラよおまえは地のように、水のように、火のように、風のように、空のように我がないものになれば、良いことや嫌なことが起こっても、そのことにとらわれることなく、困惑することなく、嫌悪することもないのです。」
「慈しむ心があれば怒りは消滅します。悲しむ心があれば害意は無くなります。善いことを修行すれば不快なことはなくなります。とらわれの心を無くせばあなたの心は自由になれます。自分の身体が不浄であると言うことを知れば。貪欲な心はなくなります。この世は無常であることを知れば、永遠不滅の自己が存在しないことを知ります。」
「以上のことを知った上で呼吸の修行を行いなさい。
意識して息を吐いて息を吐きなさい。短く息を吐きながら息を短く吸いなさい。自分の身体を意識しながら息を吐いて息を吐きなさい。喜びを感じながら息を吐いて息を吐きなさい。身体が楽であることを感じながら息を吐いて息を吐きなさい。世界の循環を感じながら息を吐いて息を吐きなさい。あらゆる物は無情であると感じ息を吐いて息を吐きなさい。欲望を捨てて息を吐いて息を吐きなさい。悩みを捨てて息を吐いて息を吐きなさい。このように精神を集中させて呼吸を行えば良い結果が得られます。」

第61経 ラーフラへの説諭(お釈迦様から息子への教えです)
 
お釈迦様はアンバラッティッカ園で修行をしているラーフラに所へやってくると、次のような教えを説いた。
「嘘をついても恥じない修行者は自分の良い性質を捨てていることになります。そしてその人はどんな悪いこともためらうことなく行います。だから冗談でも嘘をついてはいけないのです。」
「ラーフラよ。鏡は何に使う物ですか。」
「それは、自分を見るときに使います。」
「それと同じように、自分の行動やことばは何度も気をつけながら行わなくてはいけない。たとえばこの行動やことばは自分を損なわないか?他人を損なわないか?自分も他人も損なわないか?とよく考えて為しなさい。そして自分に安楽をもたらし、他人に安楽をもたらし、自分にも他人にも安楽をもたらす事を為しなさい。もし自分に苦しみをもたらし、他人に苦しみをもたらし自分にも他人にも苦しみをもたらしたのなら、あなたの師にそれを告白し将来そのようなことがないように気をつけなさい。」
ラーフラはそれを聞いて歓喜した。

第57経 動物をまねる修行者
 お釈迦サンマがコーリア人の町に滞在していたときのお話です。そこへ裸になって牛をまねる修行者と、地面に落ちている物を食べる犬をまねる修行者がやってきて、お釈迦様に尋ねました。
「私たちはこんな苦行をしていますが、来世は天に生まれるでしょうか?」
お釈迦様は「天に生まれ変わりたいためだけにつらい修行をするのなら、それは間違った考えです。それは来世は牛や犬に再生するか、若しくは地獄に行くことになります。
 人には4つの業があります。1つめは怒りを感じながらいろいろなこと為せば、怒りを持った世界に生まれる。怒りは苦をもたらすからそこは地獄と言うことになります。2つめは怒りを持たないでいろいろなことを為せば怒りを持たない世界、つまり天国へ生まれ変わることができます。3つめは怒りを持ったり、または持たなかったりすれば、怒りを持ったり持たなかったりする世界、つまりこの世にまた生まれます。4つめは怒りを消滅し、怒りを持たないことも消滅すれば涅槃に行くことができます。」
これを聞いた2人の修行者は動物のまねをやめました。そして異教徒だったので4ヶ月の猶予後、お釈迦様に帰依しました。

第51経 遍歴業者のカンダラカ(ブッダの教えの簡単なまとめとも言えます)
 
お釈迦様がガッカーラ蓮池のほとりに多くの比丘たちと一緒に滞在していたときに,象使いの子と一緒に遍歴行者のカンダラカが挨拶をしにやってきました.そこでお釈迦様は自分たちの相談の学んでいる4つの注意するべきことを説きました.「身体と感受と心と教えについて貪欲と心の落ち込みが起きないように気をつけなさい.」
それを聞いた象使いの子は「私は象使いですが,象を観察していると人間と同じようにへつらったり,欺いたり,悪いことをします.だから人の心は密林のように見通せないのですね.」
お釈迦様はそれにうなずくと「ある人は自分を苦しめることに専念し,ある人は他を苦しめることに専念する.ある人は自他共に苦しめることに専念し,ある人は自他共に苦しめず,この世での欲が無く安楽を感じている.さて,おまえはどれに当てはまるか?」
象使いは答えました。「自分も他も苦しめない人が私には当てはまると思います。欲が無く煩悩の熱情に突き動かされない人が私の心に適います。安楽を求めて苦悩を遠ざけることに熱中し自分と他を苦しめるのは私の心には適いません。」そう言い終わると象使いは自分の仕事があると言い残して去っていった。
 その後、お釈迦様は具体的な例を挙げて比丘たちに説明をしました。「自分を苦しめる人とはどのような人でしょうか?修行が厳しく自分に身体的苦行を課する人のことです。次に他を苦しめる人とは漁師、猟師、盗賊、刑吏、獄吏、屠殺者、または残虐なことをする人です。また次に自他を苦しめる人とは権力を持つ人が自ら喜ぶこともなく、祭礼のために無理に使用人たちに命じて動植物をお供え物として殺すことである。
 最後に自他も苦しめない人は自分の家に住むことは完全に欲からたたれて正常な行いに専念することはできないと考え、出家した人のことです。彼らは欲や煩悩が無いので少しばかりの財産であろうとたくさんの財産であろうとも少ない親戚であってもたくさんの親戚があってもそれを捨てて出家するのです。」
「出家した人は生活の規則を守り、生き物を殺さず、羞恥心があり、憐憫の気持ちがあり、すべての生きる物たちの利益を計るのです。嘘を話さず真実のみを話し、自分の主義主張を変えず、信頼すべき人であるべきです。他人の悪口を言わず、仲違いしている人を仲良くさせ、仲良くしている人をより親密にし、協調を促す言葉を語ります。荒々しい言葉を使わないで穏和で優しい言葉を使えば、多くの人に喜ばれます。つまらない冗談はやめ、時期に適う話や利益(現世での正しさと幸福)と法(現世や来世では利益がないかもしれないが涅槃に行くことができる)のあることを話します。つまり話すべき理由があることを話し、限度を知って話し、心に残ることを話しなさい。そのことで彼は自分の中の無罪であることに安楽していられるのです。」
「彼は目や耳や鼻や舌や身体で感受する物事の特徴や細かなことには執着しないので、貪欲と怒りから自分を守ることができます。」
「彼は自分が行っていることを自覚し、どんな小さなことであっても意識をして行動をすることができます。」
「彼は禅定を修行します。禅定とは@世間に対する貪欲を無くし、貪欲から離れた所に住んで、A怒りを捨て、すべての生き物を憐れみ、怒っている心を清浄化します。またB心の落ち込みと眠気を捨て、注意力と意識をはっきりとさせます。またC心の高ぶりと後悔を捨て、心を静めます。D教えに対する疑いを捨てます。これらの5つのことは善い心を覆い隠すので避けなくてはいけません。次に考察を無くすことによって心の安楽が得られる。喜びから離れることで物の見方が偏ら内容に注意することで更なる安楽が得られます。安楽の苦も離れることで更に注意力がぶれず心が清くなります。
「そうする内に彼は自己の劫(時間の流れ)を知り、前世を知ることができます。」
「更に彼はある人が死ぬとどのような世界に再生するか知ることができます。」
「かれは心が正しく統一されると煩悩から離れるため、苦と悩みの原因をありのままに知り、苦と悩みの消滅を実践できます。このようにして自分も他も苦しめず、現世で欲がないので悩みが無く安楽を感じて最高の状態でいることができます。」
それを聞いていたお坊さんは喜んでその教えを信じました。

第52経 真の俗事の捨断
 
アーパナという森にお釈迦様が滞在していたときに,ポータリアという修行者がやってきてお話をしました.ポータリアさんは言いました.「私はすべての日常の煩わしい仕事を捨てました.仕事を捨て,財産も息子に渡し,最低限の衣食住で暮らしています.」しかしお釈迦様はそれを聞いて「あなたの捨てた日常の煩わしいことは出家者のとは違います.」と言われました.ポータリアさんは驚いて,「それならば是非正しい規律(律)を教えてください.」と言いました.
「それではお話ししましょう.聞きなさい.ポータリアさん,これから述べる8つのことを気をつけていなさい.1.生き物を殺さないこと.少なくとも残酷な殺され方をした動物を食さないことである.2.盗まないこと.自分に与えられたもの以上を取ることもいけない.3.嘘をついてはいけない.嘘をつくとその場では得をしたように見えても,後々損をすることになる.4.嘘を言ってヒト同士が仲違いすることは避けなさい.仲良くする言葉を使いなさい.5.強欲になってはいけない.欲望は苦悩を引き寄せるからである.6.陰口を言ってはいけない.7.怒ってはいけない.8.おごり高ぶったり,思い上がってはいけない.これが正しい出家者の規律です.これを守ればその出家者はいつも中庸を保持し,感覚に対し注意力を持ち,心身ともに清浄を保つことができます.」
それを聞いてポータリアさんは自分の修行の誤りを知り,お釈迦様のもとで在家出家者となり帰依しました.

第47経 如来の本性を考察する
ある時,お釈迦様は修行僧たちに質問をしました.
「あなたたちが思慮深いのならば,人格者(如来)と言われる人が本物かどうかどのようにして知ることができますか?」と聞かれた.
「私たちにはわかりませんのでどうぞ教えてください」と修行僧たちは言った.
「まず,人格者と思われる人の服装と言葉を考察しなさい.それらが清浄であれば次に人格者と言われている期間が長いか考察しなさい.
 さらに,この人格者が著名で名声を得ているなら,これによって過ちを犯していないか考察しなさい.なぜなら,著名でなく名声を得ていないときには過ちがない人格者でも有名になると何らかの過失を犯すからである.
 次に,この人格者は怖れが無くて落ち着いているのか,世間の評判を怖れて静かに振る舞っているのか考察しなさい.地位や富に執着すると今の生活の維持や更にはもっと生活を向上させようとする貪欲の心理が働いて,いろいろなものに怖れを抱くようになるのです.
 そしてその人格者を信じるときには盲信するのではなく,人格者の教えを聞き,自分で理解し,信じることによるなら,そのつながりは堅く決して離れることがないものになります.」

第46経 在家生活における真理の了解
 お釈迦様は修行僧たちを前にしてこういいました.
「この世に生きている人はみんな良いことが自分にたくさん起こればいいと思っているし,いやなことはできるだけ少ない方が良いと思っています.それにもかかわらず好ましいことが起こらないで良くないことが起こります.これはどういうことが原因だと思いますか?」と修行僧たちに聞いた.
「私たちにはわかりませんので是非説明してください.」と答えた.
「それではお話しします.それは4つの場合があります.愚かな人は悪いことと知りながら殺生を行い,盗みを行い,嘘をつき,よこしまな情欲におぼれ,嘘をつき,荒々しいことばで人をののしり,つまらない冗談を言いこの世で苦しみ,死んでからも苦しみます.またある人は,悪いこととは知らないでもしくは自ら進んで殺生を行い,盗みを行い,嘘をつき,よこしまな情欲におぼれ,嘘をつき,荒々しいことばで人をののしり,つまらない冗談を言って,この世では楽しみますが,死んでからは苦しみが待っています.またある人は嫌々ながら(法律や世間体があるので)殺生を行わず,盗みを行わず,嘘をつかず,よこしまな情欲におぼれず,嘘をつかず,荒々しいことばで人をののしらず,つまらない冗談を言わない.そういう人はこの世では苦であり,死んだ後には楽が待っています.またある人は喜んで殺生を行わず,盗みを行わず,嘘をつかず,よこしまな情欲におぼれず,嘘をつかず,荒々しいことばで人をののしらず,つまらない冗談を言わない.そういう人はこの世でも幸せであり,死んだ後も楽が待っています.この4番目に説く真理こそが求められるべきものです.」

第45経 最も優れた生活態度とは
 あるときお釈迦様はお弟子さんたちを前にしてこう述べました。
「最も優れた生活態度をこれから説明します.注意して聞きなさい.ある人は生まれながら貪欲(=生命への愛着)ではなく、怒りの激しい性格でもなく愚痴をこぼさないとします。その人はそういう性格であるため、現世では苦しみと憂いがありません。なぜなら、その人は欲望から離れ、善くないことがらから離れ、心の内から平穏で精神集中がなされています。楽を求めすぎない中庸の意志があるため注意力と明瞭な意識を持っていつも気をつけています。その人は身体が壊れた死後も善い境遇に輪廻したり、天の世界に生まれ変わることができます。皆さんもこのことにいつも気をつけていなさい。」
お弟子さんはこれを聞いて喜び、心の糧とした。

第148経 六種の六つの要素の集まり
お釈迦様がサーヴァッティーに滞在していたときのお話です。
「修行僧たちよ。きょうは完全なる修行の方法を教えます。人間の五つの感覚器官と一つの思考能力によって、楽の感受、苦の感受、そのどちらでもない感受があります。人が楽な感受を受けているとき彼はそれに執着するようになります。また,苦の感受を受けているときにはそれを怒りうらむようになります。次に、楽でも苦でもない感受を受けているときにその原因と結果や危険性を知ることができないならその人は愚かだと言えます。そのような人には苦が無くなることは無いのです。あなたたちは楽を貪らず執着せず,苦に怒らず,愚かでないなら解脱することが可能です。それで修行は完成されます。」
この話を聞いて修行僧たちは諸々の煩悩から解脱した。

第141経 真理の分析
これはお釈迦様がバーラーナシーの郊外で語ったお話です。しかし、修行僧はお釈迦様の言ったことが難しくて理解できませんでした。そこで弟子であるサーリープッタさんがわかりやすくお話しされました。
「そもそも苦というものには5つあります。生きること、老いること、死ぬこと、悲しむこと、求めることが得られないことです。この中で求めることが得られない苦についてお話ししましょう。求めても得られないことを求めるときにそれは苦になります。たとえば老いることは私たちの本性であるのに「老いなければいいのに」と思うことや、「死ななければいいのに」と思うことや「病気にかからなければいいの」にとか「生きていくことで苦しいことに合わなければいいのに」と思うことは得られないことであり、それを求めることは苦になります。」
そのようにサーリープッタさんは言いました。

第139経 心が乱れない生き方
お釈迦様がサーヴァッティーに滞在していたときのお話です。
「人は陰口を言ったり、また面と向かって中傷するが、どんなときにそのようなことをしてはいけないかわかりますか?」と僧たちに尋ねた。
僧たちは「どんなときでも陰口を言ったり、中傷してはいけないと思います。」と答えた。
お釈迦様は「陰口または中傷が真実ではなく、利益がないとわかっているときにはそらを言ってはいけない。また、陰口または中傷が本当でも利益がないことであれば、それを言ってはいけない。しかし、陰口または中傷が真実で利益があることならそれを言っても良い。」
「次に人はゆっくり話すべきであるとはどういう意味かわかりますか?」
ある僧は「耳が悪い人もいるからでしょう。」と答えた。それに対してお釈迦様は答えた。
「人は急いで話すと身体も疲れ、心も余裕が無くなり、声を痛めるし、急いで話すと耳のいい人にとっても不明瞭でわかりにくいからです。それから地方で使われる方言を理解した上で方言で話さないようにしなさい。
 さて、修行僧たちよ。欲望と結びついた喜びや楽しみは下劣で卑しく俗的で最終的には利益をもたらさないどころか、夢中になれば苦しみを伴い悩みや心配事をもたらすからこれは間違った生き方です。
 さらに自らを痛めつける苦行は苦しみで心が乱され最終的に利益をもたらさない。よって、その中間の道が正しく物事を見る目を作り、智慧を作り、正しい悟りに導きニルバーナへと至る道である。これが正しい生き方である。
 真理の道でなくて賞賛もあるが非難があるときは苦しみと悩みをもたらす。賞賛も非難もない平凡な生き方でも真理の道であるならば苦しみが無く悩みが無く心配事もない正しい道である。
私たちは心の乱れる生き方と心が乱れない生き方があることを知り、心の乱れない生き方を歩もう。」
僧たちはこれを聞いて喜んだ。
 

第137経 6つの場所を分析するお話
お釈迦様がアナータピンディカ僧院でお弟子さんにしたお話です。
「さて、みなさん。6つの場所とは外界と私たちが接触する目、耳、鼻、舌、身体、心のことです。ここで私たちは喜びの気持ちを持ったり、あるいはつらい気持ちを抱いたり、あるいは無関心になります。
 在家の人々は世間的に価値のある事柄やものを手に入れて喜びの気持ちを抱きます。またそれが獲得できないと悲しみます。出家している人々は物事が永遠でないことを知っていますから、それら移り変わるものには無欲でありのままを見ることができて喜びます。
 在家の人々が平凡であったり、愚か者であったり、鈍感な者であったりすると自分の身の回りに起きていることに無関心になります。しかし、出家している人々は、物事をありのままに見ているので気持ちが偏ったり、あわてたりすることがないので、平静でいることができます。この出家者の《無関心》は自己をきちんと整えられることで得られるのです。
 さあ最後にもう一つ話しておくべき大切なことがあります。あなたたちが説法をする時、その話をろくに聞かない人や、がやがやと雑談を続ける人がいます。反対に一生懸命聞く人や是非今後実践しようと思っている人がいます。しかし、その態度について喜んだり怒ったりすることなく心を平静していることが正しい説法の姿勢です。」
 お釈迦様の話を聞き終えた修行者たちはとても喜んだ。

第131経 「吉祥なる一夜」というお経の解説
ある時、お釈迦様がサーヴァッティー地方に住むお金持ちのアナータピンディカさんが建てた僧院に泊まっていた頃のお話です。
 お釈迦様が弟子たちに次のようなお経を読んで聞かせました。
「過去を振り返ってはいけません。
未来を追い求めてもいけません。
過去とはすでに捨てられたものなのです。
そして未来とはまだ起こっていないものなのです。
それよりも冷静に観察し、
今あるものに左右されることなく、動揺しないで行動するのです。
明日に何が起きるか知っている人はいないのですから、
今日やらなくてはいけないことを一生懸命するのです。
このように毎日怠けないでいる人を聖者と呼ぶ。」
 お釈迦様はお経を詠み終わると、このお経の意味を説明しました。
「さて、人はどのようにして過去を振り返るのでしょう?それは昔こんな良いことがあったと考えて、それに喜びを見つけ過去を振り返るのです。それは過去にあった欲やむさぼりにとらわれることなのです。
未来を追い求めるとはどういうことなのでしょうか?未来にこんなことがあったらいいなとか、まだ手に入れていないものを心の願いによって手に入れようとする気持ちです、心の願いによって喜びを見つけようとすることです。
今あるものに左右されないとはどういう意味でしょうか?今、皆さんが見るもの、聞くもの、味わうもの、におうもの、ふれるもの、考えるもので快ければ喜びを感じます。しかしやがてそれに執着し、それにとらわれ、自分自身をがんじがらめにしてしまいます。常にそうならないように心がける人になりなさい。」
これを聞いた弟子たちは心から納得した。

第128経 心の汚れ
 むかしむかし、お釈迦様がインドのコーサンビーにあるゴーシタというお金持ちが建てた寺院に滞在していたときのお話です。
 その寺院の僧たちは仲違いし、口論ばかりしていました。お釈迦様のところに一人の僧がやって来て「ここの僧たちは口論ばかりしています。尊いあなたの言葉ならみんなも聞き入れるでしょうから、どうぞ注意してやってください。」
 お釈迦様は頼まれたとおりに、みんなにどうか議論ばかりしないで仲良くしなさいといわれました。しかし、僧たちはこれを聞き入れず、「私たちはこうして議論することで修行をしているのです。私たちのことは私たちで解決しますから放っておいてください」と強く言い張りました。そこでお釈迦様は一つの詩をみんなに聞かせました。
 平凡な人たちは私は愚か者ではないと言い合い、みんなの中が悪くなっているのに、自分こそが愚か者だとは考えませんでした。
 言われたら言い返し、それを繰り返せば、怨みを募らせ相手に対する敵意だけが残ります。どんな時でも敵意でもって相手の敵意を沈めることはできないのです。敵意を持たないことでのみ、相手の敵意を沈めることができます。
 盗賊でさえまとまって行動をするのですから、友と一緒に正しい行動をしなさい。しかし、愚かな友しかいないなら、一人で修行をしなさい。
 これらの言葉を述べられるとお釈迦様は立ち上がり、東の竹林に向かいました。そこには3人の僧たちが修行をしていました。
お互いに挨拶を済ませるとその中の一人のアルヌッダという僧がお釈迦様に尋ねました。
「どんなに瞑想をしても、尊い光が見えてこないのですがどうすれば良いのでしょう。」
お釈迦様は自身がまだ修行中であった頃の話を聞かせた。
「私も尊い光を見ようと瞑想を重ねたがだめだった時期がありました。その時には根拠もなくいろんなものを疑う気持ちが残っていたのです。そこで疑いの気持ちが起こらないように努めたところ光が少しだけ見えました。そこで今度は自分の行動に注意しながら精神統一を心がけたところまた光が少しだけ見えました。そこで私は意識がもうろうとしないように気をつけたら光が少し見えました。今度は、恐怖を無くすように心がけました。すると光が少し見えました。そこで私は怒りの気持ちが起きないようにしたところ、光が少し見えました。そこで私は予想しないような幸運に喜ばないようにしたところ光が少し見えました。そこで私はがんばりすぎないように精神を統一したところ少し光が見えました。それによって気のゆるみが起こらないようにしたところ光が少し見えました。そこで私は人や物に対する欲を無くしたところ光が少し見えました。浮かんでは消える様々な思いを無くしたところ光が少し見えました。最後に物事を細々と見ないようにしたところ光がずっと消えずに見えました。そして光の強さは自己の精神統一の強さの表れであることにも気がつきました。
 さあここまで修行が到達できれば完成です。もうこの世の苦しみから解放されますよ。」
お釈迦様の話を聞き終わると3人の僧は喜びました。

第122経 師と弟子の話
 あるときお釈迦様がヒマラヤ山脈の麓にあるカピラヴァットゥという自分の郷里に滞在した時のお話です。お釈迦様は托鉢を済ませて、休むためにカーラケーマカ寺院に行きました。
そこで付き人のアーナンダさんに尋ねました。
「アーナンダ、どんなときに弟子は師に絶対ついて行くべきだと考えるかね?」
「私には良い考えが浮かびません。どうぞ教えてください。」
「アーナンダ、師が教えてくれるお経や説明を暗記するのは重要ではない。むしろそれを実際の生活に当てはめた話が大切なのです。
 ところで、一人でこうして修行をしていると、いろいろな良くないことがやってくるものである。ある高名な師が森の中で座禅をしているとその噂を聞きつけて多くの人々が訪れる。やがて師は多くの人々に関わり心が鈍くなり、欲が出て、豊かな生活に戻ってしまい、ついには煩悩につきまとわれる苦しい人生になります。有名な師の弟子が森の中で座禅をしているとその噂を聞きつけて多くの人々が訪れます。人に関わると心が鈍くなり、欲が出て、豊かな生活に戻ってしまい、ついには煩悩につきまとわれる苦しい人生になります。
 しかしすべての欲を遠ざけた私であれば、森の中で座禅をしているとその噂を聞きつけて多くの人々が訪れますが、人に関わっても心が鈍くならず、欲が出ず、豊かな生活には戻りません。しかし私の弟子も同じように森の中で座禅をしていると、その噂を聞きつけて多くの人々が訪れます。まだ未熟なため人に関わると心が鈍くなり、欲が出て、豊かな生活に戻ってしまい、ついには煩悩につきまとわれ、地獄にいるような苦しい人生になります。
 だから、私に接するときは敵としてではなく仲間として接しなさい。敵として私と接するならば私の話を聞こうとせず、外のことを考えています。ところが仲間として接すると、私はこの教えを君たちのためになると思って話しているので、君たちは熱心に聞くことができる。私は教えをしつこく厳しく言い聞かせるが、私を仲間だと思うならはついてこれるはずです。」
これを聞いてアーナンダーさんは感激しました。

第43経 サーリプッタの教理問答
 貪欲になったり怒ったり無知な人は他の人からこういう人であると限定されて見られるようになり、実際にそういう人になります。しかし、あらゆる利得や名誉にも心が動かされないなら不動の心解脱と言われる最高の境地になります。その人はもう悩むことは無くなります。

大カッチャーヤナ長老の八つのお話(お釈迦様の弟子で論議第一と言われた人で、哲学的なお話が多いです)
 たくさんの世俗的な仕事をしてはいけないです。いろいろな人々と交流して雑な関係を作ることに励んでもいけません。そのような縁は利益だけのつながりになります。がつがつと利益だけに執着すると幸せをもたらす目的を見失います。
 他人から受ける尊敬はを捨てることは難しいが、解脱を目指す修行者は人々から受ける賞賛と富は身体にこびりつく泥だと知るべきです。
 人は他人から「おまえが盗んだ」といわれたから泥棒になるわけではありませんし、「あなたは立派な人です」と言われたから聖人になるわけではありません。自分は自分のことを泥棒か聖人か知っていますし、神様もそれを知っています。
 私たちはこの世では死ぬべき者であることを覚悟しましょう。しかし、人はついこれを忘れてしまいます。みんながこのことを知れば争いごとは収まります。
 智慧のある人はたとえ財産を失っても生きていけます。しかし、智慧の無い人は財産があっても本来の人生を生きてはいないのです。
 思慮ある人ならば聞いたことや見たことをそのまま信じてはいけません。
 眼が見える人は盲人になったつもりで目を閉じると、耳の聞こえる人は聾になったつもりで耳を塞ぐとその人の気持ちがわかるように、智慧のある人は愚かな人になったつもりで、解脱した人は死者のそばに横たわりそれらの状態になってみるとわかります。


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