小さいときからSFが大好きで、そればかり読んでいました.

大きくなったら哲学書ばかり読んでいます.

SF好きは哲学が好き.

SFもスターウォーズより、マトリックスが好きです.

 

ソウルメイト(中編 2014-06-30)

ラット・オン  ー 不履行 ー(中編2013-11-07

一太郎かの手紙(短編2012-07-09)

深夜勤務 (短編 2011-05-09)

恋する青年と娘の会話(戯曲 2011-4-20

KIRAMEKU-SORA(短編 2009-9-19)

デパートにて(短編 2009-8-24

下宿(短編 2009-8-18)

夏の夜(短編 2009-7-25

ディープパープル(短編)

最終戦争(超短編)

過去への旅(超短編)

溶ける男(短編、未発表)

昭和一代女(短編、未発表)

仮想手術(短編、未発表)

時間が止まった日(短編,未発表)

知能強化装置(中編,発表,推薦賞)

親友(短編,未発表)

やさしい気持ち(短編,発表,推薦賞)

野獣の国(短編,未発表)





ソウルメイト

 

 外の景色がまわってみえる.真っ白い切り立った山が、真っ黒な空が順番に現れる.コントロールを失って、車はスピンをはじめた.目の前にガードレールが迫る.その先はなにもない.そして、車はガードレールを突き破って、20m下の海へとダイブした.

 すべてがスローモーションのようにゆっくり動き始めた.もっと運転に気をつければ良かったとか、もしかしたら下に落ちても死なないかもと思った.外は夜だから暗いはずなのになんだか明るいのは雪明かりのせいかもしれない.

 

**

 

 Jとは僕がちょうど高校卒業直後から付き合い始めた。Jは色白で身長は平均より少しだけ高かった.髪の毛は茶色だったが、柔らかくまとまらないせいか、いつも後ろに三つ編みにしていた.学生時代の気分が抜けきれず服装は地味だった.太っているのを気にして、ゆったりしたジーンズとTシャツを身につけていることが多かった.近視が強くて銀縁のめがねをかけていたが、後になってコンタクトに変えたら雰囲気が都会的になった.

 そのころ、僕はまだ就職先が決まらなくて、小中学生に相手の学習塾を手伝っていた。その塾は、G町の中央にあった.経営者がやり手との噂でここ以外にも、市内に5つの塾を経営していた.

 

「待った?」

「いいえ、そんなに待たなかったわ。」

 僕は塾に向かう途中で、Jと待ち合わせをした。たいてい夕方の5時頃である.その場所は、徐々に市街地化が進んでいる新興住宅地である.まだ家の建っていない更地と、青々と茂る田畑がまだらになっている.Jのアパートが近くのため、ここを選んだのだった.夕方は帰宅する学生と会社員で人通りが多い.そんな所では落ち着かないから、僕たちは少し離れたあぜ道に移動した.

「ごめん、出がけに電話がかかってきたから。」と僕.本当は忘れ物をして引き返したのに、Jに嫌われたくなくて、つまらない嘘をついてしまった。

「はい、これ。夕食まだなんでしょ?」渡された袋の中には、お菓子が2つ入っていると言う。お菓子2つにしては大きな袋のように思った。Jの顔を見ると、笑ってこちらを見ている。

「一緒に食べましょう。」そう言われた。

目の前には青々と茂った稲穂が風に吹かれてざわざわしている。夕日が徐々に低くなり、蒸し暑さも少し和らいだように思えた。Jがくれたのは、かき氷だった。中心に少しだけクリームがのっかている.しかし時間が経っていたので、溶けかけていた。何となく気まずくて、黙って食べているのは悪いかなと思ったけれど、何も思いつかないから、やっぱり黙っていた.。

別れ際に、「塾の仕事が終わったら、また逢えるかな?」と聞いた。

Jは明るく「うん。」と返してくれた。

返事を聞いた後で、塾でくたくたに疲れていることを考えたら、ちょっとだけ後悔した。それでもJのうれしそうな顔を見たら、やめたとは言えなくなってしまった。

「じゃあ、あとで。」と僕が言う.

Jが見送る中、バイクに乗って塾へ向かった。Jと話したら、これから塾で起こりそうな嫌なことは忘れてしまった。

 

 塾の前には既に多くの小中学生が集まっていた。正面に大きなガラスのドアがあり、僕は鍵を使って開けた.かなり古びた感じのドアは開閉のたびにキイキイ音がする.一斉に、生徒たちが決められた部屋へと移動する.僕が仕事する部屋は入り口から2番目で、今夜は中学2年生の数学を担当することになっている.講義が始まるまで少し時間があったので、僕は仲間はずれの子供のように、部屋の隅で生徒の様子をぼんやりと眺めていた。子供っていうのは、なぜこんなに元気で、つまらないことで笑えるのか不思議な気がした。しばらくしたら塾の講師が現れ、一気に部屋の中は静かに張り詰めた空気に満たされた。

講師は30代の長身のやせた男だ.神経質そうな顔は周りの生徒たちに余裕を与えなかった.講義が始まった.僕はプリントを配ったり、黒板を消したり、講師のサポートをする.

「先週の続きは、えー、M君だったかな?」

一番前の席に座っていた生徒が青白い顔をしてうつむいた。どうやら準備をしていなかったようだ。

講師は顔をしかめると、威圧するような声で言った.「この問題を解いてみなさい。」

Mはやっぱりうつむいたまま返事をしない。

「どうしたんだ。今週は君から始まることを知っているだろ?しかたがないな.それでは隣の君がかわりに解きなさい.」

急に名前を呼ばれた生徒ははちょっと驚いた顔をしたが、すぐに前に進むと、すらすらと問題を解き始めた。うつむいていたMはようやく顔を上げたが、少しだけ泣き顔に見えた。

 後で聞いた話では、昨日、他の生徒とけんかをして、予習をするのを忘れてしまったらしい。けんかで興奮して、勉強どころじゃなかったのだろう。けんかの相手はS町の運送会社の社長の息子である.社長の息子といっても小さな会社だからそれほど裕福な家庭ではない.むしろ大会社に勤めるサラリーマンの子供の方が身なりは立派で贅沢である.言葉遣いも上品ではなく、口癖の「俺」を連発している.しかし、口が上手で、活発な性格は人気がある.そいつはけんかをしたことさえも忘れているかのようにけろりとして、教室にいた。

 Mは普段から大人しくて、僕は一緒に他の生徒たちを騒いでいる所を見たことがなかった。父親は近所で土建業を経営している。川のそばにある大きな家がMの住まいである。家の前には、玄関が見えないくらいの砂山があり、数台のダンプカーやブルドーザーがその横に並んでいる。長男だから、たぶん跡継ぎを期待されているのであろう。よく母親が講義の様子を見に来る。塾に通っているのに成績が上がらないからだ.母親の様子からは会社の羽振りが良いのがわかる.ブランドのバッグを持ち、派手な白と黒のワンピースを着ていた。化粧も上手で、歳よりも若く見えた。講師室で講師と深刻な様子で話していルのを聞いた限りでは、口調は優しく上品だった。

 「ええ、学校から帰ったら、私がいくら言っても漫画を見たりゲームばかりしています.宿題は寝る間際までしないです。」

 「勉強の習慣がついていないようです。勉強をしない頭がいい子より、勉強の習慣がある子の方が成績は良いですよ。つまり、ウサギとカメのたとえ話と同じです.今の成績では希望される高校は難しいと思います.」僕の前ではしかめっ面の気むずかしい講師は、親の前では明敏で饒舌だった.

希望校に進学は無理だと聞いて母親はすっかり元気を無くしてしまい、その日は息子と話すこともなく帰っていった。息子のほうは母親の姿に気がついていたので、当然声をかけてくれると思っていたから、すっかり落胆してしまった。
 Mはもともと強い感情を表に出さず、時にはおどけてみせるので、友人からは彼の神経質さに気がつくことはなく、ひょうきんな性格だと思われている。しかし、僕の印象は、何となく抑圧された怒りみたいなものを感じた.家に帰れば、おもしろくもない勉強を強いられ、のびのびとした感情を表現できない状況は、このまま親の言いなりになっていれば、自分のやりたいことを見つけ出すことが出来ず、馬鹿になるか、ある程度賢い奴なら屈折した大人になっていくような気がした。

 壁の時計を見ると午後8時になろうとしていた.ようやく今日の仕事も終わると思い、僕はうっかりあくびをしてしまった.熱弁をふるっている講師には気づかれなかったようだ.窓の外には住宅地の中に残る水田が広がっていた.蛙の鳴き声が以外に大きいのに気がつく。「きょうはここまで.」講師が言うと、子供たちは帰り支度を始め、一気に教室は賑やかになった。僕の仕事は続く.小さなモップで教室の掃除をした.黒板もぞうきんできれいにした.すべてが終わると、講師室に顔を出した.あのしかめっ面の講師は机の上のパソコンをにらみながら生徒の成績を分析していた.

「お先に失礼します.」僕が挨拶をすると、講師は疲れた様子で「ああ.」と返事をしたが、パソコンのモニターから目を離さなかった.しかし、何かを思い出したらしい.急に頭を上げると、

「そうだ.明日のプリント準備は君がやってくれ.私にはまだ仕事があるからね.」
しばらく沈黙があった.しかし、これからがこの講師の本当の言いたいことだった.まっすぐに僕の方を見ると、「ところで、君はバイクで通勤しているようだが、安全運転をしているだろうね?」

「はい、もちろんです.」と僕は答えた.

「無謀な運転が父兄たちに目撃されると、この塾の評判にも影響するからねえ.とにかく気をつけることに越したことはない.どこでだれが見ているかしれないからね.」

銀縁のめがねの奥から、神経質そうな眼が動く.神経質な人は目が落ち着かないのだ.常に細かく動いて相手を観察しようとする.相手から視線を外すことをおそれるのだ.勉強の虫め.この塾で自分のコピーを作ろうとしている.ミスをするなと常に注意されれば、だれだって神経質になるか反抗的になる.僕はこいつの常に逆をやってやろうと考えた.だから車の間をすり抜けることもあるし、スピードを出すこともある.そうじゃなきゃ、バイクに乗る楽しみがないというものだ.

 あいつのせいで時間を無駄にした.約束に時間は過ぎている.僕は走って自転車置き場へと向かった.バイクにまたがると、ようやく仕事が終わったことが実感できた。スターターボタンを押して、思いっきりエンジンを吹かすとタイヤをスリップさせながら発進させた.塾からJとの約束の場所までは2Kmも離れていない.きっと5分くらいで着くに違いない.午後8時に逢う約束だったが、待ち合わせ場所に着いた時には残念ながら10分ほど過ぎていた.Jはまだ来ていなかった。勝手にJが待ちこがれて先に居ると期待したが、これを独りよがりというのだろう.なんだか自分が滑稽に思えてわら愛がこみ上げてきた.昔から僕は勝手に物語を作ってその中の主人公になっている.現実とのギャップを埋めるために、僕にはこんな夢想が必要なのだと後になって理解するまで、他人から見れば、変わった人間だと思われたに違いない.ちょっと人物観察をすればわかるのに、優しくしてくれたとか、明るい性格に思えたとか、少しだけ美人と言うだけで、僕はその人が好きになり、自分の頭の中でどんどん理想化していく.そして理想と現実のギャップに直面すると、2人の関係は破綻するわけだ.理想を求めていた青春時代が、中年になると人間には理想は永遠に達成できないことがわかり始めた.ドストエフスキーが言うように破天荒さが人間の本来の姿だとわかったときには、ずいぶん落ち込むものである.

 

 いつ来るかわからない人を待つのは長く感じる。30分ほど経っただろうか、Jは歩いて現れた。

「遅いじゃないか。」と僕は言いかけたが、口から出たのは

「夜に出てくるのは迷惑じゃなかった?」

何という自己欺瞞。そう思いながら、心の中では、Jが「ごめんなさい。」としきりに謝ってくれることを期待している。でも、帰ってきた言葉は違った。

「時々、貴方が遅くなることがあるから、それに合わせて。」

無償の愛がほしかった。失望が言葉を塞いだ。

しかし、感情は別のことで復讐しようとしていた。

身体を強く抱き寄せ、荒々しくJの身体を愛撫した。

Jは身体を硬くし、手から逃れようと、身体を捻った。

若い頃の僕は、体に触れていやがる女は、自分を嫌っていると思った。でも実際は、手を握ったぐらいでいやがる女は、男を値踏みしているのでは無いだろうか?この男は体を許すに値するのだろうか、でも男の機嫌を損ねたらまずいから、とりあえず上手くかわそうとしているのだろう。概してそんな女は、頭がよくて、人生で失敗することはない。自分のように些細なことに悩んで、付き合うことに畏怖を覚えるのに比べたら、何と世慣れているのだろう。体力でおとるぶん、損得勘定は女の方が長けている.それがわからなかった頃には、女に対して引け目を感じ、劣等感に苛まれる。しかも、若さ故に、強がってみたり、ある時には欲情に流されて本当の理想を見失ってしまう。

 ある夜、塾が遅くなって、Jに連絡の取れないまま、待ち合わせをすっぽかしてしまった。さぞ怒っていると思いながら約束の場所に行ってみたが、果たして女は居なかった。僕は意気消沈して自分の下宿に戻った.しかしその夜は12時過ぎになってもまんじりともしない.僕はJの住むアパートに出かけてみることにした。

 Jの住むアパートは待ち合わせた場所からそれ程離れていない。大通りをしばらく進むと、住宅地が始まるがその最初の交差点を左に折れ、100mほど進むと先に木造のこじんまりしたアパートが見える。しかし、このアパートは男子禁制である.正面から入るのは気が引けたので、裏に回ってみた.裏はぬかるんだ荒れ地である.そこに踏み込むのを躊躇した.しかしくるぶしまで泥だらけになりながら、僕はJの部屋を探した。彼女の部屋は2階の一番奥である。部屋の電気は消えていた。僕はその窓に向かって小さな石を投げた。1個目は外れた.何度か試すうちにカチンと音がした。窓からJが顔を出した。

僕はJの姿を見られたことで幸せを感じ、窓の下から大きく手探りを振った。「待っていて.」とJが言う.しばらくすると、Jは薄いピンクの柔らかそうなジャージを着て現れた.部屋着であろうか。いつもと違う服装に、僕はドギマギした.

「塾が遅れてしまって、30分過ぎにここに着いたのだけれど。」

Jは黙っていた。

待っていられなくて帰ってしまったことが申し訳ないのかと思い、僕の方から声をかけた.

「これから15分待って来なかったら帰って良いよ。」と言った.

30分待っても、来なかったら帰る。」とJが言った.

昔から、僕は家族や他人との会話で沈黙が怖くて、相手の気持ちを知りたくて、自らおどけてみたり、自分から挑発してみたり、人との付き合いは緊張の連続だった。3年前に生まれ育ったF県からこの都会に出てきたばかりのとき、僕は冷たくてずるい考えをおし隠した言い方を賢いなあと勘違いしたり、田舎者の正直な反応をかっこわるいと思っていたりした時期があった。だから人とつきあうには、世渡りが上手なスノッブじゃないとだめだ.なんて考えていた.

Jとの会話は続く.「貴方の投げた石で、ガラスにヒビが入ったわよ...でも、大家さんには上手く言っておくから大丈夫だと思うわ。」Jは平然として言った.

そんなふてぶてしさも彼女は備えていたが、反面、彼女の強さを心地よく感じる自分も存在した.しかし、気の強さもある時には、思ってもいない感情を生み出すこともある.

「はい、これ貴方の洗濯物。」

Jから手渡された紙袋には、僕の洗濯物と小さな石けんが入っていた。

「結婚している訳じゃないのだから.」

Jは鋭い口調で言った。

彼女はたぶんこう続けたかったのだろう。

『結婚している訳じゃないのだから、(洗濯を頼むなんて図々しい人)。』

それを聞いた時、近頃、彼女とうまくいっていると思っていた自信が消え失せた.今考えればそれほど僕のことが好きじゃないのだろう。

 それでもJとの関係は続いた.どちらかと言えば僕が無理して続けたがっていた.いつも僕はなんとか時間に遅れないように努力した.最初の頃はJが待っていてくれることが多かったが、最近では僕が待つことが多くなった.この間は、Jから体調が悪いからと塾に電話があった.期待が大きかった分、落胆も大きかった.そんな日に限って塾が時間通りに終わったので、Jのいない待ち合わせ場所に行ってみたりした.風景はいつもと同じだったが、この場所は一人でいるととても静かだと気がついた.

 翌日は仕事が休みだった.僕はベッドに寝ころびながら、天井を眺めていた.天井には雨漏りのシミがいくつか並んでいる.それを結びつけたらJの顔に見えてどきっとする.なぜ急に逢えなくなるのか?僕に飽きてきたからか?それとも他の男が出来たのか?

 ずいぶん迷ったけれど、勇気を出してこの疑問をJにぶつけてみることにした.つまらないことを質問すると、Jのことだから怒り出すかもしれないし、もしかしたらこれがきっかけで、仲が悪くなるかもしれないなあと何度も逡巡した結果である.

ほとんど振られた気持ちでJに電話をした.

電話のJはいつもと同じ口調だった.つまりそれほどうれしそうじゃないってことさ.

 「昨日は逢えなくて残念だったよ.体の具合はどうなの?」

 「え、体?」

Jは逢えない理由を忘れているようだった.

 「そうそう、急に吐き気がして、最近私の方もパートの仕事が忙しくて、疲れているのかもしれない.この間は店長とけんかしちゃってね.」

 奔放な性格のJは、好きになったら相手の都合も考えないでプレゼントをくれたり、デートに誘ったりするが、少しでも気持ちがさめるとあからさまにわかる.

 「次はいつ逢えるかな?」

 「そうね、仕事が忙しくてしばらく逢えそうにないわ.」

僕の心の中に、落胆と憎しみがこみ上げてきた。

「今までは、君の方から都合を聞いてきたのに、何で逢えないの?」

 「だって都合が悪いから、仕方ないじゃない.もう少し待ってちょうだい.」

 僕の自己愛はJの愛を疑っている.だから、Jにしつこくする.しつこくするのは嫌いなのに.本当はJのことを愛していないのかもしれない.

 「だったらもういいよ.ウソばかりついている.」

「ウソだなんて.そんなひどいことを言うと相手がどれだけ傷つくかわかっているの?」

「君の都合ばかり並べて、少しも時間を作ってくれないなんて、君の気持ちを疑ってしまうのは当然のことだろう.」

「だから少し待ってと言っているじゃない.永遠とは言っていないわ...」

僕の場合、大抵はこんな風にして関係は終わりを迎える.破壊的になって、関係をリセットしようとする.でも、本当は関係を壊すのじゃなくて、最初からやり直そうとしているだけなんだ.僕は破壊と混沌を好む.それによって自由が得られるからだ.そして、再び創造するのだ

 すると電話の向こうのJの声質が変わった。「なんだか気分が悪いの.これくらいにしてちょうだい.」それで電話は切れた。

 受話器を置いて、部屋の窓から外を見たら、いつの間にか雨が降り出していた。薄暗い霧雨が窓の隙間から中に入ってくるような気がした。僕は冷蔵庫から、飲みかけの紙パックの日本酒を取り出すと、少し飲んでみた。酒なんてちっとも楽にならないなあ、と思い、残りを一気に飲み干した。飲み慣れないお酒で気分が悪くなった.もっと悪くなって、病気になればいいとおもった.

僕はあることがダメになると、不安に耐えられなくなり、関係のないことまで破壊して、孤独で惨めだと自分を追い詰めようとする.そしてそんなときには、ある一種の快感を得るのである.

 

 Jとの仲がうまくいっていた頃の話をしよう。その話を聞いたら僕とJの何が悪かったのかわかるかもしれない.
 僕が手伝っている塾は能力別にクラス分けがされている.その中で一番苦手なクラスはFクラスだ.Fクラスとは簡単に言えば劣等生の集まりである.一度教えても、次の週には忘れているから、もう一度最初から教えることになる.最初はなぜこんなことが出来ないのかと腹立たしく思った.同じことを何度も教えても次の週になると完全に忘れている.こいつらは復習をしないのかと腹立たしく感じた.でも、こちらが怒れば彼らは萎縮してしまって、ますます勉強嫌いになってしまう.でも、その頃は彼らの将来なんて気にするほど、僕は深刻病じゃなかったから、塾が終わると彼らへの心配は忘れてしまった.

 いつもの場所で、Jを拾うと、オートバイの後ろに乗せて近くの食堂へ行く.お互い貧乏と言うことは知っていたから、それほど高級な所へ連れて行かなくても文句は言われないし、それでも僕の一週間分の食費はこの夜で消える.なじみの食堂はショッピングセンターの中にある.バイクを止め、僕とJは明るい電飾に照らされた入り口へ向かう。入り口の自動ドアが安っぽい音で開いた.同時にBGMと騒音があふれ出した。中は買い物客であふれていた.めざす食堂の入り口には造花の観葉植物の鉢が置いてある。おしゃれなカフェを気取ろうとしているが、間口が狭いせいで地味に見える。小さなガラスのドアを開けると、カウンター席が6席とボックス席が2つある.夕食時間には遅いため、カウンター席には中年の男が一人だけだった.主人が注文された料理をカウンター越しに男の客に渡した。僕は主人の親指が皿の中に入っているのが気になった.

僕たちは隅のボックス席に座った。

「えーと、今日のおすすめはチキンカレーらしいね。」

「鳥はくさいから苦手なの。」

「じゃあ、ビーフカレーにしようか.」

「肉がたくさん入っていると、気持ち悪いわ.」

Jは相変わらず僕の前では遠慮がない.聞いた話では他人には優しいらしいが、我慢しすぎて突然ヒステリーを起こすこともあるそうだ.この場合、それよりはましかなと思った.

この店はカレー専門店と言うことでカレーのメニューばかりだ.ようやくJをなだめて注文が決まった。僕はなんだか一仕事終えた気分になり、おもわずあくびが出そうになった。何とかそれをかみ殺し、僕は近況などを話して聞かせた。「塾の仕事も慣れてきたから、今度は自分で塾を経営しようかと思っている。」

「大学も出ていないのに、人に教えられるの?」年があまり離れていないせいかJはまるで母親のようにはなす.子供のように心配されるのは好きだが、あれこれ指示されるのはもうゴメンである.僕は子供じゃない君の前では主役でありたいのだ.

「相手は小学生や中学生だから、勉強はそんなに難しいことじゃないよ。それよりも、一緒に学校での悩みを聞いてあげられるお兄さんのみたいなほうが人気があるんだ。今だって、生徒の中には他の先生には聞けないけれど僕には何でも聞いてくる子がたくさんいるよ。年が近いせいもあると思うけど.」

「ふーん、そうなの。でも、塾を経営するって場所を借りたり、人を雇ったり、結構お金が必要でしょ?」

「まあ、何とかなるって。」

僕はお金より目標が大事だと思っていた。

「へい、お待ち.」注文した料理が僕たちのボックス席に運ばれてきた.つい主人の手元を見てしまうが、彼女の前だから気にしないふりをした.Jはエビカレーを注文していた.僕の注文はルーの上に角切りの生野菜がのったカレーである。

空腹だったので、僕たちは何もしゃべらずに食べていた。ようやく人心地が付ついたところで、

「どう、おいしい?」

「ええ.まあまあね.」

「大学生向けだから、ボリュームがあるんだろ?」

「そうね.でもわたしには多すぎるみたい.」

「じゃあ、僕が残りをもらおうかな?」

僕は大抵2人前注文するから、ホームカレーの次には何を食べようか考えていたところだった.

「今週さ.日曜日だけど空いている?有峰湖までツーリングに行こうかと思っているんだ.」

「今週の日曜日は友達と予定があるし...それに....」

「え、それに?」

「それに、バイクの後ろに乗るのって、不良っぽいからあまり好きじゃないの.」

「そうだったの.じゃあ今まで我慢していたの?」

「本当はバイクで迎えに来られるのも苦手かな.」

「じゃあ、今度は車を借りてくるから、それなら良いだろ?」

「ええ、それなら.」

Jの横顔は子供っぽいことに気がついた.鼻が上を向いて、眼が大きい.いつも笑っていてくれるといいのにと僕は思った.
その夜はうれしくてほとんど寝られなかった.

 

 

 国道に沿って南へ行くと、J川に架かるA橋がある.その橋のたもとを堤防に沿って下流に向かって行くと道が狭くなり突き当たりになる.その脇に広い空き地があって、たくさんの車が止めてある.そこが親戚のおじさんが勤めている自動車工場だ.おじさんは営業で不在らしい.もうすぐ帰ってくるから中で待っていたらと受付のおばさんに言われた.受付にはソファーと小さなテーブルがあり、それとくしゃくしゃになった車雑誌を並べた本棚があった.その中の一冊を手に取り、茶色のビニールレザーのソファーに座った.おばさんが気を利かしてお茶を入れてくれた.

「最近はちゃんと働いているの?お父さんがうちに来て、あいつは家では何も話さないから何をしているかわからないと心配していたわよ.」

「うん、働いているよ.アルバイトだけどね.塾で手伝いをしている.」

「だったらいいの.あなただけが家でぶらぶらしていると居心地が悪いだろうと思って、気になっていたの.」

「家でぶらぶらなんかしていられないよ.そんなところを見つかったら、たくさん用事を言いつけられるから.」

「まあ、大変ねえ.」

おばさんは口で言うほど心配していないようで、はははと笑いながら、カウンターの向こうへ戻った.僕としてはその方が気楽で良かった.

30分位すると、おじさんが戻ってきた.相変わらず黒い顔で、いわゆる営業焼けというところだ.顔がつやつやと光っている.ワックスでもかけたみたいだ.

「よう、元気か?」

「ああ、なんとか.」

「なんだ、若い者がしょうがないなあ.」黒い顔がにこにこしている.

「昨日頼まれた車だけど準備しておいたぞ.新しい車じゃないが、営業で使っている車だ.この間車検が済んだばかりだから、大丈夫だぞ.店の前に置いてあるから見てみな.ところで何に使うんだ?デートか?」

「そんなんじゃないよ.」

「そうか、とにかく事故に気をつけてな.おまえの父さんは顔には出さないけれど、神経質だから、もし車を貸したことがわかると、俺が怒られる.」

父の性格は知ってはいたけど、他人から言われると、気が滅入る.これからも長男として同じ家に住むのである.それでも車を貸してくれるおじさんがいることは僕を理解してくれる人がいると言うことだ.世の中にいる様々な人を選別しないと、いつまでも子供のように片っ端から信じていたら、精神がおかしくなってしまう.

僕はありがとうと言い残して、外へ出た.そこには白いバンがあった.僕は初めて車を買ってもらった若者のように、早速シートに座って、室内の雰囲気を感じてみた.飾り気がないのは営業用だから仕方がない.

「まあ、一度ここら辺を走ってみろよ.」

おじさんの声が聞こえたが、僕は返事もせずにすぐに出発した.

Jを乗せてみたいから、車をちょっと早めに借りて、練習しようと僕は考えた.バイクしか乗ったことがない僕には、車はとても大きく感じる.意識していないと、いつの間にか道路の中央を走っている.なんとかぶつけることもなく近所を一周できた.

「くれぐれも気をつけて運転しろよ.」そう言って、

「これ.たばこで臭いだろう.いいにおいがするぞ.」と緑の液体が入ったの芳香剤を手渡された.しかし、帰宅途中でたばこと芳香剤がまじったにおいをかいでいたら、気分が悪くなり吐いてしまった.

 

 2日後の木曜日、いつもの待ち合わせ場所にいつもより15分早く着いた.Jはまだ来ていない.僕はラジオをつけた.むかし、夏によく聞いた4人のバンドの歌が流れている.

きみのこころにとどけたいよ
ぼくのあいを
すべてささげて
さがしもとめる
きみとのせかい
いつかいっしょになれるときに
こころのめいろが
とけていく

過ぎていく夏の夕暮れを見ながら、僕はチョットだけ感傷的になった。燃えさかる夏の暑さに少しだけ秋を感じて寂しい気持ちになった.

遠くに白のパンツに水色のトレーナーを着た女が見えた.Jだ.でも僕に気がつかないみたいだ.外へ出て手を振った.
今日の機嫌はどうかな?Jの顔はいつも笑っているからよくわからない.

「やあ、こんばんは.」

「なあに、これ、買ったの?」

「まさか、借りたのさ.」

「へえ、仕事に使う車みたい.」

「まあ、そんなところさ.」

Jはあまりうれしそうには見えなかった。つきあう期間が長くなるほど、相手の感情が伝わるようになり、かえって神経を使う.それでも、思いなおして僕は言った.

「ちょっと、これからドライブでもしない?」

Jは困ったという顔をして

「でも、あまり遅くなると大家さんがうるさいの.」

「大丈夫、10時までには戻るからさ.」

「ええ、それなら良いわ.」

女は助手席に座ると、なんだか落ち着かない様子で僕を見る.

ここに来る前に灰皿は掃除したけれど、所々にタバコの焼けこげがあり、室内が汚れているが気になるようだ.

僕は車を走らせた.ギアがマニュアルだから何速かわからず緊張する.Jはじっと前を見ている.時折、助手席側の窓を見るけれど、僕を見ようとはしない.ここから5,6Kmのところに、K山という標高300mくらいの山があり、頂上には公園があり、デートスポットになっている.次の緩いカーブを越えると頂上だ.僕はちらりと女を見た.やはり黙って前を見ている.出発してから、一言もしゃべらない.

「どうしたの?気分が悪いの?」

沈黙があった.

「どうして、デートにこんな車に乗ってくるの?だって、色もそうだけど、形からして仕事用でしょ!それに室内だって、汚いわ.こんなところをだれかに見られたらかっこ悪いじゃない.」

意外な言葉に僕は驚いた.そういわれて車内をみるとフロアーマットは泥が付いている.でもそれ以外はシンプルだけど、どこも悪くないように思えた.僕はJの怒る理由が理解できなかった.

僕たちは再び無言のままだった.

やがて頂上が近づいてきた.木が植えてない山頂は、夕日がよく見える.西側の駐車場は、それを見たい車であふれていた.ほとんどカップルにちがいない.反対方向に駐車する車は他の目的があるのだろう.

車がきれいに一台おきに並んでいる.僕はそれを見て何となくおかしくなった.人は秩序が大好きである.ただし、平和が保たれている限りだが.やがて夕日が沈んで、少しずつ帰る車が増えてきた.僕たちの車の周りには一台もいなくなった.

「夕日が沈むと、今度は夜景がきれいだよ.」

僕には精一杯にキザなセリフだったが、

Jは少し機嫌を直したように見えた.僕はJの肩を抱いた.Jは少しふるえていたような気がしたが、そうじゃなかったかもしれない.「いや.」とJは小さく言った.僕はかまわずJの体を引き寄せた.街の明かりが一つ二つと増えてきた.

 

**

 

 「高校しか出ていないやつに、たいした仕事はない.」塾の上司から言われたことがある.夏休みが終わる頃から徐々に居づらくなり、11月に僕は首になった.だれにも負けないくらい子供たちに好かれていたつもりだった.しかし、親からの投書で高卒者から教わるのはいやだという意見があったらしい.子供の意見よりも、親の意見が重要なのだろう.それからしばらくして、学歴で嫌みを言われたのでこちらからやめてやった.

何の話のついでか忘れたけれど、家の食事の時に僕の仕事が話題になった.

「塾の仕事は辞めたよ.今は無職さ.」

母は心配して、

「今度、お母さんの知っている人に仕事がないか聞いてみるから、また働いてみたら?」と言う.

僕が無職で家にずっといられちゃ困るのかもしれない.

父は黙って、日本酒を飲んでいる.僕のことが心配でも、どう対処して良いかわからないみたいに見えた。

 

「これから職安に行って、探してみるから、心配しないで.」とつい両親の気持ちを先読みしてしまう.しばらくのんびりしたかったのに、自分にノルマを与えてしまった。

僕の仕事の話はそれっきり誰も話さなくなった.両親ももう大人だから、自分のことは自分でするだろうと考えているみたいだ.友人のKの家では、昇進や仕事のことをうるさく聞いてきたり、指示したりする親らしい.それでいて、過保護ときているからまるで金で出来た檻の中で飼われているみたいだ.それに比べると僕の家は良い環境かもしれない.父の酒の量が増えるのが気になるけど...

 

 JとはK山で夜景を見たのが最後だった.それからしばらくして僕はJに別れを切り出した.好きじゃないのがあからさまなJの態度に耐えられなくなった.つまり鈍感な僕でも、最近のJとの会話から冷え切った関係がわかる.断る理由は忙しいからと、それとなく嫌いになったことを気づかせようとしているようだ.全くJってやつは頭がいい.自分からは決して嫌いになったとは言わない.それに比べて僕ときたら、うちの番犬より交渉能力がない.わんわんほえるだけだ.

Jとの最後の電話を切ったとき、あれほど悲しさと悔しさで涙が止まらなかったのに、1週間後、僕はまたJに電話をしようとした.敗者復活?そんなことを気持ちよりも、僕の何が気に入らなかったのか聞きたかった.けれどもどうせ本心は明かしてくれないだろう.結局、連絡を取ることは無かった.

それから5年くらい後の話だけど、近所の本屋の前でJとすれ違った.たぶんJかな?記憶の中の顔と違っているように思ったが、とてもびっくりした顔をして走り去ったのをみて確信した.一途な僕と別れたことが後ろめたいのかもしれない.それともそんなに嫌われていたのかとも思った.少しくらい話してもかまわないだろう.

 

**

 

 近所のKは小学校からの幼なじみである.小さな町だから遊び相手も少ないから、よく彼の家へ尋ねていった.しかし、男同志だから、それほど会話が弾むわけでもなく、勝手にコミックを読んで、ただ同じ部屋にいるだけという状況だ.Kの部屋には機械油のような臭いが漂っている.Kは手先が器用で、親も裕福だから、何に使うのかわからない機械が部屋中にあふれている.いつだったか、おもしろいものを見せてやると言って、僕たちは2階へ上がった.4畳半くらいの和室の中央には、ベニヤの分厚い板が万力にはさんで置かれていた.Kは部屋の机の上にある銃のようなものを取り上げて、僕に自慢そうに見せた.

「どうだい、モデルガンだけど、実際に弾を撃てるぞ.」

黒光りのするそれは確かに銃そのものだった.初めて見る銃におそれと興味があったので、Kの話に聞き入った.

「今のところ、自作の弾だから威力はそれほど無いけどさ.ちょっと撃ってみようか.」

僕はうなずいた.

「耳をふさいだ方がいいよ.」

Kが劇鉄を起こしゆっくりと引き金を引いた.

パァーン

火薬の臭いが部屋に広がった.それと耳の奥でキーンと言う音が残った.

青い煙は銃の先から立ち上っている.ベニヤ板を見ると、穴は空いているが、貫通はしていなかった.それでも本物の銃を見て僕は興奮した.触っても良いかとKに聞いた.

Kは黙って、僕に銃を手渡した.ずっしりとした感覚が手に伝わった.銃の形は西部劇で出てくるリボルバータイプだ.銃身が長くて、かっこいいなと思った.

「撃ってみたいな.」

Kに頼んだ.

「さっきの弾で最後だよ.弾を作るのが結構大変だから.この銃に使える6mmの薬莢はなかなか手に入らないんだ.自衛隊の演習地から拾ってくる奴がいて、それを買う.また、火薬を詰めたら撃たしてやるよ.」

僕はKを尊敬の目で見た.銃を作れるなんて僕には出来ないと思った.その部屋には真っ白な模型のボートが置いてあり、それも設計から製作までK一人でやったらしい.近くに寄ると燃料のアルコールと火薬の臭いがした.

 Kは中学の途中からほとんど学校に出席していない.しかし、会社を経営している父親は家を空けることが多いから、不登校には気がつかない.仕事のことしか頭にないから、たまに一緒になる食事も話題は仕事のことである.

「取引先から、無理難題を言われたので、腹が立って帰ってきた.大企業だからと言ってあんな若造になめられた口をきかれて黙っていられるか.」

「社長自ら時間外手当ももらわずに、がんばっているぞと社員に言ったら、社長もちゃんと給料もらえばとぬかしやがった.こっちがどれだけ苦労してるかわかっていない.」

ほとんどは、会社の愚痴であり、自分のストレスの吐け口を家族にしている弱い男である.短気な性格でやがて経営がうまくいかなくなり、社長が交代となるのは先のことである.

Kに対して跡継ぎに対する期待が大きいに違いない.学校での成績も良かったらしいが、なぜ学校に通わなくなったのかKは言わなかった.でも、ほとんど家にいない父親は、教育は母親に任せきりである.仕事の不満をKにぶつけることもあり、いつしかKは全く父親とは口をきかなくなった.Kの上には先妻との間に出来た姉が3人いるが、すでに成人して家を離れている.もう一人実の兄がいるが、全く耳が聞こえない.だから話すことも出来ず父親は跡継ぎとは考えていない.

 Kの母親は僕が遊びに来ると、お菓子や飲み物を次々と出して迎えてくれる.Kがいないときに母親が僕に教えてくれたのだけど、Kは家でほとんどしゃべらない.でも、僕がいるととても明朗に話すらしくて、それがうれしくてたまらないとKの母親がそっと教えてくれた.だから、Kの母親は僕が遊びに来ると、時々お菓子を携えて部屋にやってくる.

「大きくなったら、飛行機の操縦士になりたいな.」Kが話す.

「また夢みたいなことを言って.」Kの母が楽しそうに言う.

「本で調べたら、セスナの免許は200万くらいで取れるし、中古のセスナなら500万で買えるよ.」

Kの母親はにこにこしながら聞いていた.

僕にしたら夢のような大金だけど、この一家にとってはそれほどじゃないのかと思った.

いつしか夕方になり、テーブルの上にはお菓子の山が出来上がっていた.

 後日、母親からKが家を出て、東京へ行ってしまったことを聞いた.とても寂しそうな声が印象的だった.僕に何も言わないなんて、衝動的に家出をしたのだろうか?父親とけんかをして出て行ったのかもしれない.僕は、人の別れは突然来るものだとそのとき感じた.子供の頃に一緒に遊んだ友達も、大人になればそれぞれ違う道を進み、一生会うこともないのだ.Kとはそれっきり会うことは無かった.

 

**

 

 母に買い物を頼まれてM町ショッピングセンターに行った.店内を歩き回っているうちに、咽が渇いてきた.それで、おいしいと評判の生ジュースを味わってみようと考えた.お店は一階にある.

「何がおすすめなの?」

「そうですね.今の時期ですとキウイがよく出ています.」カウンターの中から、若い女の子が答える.

「じゃあ、それ.」

僕は、カウンターから少し離れたテーブル席に座って、女の子の動きをぼんやり見ていた.女の子は皮がむかれたキウイを冷蔵庫から取り出すと、手際よくシロップと水を混ぜてジューサーに入れた.その子がジュースを運んできた.

「お待たせしました.350円になります.」

僕が代金を払おうとすると、その女の子は微笑みながら顔をじっと見ている.

やけに愛想のいい子だと思った.

「もしかしたら、先生じゃないの?」女の子が言う.

「忘れたの?塾で先生に習っていたEよ.」

僕はまったく思い出せなかった.たぶん顔も変わっているだろうし、化粧もしているからわからないのかもしれない.知り合いだからと、カネをせびられたこともある.しかし、相手が若い女だから、それほど警戒することはないだろう.

「覚えていないみたいね.まあ、いいわ.もう2年前だから忘れても仕方ないか.」

若い女はいつのまにかため口になっている.僕は彼女の勢いに圧倒されて、彼女の話を聞くしかなかった.

「クラス分けのテストがあったでしょ?あのとき先生が、そっと指さして教えてくれたじゃない.アレすごく助かったの.だって、下のクラスに落ちる所だったから.私は下のクラスでも良いのだけれど、親がうるさくてね.わかるでしょ?」

「ああ、そういえばそうだった.」

ようやく僕は思いだした.とてもまじめな生徒で、僕の下手な授業でも、真剣な顔でノートを取っていた子だ.こうしてみると、この子に笑顔があるのが不思議なくらいだ.笑顔だったから気がつかなかったのかもしれない.僕はその女の顔を見ながら、教室での出来事を思い出そうとした.

 まあるい小さな顔が、こちらを見ている.子供は大人と違って、視線に遠慮がないから、こちらが視線を外すまでじっと見ている.僕がにこっと笑うとあわてて下を向く.たぶん答がわからないのだろうと思って、その子の机に近づいた.最後の文章問題で詰まっているようだ.
 飼い主と友達が出会うまでに犬が往復するが、何m走ったかと言う問題だ.世の中では犬が何m走ろうがどうでもいい話だ.

答の番号を指した.その子は突然現れた僕の指に驚いた様子だった.しかし、すぐに番号を答案用紙に書いた.全員に答を教えたい気持ちに僕はとらわれた.しかし、そんなことをすれば、すぐに上司から注意が来て、運が悪ければ解雇だ.なにしろ、学校とは人と差をつけるための場所だ.全員が賢くなったら、存在する意味がない.だから学校の準備をする塾も同じことをやっている.なんて、堅苦しいことも考えたけれど、単にその子がかわいそうに見えただけで、それほど深いことを考える僕じゃない.

 その女の子と個人的に話したこともないし、印象も無いから忘れかけていた.

「ようやく思い出したよ.ここでアルバイトをしているの?」

「うん、土曜日と日曜日だけどね.」

「高校へ進学したの?」

「進学したけど、一年でやめちゃった.」

「ふーん、そうか.学校は嫌いか?」

「学校も、友達もみんな嫌い.」

僕ははっとした.まるで頬をぶたれたように感じた.塾での仕事はそりゃお金を稼ぐためだけど、少しは人のためになるかと思っていた.でも、無理して人間を飼い慣らして、進みたくもない方向へ押し込め、生きたくない人生へ向かう手助けをしてきたとその時感じた.人のためになるって難しいなあとつくづく思った.

なんだか気まずい雰囲気だった.それから後はジュースの味が無くなってしまい、半分くらい残して、僕はその店を後にした.その子に後ろめたさを感じた僕は、罪滅ぼしのつもりで次の日曜日にまた尋ねてみようと思った.その子の力になりたいという思いと、それが出来たら自分の気持ちが収まるような気がした.

 次の日曜日、もう一度Eの勤めるお店に行った.彼女はいなかった.そこで仕事をしている人に尋ねてみることにした.

「お客さん、何にするの?」カウンターにいた小太りの中年の女の人が無愛想に聞いてきた.白いエプロンのポケットのところがうす黒く汚れている.清潔じゃない奴は食品を販売する資格はない.心の中でこの女に話しかけた.ごくりと僕は唾液を飲み込み、心を静めようとした.

「あの、Eさんいますか?」

「きょうは、体調が悪くて休んでいるよ.注文は?」

「いえ、注文は別に...」

「注文はないのね.」仕事をじゃまされて不機嫌そうに言い放った.

女が見たとおりの意地悪な人だったので、僕は少しだけおかしくなった.

 

 小雨の中、僕は雨よけのジャンパーを着て、オートバイに跨るともう一度ショッピングセンターへ向かった.雨脚が徐々に強くなり、道路が黒光りし始めた.次のカーブを曲がると、ショッピングセンターである.交差点では下水工事をしていた.道を掘り返して下水管を埋めたようだが、舗装はまた後日するのであろう、茶色の鉄板がその上に敷かれていた.車が、急に脇道から現れた.僕はその車を避けようと軽く右へハンドルを取りながらブレーキをかけた.鉄板の上で、バイクの後輪がロックした.と同時に、後輪は左の方へスリップした.僕はバイクを立て直そうと、今度は左へハンドルを切って体を傾ける.今度は右へタイヤがスリップする.それを何度か繰り返しているうちに僕は対向車線へと飛び出していた.大きなダンプカーが目の前にあった.なんてことだ.全くついていない日だ.僕はどうすることが出来なくて、ダンプカーの正面にぶつかった.激しい痛みがあるかと思ったら、全く痛みがないんだ.死ぬ時はこんなものか.

 

 

 ドンドンドン.

 ドンドンドン.

 ドンドンドン.

遠くの方で大きな音がする.体を動かそうとするが、ちっとも動かない.

外で誰かが呼んでいる声がする.

Tさん...、Tさん...、Tさん...」

ぼんやりした頭が徐々にはっきりしてくる.

Tさん、電話だよ.」

頭がひどく痛い.日本酒が飲み慣れていないせいだ.日本酒、ワイン、ビールという醸造酒ときたら、飲み始めはおいしいけれど、あとからひどいしっぺ返しがくる.2面性があるところは政治家と一緒だ.

ようやく、体を起こして、よろよろと廊下の共同電話へと歩いた.

受話器を取ると聞き覚えのある声だった.

「昨日はごめんなさい.何か私に用事だったの?」

「近くまで行ったので、話でもしようかと思ってね.ところで良くここの電話番号がわかったね.」「へへ、実は塾へ電話をして、聞いたの.生徒の保護者と思わせて、先生にお礼を伝えたいと嘘をついちゃった.先生、塾、やめたの?」

「ああ、やめたんじゃなくて、クビになったんだ.」

「またテストの答を教えてばれちゃった?」うれしそうにEは笑った.

「そんなんじゃないよ.」先生と呼ばれていたのに、今では友達みたいだ.普通は怒るところだろうけど、僕はなんだかうれしくなってきた.

「アルバイト以外には何かやっているか?」

「家にひきこもっているよ.たまに買い物や映画を見に外出するけどね.」

「親がうるさいだろう?」

「うん、うるさいよ.学校へ行くか、ちゃんとした仕事をしろってさ.」

「ふーん、それで言うことを聞いて、仕事をしているわけだ.」

「あんなの仕事じゃない.小遣い稼ぎと、親へのエクスキューズよ.」

「じゃあ、良かったら僕と一緒に仕事を始めないか?」

「うん、なんだかおもしろそう.でさ、どんな仕事なの?」

「それは今、考えているところさ.」

「なんだ、はははは、おかしい.何の仕事か決まっていないのに、人を誘うなんて.やっぱり先生はおもしろいよ.」

「そんなに笑うなよ.これでも毎日毎日、悩んでいるんだぜ.君も少しは考えてくれ.」

「うん、わかったよ.私たちがやる仕事ね.何が良いかな?えーと、すぐには思いつかないなあ.」「今度、会う時までの宿題だ.」

「えー、なんか学校みたい.でも、学校の宿題みたいに嫌じゃないわ.不思議ねえ.」

無職同志、通じ合うところがあるのかなと思った.それより2人ともマジメに学校に行っていないおかげで、いわゆる大人の常識を知らないかもしれない.でも僕はいちおう毎日学校へ行っていたんだ.朝起きるのが苦手でいつも遅刻していたけどね.学校に着く頃は給食の時間だから、授業を受けるのは5時間目になってしまう.こんな僕が卒業できるかのかなと思っていたら、中学は卒業できた.でも高校は単位が足らなくて中退になった.母親はそんな僕でも怠け者とは考えないし、無理に朝から学校へ行かせることもしなかった.だから、学校は全然嫌いじゃなかった.友達もいたし、時にはいじめられっ子をいじめっ子から守るために、一緒に下校したり、人とは違うことをするのが好きだった.そいつとは今でも僕のことを慕ってくれる.でもそいつは大人になっても相変わらずいじめられっ子だけどね.

 

小さな部屋は段ボールの荷物でいっぱいである.

「今からお届けしますね.」

部屋の隅にある大きな段ボール箱からビニールの包みを取り出した.Eは背が低いから、商品を持つと前が見えなくなくなり、ふらついている.

「これから、一丁目のAさんへ配達に行ってくるわ.」

「うん、気をつけて.悪いけど、帰りにYさんのトイレットペーパーを買ってきて.」

「わかったわ.」

Eの後ろ姿を見送った.腰のあたりがしっかりしている.すっかり大人の女の姿だ.僕はもやもや変な気分になったので、領収書をまとめることにした.「くそっ、この領収書ってやつは、何でみんな同じに出来ないのだろう.」領収書を日付け順に並べようとしたが、途中でやめた.結局、形が不揃いだから針に刺して置くしかない.

 僕たちが始めた仕事は、客から注文をもらい、それをお店で購入して、配達する.始めてから1年になるが、徐々に注文が増えきた.それで今度はEに配達用の原付を買うことにした.それから重いものを配達するため車を購入した.車を使うようになったら、客から「おっ!車を買ったの?」と言われる.景気がいいなんて思われたくないし、本当に中古車だから「古い中古車です.」と答えた.後で考えたら、少し気にしすぎたかもしれない.

その晩は、仕事が遅くなり、2人が事務所兼倉庫に戻ったのは10時過ぎだった.

Eが汗にぬれたグレーのTシャツの袖をまくっていた.顔にも汗が滴っている.

「客が不在で困ったわ.仕方がないから、隣の住人に預かってもらうことにしたの.先生はどうだった?」

「こっちも、渋滞していたから、いつもより時間がかかったよ.明日から地区の祭りらしいから、今日はその前夜祭みたい.」

「途中で、お弁当を買ったけれど、一緒に食べる?」

「いいねえ.もうお腹がすいて倒れそうだよ.」

Eは、僕の顔を見て笑った.

「倒れそうだなんて大げさねえ.だったら、これくらいじゃあ足らないかもしれないわ.何か買ってきましょうか?」

「いいよ.これで十分さ.足らなければ、明日まで取っておく.」

「ふふふ、取って置くなんて、なんか変.」

僕はEの買ってきてくれた、惣菜弁当を食べた.お腹が減っているせいかとってもおいしかった.僕はほとんど会話することもなく先に食べてしまった.

またEが笑いながら

「本当にお腹がすいていたのね.私のも食べる?」

「いいの?じゃあ、もらうね.」

半分ほど残ったEの弁当をまた僕は一気に平らげてしまった.

「今度の仕事は順調ね.」

「ああ順調だ.」

「これからどんどん忙しくなるのかしら?」

「ああどんどん忙しくなるよ.」

「これ以上忙しくなったら、こうして先生とゆっくりと話も出来ないわね.」

「そうだね.だったら人を雇おうか?」

「でも、そうなると2人きりと言うわけにはいかないわね.」

「そうだね.でもたまには2人だけの時があるかもしれないよ.」

「うん.そうだね.」

僕たちはそれっきり黙ってしまった.

遠くに犬の鳴き声が聞こえる.その後は深い静けさがただよった.

いつかEに尋ねようと考えていたことが頭の中に浮かんだ.

「ねえ、Eちゃん.」

Eは満足そうな顔をしていた.食後は誰でもそうさ.幸せな気持ちになれる.

「君は霊の存在を信じる?」

「先生は急に変なことを聞くのね.そうね...霊はいると思うわよ.私には守護霊がいるの.その霊がいつも私のことを守ってくれているのを感じるの.」

「どんなときにEちゃんを守ってくれるの?」

「この間、運転していたら後ろから追突されたの.」

「それじゃあ、守護霊がいないんじゃないの?」

「ちがうの、最後まで聞いてよ.私の車のマフラーが破れていたところにぶつかって、ぶつかってきた人に修理してもらったの.ラッキーでしょう?
それともう一つあるのよ.出かける前に、使ったことのない押し入れの襖があいているの、おかしいなあ思っていたの.そうしたら.」

「おばけがでてきた.」

「ちがうったら、車にひかれそうになったの.」Eはまじめそうに答えた.僕がふざけても気にならないほど信じているようだ.

 それから死んだらどうなるかなと聞きたかったけれど、もう遅いから話さなかった.

この世に生まれた理由を知りたくて、僕はいろいろと漂流している.新しい仕事もはじめたら、何か少しでも自分の目的が見えてくるかなと思った.僕の魂はそれを知っているはずだ.若いときからずいぶんと危険なことや自ら体を傷めることもやってみたが.魂は何も教えてくれない.この世でひとりぼっちにされた気分だ.

 それから僕は失敗してもそれほど落ち込まない.この世での修行のために何か得るものがあると思っているからだ.

それでも、いやなことはたくさんある.

この間、客が、注文した商品が違うから返金しろと言われた.注文を受ける時にはノートに書いて間違えないように気をつけているのに、よく似た名前の商品があるものだ.

「名人の作る納得サラダ」と「職人の作った納得サラダ」という冷凍食品.

それほど味が違うとは思わないけどね.どちらもサラダには違いがない.

仕方がないから、返金して、商品は事務所の冷蔵庫行きである.

僕たちの夜食がまた増えた.先月は黒字かと思ったら、今月は赤字になりそうである.

「今月の給料だけど、少し待ってくれない?」と僕.

「うん、それはいいけど、大丈夫なの?」とE.

「いつも赤字ってわけじゃないから、心配するなって.」

「わたし、働きに出ようかな?」

「今だって、十分に働いているさ.」

「そうじゃなくて、空いている時間に他で働こうと思うの.空いているのは夜くらいだけど、探せば、何かありそうよね.」

「働きになんて行くなよ...なんとか来月は黒字にするよ.」

「ええ、期待しているわ.」僕には切実さが欠けているらしい.Eはケラケラと笑った.

口コミで注文は徐々に増えているが、その割には利益が出てこない.たぶん商品の安いからだ.もっと高額な商品の注文を取らないと...

 

「おはようー.」事務所に僕の声が響いた.

返事がない.

いつも僕より早く来ているEがいない.

1週間前から、Eは時々遅刻するようになった.夜中にパートでホテルの清掃に行っている.時間通りに終われば遅刻はしないけれど、何かトラブルがあると、間に合わないと言っていた.

今日もトラブルらしい..

9時過ぎ、事務所のドアが勢いよく開いた.ようやくEが出勤してきた.僕は朝一番の注文をもらって、事務所に戻ったところだ.

「おはよう、きょうもトラブルなの?」

「そうなの、ラブホテルの清掃は頭を使わないから楽だろうと考えていたのに大きな誤算だったわ.ホテルは2人で使うものじゃない?」

朝にする話にしては刺激が強い.僕はにやけながら「普通そうだね.」と答えた.

「それを4人で使ったみたいなの.大きな声でカラオケを歌ったり、騒いだりしているから、おかしいと思ってIさんが様子を探りに行ったの.小窓からのぞくと間違いなく2組の男女がいると言うの.社長から、3人以上泊まったら追加料金をもらえときつくいわれているし.もし見逃したら、すごく怒られるから、Iさんは必死になってシャッターを閉めて出られないようにしたの.」

「うんうん.それから.」おもしろいことになりそうだと僕は期待した.

 

 * * *

 

「おい!なんでシャッターが閉まっているんだ.」茶髪の背の低い男が部屋の下の車庫から戻ってきて.小太りの若い男に言った.小太りの男は体格がいいのを強調するように、体にぴったりのTシャツを着ていた.半袖から刺青が見えていた.

「おかしいな?部屋のボタンでさっき開けたぞ.」

黒いタイツを履いた超ミニの女は、ソファーでタバコを吸いながら男たちのやりとりを見ている.

もう一人の長い髪を金髪にした女は上下とも黒のジャージを着て、ベッドの上で携帯をいじっている.今起きている出来事には関心がない.

「ねえ、何をトラブっているわけ?」超ミニの女がイライラしている.

ぶつぶつ文句を言いながら、背の低い男がフロントへ電話をかけた.

「あのさ、シャッターが降りていて出られないだけど...え?何、料金が不足している?表示された分はちゃんと払ったよ...3人以上で利用しているから、さらに6000円追加料金を払えって?...ちょっと待ってくれる?」

「おいCちゃん.なんだかさ、追加料金を払えと言っているけどどうする?」

小太りの男が、めんどうくさそうな顔をした.

「料金が高くなるってどこにも書いていないぞ.そんなもの払えないって言え!」

背の低い男が電話に向かって繰り返した.

「払わないなら、それでも良いけど、帰ってくれってさ.」

「なんだよそれ、なんか俺たちが料金を踏み倒したみたいで、そっちが謝れと言ってやれ.」小太りの男はさっきの酎ハイが飲んで、気が大きくなっているようだ.

にやにやしながら背の低い男が、強い口調で息巻いている.

「むこうは謝っているよ.」

「電話じゃあ気に入らないな、直接謝ってもらわないとなあ.」

小太りの男は、ソファーに腰を下ろすと、ミニスカートの女の腰をなで始めた.

女はいやがったが、男が怖くて抵抗できずにいた.

しばらくすると、ホテルの従業員だという若い女が現れた.

女はこんなホテルにしては洗練されていた.

「こちらの手違いで申し訳ありません.追加料金は結構ですので、どうぞお引き取りください.」

「なんだ、こっちは被害者だぞ.こころが傷ついてつらいんだよ.もう少しましな謝り方があるだろう.」相変わらず女の腰に手を回しながら、引き寄せようとしている.従業員の女はキッと見返して「どうしてもお引き取り願えないなら、警察を呼ばせてもらいます.」と言う.

「なーに、呼べるものなら呼んでみろ!」

連れの女たちが騒ぎ出した.

超ミニの女が「えー、いいからもう帰ろうよ.」と甘えた声を出した.

「黙ってろ!金を払わずに逃げたなんて思われたら、男のメンツが立たないだろ.」大声で小太りの男は再び怒り出した.

「じゃあ、電話します.」従業員は引きあげた.

やがて遠くからサイレンの音が聞こえてきた.

威勢の良かった男女4人は何となくシンとしてしまった.

「なんだよ.悪いのはあっちの方だし.俺たちは何も悪いことをしていないのだから、堂々としていればいいよ.」と背の低い男が言うと小太りの男は近くにあったゴミ箱を思い切り蹴飛ばした.

足音とともに大勢の声がこちらへ近づいてきた.部屋の前で止まる.

ドンドンとドアがノックされた.

「あのー、○○署だけど、少し話を聞かせてくれるかな?」

目深に制帽をかぶった体格の良い警官を先頭に4人の警官がそこにいた.

さらにその後ろには、ホテルの従業員が隠れるようにして立っていた.

「退去しないようだけど、そういう事をするとまずいよ.」警官は優しく話し出した.

「ホテルの方に責任があるから謝ってほしいといっているだけで、出ていかないわけじゃあない.」と小太りの男が憤慨しながら言う.

「そのことについてはホテルの落ち度だから、追加料金はいらないと言っているから.」

「だったら俺たちが何で悪者扱いされるのか納得いかないね.」

「まあ、そういわずにここは黙って帰ってくれないか.」

「ちっ、もう2度とここは使わないからな.」悪態をつきながら、客たちは渋々帰り支度を始めた.

 

 * * *

 

「それでさ.Iさんが声を震わせて言うのよ.『どうしよう.追加料金がもらえなかったことが社長にばれたら、すごく怒られるわ.』てね.だから私は言ってやったの.黙っていればわからないって.」

僕は客たちが暴れて、警官と乱闘になることを期待していたが、普通の不良ならその程度かもしれない.

「それよりも、Iさんが社長に報告するって聞かないの.お金を取れなかったことを私のせいにして、自分は良く思われたいみたい.それで私はカチンと来ちゃって、朝からずっとむしゃくしゃしているってわけ.」

「私のせいにしたいのならどうぞ勝手にしてくださいと言ってやったわ.でも、また同じ事が起こるわ.」

 

 * * *

 

「何度もご説明しているように、3人以上のご利用は追加料金が必要でございます.どうぞお願いいしたします.」

優しい口調で、D男は一生懸命電話で説明した.

「だから、そういうことはあらかじめ言ってもらわないと困るな.追加料金が必要なら、このホテルには入らなかったよ.」

それから何度も客との間でやりとりが行われたが、結果は同じだった.

いまは夜中の2時である.この時間に社長を起こすと機嫌が悪い.さんざん迷ったが、D男はついに意を決して社長に連絡を取った.

「あのー、社長、夜分済みません.実は料金を払わない客がいて困っています.」

「なにい、料金を払わせるのがおまえの仕事だろう.何をのんびりやっているんだ.」舌が回っていないのは、かなり酒を飲んでいるのだろう.

「い、いや、社長.何度もご説明しているのですが、ご理解できないようでして、はい.済みません.」

「おまえ、説明したと言っているが、払ってもらえないなら、説明したことにならないだろ.それでも脳みそあるのか?」

「あ、いや、済みません.どうにもならなくて、どうしたら良いでしょうか?」

「もういい、俺が直接説明してやる.どいつもこいつも...」

汗を拭きながらD男は受話器をそっと置いた.

「社長が来るってさ」D男は同僚のM子の顔を見た.

M子は肩をすくめながらも、黙って洗濯物を畳んでいた.

 社長は近くで経営するラブホテルに住んでいる.5分もしないうちに黒塗りのベンツが現れた.タックの入った黒いズボンにベージュのポロシャツを着た太った中年の男が降り立った.顔はゴルフ焼けだろうか、浅黒くシワが目だった.不機嫌そうに事務所のドアを開けた.

「おい、D!料金の説明の出来ないのか!頭悪いな.」部屋に入るなり怒鳴りだした.D男はまだ部屋の客と何度目かの電話中であった.

「はい、そのようなことにはなっていませんので、はい、えー、少しお待ちください.」D男は社長を見つけ、電話を替わってほしいと目配せをした.

社長はその電話を受け取ると、すごい剣幕で怒鳴りだした.

「おい、料金を払わないとどうなるかわかっているんだろうな.タダではここから出られないんだよ.ここのバックには○○組があるんだ.今から、そこへ相談に行くけど良いな?」

やくざのような脅しで客は折れたようだ.

しかし、社長の怒りは収まらなかった.「D、おまえは大学を出ているくせに、こんな事も出来ないのか?頭悪いな.」

社長の怒号にもD男は下を向いて黙っているだけであった.「全く、どいつもこいつも脳みそあるのか?」

ちょうどその時、部屋からの電話が鳴った.

M子が電話を取る.

「はい、フロントです.はい、ピザを一つですね.わかりました.」

しかし、M子は冷凍ピザの保存場所がわからず、事務所の中を行ったり来たりし始めた.

「おい、何をしているんだ.」社長の顔が赤黒く変わった.

「はい、お客さんからピザの注文を受けたのですが、どこにあるのかわからなくて...」

「ピザなら、冷蔵庫の中にあるに決まっているだろ.ここに勤めて長いくせになにやっているんだ.」

社長は立ち上がると冷蔵庫のドアを開け、中から冷凍ピザを取りだした.

「これくらいもわからないのか?」

そう言って、M子へピザを投げつけた.

M子はそれをうまく受け取れず、足下に落ちた.

「おまえ、脳みそあるのか?」

M子は黙っていたが、下に落ちたピザを拾い上げ、レンジの中へ入れた.

M子は気持ちが抑えられなくなり、やがて泣き始めた.

社長は言い過ぎたと思ったのか、何かぶつぶつと言いながらその場からいなくなった.

社長がいなくなると、D男はM子に「大丈夫?僕もよく怒られるから.」そう言って、弱々しく笑った.

M子はまだしゃべられる状態ではなく、うなずくだけだった.

 

* * *

ある日、深夜、Eが仕事をしていると社長からホテルに電話あった.ネットで準備中の部屋がいつまで経っても空き室にならないのに我慢できなくなったらしい.きょうは連休の初日である.きっとホテルには入れない客たちがまわりで待機しているのだろう.ネットで空き室表示があれば、すぐに車で乗り付けるはずである.しかし、Eがいくらがんばっても、一晩で78部屋までしか掃除することは出来なかった.そのことを社長に伝えたら、「そうじなんて、見えているところだけきれいにすればいいだろう.そんなのはこの業界では常識だ.バスタオルで風呂を掃除すればいいし、コップもそれで拭けばいい.」
「でも、身体を拭いたタオルですよ.」
「かまわないから、言ったとおりにしろ.消毒済みのビニールは何のためにあると思っているんだ.」
E
は驚いて返事が出なかった.効率を上げるためなら手段を問わないのがラブホテル業界の常識だ.そしてこの世の常識なのである.放射線に汚染された食物を、風評被害だと言い切る政府.生産地が表示されないから、安さに惹かれてそれを使うレストランやコンビニエンスストアもあるらしい.Eには悪意が見えてくると、だんだん仕事に対する意欲が落ちてくるような気がした.働かないヒトが増えたのはそんな理由があるのかもしれない.

 雪が降る季節になっても、Eはそんな話をしていた.きっとそれで心収まるのだろうと思って、僕は黙って聞いていた.でも、そんな職場の社長や意地悪な同僚に我慢できなくなり、ある時、Eに話した.

 「そんなに大変なら、やめれば?」Eはちょっと僕の方を見ると、まじめな顔をしていった.

 「ううん、今の仕事は気に入っているの.だって、ここの仕事の差し支えにならない真夜中の仕事だし、これでも掃除ってとってもいい運動になるの.最近、運動不足で体が重かったけれど、今じゃ、ほら、楽に階段も上れるようになったわ.ほらみて少し細くなったでしょ.」

 Eは自慢そうに僕の目の前でスカートのすそをたくし上げた.スタイルのいい足が目の前にあられた.

 「それはそうだけど.」

 僕は自分の心に問いかけた.本当はEのことを心配しているのか?単に不満を聞きたくないだけなのか?

 どちらにしても、今の仕事はEにはふさわしくないと思った.僕のひいき目かもしれないけれど、Eは学生の時から良くできる生徒だった.しかし、まじめで正直な性格は他人とうまく合わせられないことが多かった.だから高校を中退してしまったのだろう.僕は陰のある人を見ると助けてあげたくなる.僕と同じものがその人の中に見えるからだ.

Eは今の仕事もすぐに慣れて、どんなふうに宣伝しているのかわからないけれど、注文もたくさん取ってきてくれる.客の受けもいいようだ.だけど男の客からの誘惑があるのを聞いた時には、おもしろくなかった.

 「わたしも行く先々で声をかけられるのは嫌なの.正直に言えば、男の人はあまり好きじゃないの.」

 女とは声をかけられるとうれしいのかと思っていたが、そうじゃない女もいるのだと初めて知った.好きでもない男に口説かれて、虚栄心を刺激されるだろうけど、そんな女に引っかかった男はとんでもなく不幸だ.

 「先生は違うよ.」とEがまじめな顔をして言う.

 「男って、必ず下心があるから嫌なの.下心のない男の人は滅多にいないわ.仕事を始めた最初の頃は私も子どもだったから、いろいろと気を遣ってなんて優しい客だろうと思っていたけれど、その次にあった時に食事に誘うの.この人もそうだと思ったら、がっくり来てしまうわ.」

 Eは本当に怒っているように見えた.

 僕はEの顔をじっと見つめながら、10年後、20年後の成長を想像してみた.さらに人間として強く優しくなっているだろう.僕が最初に見たまじめだけど折れそうな弱さとは見違えるほどに.

 「何を考えているの?」Eが僕にたずねる.

僕の頭の中の優しい顔が、いつの間にか、芯の強いEに戻っていた.

 「そろそろ眠くなってきたから帰るね.それから、明日の配達は直接行くことにするよ.」

僕は、翌日配達する商品を車に載せるために事務所の外へ出た.一面真っ白になっていた.12月の初旬に雪が降ることはこの地方ではそれほどまれではない.僕のアパートから事務所まで約10Km位である.

それほど雪は深くなさそうだ.それに、タイヤを交換する気力は残っていない.

荷物は15分ほどでセリカに積み終えた.Eに挨拶を言おうと思い、もう一度事務所に戻った.

 「じゃあ、行くね.良ければ事務所で泊まってもいいよ.たいしたものはないけれど、好きなものがあったら勝手に食べていいよ.」

 「ありがとう.でも、もう遅いから食べないで寝るわ.太るからね.」

 「じゃあ、また.」

 「ええ明日ね.気をつけて.」

道路は空いていた.気温が下がっているため、跳ね上げられた雪は煙のように舞い上がり、音もなく車は走る.まるでおとぎの世界にいるようだ.

いつもは国道を通るけれど、今夜は海岸沿いの道で帰ることにした.海岸の近くは、海風が強いから、雪が積もらない.そう思った僕は国道に入らず、海へ向かった.だんだんと街灯がまばらになり、暗闇が広がる.たぶん周りは畑らしい.その次の交差点を右折すると、少しずつ道が登りになって、やがて海岸に沿う道にでた.粉雪が舞っているが、道路には雪は積もっていないようだ.緩やかなカーブがヘッドライトに浮かび上がった.いつもは楽に曲がれる場所なのに、きょうは雪が吹きだまりになっていた.あっという間に後輪が滑り出すと同時に、ゆっくりと車は回転し始めた.そして、車はガードレールをつき破って海へとダイブした.たいていの車は、前の方が重いのであり、海につっこむときも前の方か落ちる.そして、海までの距離が長いほど、下向きになってしまう.20m下なら、ほぼ真っ逆さまに海へ落ちることになる.車はすぐには沈まない.トランクからぶくぶくと泡を出しながら少しずつ沈んでいく.

 

***

予感がしたのかもしれない.君を残して急にぼくがいなくなったら、君はどんなに悲しむだろうと心配している.ぼくときみの共通の友達がいたら、そいつに君のことをよろしくと頼むのだけれど、そんな懇意な友達はいなかったね.だから、少しでもきみの悲しみを減らすことが出来たらと思って、この手紙を残した.事務所の引き出しにしまっておいたから、ぼくの遺品を整理したらすぐに気がつくと思っている.

きみがこの手紙を読んでいると言うことは、たぶん僕はもう存在していないのだろう.僕たちの仕事は、始まったばかりだ.だから十分にきみと話すことが出来なかったと思う.カップルの中にはお互い好きだけど傷つけ合うだけの関係もある.また、好きだとか恋愛を超えてお互いに必要な関係もあるだろう.きみとの関係はそのどれにも当てはまらない.だって、恋人のような会話だけで、恋愛の最終的な行為もしていないしね.

いま、若くしてこの世から去っても、長生きしても年功以外何も持っていない年寄りよりはましかもしれない.僕にとっては何を成し遂げたかではなく、何を成し遂げようとしたかが重要だ.

 若くて美しいときにはいろいろと親切にしてくれる人が現れると思うけど、本当に君を愛してくれるかどうかは、君が長生きして、人間を見極めなくてはならない.教育は十分ではなかったけれど、きみにはバイタリティーがある.毅然とした心がある.それさえあれば、どこへ出ても必ず成功をおさめるよ.

 いつか事務所できみがうたた寝をしているのを見たことがある.とてもあどけなくてびっくりするほどだった.働いているときとはちがってね.あどけない顔を見ていると仕事や人生の悩みがこの人には無いのだろうかとにくらしく思ってしまうほどだ.不思議なことに長生きすると人間のいやな部分が透けるように見えてくる.そのことで君の素直さがだんだん無くなるのは残念だけど.では、いつもそばに.

ぼくの親愛なるE

 

(おわり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラット・オン  ー 不履行 ー

 

 「それじゃあ、この実験の結果はそのまま信じろって言うのかい。」

ハムステッド研究所の主任研究員のロバート・プラントは助手のリンダ・ホイルに少し怒ったように言った。

「でも、結果を信じるのが、科学者でしょう?信じないなら、弁護士にでも転職したら?」

長年プラントの元で働いているホイルは、少しも譲らない。

「わかったよ。このことはジョーンズ 所長に相談してから、考えよう。だけど、君は頑固だねえ。人の進化でそんなことがあるはずがないじゃないか。」

独り言のように話しながら、プラント研究員は、自分のデスクに戻っていった。

「『信じられないことでも、他に可能性がなければ、それが真実である』て、あの有名なシャーロックホームズも言っていたわ。」冗談を言いながら、気分転換をしたホイルは、無断でその研究を進めてみることにした。

 暗い夜の空に光る点があった。その点は徐々に大きくなると共に点滅を繰り返して、信じられない速さで、地面に激突した。焼けこげるにおいと、赤いきらめきが10秒ほど続くと、大きな地響きと天が割れん程の轟音を発した。だが、ここはゴーストタウンが点々と広がるテキサス州である。この落下に気がつく人は、誰もいなかった。何かが落ちてきたように思われたその場所には、地表の土壌は吹き飛び地下の岩盤が溶けてドロドロに変化していた。クレーターのみで何も残っていないように見えた、その時、落下地点の中心部の溶岩が少し盛り上がって来たように見えた。それがみるみる大きくなってきた。そして、中央に小さな黒いひび割れが出来上がると、何かが徐々に現れ始めた。最初は暗闇に混じって、黒くなめらかな表面を持つ、とがった角のような物が現れ、それに続いてオレンジ色の人間の大きさの【塊】が出現した。その塊は周囲の土や草などの有機物質を引きつけ、表面に付着させていった。

 

 老化の遺伝子はテロメアと呼ばれる。DNAの末端にある小さな遺伝子であるが、これが短くなると、もうそれ以上細胞分裂が出来なくなり、細胞は老化を始める。人のテロメアは他のほ乳類より長大であるが、それでも限界がある。しかし、それを乗り越えれば、莫大な富と不老不死を手に入れることが出来るとあって、多くの研究者が、この老化の解明に、熱中していた。研究とはある峠を越えれば、後は放っておいても自然に結論が導かれる物であるが、そこまで達するのが、一苦労である。単細胞や構造の簡単な線虫などでは成功する実験でも、人に置き換えるとなると、非常に難しいし、ここアメリカでは遺伝子の組み換えや操作に関しては自由であるが、彼の地の日本では大臣の許可が必要らしい。それが良いことか悪いことかは別にして、アメリカの方が遺伝子操作については、遙かに進歩していた。

 リンダ・ホイルの実験とは、静電気を使って、ほ乳類のテロメア以外の遺伝子の影響を抑えてから、テロメアが長くする酵素を使うというものだった。静電気がかかると、なぜだか、DNAの修復機能が押さえられて、簡単に遺伝子の操作が可能になるであった。線虫を使った実験ではすでに2年も生きている。通常は3週間で寿命を迎えるはずが、2年も生きている。おかげで、通常の大きさは1mm程度の大きさが、10mmくらいに成長している。1リットルほどの透明な培養液の中でたくさんうごめくそれは、あまり気持ちの良い生物ではなかった。身体が小さな時は、はっきりしなかった目が今では黒く2つの点となり、存在を明らかにしていた。

「まだまだ、大きくなりそうね。」

リンダ・ホイルは、光に照らされた保温機の中を、まぶしそうに眺めながらつぶやいた。

「大きくなるだけじゃなくて、進化しているように見えるわ。次は、人間で試してみたいけど、そのためには、被験者を捜さなくては。人間では、制限遺伝子があるから、線虫のように無限に大きくなることは無いと思うけど、できれば、寿命の短い人が良いわ。」

彼女の手元には、ワクシニアウイルス(テロメラーゼ)と手書きされた注射液があった。

 

*  *  *

 

 白塗りの古い壁を抜けると、あまり手入れされていない生け垣が続いていた。更に進むと、たくさんの平屋の建物が続いていた。その中で、ひときわ古そうな木造の家には、今年で80歳になるジョン・ボーナムは一人で住んでいた。白塗りの壁は所々穴が開き、応急的に板が乱雑に釘で打ち付けられている。ジョン・ボーナムはここのデッキで、椅子に座り、ぼんやりと外を眺めていた。家の中で電話のベルが鳴る。大儀そうに立ち上がると、やせこけたその身体は自分の体重を支えるのもつらそうで、長い年月が彼の背中は丸くし、手も前にぶら下がるようになった。歩くときはバランスをとるために、手を後ろへ回し、ペンギンのように小刻みに歩いた。あまりに時間がかかったので、電話のベルは、もう少しのところで鳴りやんだ。

「やれやれ、また診療所の看護婦からかな?どうせ、生きているかどうかの確認だろう。」

そう独り言を言っている所に、また電話のベルが鳴り出した。

ジョン・ボーナムは受話器をとった。

「もしもし...」

聞き覚えのある看護婦の声ではなかった。

「私、この地区を担当している保健婦ですが、インフルエンザ予防注射の案内が届いていると思いますが、ご準備はよろしいでしょうか?」

何か一方的な話しぶりに、少し反感を持ったが、そこは久しぶりに聞く、若い女性の声だったので、つい話に合わせてしまった。

「いや、案内は届いていないけど、予防注射をするのかい?」

「はい、ジョン・ボーナム様は先日、診療所に来られなかったので、よろしければこれから家におじゃまして、予防注射をしたいと思います。」

「ああ、ワシはかまわないよ。」

短い話だったが、疲れたようだ。よろよろとソファーに戻り、座り込むと寝息を立てて深い眠りについた。

何時間経ったのだろう。目を開けると、夕日が窓から差し込んでいる。散らかった部屋がこの世とは思われないくらいすべての物が赤く染まっていた。

「やれやれ、いつまでこんな生活が続くのだろう。こんな身体じゃあ、家の中を歩くだけでも息切れがするわい.いっそのことこの世からお別れしたいものだ。」

人にはモゴモゴとしか聞こえないようなか細い声しかでなかった.きょうも1日の半分以上寝ているが疲れがとれないようだ.目の前にある古いテレビでは若いアナウンサーが今日の出来事を早口で話している.この状況ではたとえ宇宙から怪物がやってきても興味がわきそうになかった.もう一度、老人は目を閉じた.

 

**

 

 次の信号を曲がれば、目的の家である。脇道から、急に自転車に乗った子どもが飛び出してきた。大きなタイヤのこすれる音が響き渡った。リンダ・ホイルが運転するSUVはその直前で停止した。子どもは何事も無かったように通りすぎていった。しかし、勢いで彼女のバッグはシートから車内の床へ落ちてしまった。

「大変!」

あわててバッグの中のアンプルを確認すると、ガラスが割れて中から茶色の液体がアンプルの回りに付着している。リンダ・ホイルはあわててで、アンプルの口をテープで蓋をした。

「もう少しで、あの家に着けるというのに、どうしましょう。でもこれくらいあれば量は足りるかしら?」

夕日に照らされた家の前に黒い車が止まる。リンダ・ホイルは白衣に着替え、家の中へと消えた。

「こんにちは。さっき電話をした保健婦ですが、ジョン・ボーナムさんはいらっしゃいますか?」

奥の方でかすれて弱々しい老人の声が聞こえた。

「ここにはジョン・ボーナム以外は住んでいないよ。」

老人らしいひねくれた返事だった。

「すみません。私、この地区は初めてですので、お顔を知らなくてごめんなさいね。保健婦のウィルソンと言います。」

リンダ・ホイルは嘘を言った。

「さあ、それじゃ、インフルエンザの予防注射をしますね。」

声の明るさが、不自然だったが、この男には医療に勤める人の習性だと思っていた。

リンダはバックから、先が破損しているアンプルを取り出し、男に見えないように、注射器に詰めた。

終始笑顔を見せながら、男の腕にそれは注射された。男は一瞬、痛そうな顔をしたが、やがて元のぼんやりとした顔つきに戻った。

1週間後にまた様子を伺いますね。」

予防注射の後に様子をうかがいに来ることなんて考えられないが、男には、そんなことを考える能力はなかった。ただ、予定が出来て、良い暇つぶしだと思っただけだった。

 

*  *  *

 

 オレンジのヒト型の物体は、徐々に形を際だたせていった。いまや背丈は3メートル以上の大きさになり、周囲に吸着された有機体は、人の肌のようにも見える物質に変化していた。そしてまるで人間のように歩き出した。

ドロドロとしたまるで溶けかかったアイスクリームのような物体から、はっきりとした人間のようなモノになった.いやそれは人間そっくりの形であった.大きさが5mあることを除いて.その大きな人間は、通りにぶつかると、周りを見渡した.目は赤く光り、ネコのようだった.暗いところでもよく見えるようだ.肌は灰色で滑らかな感じに鈍く光っていた.髪はなく、その顔つきは無表情で、冷酷な感じがした.建物の影に隠れると、一人の若い女が歩いて、こちらにやってくる.夜も遅くなるとここベルプレイン通り(テキサス州)は寂しくなる.その女は、携帯電話に夢中のようだった.大きな声で嬌声を上げながら、ゆっくりと大男の方へ近づいていった.周りは暗く、大男の体は建物の色にとけ込んでいた.やがて街灯に照らされた灰色の大きな足に気がつくと、ゆっくりと頭を持ち上げた.大男の赤く光る目を見ると同時に、叫びとも悲鳴ともわからないような「あっ!」と短い声を上げて、今歩いてきた方へ急いで引き返した.

 女は懸命に走っているが、足が気持ちに追いつかない.「はあ、はあ.」後ろを見たら、追いつかれそうな気がして振り向くことも出来ない.ようやく次のビルの角で曲がって一息つくことにした.息が切れる.足も痛んできた.手を膝について下を向いてやっと呼吸している感じだ.ふと周りが暗くなったような気がした.恐怖でアドレナリンが大量に女の血液の中にあふれた.動悸がする.胸が苦しい.そう思ったとたん気が遠くなり、その場に座り込んだ.薄れていく意識の中で、大男の手が首に触るのを感じた.「さあ、これで楽になるだろう.」女の頭の中で誰かがしゃべった.黒いベールが目の前にかかり、女は灰色の男に押しつぶされているように見えた.そして暗闇.

 

*  *  *

 

 「ほう、これはどうしたことだろう.」ジョン・ボーナムはうれしそうに歩いていた.「こいつは驚いた.膝も腰も全然痛く無いじゃないか.今までは玄関の階段を上るのでさえ、膝がきしんでいたのになあ.これなら杖もいらないくらいだ.」傍らの車いすを部屋の隅へ押しやると、どっかとソファーに座り、若い頃のようにテーブルに足をのせて、テレビを見る.手には、赤ワインの瓶を握っている.つい最近まで、好きな酒も年のせいか、味が薄いし、アルコールのにおいばかりが鼻につく.ところが、あのインフルエンザの予防注射を打ってから、酒に酔わなくなったようだ.酔わないというより、酒に強くなっている.気持ちよく酔えるのだ.若返った気がして、鏡を見る回数が増えた.しかし、残念ながら、顔のしわの数は減らなかった.鏡の中にはいつもと同じ見覚えのある顔だ.「これで、顔も若返ったならば、死んだばあさんには悪いが、街に出かけて若い子とあそびたくなりそうだ.なんだかじっとしているのが惜しいほど、体に力がみなぎっている.近所のマイクに尋ねてオレの体の調子の良いことを見せつけてやろう.きっと、たまげるぞ.」

 ジョンの家からマイクの家までアメリカのことだから、近所と言っても優に4kmは離れている.若い時だったら、納屋にあるトラックをすっ飛ばして行くところだが、目が悪くなり、運転は控えていた.だから、マイクが尋ねてくるのを待つしかなかった.しかし、今のジョンは昔のジョンとは違った.なんだか4kmくらいは歩けそうな気がしたのである.まあ、やってみようと考えた.舗装されていない道を歩くのは、気を抜いたら足をくじきそうである.膝も痛むような気がした.それでもジョンは歩き続けた.思っていたより膝も腰も痛くならなかった.次の丘を超えたらマイクの家が見えるはずだ.そう思ったら、ジョンはいつの間にか、かけ出していた.そう、若い頃のように息を弾ませながら、しっかりとした足取りで、一気に丘を駆け上った.

 家のベランダに置かれた椅子にマイクが腰掛けているのが見えた.そのまま走って、マイクの家の前へと滑り込んだ.マイクはジョンだとはわからずに、「はあ、どなたさんだい?こんなとしよりのところに用があると言ったら、役所くらいかのう.まさか近所のジョンはこんなに元気じゃないはずだしなあ.」

 そう言いながら、息の上がっている男をじっと見た.「ジョンに似ているが、ジョンのはずはない.あいつはもう歩けないくらいよぼよぼだからなあ.」

 「おいおい、マイク、よぼよぼとはひどいな.おれだよ.幼なじみのジョンだよ.」

 マイクはびっくりして椅子から転げそうになった.顔は変わらないが、背筋が伸びているせいで、マイクが知っているジョンよりとても大きく見えたのである.いや、実際にジョンは大きくなっていた.家に入ろうとしたら、頭を入り口の上にぶつけてしまったのである.

 「マイク、家が小さくなっていないか?」ジョンは言った.

 

*  *  *

 

 夜の研究所は、普通の会社とは違って、人が多い.しかし、夜の3時ともなればさすがにほとんど人影はない.研究所は4つの棟が四角に並び、中央には円形のプールがあり、そこは夜でも街灯が光っていた.リンダは、今日の研究を終えて、このまま研究所に泊まろうか自宅に帰ろうか迷っていた.明日は研究の合間なので、その気になれば休んでも問題はないのである.リンダの部屋は、北棟の2階にある.実験室のある東棟からは歩くと5分くらいである.リンダは眠い目をこすりながら、北棟へ向かった.渡り廊下を通るときにふと空を見た.新月で外は真っ暗だったが、星がきれいに見えた.

「とても静かな夜ね.」

ふと見た円形のプールが街灯に照らされて青く浮かび上がっていた.しかし、今夜はいつもと違ってすっきりとした色には思えなかった.

「疲れたのかしら?早く部屋にもどって休まないと.」

部屋に着くと、カーテンが動いているのに気がついた.窓が開いていると思って、鍵をかけようとカーテンを開けた.そこには灰色の大きな顔があった.あまりに驚いたリンダは声を出すことさえも出来ずに後ずさりをする.人間の顔ではなかった.その大きさは1m以上、赤い目はしっかりとこちらを見ている.ここは2階なのだ.リンダは気がついた.何という大きさなのだろう.その怪物は手を伸ばして、窓を破った.大きな音とガラスの割れる破片が、リンダを現実に戻した.素早く振り向くと部屋のドアに向かって走り出した.怪物は体の半分以上が部屋に入り込んでいた.リンダを捕まえようと大きく腕を伸ばす.リンダは腰が抜けて動けない.這ってドアへ向かう.怪物は部屋に入れても立ち上がることが出来なくて、同じように部屋の中を這ってリンダの方へ向かってくる.ハイハイ競争である.何度も手を伸ばすが、そのたびにかろうじて避けることが出来た.怪物の手が勢い余って、部屋の壁を突き破った.リンダはようやく立ち上がることが出来て、その崩れた壁の穴から脱出することが出来た.

 廊下を走る.走り続けた.怪物が這いながら、それでも速さは人の駆け足くらいである.ガタンガタンとモノが壊れる音がしながら、リンダの後ろから迫ってくる.階段室に着いた.

「このまま階段を下りて、屋外に出ると、怪物にきっと追いつかれるわ.」

裏をかいて上へ向かうことにした.階段で時間を稼いで、何とか建物の南にある駐車場までたどり着くプランを練った.

「アレとの距離は音の様子からすると100mも無いわ.距離をもっと広げるにはやり過ごすしかないわ.」そう思ったリンダは、廊下の突き当たりにある洗面所に駆け込んだ.一番奥の部屋に滑り込み、息を整えた.

ズシン.空気がびりびりとふるえる.廊下と天井の壁を次々と破壊して怪物が近づいてくる.振動と音が最大になった.リンダは震える手を耳に押し当てて耐え続けた.幸運なことにそれは洗面所の前を通り過ぎた.徐々に音が小さくなっていった.突然、振動と音が一瞬静まった.何も聞こえない闇の世界.リンダは心細さで、泣き出しそうになった.3年前まで付き合っていた研究所の副主任と別れてから、ずっと一人である.話し相手は仕事場の同僚だけである.家族はオハイオ州の田舎にいるが、こちらから連絡することはない.副主任とは不倫だったがそれなりに楽しい毎日だったと思い出すことがある.今一番楽しいことは、家で飼っているペルシャ猫の相手と、研究だけである.

 

*  *  *

 ある日、リンダは製薬会社の依頼で精子の遺伝子解析を行っている時に、偶然、人間を不死にする酵素を発見したのだ.もし、依頼とは違う研究をしていることが会社にバレルと、研究費はたちまち引き上げられるのでこの研究は秘密で行わなければならない.製薬会社は精子の優劣を判定して、優れた精子のみを選別して受精させることを目的としていたのだが、リンダは優生であることが何を持って優生なのかもともと疑問を持っていた.人間の近視的な発想から、IQ、顔やスタイル、運動能力、健康などのパラメーターから自由に選べるようになるらしい.生命誕生から神が行ってきた選別を人間が行おうとしているのである.このプロジェクトにはアメリカの政府機関も絡んでいるらしく、100億ドル以上の予算が出ている.

「そういえば、黒いスーツ姿の男が目につくわね.」テクニシャンのケリーが言った.研究者は大抵、ジーンズにT-シャツなのでスーツを着て、髪をきれいにそろえているとかなり目立つ.主任研究員のロバート・プラントはその窓口になっているため、対応にはとても気を遣っているように見えた.常に愛想良く、黒服の男に対して研究の進ちょく状況を報告していた.

途中からジョーンズ所長が加わった.

「大丈夫ですよ.私たちに任せてください.今年中には完成すると考えてもらってかまいません.」

黒服の男は、表情を変えることもなく

「そうですか.よろしくお願いしますよ.」と低い声で話した.

「失礼かもしれないが、私たちの予算を他に流用していると言うことはないだろうね.」

鋭い目がさらに細めてロバート・プラント主任研究員を見た.

「私たちの計画は国が推し進めている最重要課題だからね.だから贅沢な研究費を出しているのであって、それを流用なんてしたら、君が首になるだけでは済まないよ.研究所がつぶれることになるよ.」

「は、はい.もちろんわかっています.情報は逐一そちらへ報告していますから、どうぞご心配なく.」

政府はアメリカをもっと競争力のある国にするために、優生技術の開発が進めている.その最先端技術が精子の選別である.表向きは「この薬を使えば、あなたの精子から最も優秀な精子を選別しますよ.」と耳あたりの良い宣伝でこの薬品を性交後に、パートナーの膣に入れる.そしてその薬品が最も優秀な精子のみを選び、それ以外の精子を不活性化(動けなくする)するのである.しかし、実はその薬品の中に遺伝子を組み換えるウイルスが含まれていて、劣った遺伝子を組み換えてくれるのである.原理だけを聞けば、なるほどと思わせるかもしれないが、短期間での成果しか考慮していないため、遺伝子の変化が人間の進化にどのように影響してきたのか、未だにわかっていないことをすっ飛ばしているのだ.単純に言えば、賢くてハンサムや美人で病気をしない国民が増えるのだろう.

 そんな疑問を持ちながらリンダは研究を続けたが、偶然にラットの遺伝子の中で不老につながる酵素を発見した.正常のラットでもその酵素は少量ながら、オスの体内に持っている.ラットとはいわゆるハツカネズミであり、一般的にオスの方が長生きである.リンダはそのオスにしか存在しない酵素を発見し、濃縮することに成功した.普通のメスは半年から1年ほどの寿命であるが、この酵素で処理されたオスは5年以上も長生きをする.しかし、5年後にはハツカネズミとは思えないほど巨大になり、毛の色は白から茶色へと変化する.徐々に凶暴化し、他のラットに対して攻撃的になっていた.

「ふーん、人間も長生きすると体が大きくなるのかしら.すべての細胞で不死化が起こるのなら、すべての細胞がずっと成長を続けるわけだから、そうかもしれないわ.年を取ると骨が萎縮して小さくなったように見えるけど、場所によってはずっと成長し続けるところもあるわね.たとえば軟骨は萎縮することがないから、常に成長して、老人は鼻や耳や喉が大きくなるのはそのせいだしね.これが、すべての細胞に起こるならば、脳さえも成長し続けることになるわ.」

脳が成長を続けることはいずれ究極の脳が出来上がることになる.線虫の場合、それは目であった.人間の場合は...?

一番最後に発達した場所は、新皮質.そこは人間らしさの要と言える想像力、高度の視力、聴力になった.高度な視力とは映画を見られる能力である.下等な動物では、コマ送りのようにしか見えない.それでは、究極の視力とは...

 

 ジョンはマイクの家を後にしていた.精気のない老人と話してもつまらないだけだった.話題と言えば、病気と年金、そして孫の話である.話に飽きたジョンは、町に買い物をするからと、車を借りることにした.

「まったく、おいらには興味のない話だったな.おいらには子供も孫もいないし、年金なんて心配しても増えるものじゃないからなあ.それに、最近は病気をしなくなったなあ.」

ガシャン

大きな音を立てて、一台のトラックが中央分離帯を乗り上げて、目の前に現れた.

飛び出した子供をよけようとして、中央分離帯を越えてしまったのだ.

一瞬の出来事なのに、ジョンにはとても長く感じられた.いま、 ジョンの車へ向かっているトラックがどんなコースで通過するのか見えるのだ.まるで予言者が未来を見るように.このままハンドルでトラックを避けないでブレーキだけ踏めばいいことがわかった.ジョンは余裕を持って、そのように実行し、何事もなくそこを通り過ぎた.

「ふー、驚いたね.でも、未来が見えるなんておいらの目はどうかしちゃったのかな?まあ、見えない訳じゃないから、眼科で見てもらうこともないかな.」

ジョンのおんぼろ車をビュンビュンとたくさんの車が追い越していく.しかし、それが急にゆっくり走り出した.いや車は時速80km以上で走っているのだが、ジョンの目にはゆっくり映るのだ.さらに、影のようにその車がこれから進む方向が見えるのだ.方向指示器をあげる前から、その車の曲がる方向がわかり、車が止まる前から、止まる位置が見える.変な感じだった.ジョンはその人の心で思っていることがわかるわけではないが、どのように動くのかが見えるのだ.

 やがて目の前に小さなドライブインが見えた.デニーズの食堂と書いてある.最近、ジョンは無性に腹が減るのである.目の前のドアをゆっくりと開けるとギーと大きな音がした.一斉にこちらを見る客たち.ジョンは少しも臆することなく、カウンターに向かった.一つ小さな咳をすると店員がやってきた.「へい、旦那、何にする?」

 「そうだな、ステーキとキャベツのチリソース炒め.すべて大盛りで頼む.」

 「飲み物は何にするかい?」

 「じゃあ、ポートワインだ.」

 食事が運ばれてくるやいなや、ジョンは空腹をやっつけるために、味わうのも惜しんでひたすら口へ運んだ.ようやく空腹が収まったのは、追加の鳥のもも肉を平らげた頃である.

 「へへへ、旦那、よほどお腹がすいていたようだね.」

 「ああ、そのようだな.あと、この店のおすすめはあるかい.」

 「おすすめはあるけど、見たところ旦那は初めての客だし、ちょっと先払いしてもらえないかな?今までのの食事分でも50ドルは超えているぜ.」

 「じゃあ、今日はこれで帰るよ.」

 「へい毎度あり.全部で52ドルになるよ.でもまあ初めての客は大事にしないと..な.50ドルにしておくよ.」

 「悪いな.持ち合わせがないんだ.付けにしておいてくれ.」

 「旦那、ここは初めてだろ.付けは効かないよ.」

 「おい!」店員が少し語気を強めた.

 「黙っていないで、金を払いな.」

 ジョンは其れには答えず、店から出ようとした.店員がどこかへ電話をしている.「もしもし、保安官事務所ですか?ええ...無銭飲食をした野郎がいるんですが....はい....よろしくお願いします.」

 店員はジョンの前に立ちはだかり、肩をつかんだ.「もうすぐ、保安官が来るぞ.おとなしく代金を払うか、それとも豚箱にはいるか、自分で決めな.」

 「だから付けにしろと頼んでいるだろう.」ジョンは店員の手を払いのけた.

 店員は相手が老人だと思い、見くびっていた.ジョンは店員のあごに軽く一発お見舞いした.店員は勢いで後ろへ倒れそうになる.店員はみるみる顔を赤くして、殴りかかってきた.店員の背はジョンと同じくらい、体重も同じだ.違うのは、年齢が30代ということである.しかし、今のジョンには振りかざした店員の拳が影となってゆっくりと向かうのが見える.少し、右へ体をずらすと店員は勢い余って、ジョンの後ろへと飛んでいった.店の中の56人の客たちは、ワイワイ騒ぎ出し、おもしろいとばかりジョンと店員を取り囲んだ.ますます店員はエキサイトし、近くにあったシャベルを手にした.そして、ジョンの頭に向かってシャベルを振り上げた.振り下ろされる時、誰もがジョンの無惨な姿を想像した.額から血を流して、地面にゆっくりと倒れる老人.しかし、ジョンは振り下ろされたシャベルを楽々と避け、店員の左耳のあたりにカウンターの一撃を加えた.よろめいた店員は思わずシャベルを手放した.ジョンはそれを取り上げると、反対に店員に向かってシャベルを振り下ろそうとした.

 バーン.大きな音が店の中に響き渡る.

 銃声であった.火薬のにおいが店内に広がった.

 「よーし、そこまでだ.おい、おまえ、そのシャベルを捨てろ.おとなしくしないと、今度は空砲じゃすまないぞ.」小太りの保安官と助手がそこにいた.助手がジョンの方にやってきて、シャベルを取り上げる.ジョンは驚いた顔を見せおとなしくなった.しかし、おとなしかったのもそこまでだった.出入り口は保安官がいるから、使えない.ジョンは従業員の出入り口に向かって走り出した.後ろで大声がする.「止まれ、止まらないと...撃つ.」と言うが早いか、保安官はジョンの足に向かって発砲した.はずれた.もう一発撃つ.またはずれる.おかしい.こんなに当たらないのは初めてだ.もう一度ねらいを付けて、撃った.ジョンはすでにそこにはいなかった.

 保安官たちはジョンの後を追って、勝手口から店の裏庭に出た.店の裏はゴミ置き場で、廃車された車や、収集されずに残ったゴミであふれていた.その奥には小さな物置小屋がある.ジョンが走っている気配がないため、どこかに隠れているに違いない.そう考えた助手と保安官は慎重にその納屋に拳銃を構えながら近づいていった.表の戸は閉まらずに、風に吹かれてがたがたと振動していた.中へはいる.窓からの日差しだけではほとんど室内の様子はわからない.

 「おい、車からライトをもってこい.」保安官が助手に向かっていった.保安官は一旦納屋の外に出た.納屋の出入り口は一つしかない.地面には入り口には足跡は一つしかなく、出て行った足跡はない.「やつは必ず、ここに隠れているはずだ.きっと捕まえてやる.」普段の運動不足があるのかもしれない.この小太りの保安官は息がまだ整わず、ハンカチで顔を拭いていた.

 その時、遠くで何かが倒れる音がした.助手がライトを手にして戻ってきた.急いで納屋の中へと入る.ライトを照らすと果たしてジョンが床に倒れていた.ライトでその顔を照らすと顔は死んでいるかのように白かった.「こいつ、こんなに大男だったか?」保安官が言った.

 

 * *

 

 ズシン、ズシン.一旦小さくなりかけた音が、また大きくなり始めた.「こちらへ、引き返している.」リンダは自分の心臓が高鳴るのがわかった.緊張を恐怖によるアドレナリンが分泌されはじめた.怪物はリンダの隠れている婦人用洗面室の入り口を破壊しはじめた.グシャ!入り口に一番近い個室が壊された.ジャー!水道水の噴き出す音がする.そして次の個室.そして次...ガシャン!最後の個室も怪物のハンマーのような腕で壊された.あふれ出した水道水で床はすっかりぬれていた.

 ドキドキ...

 リンダは隣の個室が壊された時に覚悟を決めた.どうせたたきつぶされて殺されるのなら、出て行って怪物の隙をねらって逃げようと思ったのだ.そして飛び出そうとした瞬間に、またあたりが静かになった.ズシン!.ズシン..ズシン...やがて怪物の音が小さくなっていった.そいつの腐ったようなにおいを残して.そう、リンダが隠れたのは、一番奥の掃除用具置きのロッカーだったのだ.まさかこんな小さな部屋に人間がいるとは思わなかったに違いない.

 「ようやく、去ったようね.でも油断が出来ない.私を追いかけるやり方を観察すると、結構高度な知性を持っている気がするわ.」洗面室は怪物に天井を壊されたせいで、蛍光灯が点滅を繰り返し、非常用の緑のライトがリンダの横顔を照らしていた.

 「ここで休んでいる暇は無いわ.深夜とはいえまだ、何人かの研究員が残っているはずよ.早く正面入り口の警備員に知らせて、警察を呼んでもらわなくちゃ.」リンダは切り傷や打ち身で痛む足を引きずりながら、隣の部屋の電話を取った.電話の回線はつながっているようだ.

 直接警察に連絡したいが、研究室の電話は外線にはつながらないのである.何度かけ直しても、警備室は出なかった.

 リーン...リーン.規則正しい電話の呼び出し音が警備室に響いた.しかし、人の気配はない.血が床に流れている.警備員は怪物につぶされていた.その手には拳銃を持ち、硝煙が立ち上っていた.

 リーン...リーン.「おかしいわね.どうしたのかしら?こうなったら、やはり自分で連絡を取るしかないわ.携帯を手に入れるには自室へ戻らないと.」リンダは用心深く、廊下に出ると耳を澄ました.遠くで悲鳴が聞こえたような気がした.リンダは再び恐怖で緊張した.がれきに注意しながら、少しずつ前に進む.足が痛む.骨折したのかもしれない.エドワード研究室.「まあいいわ.ここに何かあるかも.」リンダは打ち破られた壁の穴からその研究室に入った.暗い部屋で何かを探すのは難しい.「非常用の懐中電灯がドアの近くにあるはずだわ.」そう考えて手探りで前に進む.足で柔らかいものを踏んだ気がした.はっとして、手で触れようとすると人が倒れていた.暗くて誰かわからない.体つきから女性のようだった.体が温かい.どうやら死んではいないようだ.

 「ちょっと、起きて、目を覚ましてちょうだい.」リンダはその女の体を揺すった.そのとき再び怪物の動きが止まり、静寂が訪れた.リンダは気がついた.もしかしたら怪物は、音を探っているのだと.そしてその音を聴く能力は極めて高いと言うことが.

 再び、建物を震わせる音が近づいてくる.リンダはとっさに机の上にある電話機を取り、どこかへ電話をする.リーン...リーン...遠くの方で電話の呼び出し音が鳴る.怪物はその電話が鳴り続けている部屋に向かって方向を変えた.ガシャン、メリメリ...部屋のドアが壊される音がした.リンダは受話器をあげたまま、部屋の中を探しようやく目当てのガムテープを見つけた.それで足首を固定するためだ.立ち上がって、歩いてみた.何とか痛みは我慢できるようになった.怪物が気を取られている間にと思って部屋の外に出ようとした.そのとき、呼び出し音が止まってしまった.怪物に壊されたようだ.あたりに再び静寂が訪れた.リンダはもう一度さっきとは別の部屋に電話をかけた.再び呼び出し音が響き渡る.それに合わせて怪物の動き出す音が聞こえた.

リンダは思わず笑いそうになり、口を押さえた.「バカなモンスターね.」心の中でささやいた.怪物が架空の獲物を求めて暴れている間に、リンダは廊下へ飛び出し、階段室へと向かった.ここの階段室は吹きさらしである.リンダは外の空気を吸い、少し開放された気分になった.駐車場まであと100m

 

 

***

 

 薄暗い部屋で、目を覚ます.頭がぼんやりしている.はっきりと目が見えてきた.白い天井が見える.しかし、体は全く動かない.どうやらベルトのようなモノでベッドに縛られているらしい.ジョンは渾身の力を込めた.しかし、このベルトは外れそうになかった.ふと横を見た.点滴で何か白い液体がジョンの体の中に注がれていた.それ以外にも、体にはいろいろな線がつながれているのに気がついた.壁には出入り口が一つだけである.それ以外には小さな窓があるが、外の景色は見えない.たぶん監視用だろう.少しでもジョンの体が動くたびに、近くにある小さなランプが青から赤に変わる.この部屋で動く物体を検知しているようである.しばらくすると、ガチャンと重そうな音がして厚いドアが開いた.56人ほどの白衣を着た男が入ってきた.ジョンを動物だと思っているように、誰も「ご機嫌いかが?」なんて挨拶をする人はいなかった.ただ、器械の数値を見たり、くくりつけているベルトの点検をしていた.ジョンはふざけた男たちだとは思ったが、自分の置かれた立場も理解できた.「こいつらはおいらのことを実験用のモルモットと思っているらしい.」

一人の男がジョンの近くにやってきた.「不自由な思いをさせて悪いが、もう少しの辛抱だからな.それが済んだら楽にしてあげよう.」その男は心が凍り付くような薄笑いを浮かべた.こうしている間にもジョンの体は変化を続けた.すでにここに来てから、体は10cm以上大きくなり、やがて拘束用のベルトもきつくなってきた.白衣の男が、ジョンのベッドから離れるように伝えた.ブウーン.器械のうなり音が大きくなり、その男が、何かスイッチを押した.突然のショックがジョンを襲った.一瞬で意識が遠くなり、そして深い暗闇へと続いた.次の瞬間に目の前が明るくなった時ジョンは生まれ変わったような気分だった.しかしそれもつかの間、体の自由がきかないことが意識されると、ジョンは現実に戻ったのである.

「やはり、5000ジュールでは効果は無いようです.」

「そうか、次は1万ジュールまで上げてみてくれ.」

「しかし、それでは、組織の一部が壊死するかもしれません.」

「ふん、それも仕方がないだろう.死ななければ良いんだよ.」

「今度、開発されたOPTIMを使ってはみては?ジョーンズ所長.」

「それは良いかもしれないね.とにかく、不死化するのは確認できたが、不死化が止められないのも困るわけだ.彼も実験動物としてはなく、何か意味を持って生まれてきたのだから、人の役に立たなくてはならないのだよ.」

「常に大きく成り続けるというのはどういうことでしょう?所長.」

「植物が生存している限り成長し続けるのと似ているととらえれば、彼は先祖返りしているのかもしれない.テロメアとは植物から動物に変化した時に現れた遺伝子だろう.もしくは子宮内で起こる現象と同じかもしれない.子宮内では動物の成長の99.9%が起こっている.つまり生まれた時はほとんど完成状態に近いといえる.」

突然、アラームが鳴り出した.

「何のアラームだ.」所長がうるさそうに叫ぶ.

「モーションセンサーのようです.」

「何を言っている.部屋には動くものは何もいないぞ.」

研究員たちはぎょっとした.部屋には何もいないのである.いや見えないのかもしれない.

「機械の故障じゃないのか?」

研究員ロバートがふとジョンが寝ているベッドをみた.

「所長、ジョンがいません.」

「そ、そんなはずは...」

研究員が驚いて目をさらにして、部屋をくまなく見た.しかし、白い部屋には何も無いのである.

「おかしいぞ、いないはずがないんだ.」所長の声は引きつっていた.

「ハロセンガスを投入しろ!」

シューという透明なガスが部屋一杯に広がった.いや目には見えないから、広がったはずである.

「ガス濃度をモニターしろ!」

「今のところ、10ppmです.」

「よし、さらに100ppmまで増量だ.」

ガスの注入音以外は観察室からは何も聞こえない.みんな少しの音も聞き逃さないように気をつけている.

「モーションセンサーはどうだ.まだ反応があるか?」

「いえ、今のところありません.」

「目で見えないというのはどういうことだ.」所長は研究所の所員の手前、威厳を保ちたいが不安がそれを押しつぶそうとする.

「プラント君、武装した警備員と一緒に中に入って確かめてくれ.それから、赤外線カメラを持って行った方が良い.」

プラントの心臓は高鳴り、今にも倒れそうな気分だったが、何とか立ち上がり、警備員を2人前に立たせた.開閉スイッチを入れると、重い銀色のドアをゆっくりと開いた.白い部屋の明かりが、観察室の中に広がっていく、一瞬、その明かりが暗くなった気がしたが、誰も気にしなかった.

人間の神経細胞は1秒間に100回が興奮できる限界である.情報はどんなに頑張っても1/100秒おきにしか脳へ送れない.つまり100分の1秒以内に起こることについては、感じることができないのだ.もし、ある物体がそれ以上の周期で振動していたり、動くことが出来れば人間の目で見ることは出来ない.

「おかしいですね.さっきまでモーションセンサーに反応があったのですが...」

手に持てるくらいの大きさの器械を前にかざしながら、プラントはつぶやいた.と同時に、後ろの方でエレベーターのドアが開いた.誰も乗っていないエレベーターがそこにあった.やがて、ドアが閉じると上へと向かった.

「しまった.エレベーターの中に誰かいるぞ.早く上に連絡して、やつを捕まえろ.」所長は叫んだ.

らちがあかないと思ったのか所長は自ら電話を取ると話した.

1階の警備主任を呼べ.私だ.ジョーンズだ.よし...準備してあったあれをエレベーターの中に噴射しろ.中に誰も乗っていないように見えるが、かまわないから空になるまで全部噴射しろ.なに、死んでもかまわん.外に出られて手が付けられなくなるよりはましだ.責任は私が取る.」

 

***

 

 1階のエレベーター前

 20人以上の屈強な男たちが、その周りを取り囲んでいる.一列目には火炎放射器のような筒を持った男たちが腰を低くして待ちかまえている.一番外側にはサブマシンガンを持った男まで準備されていた.

 エレベータのドアが開く.中には何も乗っていなかった.しかし、命令通り一斉に5つの筒の先から白色の...ガスが噴射された.一気に当たりの気温は氷点下まで低下し、エレベータ内は凍り付いた.それでもひるむことなく、噴射し続けた.当たりは真っ白になり、ほんの先の視界も失われてしまった.

 「おい、何か見えるか?」警備主任のハロルドが言った.

 「いや、何も見えません.」噴射を行ったエドワードが答えた.

 「え、ちょっと待ってください.何かが見えます.」

 灰色の2mくらいの固まりが、床に転がっているようだ.よく見ると小刻みに震えている.更に白い霧が晴れるとそれはジョンだった.さっき地下の研究室で見た時よりも、ずいぶん小さくなったように見えた.筋肉隆々の体が今では普通の人間のように見えた.

 「おいおい、これのどこが怪物だって言うんだい.ジョーンズ所長は大げさだなあ.」

 主任のハロルドは安心したのか朗々と話した.

 次にジョンを見たのは、元の地下の拘束室だった.

 「おい、おまえら、俺をモルモットにするのはやめろ.実験動物だってもっと大事にされるぞ.動物愛護団体へ訴えてやる.」

 暴れるジョンをもっと強力な金属の拘束具が縛り付けていた.

 ジョンは裸なので、すべての体の様子が観察室から見ることが出来た.なぜか彼は勃起していた.

「くそっ、こんな目に合わせやがって.おいらはもうだめだ.もう死ぬんだ.その前に子供がほしかった.何も残せずにこの世を去るなんて耐えられない.」

しかし、ジョンにはすでに3人の子供と、8人の孫がいたのである.

 

**

 

 

 駐車場まで後100m...

リンダは走った.普通に走れば20秒もあればたどり着く距離なのに...すでに、足も腰も痛めて思いっきり走れない.それに加えて、恐怖で腰に力が入らないのである.

突然、目の前に黒い影が飛び出した.あっと言うまもなく、リンダは道の脇の芝生へと倒れ込んでしまった.何が起こったのかと、気を取り直してその黒い影を見ると、警備員のジミー・ペイジだった.ペイジは拳銃を上に向かって発射した.その先には、あの大きな怪物がいて、まさにリンダに飛びかかろうとしていた.弾丸は怪物の腹部に当たった.グオーという叫び声を上げて、怪物はお腹を手で押さえた.人間と同じ赤い血が流れていた.しかし、怪物の怒りは激しくなった.今度はページに向かって走り出した.もう一度拳銃を撃った.今度は肩と胸に当たった.しかし、怪物はひるまず、ペイジをその大きな手で横へ吹き飛ばした.ペイジは止めてあった車のフロントガラスに激しくぶつかった.ウッという短い叫びの後、動かなくなった.

 再び怪物はリンダに向かって歩き始めた.リンダは逃げようとするまもなく怪物に捕まった.そして、ショックで気を失ってしまった.

 「ここはどこなの?」リンダは暗闇の中で目を覚ました.怪物はそばにはいないようだ.起き上がって、窓のそばへ行こうと歩き出したとき、何かを踏んだ気がした.「痛い!」女の声がした.よく見ると顔は埃で汚れているが、若い女のようだ.リンダと同じくらい元気そうに見えた.

「あなたは誰なの?」女が聞いた.

「わたしはリンダ、リンダ・ホイルよ.」

「アンドレア・コリンズよ.よろしく.」

「他にも、ここには誰かいるの?」

「いいえ、今のところ私たちだけみたい.」

「わたしがここに連れてこられたときは、もう殺されると思っていたけど、アレがあなたをまた連れてきたのを見たら、殺すつもりはないみたい.とても大事そうに扱っていたわ.暗くて見えなかったけれど、アレはあなたに何かをしていたみたい.」

それを聞いてリンダは思わず身震いがした.急いで体中を調べてみた.すべての体は動くみたいだし、痛いところもない.しかし、下腹部に違和感を感じた.黒のスラックスと下着が無かったのである.

「あなたも下着が脱がされていたの?アンドレア」

「アンでいいわ.そうなのわたしも下着が無くなっていたの.でも、どこにも痛みがないから、アレは何をしたのか心配になるわ.」

よく目をこらすと、下着とスラックスは埃まみれの床に見つけた.それを穿くと再び窓際へ向かった.今は何時くらいだろう.月の傾き方を見ると明け方近くか?あの騒動からまだ1時間しか経過していない.ヤツもすぐそばにいるに違いない.迂闊に外に出ればすぐに見つかるに違いない.

リンダは、窓を音を立てないでゆっくりと開けた.月明かりが、部屋の奥へと差し込む.その光をたどって奥を見ると、崩れかけた壁と全く呈をなしていないドアがあった.アレはここから出入りしているようだ.窓から見るとここは3階だ.目の前に舗装された道路と歩道があるが、穴だらけである.向かいのビルやその隣になる家も明かりは見えない.街灯も付いていない.

「誰か人はいないのかしら.」ここから見渡す景色は、どこまでも暗闇だけだ.不思議なことに虫の声が今夜は聞こえない.

 アレの気配もない.リンダは部屋の中を忙しく歩き回った.やがてカーテンとシーツを見つけると、それを手際よくロープに加工した.窓際に近づくとそれを手すりに結びつけ、下へ垂らした.何とか2階のベランダに届くようだ.アンもそれに続いた.2階から下の歩道へはそのまま降りることが出来た.

 アレは近くにはいないようだ.2人は足音を立てずにそっと向かいのビルの影に隠れた.監禁されていたビルの3階は、所々窓が割れて、外壁も一部が崩れていた.1階は食料品店だったようだが、バリケードのように冷蔵庫や壊れた机やいすが放置してある.

 「北に向かえば、国道に出るみたい.」リンダを先頭にして、足音を立てずに歩いた.2階建ての民家を過ぎると、レストランらしい平屋の建物があり、その入り口が激しく壊れていた.そのまま通り過ぎれば良かったが、リンダは研究者らしく好奇心が恐怖に勝ったようだ.

 「よしましょうよ.こんな所へ入るのは.」アンが強く反対した.

 「ちょっとだけだから、もしかしたら、役に立つものがあるかもしれないから.」とリンダが振り返って説得しようとした.月はずいぶん高いところにある.うっすらとアンの白い服が浮かび上がる.するとアンの青白い顔がかたまった.

 「あれは何?」アンが言う.

 「え」と後ろを振り返るリンダ.

 そこにはアレがいた.顔をこちらに向けて、こちらをじっと見つめていた.

 アレとの間には5mもない.

 リンダは頭が真っ白になった.

 

 エピローグ

 

 「父親になった気分はどうだい.」ブライアンが、助手席に乗っているデニスをからかう.

 「こればっかりはなってみないとわからないぜ.政府が配っているシンデレラという薬を使ったおかげで、とても良い子が生まれたよ.なんと言っても、必ず健康で頭の良い子が生まれるのだから安心だよ.」

 「俺の姉貴もその薬で、確か3人の子どもを生んだけど、確かにみんな優秀でハンサムなんだ.俺たちの頃より、更に洗練されているような気がするけど.」

 「ああ、毎年改良されて新製品が出てくるから、そうなるよな.」

 前方に白い建物が見えてきた.右に緩やかなカーブしている道路の先にあるのが、エド・サリバン産婦人科病院である.車を降りると、ブライアンとデニスは妻のグレースに会いに第3病棟へ向かって歩き始めた.

 50年前のあの2つの事件は国民の記憶からすっかり忘れ去られた.政府もほとんどそのことについては報道しないようにマスコミへ圧力を加えたと言う噂もあった.報じられているのは、インフルエンザワクチンの副作用で、脳に障害を起こした老人が死亡したという話と、ハムステッド研究所でテロがあって、研究職員のリンダ・ホイルが重症を負ったと言う事件である.

 ジョンは拘束されて、体が弱ってしまい、そのまま死んでしまった.地球外の生物も、原因不明だが、体が弱り発見された時には死んでいた.

 リンダとアンはその後軍の病院へ隔離され、詳細な検査を受けた.その結果、地球外生物のDNAが卵子に混じっていたようだが、細胞分裂を起こすには至らなかった.そしてアレのDNAは人間のものによく似ていた.

 政府が開発した遺伝子改善剤はその後大きな副作用が見つかった.遺伝子を最適化して不老不死に近くなると、体が大きくなり、いろいろな特殊能力を発揮しはじめるが、脳がそれについて行けない.やがて大脳の抑制が無くなり、本能で行動するようになる.つまり人間から動物へと逆戻りする.政府はそれを防ぐ方法として、人間に強力なストレスを与え、更にテロメア分解酵素を定期的に注射することで解決した.

 「子どもが健康になって、予防接種をしなくても良くなったのは良いけど、また違う注射をしなくちゃだめだなんて、なんかおかしくないか?」デニスがエレベーターの中でブライアンに話しかけた.

 「それから、強力なストレスが必要だと言うことで、体罰が認められるようになったけれど、これって100年前に戻っていないか?」

 「でも、ストレスを与え続けないと、まずいことになるらしいよ.」

 「まずいことって何だい.」

 「噂では、伸長がどんどん伸びて、暴れ出すらしいよ.反対に体が弱ると、子孫を増やしたくなるらしいねえ.植物でも栄養が良くて自分が成長している時には、実や種を作らないけれど、剪定されたり、幹を縛られると実を付けると言うじゃないか.それと同じみたいだ.」

 「そう言えば、人間にも当てはまるんじゃないかな?親が自分の限界がわかると子どもに期待をかけるからな.」

 「俺も、疲れた時の方がアレが元気だ.」

 

 優生化政策はほとんどの人々には受け入れられたが、それに反対する集団もいくつか見られた.そのサブカルチャーをリリパット(小人)と呼ばれていた.彼らは遺伝子改善剤を拒否し、昔のままの生活を続けた.遺伝子の改良を受けた人たち(オプティマ)とは、外見、体力や知力が劣るため共存は出来ない.そのため都市部の周辺に、居留地区として政府が認めた場所にだけ住むことを許された.オプティマの寿命は理論上は永遠であるが、注射によって抑制され100-120年である.また病気は消滅し、死亡原因の1位は老衰であり、2位は自殺、続いて殺人、事故死だ.時々、定期的な注射を拒否して、巨大化して凶暴になるオプティマが現れ事件になった.

 「地球外でも遺伝子の最適化を行なわれ、逃げ出したやつが地球をめざしたのかもしれないなあ.」とブライアンが独り言のようにつぶやく.

 「1234号室.ここが妻の病室だ.」

 個室の銀色の扉を開けると、顔の整った利口そうな赤ちゃんを抱いた美人の女がいた.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一太郎からの手紙

 

 初めまして。みんなは、オイラのことを全然知らないと思うけど、これからゆっくり説明するから聞いておくれ。つまらないとか、途中で嫌になったら、止めてもいいよ。

 生まれは、今でも昔の風習が色濃く残っている田舎だ。家の周りは一面の田んぼと、ちっちゃな川がぐねぐねとその中を走っている。人は住んでいるのかって?もちろんいるさ。ここいら一帯には、二種類の人間しか住んでいねえ。オイラの一家とそれ以外の一家だ。違うところは、オイラの一家は大人だけじゃなく子供も働いているんだ。とうちゃんは「わが家は税金をたくさん払わなくちゃいけないから、大変なんだ。贅沢するな。節約しろ!」といつも言っていた。オイラの家はたくさん土地を持っているし、それを人に貸したりもしている。土地や家を借りている人が地代を持ってくるけど、それでも金に困っているとその時は信じていたね。

 ある日曜日、休日は農作業か、庭の草むしりがオイラの仕事だ。どうしても休みがほしくて、サボって家の手伝いをしないで部屋にいたら、とうちゃんが怒鳴り声を上げながら、やってきた。オイラは怖くて、ちょうど茶の間にいたばあちゃんの後ろに隠れたけれど、その日は一日中しつこく文句を言われた。かあちゃんはそれを見ていたけれど、一度も助けてくれたことはなかったなあ。唯一、オイラの見方になってくれたのは、ばあちゃんだった。とうちゃんも、ばあちゃんの前ではオイラを痛めつけないから、とても心が安らいだね。かあちゃんはちょっとでもオイラの肩を持つと、とうちゃんから「お前はどっちの味方なんだ。」と叱られ、それ以上何も言えなくなるんだ。もし、ばあちゃんが居なかったら、オイラはロボットのように育って、人に対して感情を持てず、冷酷な政治家(社会的に適応すれば)や犯罪者(適応しなければ)になっていたかも知れない。条件付きでしか、自分は愛されていないと思っていたから、勉強ができて、家の仕事をしないと、この家では大事にされないと思ったよ。だから、認められようと頑張った。従順で成績がよければ、家の長男として、ちやほやされるんだ。簡単に言えば、憎ったらしい馬鹿はいらないってことさ。

 

かあちゃんは、近くの役場に勤めていたんだ。朝食の準備と洗濯がかあちゃんの仕事だ。いつも忙しそうにしている。ある日、オイラのシャツを部屋に脱ぎっぱなしにしておいたら、突然、とんでもなく怒られたことがある。「こんなに行儀の悪い子は、この家の子じゃないよ。」てね。オイラはびっくりして、固まってしまった。こんな風だから、この家では、オイラの感情よりも、効率や秩序が大事だったのさ。オイラにしたら小さなことで叱られるから驚いたんだ。意外なことで大人たちを怒らすから、いつもオイラはストレス満タン。でも、洗濯物は洗濯カゴに入れることにした。まあ、これでオイラも少しは大人になったというわけだ。

 オイラには2歳年下の妹がいたんだ.頭が良くてオイラとカルタをするといつもオイラより速く札を取るんだ.なぜそんなに時も覚えていないのに,札を速くとれるのか聞いたことがあった.絵を見れば分かると言われた.オイラは覚え始めた字でカルタの札を探していたから,妹には追いつけなかったってわけさ.でも,オイラが5歳の時,突然病気で死んじまった.それ以来,家族のオイラに対する態度が変わったんだ.ほしくもないおもちゃをたくさん買ってくれたり,急に大事にされるようになったんだ.でも,それも長くは続かなかったね.その3年後に次の子が生まれたんだ.でもその3年間はとても幸せだったような気がする.でも,次の子が生まれたら前に逆戻りだ.家の仕事を次々とやらされて,遊ぶ暇もなくなったね.でも,家族の一員だから,不平や不満を心の中に持つようなら,オイラが悪いんだと思っていた.いつも自分ばかり責めていたから,親の許可を得ないと何にも出来ない子供になっていたんだ.かあちゃんは,とうちゃんやこの家の不満をオイラにぶつけてくる.機嫌が悪いと,足音がうるさいだけでも怒られた.それ以外の時はオイラの面倒をよく見てくれたけれど,精神的には不安定だから,オイラの心も不安だったよ.次に生まれた妹は,かあちゃんにとっては自分の心を何でも打ち明けられるいい話し相手だったみたいだ.つまり,かあちゃんのかあちゃんてわけさ.

いまでもとうちゃんのまえでは、悪ぶって、仏頂面をして、わざと利己的なことを言ったりするけど、足は震えているんだ。それは、自分の中の、自分がいなくなってしまいそうになるからさ。とうちゃんはオイラが意見を言う度に意志をくじこうとばかりする。それくらいして当然なほど、とうちゃんはオイラとは比べものにならないくらい立派な人なんだろうと思いたいんだ。オイラの頭がおかしくなって、馬鹿なこと口走らないしまわないかぎり、オイラの意見を聞いてくれそうにない雰囲気があったなあ。その頃から、人前でおかしなことを口走ったり、突然精神病者のように暴れ出さないか、自分のことが心配だったよ。

オイラが小学12年の頃かなあ。親戚の家で留守番したことがあったんだ。とにかくオイラはいつもひとりぼっちで、学校から帰っても、親戚に預けられることが多かったね。ところが、そこで親戚の家の留守番も頼まれることになったんだ。詳しいことは良く覚えていないけれど、オイラはその家から100円を盗んだらしい。かあちゃんから「叔母さんから、あんたの家では、泥棒がいるのか?」と言われたと、何度もオイラに叱るのさ。たぶん、とうちゃんからも、こってりと怒られて、農作業小屋に閉じこめられたはずだが、幸運にもあまり覚えていない。お金が欲しかったと言うより、100円札しか見たことの無かったオイラには、100円玉が珍しかったからなんだけどね。

 それから3年くらいしたある日、学校から帰ると、とうちゃんの顔写真が印刷された紙がたくさん家の中に置かれていた。字が書いてあるけれど、よくわからなかったね。オイラは頭が悪くて、まだ漢字が読めないんだ。ただ今勉強中ってわけだ。実際、学校で教科書を読むのは大嫌いだが、漫画は大好きだから、それを読んで字の勉強だ。だから普段使わない漢字ばかりが得意になって困る。教科書もふりがなをふってくれるとありがたいねぇ。おっと、家の中の謎のチラシの話を忘れていた。そのチラシは選挙ポスターと言うらしい。とうちゃんが村会議員に立候補したんだ。近所の人たちがこれから忙しくなるから大変だぞとオイラの顔を見るたび、話すんだ。これ以上、毎日忙しくなるかと思ったら、憂鬱になったよ。早く隠居したいなんて、子供ながらに思ったね。でも、あと50年くらい先かと思ったら、あまりに遠くて考えるのをやめてしまったけどね。

 しばらくしたら、近所で同姓の人が立候補した。名前が違うから、大丈夫じゃないかとオイラは思ったけれど、投票で姓しか書かない人もいるから、票が損すると大騒ぎになった。ついに、同姓の立候補者の所へ押しかけて、やめるように話してきたらしい。ついに、その人は立候補をあきらめたから、めでたしめでたしてわけさ。選挙が始まったら、オイラの家は正月のように賑やかだったな。朝起きると、台所には知らない人が、朝食を作っている。正確にはオイラの朝食ではなくて、他の人の朝食みたいだ。煮物とおにぎりがずらりと数え切れないくらい並んでいる。それを見ているだけで、オイラのお腹はもう一杯。「いっちゃん、好きなのを選んで食べてきね。」近所のおばちゃんがなんだかうれしそうにオイラに話しかけてきた。できたての温かいおにぎりを一個だけもらって、ごちそうの並んだテーブルの片隅でいただいた。

 一週間後、とうちゃんは当選したが、その後は意外なことに、家の中がとても落ち着いたんだ。とうちゃんが議員の仕事で忙しくて、オイラのことをこき使うことが無くなったんだ。おかげで、日曜日はのんびりできるってわけだ。でも、たまにとうちゃんが家にいると、朝早くたたき起こされる。仕事は無いけれど、オイラがのんびり寝ているのが気に入らないらしい。オイラもなんでこんなに毎日眠いのかわからないけど、きっとそんな年齢なんだろうね。じいちゃんは寝られないと言っている。選挙の時に、友達の家に泊めてもらったことがあるけど、あいつの家の夕食はおいしかったなぁ。あいつの家にずっと住んでいたら、オイラもきっと太るんじゃないかな。

 楽しくてのんびりした生活も、やがて終わってしまった。とうちゃんが村会議員を辞めたんだ。なんでもじいちゃんに家の仕事をするように言われたらしい。この家の仕事をすると、知事より給料がもらえるぞ、と説得されたのが決定打だったらしいよ。とうちゃんは短気だから、なかなか仕事が続かない。取引先をよくけんかをして帰ってきた。帰ってくると決まって「家の戸締まりをしっかりしておけ。けんか相手が押し込んでくるかも知れないからな。」なんてオイラや女たちをおどかすってわけだ。女子供には威張るけど、本当は怖かったに違いない。けんかばかりしているから、普通の仕事は出来ない。それで、じいちゃんが見かねて、村会議員にしたってわけさ。これなら、評判も上がるし、はくもつくってもんさ。

 とうちゃんが議員を辞めて、家でぶらぶらするようになった頃、オイラは家を出たから、大変な目には合わなかったけれど、たまに家に帰ると、やっぱり朝早く「いつまで寝ているんだ!」なんて怒鳴られた。しかめっ面がとうちゃんのふつうの顔だ。オイラを見て笑っていたことなんて滅多にない。ニコニコしているのは金がたんまりと入ったときか、他人から褒められたときだ。笑顔をオイラに見せるのは損だと思っているのかも知れない。それでも他人にはいい顔を見せたいから、無理にいい人を演じているんだ。だけど、そいつは長く続かない。とっても疲れるらしい。

 

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 そうそう、家の周りの景色を紹介しよう。昔は舗装した道なんて、駅前だけだった。ここら辺はどこもでこぼこ道と、田んぼだらけだ。それから、家の前には巾が5mくらいの汚い川が流れていた。上流には、染色工場があって、毎日いろんな色に染まるんだ。日曜日は会社が休みだから、水は澄んできたけど、いろんなものが捨てられているのがよく見える。川底は真っ黒で、所々油が浮いている。オイラは何度か、ここに落っこちたことがあったけれど、もう死ぬかと思ったね。立ち上がっても、ドンドン身体が沈んでいくんだ。近所の人に助けられなかったら、今頃はオイラは泥の下で化石になっていたかも知れないな。魚もいないし、子供ながらに、ここには毒が流れている気がした。それでも、オイラが生まれた頃は、ここで水をくんでいたらしいから、きれいだったのだろう。文明が進歩したら上品な生活が出来るのかと思っていたら、野蛮なこともたくさんあるみたいだ。それでも、見渡す限りの沼地と田んぼと、空気はきれいだった。遠くにくっきりとした山の稜線が見える。それをよおく見ると、一本一本の木が生えてるのがわかるんだ。それくらい空気が澄んでいる。30分に一回くらい、バスが凸凹の道路を右に左へと揺らされて、まるで大きな動物のように走っているんだ。道の脇にはたくさんの人が歩いている。若い男の子が急用があるのか小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。ちょうど同じ道を、きちんとした髪で服装で大きな風呂敷に何かを一杯に詰めて担いでいる男がいた。男は下を向いて歩いているから、前から来る小さな男の子とぶつかりそうになった。男はちょっと驚いたようだがすぐに重い荷物を背負い直して、下を向いて歩き始めた。オイラはそんなゆっくりとした風景が好きで、何時間も眺めていたんだ。オイラがいつも座っていた所は、石で出来た橋の階段なんだ。その後ろには屋根のある門があって、雨の日はそこへ引っ込んで、通りを見ていた。小学校へ上がる前だったかな?いや小学校1年生だったかも知れない。石段で滑って転んでしまい、頭を階段にぶつけて、大けがをしたんだ。普段から頭が大きい、大きいと言われていたから、バランスが悪かったんだと思うよ。その後は良く覚えていないから、意識がもうろうとしていたんじゃないかな?気がついたら頭に包帯を巻かれていた。何となく格好が良い気がして、小学校へ行くのが楽しかった。普段、話したことの無いようなヤツでも「大丈夫?」と心配そうに聞いてくるんだ。でも2日くらいで包帯がとれたら、学校での注目度は下がっちまったな。

 別の川の話もしよう。家の後ろにも川があったな。この川は細いから、工業排水なんて用途には適さなかったと思うよ。だから、まあまあきれいだった。なんでそれ程きれいじゃないわけは、生活排水はあるんだ。ご飯の米粒が、底に沈んでいるのがよく見えた。フナやメダカが集まってそいつを食っている。小さな魚をねらってアメリカザリガニもやってきたな。黒いからわかりにくいけど、そいつらはゆっくりやってくるんだ。魚たちも全く気がつかない。そして、鋭い一撃!ハズレ!魚たちははじけるように離れていった。

 話は戻るけれど、かあちゃんがオイラを産んだとき、産休は取らないで働いていたんだ。おかげで、オイラはお乳がもらえない。だから近所の女の人が乳母になった。こんなことを頼むにはお金を払うか、なにかしらオイラの家に恩義のある人だろうと思うよ。その人のおかげで、オイラはすくすくと育って、1年後にはまん丸に太っていたわけさ。ところが、健康優良児だったオイラは、離乳食になってからげっそり痩せてしまったんだ。でも、骨格はできあがっていたから、いまでも体格はしっかりしているらしい。その後もかあちゃんは働いていたから、オイラはばあちゃんに育てられた。だから、かあちゃんはオイラのことを自分の子じゃないみたいだなんて言うんだ。寂しかったね。

何度も言うけど、金持ちの家なのに、食事は質素だったね。朝は味噌汁とご飯だけ。夜はおかずが一品と味噌汁とご飯だ。農家だから、米はたくさんある。つまり、ご飯のおかわりはできるけれど、おかずのおかわわりはなし!おかずは近所の魚屋で煮魚の仕出しを取るから、もう無いって言うこと。食費は掛かるし、オイラには栄養は足らない。おかげで給食がおいしくてたまらなかった。給食が嫌いなんて言う子の気が知れなかった。だから、学校を休んだヤツのおかずをもらっていた。

 それから、オイラの家には変なしきたりがあって、「食事中は水を飲まないで、食べ終わってから飲むこと。」えーと、それから、「脇を閉めて茶碗を持つこと。食事中は立たないこと。」それ以外にもたくさんあったけれど、覚えられなくてよく叱られた。だから、食事中は気が抜けない。それ程好きでもないメニューだと、食べるのが大変なんだ。隣では、じいさんがご飯に牛乳をかけて食べている。牛乳の臭いで気持ち悪くなるけれど、ぐっと我慢して早く食べないと、また注意される。唯一の楽しみはふりかけだ。オイラはすき焼きふりかけが大好きだったけれど、高価だから贅沢するなと言われて、いつも遠足の友というあまりおいしくないふりかけだった。それでもオイラにはおかずがないから、仕方がない。

 オイラには妹が2人いるけど、オイラとは違ってできが良いから、両親には気に入られていたね。特にとうちゃんは妹たちがかわいいからといって、家の手伝いはさせなかったね。それに比べるとオイラとの関係はまるで主従関係さ。親に従わせることばかりだ。甘えは許されない。子供の時にはそいつに気がつかないで叱られる度に、「オイラは怠け者だ。」と自分ばかり責めていたよ。

 かあちゃんの実家は牧師をやっている。だから厳しい。特に祖父は学校の教頭もしていたから、オイラの家と変わらないくらい口やかましいんだ。そんな家風だと、おじやおばたちも結構神経質でね、ここでもオイラは色々と注意をされたものさ。でもそれを叱るときはいつも「こんな行儀の悪い子は見たことがない。」とか、「どういう躾をされている。」とかそんな言い方が多かったな。こちらの家族は何でも完璧にやろうとする。それができる間は良いけれど、いつかは親の理想から離れていくから、祖父の前とそうじゃ無い時ではリラックス具合が違うんだね。長男であるおじさんは祖父の期待が一番強いから、大変そうだった。オイラから見たら一番優しそうだったけれど。親の期待と従順になることをしつけられ続け、それに耐えきれず、アルコールに依存してしまったよ。オイラにはよくわかるなあ。幼少時に、自分にされたいやなことを他人にする人もいるけれど、おじさんは優しいから、自分の身体をいじめってしまったように思うね。

 とうちゃんはじいちゃんから、長男として、資産を減らさないで、家を継ぐことを厳しく言い聞かされてきたから、人が自由にやっているのを見ると腹がたってしょうがない。「あれしちゃだめ、コレしちゃ駄目。」でがんじがらめの教育を受けたから、教えられたこと以外はとんとわからない。つまり空気が読めないってヤツさ。オイラの従兄弟は山登りが大好きで、今度、アメリカの山に登れるって喜んでいたのに、「長男はそんな危険なことをしてはだめだ。」と抗議をしに行ったよ。もう一人の従兄弟は飛行機が大好きで、中古のセスナを買って楽しんでいたんだ。でも、親父はその親戚にも抗議をしに行ったね。「飛行機には長男は乗るな(正確に言えば、操縦するなだ)」。オイラの場合は、もっと強烈だったよ。職場に乗り込んで社長に、「長男だから、いつかはここを辞めさせてもらう。」と言いに行ったね。おかげでオイラはちっちゃな会社に左遷されちゃったよ。その時はオイラのことを思っているからとそんなことをしたんだ、と我慢したよ。そうそうこんなこともあったなあ。しつこく家業を手伝えと言うから、会社に辞表を出したことがあるんだ。そうしたら、親父はなんて言ったと思う?「そこまではしなくても良い。」て言うんだ。その冗談はおもしろくなかったね。それで仕方なく、社長に辞表を取り下げてもらうように頼んだけれど、さんざん嫌みを言われたよ。「きみは働かなくても食っていけるそうだが、うらやましいね。それだから、ここじゃあまり一生懸命働いてないだろう?」てさ。学生時代には、親に認めてもらおうと一生懸命勉強したら、とうちゃんから「勉強だけできても専門バカだ。」といわれた。その頃からオイラは精神的におかしくなって、たぶん今思えば、神経症だと思う。生きているのが嫌になったんだね。かといって、死ぬのも怖いから、宙ぶらりんの状態さ。いつ死んでも良いと思っていたから、行動が投げやりで、遂に大きな自動車事故を起こしてしまった。事故後、オイラの身体は治ったけれど、神経症はそのままだったよ。

 親戚たちをよく見ると、親の犠牲になっている人たちはオイラだけじゃない。おじさんや叔母さんたちの結婚相手は、たいてい朗らかな人を選んでいるね。オイラはその相手に何度か会ったことがあるけれど、つまり年下のオイラからしても、明るくて話しやすいのさ。どういったらいいのかな...オイラの知っている大人にはいないねえ。なんか肩の力を抜いて話せる感じだ。残念ながら、かあちゃんと結婚した人はそうじゃなかった。だからオイラにしたら、二人を相手にするから大変だったよ。かあちゃんもオイラが、強情を張ると、怒って叩くんだ。それも必ず「あんたが悪いから、ぶつんだ。」と言うね。その時はオイラも自分が悪いから叩かれても仕方がないと思っていた。かあちゃんも自分が子供の時に叩かれたらしいね。だから、すぐに手が出てしまうのを押さえられず、折檻を正当化しようとしたのかもしれないなあ。

 子供って、乳児のころには素直で、優しいし、公平だ。その後、大人が教育やしつけと言って、犬みたいに従順にしようと、厳しくするから歪んでしまうんだ。歪んでも親も本人も気がつかない。気がつくのは子供の精神がおかしくなったり、犯罪を起こしたときくらいかな?まあ、そんな親はきっと祖父や祖母からきびしく育てられたから、繰り返しだと思う。同じ被害者かも知れない。

 子供が夜更かししても、親が酒を飲んで機嫌が良いときは怒らない。なのに、夕方家に帰るのが30分遅れたぐらいで、すごく怒るのは、愛情で子供を叱っているんじゃないね。第一、怒るほどのことじゃないしね。オイラがその場にいないときのとうちゃんの叱り方って知っているかい?オイラの作ったプラモデルを木っ端みじんにするんだ。家に帰ってきてびっくりさ。そういえば、オイラが県外に住んでいたときには、叱りたいけどオイラと連絡が取れないからと、「ソフキトク」と電報を打ってきたこともあるなあ。だまして呼び寄せてから叱るつもりだろうね。目的達成のためには手段を選ばないってやつさ。こういう人は戦争ではヒーローになれるだろうけど、今は平和だから残念だと思うよ。正直に、「こんなことしたら駄目だ」と電報を打ってくれた方が、オイラとしては良かったね。働くようになったら、オイラも少しは言い返せるようになった。ある晩、ちょっとしたことで、恥ずかしいけどけんかの原因はたいてい金のことなんだ、その時は税金関係だったかな、とうちゃんと口げんかになったんだ。でも、今度は包丁を持ち出してきたから、これもびっくりしたね。まあ、とうちゃんは本気じゃないと思うけど、オイラを脅かすには十分だったよ。それで、しばらく家出したってわけさ。それで、オイラを飼い慣らすのに、家の財産をエサにしていたなあ。でも、家が傾いた途端、オイラの給料を当てにしたり、恩着せがましく財産相続の話をし始めたよ。

 

 専門的に言えば、オイラの病気は強迫神経症と言うらしい。わかりやすく言えば、物事を白黒はっきりさせないと気が済まないって性格だ。もっとわかりやすく言えば、いつも不安なんだな。取り柄は人に迷惑をかけないって所かな。しい点は、人からは、オイラが病気だなんてわからないことさ。

 また気が向いたら、書き足すかも知れないけれど、今はこれくらいにしておこう。じゃあな、元気で。

 

「正確な自叙伝を書ける人はめったにいない.ルソーの懺悔録もしかり...ハイネ」

 

後記:最近になり、自分が被虐待児童であったことがわかりました。手荒い躾や過剰にきびしい躾は慢性の虐待になります。子供の頃の食事や就寝の時の緊張感を忘れることができません。厳格なコントロールをされていました。親の好意を得るために、職業的には成功したとしても、本当の自分ではなくて、演じてきたため達成感がなかったのです。幸運なことに、ある本によって、心的外傷のことを知りました。徐々にですがPTSDによる体調不良がよくなってきているように思います。

 

 

 

 

 

 

 

深夜勤務

 もう5月だ.嫌になるほど時間が過ぎる.誰かが一生懸命生きていないから,早いのだと言った.一生懸命,嫌な時間を過ごせば誰だって長く感じるものだ.楽しい時間なら終わるのはすぐである.くだらない時間を苦しみながら日々の糧のために働けば,そりゃあ長くなるってもんだ.俺の職業を楽な仕事だと思っているやつも多いから,わんさかと大学をめざす.やりがいがあるなんてことを聞くが,どんな仕事も突き詰めればやりがいがあるよ.結局は効率である.いかに楽してもうけられるか?それなら高卒で公務員試験を受けて,それなりの身分にでもなれば良いと思うがね.それで毎日,退職金を楽しみに暮らせばいいって.
 俺が働くこの病院は,トンデモ無いところだ.何がって.それはこれから話してやる.おっと,救急車のサイレンだ.早く救急処置室に駆けつけないと,当番の太った中年看護婦の嫌みを聞かなくちゃならない.「私たち看護婦は.....私たちって,自分のことだろ.いかにもみんなそう思っているなんて紛らわしい言葉を使うのじゃない.....ドクターよりも早く起こされて最後の後始末もするから...」つまり,働く時間は長いのに,給料は安いってことだ。まったく,そんなことはここの院長か看護婦長に言ったらどうかと思うね.俺が院長になったら考えてやるよ.そうしたら,医者たちが怒り出すかもしれないな.医者になるまでどれくらい学費がかかったか!てね.
 担ぎ込まれたのは若い女だ.黒い毛布にくるまれている.意識はあるようだ.髪を金色に染めているが,ずいぶん黒い部分が伸びている.目にはカラコンを入れている.おかげで瞳孔の大きさが分からないけど,そんなことを気にしていちゃ仕事が進まない.聴診器を手に取り,毛布をめくると,全裸だった.いや,下着はつけていた.あとは全身に擦り傷.酒の臭いをさせながら、男の名前を叫んでいるが,付き添いの男の名前では無いみたいだ.痴話げんかのなれの果てか?さっき当直室で,バーボンを飲んでおいて良かった.しらふじゃ,こんなばかばかしい仕事なんかやってられない.男女3人でワゴンの中で話をしていたら、急に女が暴れ出し、外へ飛び出して土手から転げ落ちたと、救命士が教えてくれた.もう一人の付添の女が言った.「ユウキに連絡をとったからね.すぐに来るよ。」なんて内容だったかな.毛布の女は「私の携帯はどこ!」また騒ぎ出した.このヒステリー女め.そんなに元気なら,車の中で○○○○でもしてろ.中年看護婦がCTの準備が出来たと言っている.女は懸命に携帯で男に連絡を取ろうとしているが,繋がらない.CT検査室.寒々とした部屋には白い機械が冷たく並んでいる.暖房のスイッチが入る。女はまだ電話をかけ続ける.どうしても携帯を離さないので,若い検査技師が「検査の支障になるので携帯はこちらでお預かりしますよ.」下着姿の若い女に,愛想を見せる.女はそれどころじゃない.「何で出ないのよ.ちくしょー.」携帯を投げた.それが,技師の顔に当たり,血が流れる.床に落ちる血が,2滴,3滴.「ごめん.許して.」一瞬,女が甘えた顔に変わる.技師はタオルで顔を押さえながら,ようやく検査が始まる.ガラスの向こう側で,巨大な機械が女を頭から食べようとしている.そして頭に放射線を当てるのだ.未来人が見たら処刑かと思うだろう.操作室では、技師の傷に包帯を巻きながら,「あんな女が,もし自分の娘だったら,恥ずかしくて死にそうになるわ.」太った看護婦が言う.「若いときは,いろいろ誘惑があって,道を踏み外すものです.」と額にガーゼを当てた放射線技師。お若い女なら許すけれど,年寄りのじじいだったらどういうのか聞いてみたいものだ.俺はじっとCTの映し出す白黒の図形を見ながら,アルコールのにおい消しのためにフリスクを一粒口に入れた.昨日から,初めての固形物である.お次はレントゲン検査だ.救急車がやってきてから,もう小1時間は過ぎている.女がじっとしていないから,何度も取り直しになって,いらいらしてくる.生暖かい薄暗いレントゲン室の中でだんだん吐き気がしてきた.どうして病院てところは,生暖かくて,食べ物のにおいがするのだろう.もう少しで,この女の上に吐きそうになったが,何とかこらえて飲み込んだ.アルコールと胃酸が混じったこの世のものとは思えない味がする.
 この女の処置が終わる頃には,すでに一寝入りできない時間になっているだろう.俺は,あきらめにも似た気分で,どこにも問題のなかった女の体を消毒した.消毒は医者の仕事らしい.看護婦が頭の上でわめいている.こんな事は小学生でも出来るよと思った.しかし,これが俺の仕事だ.何度も頭にたたき込んで,だまっていた.さっきまで暴れていた女が少しずつ,酔いが覚めてきたらしい.こっちはダブルでもう1杯飲みたいくらいだ.酔っぱらいの相手は,酔っぱらいがふさわしい.素面で相手をするなら,ホストになったほうがよほどましだ.こぎれいな女たちを相手に,ふふふなお話をしていればいい.客から男女の関係になり,そのうちに働かなくても暮らせるようになる.朝からパチンコへ行くのだって自由だ.俺の顔は酒とたばこでけんかで,そりゃあもう,ブ男である.女もろくなやつは寄りつかない.近寄ってくるのは,結婚目当ての年増かスナックのホステスくらいだ.しかし,ホステスと一緒にいると気を遣わないから楽だ.自分たちもどこが駄目なところがあるから,まじめに働いているやつのように,ああしろこうしろなんて口やかましいことは言わない.
 そのうち,さっきの女が泣き始めた.「私が一番悪い.ユウキはいい人なのに.」...「自分の気持ちに正直なのが一番だから,コウイチと旅行に出かけなければ良かった.何もなかったなんて信じないと思うけど,あんなにチャラ男とは知らなかったし,ちゃんと話せばわかってくれるよね.」ひそひそと別の女と話す声がカーテンから聞こえる.「あんたたせいで,車は壊れるし,めちゃくちゃだわ.ここにくるのにタクシー代が5000円もかかったのよ.」遠くからハンバーガーのにおいがする.「そりゃあ,あなただってうまくいかないから,浮気をするのはどうかと思うけど.」「あいつがみんなからいい奴だって聞くのが,たまらなくいやなの.私が何をしたって怒らないし,親からもしっかりしたいい人だって.私が今までつきあってきた不良どもとはちがう,たいしたものだっていうから,むかついて,家を出てやったわ.街をあてもなく歩いていたら,声をかけてきたのがコウイチなの.そりゃあ身なりはユウキほど良くないけれど,何となく気が合うから話しを聞いてやったわ.生い立ちのこと,学校のこと,仕事のこと,彼ったらすごいの.一日で8万円も稼げる仕事なんですって,一ヶ月に5-6日働いて後は遊んで暮らせるらしいの.あこがれるわ.部屋に遊びに来いよていうから,2週間ほど一緒に暮らしたの.ある時,着替えを取りに実家に戻っていたら,携帯にコウイチからメールが来たの.内容が...バカにしているでしょ?『........今,誰もいないんだ.遊びに来いよ.....』なんてさ.」また女が泣き始めた。そんな話を後にして,俺は医局へ戻った.一日の当直代が15000円で勤務が14時間だ.時給にすれば1000円ちょいだ.ようやく終わったかと思ったら,電話が鳴った.機嫌の悪そうな看護婦の声が頭の中を駆け抜ける気がした.「75歳男の患者です.すぐに来てください.」もう少し,ユーモアは無いのだろうか?さっき吐いたせいで,まだ気分が悪い.看護婦は顔よりも俺の体を見ている.それほど俺の顔に興味がないなら,今度カツラでもかぶってこようかと思った.老いぼれの男は老妻に付き添われていた.「すみません.かかりつけの先生が今日はいらっしゃらなくて.」平身低頭,若造に愛想を振りまいている.「わかりました.面倒を見ましょう.」と優しく微笑んで,老人の手を摂るわけにはいかない.専門外の患者だ.やさしい言葉の代わりに,俺は外科じゃないが,診察しても良いか尋ねた.院長には余計なことを教えるなと命令されているけどね.どんよりした目が心配そうだったが,老妻はうなずき,診察した.かなり痛いらしく,年老いた男は息も絶え絶えに横たわった.話では脱肛のようだ.俺は糞にまみれた肛門を想像していたが,リンゴのようなピンク色の固まりがそこにあった.俺は息を止めてそいつを整復した.これで1000円くらいの稼ぎになるのだろうか?生暖かい処置室で,汗ばみながらそんなことを考えた.
8時になりました.」ようやく釈放される囚人の気持ちである.俺のようなバカに診察してもらう患者はよほどの間抜けか慈善家だ.だるい体を引きずりながら,午前の診察室に向かった.診察室の白い清潔なシーツは目にはつらい.

(終)


















 

 

恋する青年と娘の会話





ヨゼフ:こんにちは,僕の愛しいマリア.きょうはどちらへお出かけ?

マリア:あら,ヨゼフ.楽しそうな顔をしているわね.何か良いことでもあったの?

ヨゼフ:もちろんあったよ.君に会えたことが良いことに決まっているじゃないか?

マリア:あら,いつもお上手ね.この間,貴方に会ったときより,何日かは老けていますわよ.きっと貴方好みにならない日も,いつか来るでしょうね.

ヨゼフ:そんなことないさ.いつだって今の君が一番きれいだよ.君はいつまでも変わらないと思うけど,僕の目が変なのかな?それどころかよりきれいになっているようだよ.

マリア:鏡の中で見る自分と人が見る自分とは違っているのね.不思議だわ.

ヨゼフ:鏡の中のマリアよりもたくさんのことを君について僕は知っているんだ.でも,他人にはそうはいかないよ.容姿とか身なりとか礼儀作法とか,そんなことしか分からないんだけどね.みんな優しい振りをしているけれど,本当はそう言うところで差別しているのさ.ただ夫(そ)れを表に出さないだけ.しわくちゃの老婆を見れば誰だってきれいとは思わないし,若くても背が小さくて頭が禿げていれば,君だってそんな男とはつきあいたくないだろう.

マリア:そうよ,私は貴方が好みだからつきあっているのよ.背も高くて,ハンサムだし,頭も良いし,身持ちも堅いわ.

ヨゼフ:でも,そいつがとても頭が悪くて,バカ,おっと、いけない。こんな風に言うと今の時代は良くないらしいから別の言葉で言えば...知能障害とか精神...えーと...発達遅滞とか言わなくちゃいけない.さもなければ,年寄りの醜男だとしたら,君はそいつと結婚しようと思うかい?

マリア:貴方がそうだったら,かまわないわ.

ヨゼフ:それはつきあってからの気持ちだろう?僕の言っているのは,つきあう前にそいつを選ぶかと言うことだよ.

マリア:たぶん,お付き合いはしないわ.

ヨゼフ:動物たちもそうするだろうね.そうやって,若くて元気で障害のないカップルが出来上がるわけだ.そんな2人なら,きっと健康な子供たちが生まれてくるに違いないよ.

マリア:でも,それだったら,生まれつき病気があったり,事故や病気で障害を負ってしまった人や行き遅れにはもうチャンスはないのね.彼ら(彼女たち)はきっと暮らしていくのでも大変だと思うわ.

ヨゼフ:外国じゃ,もっと暮らしていくのは大変だよ.僕らがすんでいる国のように豊かなところはなかなか無いね.どんな人でもそこそこに暮らせるくらい平等なところは.

マリア:じゃあ,私たちはとても恵まれたところに生まれたのね.

ヨゼフ:そうだよ.神様に感謝しなくちゃね.差別を無くすためにいろんな努力をみんながしているよ.そのためにはもっと勉強して,良い学校に入って,良い会社に勤めたら,後はお金がたくさんもらえて,うんと贅沢が出来るよ.それが出来なかった人たちには,施しや哀れみをかけてあげるのがいいんだ.

マリア:そうすればもっと平等な社会が出来るのね.

ヨゼフ:働いていない人に国がたくさんお金を使ったり,じいさんばあさんに医療費をたっぷりかけて,少しでも長生きしてもらうことが,大切なんだよ.テレビや新聞でも何度も何度も言っているね.お年寄りを大切にとね.ところで,マスコミは,都合の悪いことはみんなに教えないんだ.だって真実を全部伝えたら,みんなはとても心配するじゃないのかな?大事な人には心配をかけたくないよね?

マリア:そうよね.私も心配は貴方にかけたくないわ.だから,ちょっとくらい体の調子が悪くても貴方には大丈夫と言うわ.

ヨゼフ:だから,生まれ落ちてから差別を受けると大変だから,できの悪い人とは結ばれないように,お互いにえり好みをするのさ.

マリア:でも,私は貴方の良いところや悪いところもすべてまねしたくなるのよ。
たとえば、貴方が肺炎になるとするでしょ。肺炎になったらどんな感じなのかしら?それに罹(かか)ってみたいわなんて思うの。

ヨゼフ:それは僕のことを愛しているからかもしれないね.すべての女性が君のような気持ちだとは限らないよ.もっと打算的な女の人が多いね.

マリア:あら,たくさんの経験がおありそうだこと.

ヨゼフ:たくさんの女の人を見てきたから,君のすばらしさが分かるんだ.差別は駄目だと世間人たちは言うけれど,人を好きになることは差別をしないで出来る事じゃないよね.本当はこの世界は差別ばかりだけど,それを上手に分からなくしているんだよ.うまく宣伝すると素直な人は信じてしまうから,そんな人たちがたくさん増えれば,住みやすい世界になるんだ.人工授精も自然が子供を与えなかったのに,あまつさえ,その中から一番出来の良い受精卵を選んでいるんだ.これも世間や子供に分からなければ大丈夫さ.

マリア:昨日,隣の新聞配達会社の奥さんから「うちの子供はできが良くないから,だめだわ.」と言うから,「そんなこと無いわよ.心が優しければ,親を大事にして,後を継いでがんばってくれるわ.」と慰めておいたわ.これで良いのよね.

ヨゼフ:そうだよ!頭のいい人たちがこの世の富の大半を持っていても,それが分からないように,いろんな手段を使ってわかりにくくするんだ.それに逆らうものは冷血漢とかアウトローとか呼ばれるんだ.反対にうまくやっている人は偽善者と呼ばれず,分別があるとか,大人だとほめられるんだよ.まわりを見ながら暮らせば,これほどすばらしい世界はないね.

マリア:そうね.すばらしい世界だわ.

 向こうの方から,友達の魚屋がやってきた.2人に気がつくと,丁寧なあいさつをして話しかけてきた.

魚屋:いつも仲が良くて,うらやましいですな.

ヨゼフ:そう言う君のお店も大層繁盛しているね.他の魚屋がうらやましがっているよ.

魚屋:へえ,それは手前のところは魚を売るだけじゃなくて,サービスが良いからでしょう.

ヨゼフ:ほう,それはどういうことだい?

魚屋:他の魚屋は品数や新鮮さを売りにしていますが,同じ卸から仕入れているから,ほとんど差がないんですよ.おまけに仕入れ価も同じと来ているから,値段も一緒くらいでしょう.だから,サービスをしているんですよ.

ヨゼフ:うん.それで?

魚屋:まずはお愛想で,お客さんの気持ちを和らげます.それから,捌(さば)くのもただでやってあげるんです.後から魚の味が変だったとか,文句を垂れるうるさいお客さんには,おまけをしてあげます.それから,古くてもお客さんが希望する魚を売っていますねえ.なぁーに,どうせ焼いたり煮たりするから,わかりっこありません.下手にこちらの魚が新鮮でおいしいですよ.なんて親切心を起こしたら,お前のところは古い魚も売っているのか!なんてやられてしまいます.

ヨゼフ:なるほど,それがサービス業という仕事だね.

 


(魚屋と話し込むヨゼフ)


魚屋:まじめに客のことを考えて,魚を売っていたら,売れ残りばかりで,とっくの昔に廃業してしまいますよ.
そろそろ夕方で忙しくなるので,わたくしはこれで失礼します.

 魚屋の姿が見えなくなるとヨゼフはマリアに話しかけた.

ヨゼフ:ねえ,マリア,サービス業には,不誠実なところがあるなんてちょっと驚いたよ.人間相手だから,言葉を尽くせば,分かってくれると言うことは無いみたいだね.ところで,医者は誠実な人が良いと思うけど.

マリア:医療も最近はサービス業に含まれるらしいわよ.患者の言うとおりに診察をしないと,怒り出す人もいるんだから.ほとんどの患者も医者もサービス業だと考えているわ.上手な医院の経営方法を発表する開業医もいるしね.その先生のお話では,治療がうまくても患者には分からないから,相づちの打ち方とか,目線の使い方とか,待ち時間の節約方法とか,そちらをうまくやれって言うのよ.

ヨゼフ:そうだろうね.患者にしたらそっちのほうが話しやすくて,人気が出そうだよ.僕なら,ちょっとくらい治療が下手でも,話しやすい医者のほうがいいな.老人に親切で,少しでも長生きするように手厚く治療してくれたり,薬も僕の言うとおりに出してくれると仲良く出来そうだよ.

マリア:本当よね!開業医はそうやってだんだん患者を増やして,人より少し良い暮らしをするのが理想じゃないかしら.人気のない頑固な医者は,ネットで自分の評判を調べた方が良いわね.口が悪くて,体調が悪いのを歳のせいだなんて、ズケズケ言う医者なんてとんでもないわ.

 2人は顔を見合わせた。そうしたらウフフと笑った.

(終)

















 

KIRAMEKU-SORA


 書斎の窓から、まるで絵画のような深緑の景色が見える。でもよく見ると、遠くに見える白山の上に真っ白な分厚い雲が、ゆっくりと東の方へ流れていた。雲 の影になった深い森からは蝉の鳴き声がここまで届くように思えた。今はクーラーがほとんどの家に備わる時代である。夏になっても閉めきられた窓越しの風景 にはほとんど季節が感じられず、真夏なのにどことなく肌寒い感じがした。それでもボクは夏が好きだった。
 昭和40年頃の子供の避暑方法と言えば、水遊びくらいしか無かった。家の裏庭に祖父が鯉の養殖用に作った大きな楕円形の池があった。いつもあまりきれい とは言えない緑色の水が溜まっていた。そこで泳ごうとは思わないけれど、おもちゃの船を浮かべたりして遊んでいた。ある日、ボクは水の中にカマキリのよう な虫を見つけた。それを捕まえようと身を乗り出して、池の中へ落ちてしまった。たぶん池の深さは1.5m程度だったと思うけれど、その頃のボクの身長では 足が届かなかった。ばたばたと手足を動かしてみたけれど、やがて池の中へと沈み始めた。不思議なことに、息苦しさは感じなかった。上を見上げたら、薄緑色 の水面がきれいに輝いていた。とてもきれいに感じて、しばらくそれを眺めていたような気がする。そうしたら、なぜか自由に手足が動くようになって、ゆっくりと水面に戻ることが出来た。足が水底に届いてそれ以上沈まなかったからかもしれないけれど、詳しいことはあまり覚えていない。いずれにしても一命を取り 留めたのである。泳げないくせに、水を恐れることは無かったように思うが、プールの水は苦手だった。
 「位置について、はいっ!」担任のかけ声と同時に、勢いよく水しぶきが上がり、黒い身体の子供たちが次々とプールの中へと入っていった。すぐに水から 顔を出してしまう子もいたが、いつまでも水の中を潜り続ける子がいた。いつまでも泳ぎ続けるので、他の同級生も気がついたようで、何となくざわざわしている。よく見ていたら、黒い身体がだんだん長くなって、いつの間にか蛇のようにゆらゆらと水中をくねり始めた。遠くに行くほどもう人ではなくなって居るよう に思えた。プールの向こう側に着いたと思ったけれど、いつまでも水から上がってこない。それで、どうしたのかと思っていたら、こちらへ向けてまたゆらゆら と影を揺らしながら、蛇のようにこちらへ向かってきた。ボクはそれを見ていたら、なんだか鳥肌がたったので、プールから上がった。しかし、その蛇のような 影は、水から上がることは無くいつしか消えていた。不思議に思って、もう一度プールの向こう側を見たら、さっき潜っていた同級生がそこにいた。なんだか狐 にでもだまされた気がしたが、その時はボクの思い違いだろうと片づけた。
 消毒用に含まれている塩素のおかげで、プールに入ると身体が漂白されて、弱っていく感じがした。鼻につくにおいも刺激も、プールを怖がる理由だった。 大抵のプールの底は水色に塗られていて、水が張られていると、とてもきれいに見えた。水面に真上から差し込む日光が、反射してきらめく。衣服を着ないと強い日差しもそれ程暑くは感じられない。ある日、友人たちとプールの中の石を誰が一番先に拾い上げるか競争をすることになった。拾い上げる石はそれ程大きく ないから、かなり近くまで近寄らないと、見つけられない。
「おーい、今から投げるぞー。」日焼けしなくても色の黒いI君が叫んだ。力が余って、20mも向こうに飛んだ。もう少しでプールの外に届きそうであった。 運動神経の良いK君が一番先に泳ぎ始めた。それに続いてボクと親戚のH君が飛び込んだ。乾いていると白っぽい石も水中では黒く色が変化する。それで、水の 中でも見つけることが出来るのだが、その日はプールがとても混んでいた。ボクたちのような小学生の他に大人も、遊びにやってきていた。ボクは一生懸命、投 げられた小石を探していたが、なかなか見つから無くて、仕方なく諦めて顔を水から上げた。回りを見渡して友人たちを探すと、プールから上がっていた。声を かけようかとしたが、よく見ると色の黒い大きな男たちに囲まれていた。その中のそれ程背は高くないけど、声がはっきり通る男が、うつむいて何も言わない友 人たちに盛んに話している。ボクの方は、上級生らしい男たちと、友人たちを見比べながら、そのままプールから上がらないで見ていた。
「いいか。もうするなよ。」と言い残して大きな上級生たちは去っていった。それでもボクタチは彼らの姿が見えなくなると、また石ころ探しをするのであっ た。上級生たちも頭からまじめにプールの決まりを守ろうなんて考えていないわけで、実のところは、うるさい小学生を黙らせるのが理由だったのかもしれない。昔、溺れそうになった事件以来、ボクは何だか生まれ変わったような気がした。時々、水中からきれいな水面を見たくなって、潜るのだけれども、不思議な ことに、いつまで経っても息苦しくならない。他人の目があるので早々に水面に浮かび上がる事にしているが、いつまでも太陽の光が水面の中に降りてくる光景 を眺めていたいと思っていた。



 ある時、水の中でなくても息を止めていられるのかと思って、試してみたら、いつまでも息を止めることが出来るのに気がついた。きっと、昔溺れたときに頭 の中のどこかが壊れて、本当は息苦しいのに、それに気がつかないだけなのかなと思ったりもした。ヨガの修行者はそんなことが可能であると知ったのは、ずっ と後のことだった。この特殊才能があっても、ボクの日常は変わらなかった。唯一水泳では無呼吸で25mプール泳ぎ切ることが出来るくらいだが、それくらい の素潜りなら、いくらでも出来るヤツが居たし、泳ぐのが早いわけでも無かった。だからボクもその才能を何かに使えたらいいなとは考えていなかった。
ロケットの夏
 あれから何度も夏を迎えた。10年前にある国で発見された新しいエネルギーは、世界中のみんなに無尽蔵のエネルギーの供給を約束した。そのエネルギーと は、水の中に含まれていたが、誰もそれに気がつかなかったのだ。ただ、ある触媒に水を注ぐだけで、そのエネルギーは泡のように吹き出してくるのである。そ のままロケットの後ろにつければ、宇宙船が一つできあがりである。それを使って、小さな国でも宇宙へロケットを打ちあげ始めた。ボクの住んでいる日本も、 遂に有人のロケットを打ちあげることになった。最初に選ばれた乗組員は、何とこのボクだ。理由は酸素が必要ないかららしい。酸素が入らないと言うことは宇 宙服も入らないし、酸素発生装置や空気清浄機なんかも不必要になって、ロケットが軽くなるからいいそうだ。おかげで宇宙船の機内は結構ガランとしている。 時間は、そろそろ夕方のようだった。窓の外には真っ赤な夕日が見えている。分厚いガラスに邪魔されて聞こえないけれど、きっと基地の近くの海から風と波の 音が、それに人々の歓声が、あふれているに違いない。
 ボクは手元にある日記を見た。どんなときも持ち歩いていた日記は電子化されて、小さな手帳のような物になっている。おかげで40年前に書かれたこともすぐに見つけることが出来るんだ。不安なときにはそれを見ることにしている。今がその時だ。20年前に、東京のある大学院を卒業したけれど、そんな時にバブ ルがはじけて日本は、酷い不景気だった。それでも、何とか暮らして来られたのは、この特技のせいかもしれない。最初はどこかの研究所みたいな所に連れて行 かれて、色んな検査をされたけれど、結局わかったのは普通の人間だと言うことだった。なぜ息をしなくても大丈夫なのか偉い先生もわからないようだった。わ からないと言うことがわかれば、ボクは用無しである。政府から小さな電機メーカーに就職を紹介されて後は平凡な人生だった。
「60,59,58,57...。」急にスピーカから男の声が聞こえてきた。打ち上げまでの、秒読みが始まった。発射の時は、水をロケットの後ろにある触媒室へ送り込むだけであるから、ほとんどボクのやることはない。送り込む量はコンピュータがやってくれる。
打ち上げまでの合間に、ボクはモニターでロケットの回りの色んな所を映してみた。家族や友人たちの見送りの姿が見えた。突然、その中に見慣れない顔が見えたが、すぐに見失ってしまった。
「10,9,8,7...」ボクはしっかりと操縦席にしがみついて、全身に力をめぐらした。
「3,2,1 メインエンジンスタート。」あまりの強い加速で、ボクは一瞬、気を失いそうになった。大きな振動と、轟音がロケット全部に広がっていた。窓 からは明るく光る太陽と薄いオレンジ色の空が見えた。ボクは夕日や空が美しいと感じるときもあるけれど、みんなが言うほど感動的には見えなかった。その理 由はわからないけど、自分は感動的な人間では無いからだろうと思っていた。
 ようやく、ロケットの加速は無くなり、ボクはシートベルトを外して無重力状態を楽しんだ。しかし、そのひとときもすぐに警告音で終了となった。赤く光っている高度計を見ると、徐々に高度が下がっているようだった。その時、見送りの時にいた見かけない顔の持ち主を思い出した。
「あいつは確かこのロケットの設計会社にいた男だよな。よその国に情報を漏らして解雇されたはずだった。」ボクはこの計画が始まるときに、一度だけ彼と話 したことがあるのを思い出した。とても頭がいい男だったけれど、給料の事で不満があったみたいだ。給料の多さが自分の評価だと考えているらしく、指示ばか りして、何も出来ない幹部よりも、給料が少ないのが気に入らなかったらしい。ボクはもっともだと思ったけれど、みんながそれを要求したら、いくらお金が あっても足らないなと思った。人の評価を給料だけで見るのはアメリカのやり方だけど、日本もだんだん似ていくのかなとぼんやりと考えていた。
 地上と連絡を取りながら色々と試したけれど、ロケットは直らなかった。「すべての水ポンプが故障するというのは変だな。」なぜだろうと考えているうち に、どんどん高度を減らして、ついに地上まであと3000mになってしまった。このままでは海面に激突するまで1分くらいだ。最後までこの装置は使うなと 言われていたけれど、今がその時だから、地球への帰還用のポッドを使うことにした。小さな半畳ほどの広さの空間には畳は敷いていないが、座席が一つ置いて あった。急いで乗り込むと、とても目立つ大きな赤いボタンを押したんだ。
 ちょっとした音が床の方で聞こえて、ボクを乗せた脱出ポッドは空高く舞い上がり、大きなパラシュートを広げた。ゆっくりと落下しながら、ボクは窓から外 の様子を見ることが出来た。大きな爆発音と、100m以上の水柱が上がり、ロケットは3つに分解して水の中に沈んでいった。
「まだ触媒が残っていたはずだが。」そう思った瞬間、更に大きな2回目の爆発が起きた。今度の爆発は水中だった。おかげでかなり大きな津波が起こってし まった。更にボクの着水場所からそれ程離れていないように見えた。津波が過ぎるのが先か、着水の方が先か、とても微妙だった。ポッドの着水は思ったよりも 揺れなかった。
「助かった。」
この津波はやり過ごした。
安心したとたん、ゆっくりと目の前の景色が傾き始めた。めまいがしているみたいに、ボクは気分が悪くなり、目を閉じた。でも事実は、もう一度触媒が爆発し て、再び津波が起こったのが理由だった。新しい津波に巻き込まれ、ポッドが傾き始めていた。窓から眺めると、海中に沈んでいくのが実感できた。少しずつ ポッドが沈んでいくにつれて海の色はだんだん暗くなり、いつしか濃い青碧色になってしまった。仕方がないので、ボクは外へ出ることにした。ハッチの開閉ボ タンは動きそうになかった。仕方ないから非常用の開放ボタンを押したら、ハッチごと爆発で吹き飛んだ。泡と一緒に浮き上がる気分はまるで空を飛んでいるよ うだった。ボクはふと水面を見た。とてもきれいな夕焼けだった。海にいる生物にとって海面はまるで空と同じ物だとわかった。ボクはそれに見とれながら、いつまでもその中を泳いでいた。ふと下の方を見るとたくさんの魚やまだ見たこともない生き物たちがボクの方をじっと見ていた。「こちらへいらっしゃい。」と 言っているような気がした。どうしようか気持ちが迷っているうちに、いつしか夜になっていた。でもボクはどうしても星空が見たくて、しっかりと救命ボート の端をつかんだ。


(
終)

















 

デパートにて

ー祖母を偲んでー


 詳しいことははっきりしないが、祖父がかなり年をとった頃、後添いをもらった。そう言うわけで、私と祖母とは血は繋がっていない。しかし、妹たちに比べると、私は慕っていたように思う。男の孫だからと、大事にされたせいかもしれない。祖母は血のつながりのない幼い男の子をどう見ていたのだろうか?祖父の亡くなった後、血縁関係のない家庭にただ一人暮らしていく心情はどんなものだったのだろうか?すでに祖母もこの世にいないので、知りようがない。しかし、私が成人後、転勤で家にいなかった時期に、実の息子の元へ行ってしまったのだから、家での居心地は良くなかったように思う。
 子供の頃、駅前にだるま屋と言う大きなデパートがあった。今では西武百貨店になり懐かしいだるま屋という名前は消えてしまった。どんないきさつがあったか知らないけれど、名前が消えたのだから、買収されたのかもしれない。祖母に連れられて、街に出かける時には必ずこのデパートに行ったものである。ずいぶん前の話で、私が小学校に入ったすぐの頃であるからはっきりしないが、初めて乗ったエスカレーターもここだったように覚えている。エレベーターよりも高価な機械だったらしく、まだ登りしか無くて、乗り口には女の店員が居て客に挨拶をしていた。エスカレーターに慣れていない子供は、途中で怖くなり、泣き出して下へ降りようとするのを見かけたことがある。玩具売り場は確か2階にあったと思うが、祖母の買い物に付き合うのはおもしろくないので、ここで時間をつぶすのが楽しみだった記憶がある。しかし、夢中になりすぎて、迷子になり、半べそをかきながら祖母を捜した事もあった。新学期が始まってしばらくだった頃だと思うけれど、玩具売り場で新しいミニカーに見とれていたら、時間がどれくらい経ったのかわからなくなり、いつまでも祖母が迎えに来ないので、自分で婦人服売り場へ探しに向かった。今ひとつ私の背が足りないので見通しが悪く、それで、うろうろしていると、店員が私に気がついて声をかけようと近づいてくるような気がした。それで、出来るだけ眼をあわさないようにした。10分ぐらいすると、だんだん不安になり、他の階に居るのかと、食品売り場にも顔を出したりした。家に帰るにも、無一文だからバスにも乗れない。なんだかとても怖くなり、いつの間にか走り出していた。
 「たいちゃんじゃない?」誰かの声がした。私ははっとして立ち止まり、回りを見渡した。遠くに同じくらいの年代の子供が見えたが、そちらへ向かって走り出したら、さっと立ち去った。また怖くなり、いつの間にか走り出した。
「どうしたの」同じ声が聞こえた気がした。私は気がつかない振りをして、ゆっくりと歩いた。そして近くにいた中年女の人影から、そおっと後ろを見た。背の小さな女の子が見えた気がした。あっちも私の方をじっと見ていると思った。見知らぬ人の雑踏で、私のことを知っている人がいるとうれしくなり、思い切ってその子供の方へと歩いていった。背は同じくらいだが、近づいてその顔をよく見ると、以外に大人のような気がした。
「だれと来たの?」心配でうつむいている私の方をじろじろ見た。「祖母と来たけれど...」はぐれて迷子になったことは言えなかった。その子は同級生のような気もするが、近所に住んでいる子かもしれない。親しそうに話してくるけれど、とんと思い出せない。なんだかもやもやした気持ちになって、片づかない。面識が有るような無いようなで話が続かない。もじもじしていたら、向こうのほうから笑いながら女の人がやってくるのが見えた。はて、どこかで見覚えのある。と思っていたら、祖母だった。祖母と女の子は知り合いらしく、よく聞こえなかったけれど大人のような挨拶をしていた。それを聞いているうちに、その子がとても大きく見えた。じゃあと言ってその場で別れた。
 あとで祖母に聞いたら、私の従兄弟だった。父方の親戚は物心が付いてからはあまり会ったことが無いので私は忘れていたようだ。
 デパートの屋上遊園地はその日は迷子になったり、色々と有ったので、行くことが出来なかったが、何度か連れて行ってもらえた。料金はかなり高かったらしく、レストランか遊園地かどちらかしか選べなかった。いつも長い列が出来ていたが、その日はようやく新作のモノレールに乗ることができた。屋上のコンクリートの縁をすれすれに走るので、下を見ると身体が外へはみ出している気がして、腰の辺りがぞくぞくした。ある時、モノレールが故障したのか、停電したのか、ちょうど縁の部分で立ち往生したことがあった。レールの回りに大勢の人が集まり、高い叫び声と大人の激しい声が飛び交った。乗っていたのは小学生くらいの兄弟だったようだが、泣き声がずっと聞こえていた。そのうちに泣き声が聞こえなくなり、ふと目の前を見るとモノレールが無くなっていた。私は下の通りまで落ちたのかと思い、怖くなって眼を閉じた。頭の中で、二人の叫び声が聞こえた気がした。私は一言も口をきかないで家路についた。帰りのバスはいつもより蒸し暑く感じ、機械の油のようなにおいが回りに漂って、それがいつまでも身体にまとわりついているような気がした。祖母も「怖いね。」と言っただけで、後は何もしゃべらなかった。その夜は何度も何度もその光景が夢に出てきて、眠った気がしなかった。
 次の日は月曜日だったが、少しだけ、学校に遅れた。友達と話をしてもあまり耳に残らない感じで、ぼーっとしていたようだ。その日は気分が悪いと言って、学校を早退した。帰りを保健委員のS君と一緒に帰ったが、事故のことは全く話題に登らなかった。すっきりしない気持ちで家に着いた。ぼんやりとした気持ちで居間に入ると、祖母が居た。事故の話をしたら、死んだ人はいないと言われて安心したような信じられないようなやっぱりすっきりしない気持ちだった。けれどもしばらくしたら、やっぱり誰も死んだ人はいない気がして、事故のことはすっかり忘れてしまった。それから何日か経って、デパートの屋上遊園地へ祖母と一緒に行った。モノレールは怖いから一緒に乗ろうと祖母に言うと、ここで待っていると言う。そうしたら私もそれ程乗りたくはなくなって、他の乗り物に乗ろうと言ってみた。モノレール以外の乗り物でも祖母は乗りたくないと言う。何で乗らないのか聞いたが、もごもごして、はっきりとした答えは無かったようである。今にして思えば、色白の祖母は、日焼けをするのが嫌で、日陰に居たかっただけかなと思ったら、気が抜けた気がした。

             

(終)

















 

下宿


 病院の仕事から帰った時だったか,それとも久しぶりに富山に帰ったときの事だったか定かではないが,その下宿は呉羽山の中腹あたりにあったはずである.中腹と言っても元々低い山だから,たいした高さではない.2階建てのはっきりしない作りの下宿である.一応,鉄筋コンクリートで建てられているが,古びた様子から何十年も経っているように思えた.元はラブホテルだから、看板だけ付け替えて、ほとんど何の改装もしないで,下宿にした案配だから,造作はそのまま残り、細長い階段がそれぞれの部屋に付いている.そこから自室に入ることもできるし,突き当たりのドアからは廊下へ出られた.細い階段も廊下も,赤い絨毯が敷き詰められている.ある日,私は真っ暗な階段を,なぜか不安な気持ちで登っていた.ここを後にしてから何日も経っているような気がして,今更ここに帰ってくるのがいけないような、気が引けるような、何とも言えない気持ちであった.その階段を登りきり,手に持った鍵でドアを開けようとしたら,そのドアにはもう一つ小さなドアが付いていて,その小さいドアはすでに開きっぱなしであった.私の部屋の中に誰かが居るような気がした。扉を開けておそるおそる中へ入ったが,誰もいなかった.すでに窓の外は真っ暗だった.人はみんな寝てしまったであろうか、何の音も聞こえない.私は時間がずいぶん遅い気がして時計を見たら,夜中の2時であった.そうしたら,朝から何も食べていないことに気がつき,小さな白い冷蔵庫を開けたが,中には腐った食べ物のにおいでいっぱいだった.食べられそうなものを探して,ようやく食べかけの食パンを見つけた.食パンを食べてみたが,何の味もしなかった.それでも少し落ち着いた気がした.すると部屋の外で,がやがやと話す声が聞こえたので,思い切って廊下に出てみた.そこには声はするけれども,人の姿は無かった.それで,隣の部屋を覗いてみた.ドアが明け放れて,中の住人と,私の目があった.何かを伝えようとしているが,その相手は私ではないようであった.大声で話している相手は,ここの大家に対して話しているようだった.何を話しているのか,聞き取れないが,私の心の中では,隣の前の住人が帰ってきたので,こっちに早く来てくれと言っているように思えた.遠くの階段から,大家がやってくる足音が聞こえた.やがて姿がだんだんはっきりしてくるにつれて私はどきどきした.白髪の多い小太りの女だった。はて、大家はこんな人だったかな考えていると、
 「おや,○○さんですか?どうしたのですか?あなたはここに帰るべき人ではないでしょう.」私にはそういっているように聞こえたが,そういわなかったのかもしれない.だんだん近づいてくるのが耐えられず,私は,細い階段を駆け足で降りた.不思議なことに,外はまだ夕方だった.ふと,ずっと前からこの近くに自分のオートバイが駐めてあったことを思い出し、あたりを探すと階段の下で見つけた.しかし鍵のところが壊されていて動かなくなっていた.早くここを立ち去らなくてはいけない気分になって,近くに駐めた車へと戻ろうとした.車は近所の車庫の中に置いてある.車庫の前の道は舗装されていなくて,おかげで中は埃っぽくて,靄がかかっているようでよく見えなかった.それで私は入り口の方から,少しずつ手探りで進んだ.早く自分の車を見つけて帰らないと,大家が後ろからやってきそうな気がした.ようやく,白い車の隣に自分の車が置いてあるのがわかった.横から不意に若い男が飛び出し、私の横を通り過ぎた.私はびっくりして,あっと声を出しそうになった.しかし男は私を気にすることもなく,そのまま隣の白い車に乗り込んで,出かけていった.徐々に眼が暗闇になれると、私の車の向こうに階段が有るのに気がついた.私がこの下宿に住んでから34年であるが,この車庫に2階が有るのは初めて知った.何となく興味がわいて,2階へ上がってみることにした.その階段は踏み込むたびに,ミシミシといやな音がした.車庫の2階は1階に比べると,良く掃除されていた.正面には奥の部屋に通じるドアがあった.最近までと言うより,今でも人が住んでいるように思えた.何年も下の車庫を使っていながら,2階に住人がいるのに気がつかなかったのが不思議に思えた.しかし、その部屋のドアは、内側から何か強い力で押さえられているような感じで開かなかった.私はどうしてもどんな住人なのか知りたくなり,天井裏から忍び込もうと思った.天井には簡単に入り込むことが出来た.そして,天井の板を外して,下を見ると.
 私はようやく下宿を後にすることが出来た.しかし,最近,下宿のまわりの道が作り替えられたらしく,どの道を通っても迷っているように感じた.そして,いつの間にか下宿の近くに戻っているようだった.そうなると,どうしてもここから離れたくなり,昔の記憶を頼りに,呉羽山の北を通って,下宿から遠ざかることにした.下宿の北には,JRの呉羽駅がありそれを超えて更に北へ行くと,細い一本道で国道に出るはずだ.私は,勢いをつけて,その一本道を飛ばした.しかし,いつまで経っても,国道に出ることはなく,気がつくと大きなトンネルの上にいた.車ではこれ以上進むことは出来ないとあきらめて,そのトンネルを使って,歩いて福井に帰ろうと考えた.コンクリートで出来たトンネルは入り口の付近は広い公会堂みたいな作りで、強い勾配の下り階段であった。進むにつれて、道幅は徐々に細くなり,私はもう引き返せないほど深くて遠い所に来たような気がした。ついには,寝ころんでようやく通れるくらいに狭まった.細いトンネルの中には所々電灯があったけれども、その明かりもトンネルの壁が黒光りして役に立っていないようだった.私はその中を仰向けになって,滑るようにして下っていった.同じような格好で滑っている人に出会ったが,話を聞くとここから出るのは難しいような事を言っていた.何時間も進んでようやくトンネルの出口が見えた.なんとか立ち上がって歩ける位の高さになり,ようやくトンネルが終わり,まわりが薄明るくなった.何となく後ろが気になり,振り返ってみると,トンネルの入り口には[工事中通行禁止]と書いてあった.
















 

 夏の夜


 これからお話しすることは、私がまだ医科大学を卒業してからまだ2、3年の頃の話である。私がその女に初めて出会ったのは大学病院の研究室であった。その夜は異常なほど暑いにもかかわらず、9時を過ぎていたので、エアコンは止まっていた。しかたなく、私は夜風を取り入れようと、ドアを明け放ったままにしていた。その女はいつのまにか部屋に入っていた。内科学会に提出する論文を仕上げていた私にとって、その訪問はうれしくなかった。
「あの、すみませんが。」突然、声が聞こえた。
「なにか。」面倒くさそうに私は返事をしながら、仕事を続けた。
なかなか、女の言葉が続かないことに、私は苛ついた。
「ここで、病気の相談をしてもよろしいですか?」小さな声で女は言った。
直接医者に診てもらって、診察料を浮かそうとしているのかと思い、更に女に対する印象は悪くなった。
しばらく黙っていると女は
「私、ここの大学の学生ですが、相談しても良いですか?」
ここの関係者であることを付け加えてきた。
ようやく私は頭を上げ、女の顔を見た。長くて色白の顔と長い髪が陰鬱な気色であった。せっぱ詰まっているのか、ぎこちない笑顔で、しっかりと私を見ていた。溜まった仕事があるし、さっさと女の話を聞いて、早く切り上げる事にした。
すると女はよどみなく話し始めた。
「小さいときから、よくお腹が痛くなるのです。それで、薬局で薬を買うのですが、いっこうに良くならなくて、困っています。」
意外にも女の早口が、最初の暗い雰囲気と釣り合わず、少し驚いた。女の話を聞いただけで過敏性大腸症候群と診断が付いた。
繊維質の食事とストレスをためないようにと、誰でも知っているようなアドバイスをして、帰ってもらった。
 次の日の夜も、その女はやってきた。今度は診察を希望している。
「診断が付いているから必要がない。」と言うと、
女は怒った顔でもう一度しっかり見てほしいと言った。
「それなら、明日のお昼に大学病院に受診してくれ。」と突き放した。
女は今すぐ診てほしいと引き下がらない。その形相と何とも言えない強さを感じ、断れない気がした。
ちょうど隣にベッドがあったのでそこで診察をすることにした。お腹を出すようにと言うと女は素直にブラウスを上げた。白く柔らかそうなお腹であったが、若い女のお腹にしては大きすぎるように思った。お腹の上から触ると、奥の方に硬い物が触れた。子宮ではないかと思った。妊娠しているか尋ねると、妊娠はしていないと強く否定した。私は変に思い、もう一度触診をした。不思議なことに、さっきまであったしこりは無くなっていた。変わりに以前より柔らかく手を包み込むような感じで、お腹全体が手にくっついてくるように思えた。私はびっくりして手をお腹から離した。女の顔を見ると、何だか笑っているように見えた。私は気味が悪くなり「何にも異常な所はない。」そう言って、とにかくその場を早く離れたかった。
「ありがとう。」そう言ったように聞こえた。ふと振り向くと、女はそこには居なかった。さっきまでの夜の蒸し暑さが消え去り、急に寒く感じたので、エアコンのスイッチを切った。
 次の夜も女はやってきた。今までと違って、白いドレスを着ていた。いつもより饒舌で、生まれ故郷のことや、今受けている講義のことを話し始めた。しばらくは医学的な話題が続いた。そろそろ切り上げようと時計を見たら、夜の1時であった。いつの間にそんな時間が経過していたかと思うと何とも不思議な気がした。女はこれから仕事があるのでこれでと言った。これから仕事とは何か変な感じがしたが、深く問う気にもならず、そうですかと言い別れた。
 次の夜は雨が降り、女は来なかった。私は拍子抜けした感じがして、早めに宿舎に戻ることにした。宿舎には歩いて10分くらいだが、田舎にある大学病院のため、構内を外れると真っ暗だった。急ぎ足で歩いているうちに雨も上がって、ようやく宿舎に着くところであった。右手の方に人が立っていた気がした。私は暗闇の中をじっくりと見る気にもならず、後ろを向いているのか、こちらを向いているのか、わからなかった。私は気にもしないで、通り過ぎようとした。
「もしもし。」
どこかで声がした。
気にしないで、歩いた。
「もしもし。」
今度は後ろの方で声がした。
振り返ると、あの女が傘を差して立っていた。
私は驚いて
「どうしたのだ?こんなところで。」
「会えるかと思い、待っていました。」
「どうしてここがわかったんだ?」
「大学の宿舎の場所を人に聞きました。」
いつしか私は女の頭の良さと、からみつくような執念を恐れるようになった。
言葉を失った私を尻目に、女はさっさと私の宿舎の方へと歩き出した。
「ここで待っていたら、寒くなりました。早く行きましょう。」
女の勢いと逆らえない何かを感じ、私は女のあとを付いていった。私が自室の鍵を開けると、女は何も言わずに、玄関に上がり、奥の居間に足音も立てずに上がり込んだ。
その頃は私は仕事が終わるのが遅く、ただ寝るだけの所だから、家具は何も置いてなかった。ただ暇つぶしのテレビがあるだけだった。女はそのまま中へ進み入ると、テレビの前に座り、スイッチを入れた。何かのドラマのようだった。しかし、部屋の灯りもつけず、テレビの光が映し出す女の顔は色白を超えて、青白く見えた。よく見ると肌の濃淡が無く、人形の顔ようにも見えた。この世からかけ離れたような部屋と女の雰囲気に耐えられなくなり、私は部屋の灯りをつけた。
「お願いだから、消してちょうだい。明るいのは嫌いなの。」
私は仕方なく部屋の電気を切ると、テレビからの光だけになった。しばらく、無言の状態が続いたが、仕方なく私は一緒にテレビを見るしかなかった。時代劇のようであり、明治初期の話のようだったが、私の頭の中には残らなかった。
女が突然、
「怖い。」と言った。
私は意味がわからず、女の顔を見た。
「幽霊が出てきそう。」とおびえた声を発した。
私にはよくわからなかったが、あまりに女がおびえるので、テレビを消した。音が聞こえなくなると部屋は暗い静寂につつまれた。不思議なことに、外の虫の音が聞こえてこない。音が全く聞こえなくなると同時に耳がふさがった感じがした。私は耳が聞こえなくなったのかと思い、あわてて耳を手で触れた。耳がとても小さくなっていた。手で触れても、耳の穴がどこにあるのかわからなかった。私は気が遠くなりそうな感じがして、隣の寝室へよろめきながら移った。敷きっぱなしの布団の上にそのまま仰向けになると、かすかな吐き気を感じた。その時、女がどうなったかは記憶がなかったが、こちらを心配そうに見ていたような気もするが、もうそこには居なかったような気もした。女のことを気にかけるよりも気分が悪くて、いつの間にか眠ってしまった。

 目を開けると、布団の中だった。さっきよりは少し吐き気が和らいだが、とても眠くて、頭の中がはっきりしない。寝返りを打とうとしたら、何かに当たる気がした。布団の中に人がいて、非常に驚いた。私が目が覚めたのに気がつくと、女がこちらを向いた。不思議なことに女は私より身体が大きくなっていた。白い腕を伸ばすと、私の首すじに強く抱きついてきた。私はからみつく腕を振り払うことが出来ずに、そのまま重なり合って左右に転がった。私は揺すられて、そのうちに強い吐き気を催した。
「抱き合っているのは良いけど、それ以上はだめ。」と女が言った。
私は女のほうから抱きついてきたのに、勝手な言い分だと思った。
女の強い力で抱きつかれた私は、いつしか気を失っていた。
 ぐっすりと何時間も眠り込んだようだった。誰かに肩を揺すられている気がして、目を覚ました。もうろうとした頭は少し頭痛がしたが、吐き気はもう収まっていた。しかし、隣にまだ人がいる気配がして、私は身を固くした。
「大丈夫?ひどくうなされていたわよ。」女の声が聞こえた。
「ここはどこだ。」
「何を寝ぼけているの。ここはあなたの家よ。」妻の声のようだった。
私は今までのことが現実じゃなかったことに気がつき、ようやく一息つく事が出来た。
「そうか、よかった。夢に出てきた女が、布団の中で私を押さえつけて、少しも動けなかった。」
「私がそばにいるから大丈夫よ。」そういって妻は私の布団に入り込み、抱きついてきた。
暗闇の中でぼんやりと、枕元のスタンドが光を放っている。だんだんと妻の顔がはっきり見えてきた。色白の長い顔の女だった。

(終)











ディープパープル

 



 

 100mごとに短く鳴るベルは、静まりかえった艦内に響いていた。すでに35000m以上も潜り続けている。窓の外は暗い青緑色。超高耐圧プレキシガラスは厚さが1mもあるので、景色がぼんやりしているのが、ガラスのせいなのか、外が濁っているのか判然としない。操縦士のジョン・ロードは、宇宙飛行士になってからまだ半年である。手元にはマニュアルが大事そうに置いてある。時折、後ろの席に座っている艦長の顔を伺いながらも、落ち着いているように思わせていた。彼にとって、トゥルーダイバーと呼ばれる超深海用の乗り物を任されるには、重荷のように思えた。トゥルーダイバーは、長さ約100mの楕円形の潜行艦である。潜水艦と異なるのは、水の中を潜るのではなく、液体メタンの中を潜ることである。最も注意することは、メタンは酸素と混じると爆発しやすいことである。チャンドラ星は太陽系の海王星に似ている。色は緑がかった青色、いわゆるターコイズブルーで、陸地は全く存在しない。海王星に比べると、自転速度が遅いため、昼と夜では自然が異なっている。惑星表面の温度は摂氏マイナス160-150度で、恒星に照らされる昼の面は、蒸発したメタンと水で、もやがかかり、穏やかな雰囲気だった。反対に夜の部分は、黒い液体メタンが少しの波音も立てずに漂っていた。トゥルーダイバーが母船から切り離されて、ここへ潜行してから、すでに10日間経過している。目的は資源調査である。艦長のイアン・ペイスは歴戦の元軍人である。何度も死の淵から戻ってきたおかげで、身体の半分以上は機械化されている。服を着て遠目で見る限りは人間らしく見えるが、近くで見れば右目が義眼であることと、右手の動きがなめらかでないことから、機械化されていることはすぐにわかる。艦長が立ち上がるときには、コンプレッサーから空気が抜けるような音がした。更に、歩き出すと細かいモーターの断続音が、中央制御室にこだました。他の乗務員は、なるべく艦長の機械化されている身体のことには、気にしないように振る舞っていた。しかし、乗務員が艦長が後ろにいることに気付かず、突然モーターのような音がして、なにかの故障かと思い、機械のパネルをあけようとしたことが何度かあった。
 そんな乗組員の様子から、漠然とペイス艦長は孤立していると感じたが、長年の艦長としての強い意志と立場が、その孤立を目立たせることは無かった。しかし、艦長の態度はどこか機械的だと噂する者もいるし、部下から個人的な相談もほとんど無かった。このような集団では、危機が訪れたときに本当の状況が露呈されるのである。
 ソナーを見ていた航海士のロッド・エヴァンスが報告した。
「前下方に大きさ約2000mの物体があり。大きさと動きからフライングアイスと思われます。」フライングアイスとは、海底の固体メタンの一部が溶けて、惑星の遠心力で浮き上がり、メタンの海の中を漂っているのである。大きさ2000mは小さい方である。
「進路を上向き10度に変更。速度10ノットに減速。」
艦長の合成された声が、返ってきた。
ロード操縦士は、艦長の言葉を確認しながら、慎重に値を機械に入力した。しかし、上昇か下降か聞き取れず、下行10度で入力してしまった。もう一度確認するべきだったが、フライングアイスのほうが上昇速度が速いだろうと、ロード操縦士が勝手に判断したことと、有能な人間だと思わせたい功名心が働いたのかもしれない。とにかく、トゥルーダイバーはフライングアイスに向かって真っ直ぐに進み始めた。
「更にフライングアイス、接近しています。」ソナー担当のエヴァンスがあわてて報告した。
「後進一杯!」ロード艦長は叫んだ。緊迫する事態でも、機械的な声はほとんど感情がなかった。
数秒後、大きな衝撃音。船体の前壁に亀裂が入り、液体メタンが進入してきた。しかし、それはすぐに気体になり、空気中の酸素と火花で大爆発を起こした。



 非常用ハッチが閉じられ、自動的に浮上モードに切り替えられた。同時に警報音と共に、内部全体に広がったメタンガスの爆発を防ぐために、すべての酸素は排出されはじめた。酸素低下の非常警告音が、船内に響き渡る。あちこちで叫ぶ声が聞こえ、あわてる乗務員たちの姿が見られた。そして乗務員たちは、急いで酸素ボンベの付いた潜水スーツを着用し始めた。2回目の爆発で船内は停電になった。しかし10秒ほどで非常用発電が始まる。生命維持へ電気の供給で精一杯のトゥルーダイバーは航行不能になり、メタンの海で漂流することになったのだ。
 永遠に続きそうな時間であった。船体のきしむ音や、小爆発による振動が、度々、乗務員たちを不安にさせる。しかし、トゥルーダイバーはゆっくりとであるが、ようやく海上に出る事が出来た。液体メタンの中で沈んでしまう最悪な事態は避けられた。チャンドラ星は小型とは言っても、メタンの海の深さは1000km以上もある。
 乗組員が着た潜水スーツには紫外線防御のため、目のまわりはフィルターがあるので、見える色は実際の色とは違って見える。初めて着たこのスーツに興味津々のエヴァンスは、隣にいる2等航海士のニック・シンパーの顔見た。肌の色は青色で、目は黄色だ。真っ黒な口を開けて何か話している。エヴァンスは思わず吹き出しそうになるのを押さえた。どの乗組員を見ても、アニメに出てくる変な宇宙人のように見える。あの怖そうな艦長でさえも。



 船外の観察カメラは、3日前の出発の時と同じように静かなメタンの海を映しだしていた。波の高さは10mくらいあるが、これくらいなら穏やかな方である。しばらくすると船体の右を映しているカメラに、なにか大きな白いものが現れた。表面はとがった結晶のような物がたくさん付着している。その姿はあのさっき見たフライングアイスと同じであった。
「艦長、フライングアイスが一緒に浮上しています。」
ロード操縦士が言った。
「そんな馬鹿なことがあるか。フライングアイスは液体メタンの中だけでしか存在しないんだぞ。比重の関係で液体メタンに浮くはずがない。」
そうペイス艦長が答えようとしたときに、フライングアイスの表面の白い結晶が溶け出した。そして現れたのは、不思議なことだが、地球の南国の島によく似ている風景が、そこには現れたのだ。ヤシの木らしいもの。緑の雑草らしいもの。人らしいもの。すべてがそっくりだ。その人らしいものたちはこのマイナス150度の世界で、身につけているのは、最小限の服である。盛んにこちらに向かって手を振っている。男も女もいるようだ。
「どうしますか?艦長。」
修理不能の船でこのまま漂流しても、絶望的なことは確実であった。
この島が何であるかを確かめるために、ジョン・ロードとニック・シンパーが、最初に上陸することになった。
艦の後方にある気密室から、外に出た。環境モニターによる周囲の気温はメタンの気化熱で更に低く、マイナス170度を示していた。気圧3000hPa。酸素濃度0001%。スーツがなければ、数秒と生きていられないほどの過酷な自然である。ジョン・ロードを先頭にして、人工桟橋から恐る恐るその島へと渡った。渡り終えると、2人が踏みしめた大地の感触は、ほとんど地球の地面と変わらなかった。歩くと砂のすれる音がした。その上、この緑色の惑星からは考えられないほど、まわりは木々は、暖かい色彩であふれている。太陽の色は違うけれど、昔、何かの本で見たゴーギャンの絵はこんな感じだったなあ、とジョンは思った。さっきまでは遠くに見えたこの島の住民たちも、顔の表情がわかるほどの近さに近づいていた。
 どうしたらいいかわからず、住民に対して、ジョンとニックはただ笑うだけだった。人間そっくりの住民たちは、何かを話しかけてはいるけれど、その言葉はスーツを着た2人には届かない。更に困ってしまったジョンは、ふと環境モニターを見て、驚いた。温度30℃、酸素濃度20%、気圧1000hPa...ほぼ地球と同じ環境である。
「なあ、ニック。ここの環境はまるで地球の南国。」
それを聞くやいなや、運動が大好きで、趣味がダイビングなんて言っているニックは、早速、スーツを脱ぐ準備を始めた。あっけにとられていたジョンも、スーツを脱いだニックが元気なのを見ると、自分のスーツを脱ぎ捨てた。
 潜行中、再生空気ばかり吸っている2人には、ここの空気はハイになるほど刺激的だった。しばらくその暖かな空気を楽しんだ後、ここの住人を近くで見て驚いた。住人たちは見た目は人間だが、肌の色から目の色、髪の色まで、全く人間のそれではなかった。肌の色は濃い紫、髪の色はピンク、目は輝くような赤だった。スーツに付いていた紫外線防護フィルターを通してみたときには、全く人間と同じであったのに。その中のリーダーらしい一人が、さっきからジョンたちに話しかけている。言葉は全くわからなかった。何か特別な発声方法を使っているようで、今までに見つかったどの言語とも似ていなかった。しかし、怒っている様子はないようだから、曖昧な笑顔を残して、ひとまず艦へ戻り、船長に報告することにした。



 トゥルーダイバー内では、乗組員たちは、出発時に打ちあげた通信衛星を使って、母船との連絡を取ろうと必死になっていた。残された燃料と食料は、あと1ヶ月分しかない。しかし、いつまで待っても母船からの返事が来ない。どうやら、ここの太陽の黒点活動期に入っているようだ。電磁波のノイズがひどい。通信担当のグレン・ヒューズが困っている。ペイス艦長はそのまま通信を続けるようにヒューズ通信士に告げると、自分の部屋に戻った。
 自分の椅子に腰掛けてみた。部屋の壁には多くの勲章や賞状が飾ってあるが、家族の写真は無い。「私の履歴もここまでかもしれないな。磁気嵐はどれくらい続くかわからないし、太陽のプラズマバーストが起こるようでは故障が怖くて、母船も近付かないに違いない。」
一人でここまでの自分の人生を振り返ると、戦争があった頃は何も考えなくて良かった。それに、戦争で怪我をしても、それは自分の勲章であり、人からの称賛も十分にもらえた。なのに、世の中が平和になると、人々の関心は趣味や健康などという軟弱なものになってしまった。いつしか戦争があったことも忘れ去られ、ペイス艦長の機械的な動きや音や声に、どことなくまわりの人から、避けられているような気がしていた。妻からの愛情も、同じような理由であろうか、いつしか薄れ、去年別れた。そんなことを思い出しながら、ペイス艦長は重苦しい気分で、暗い青緑色の海を見た。空は少しずつ明るくなりかけているようだった。
 上陸した2人が戻ったとの連絡が入り、ペイスは中央制御室に戻った。彼らの報告では、なぜだかわからないが人が住めるようだといわれ、艦内は歓声でわき上がり、踊り出す者や、ある者は泣き出すほどであった。それぞれに死ぬ覚悟を決めていたのだろう。


 移住
 ここに上陸して1ヶ月が経過した。ようやくこの南国のような島にも慣れて来た。島の周囲は約8kmほどで、メタンの海岸は見えるが、それに近づくと何か大きな力に押し戻されて、近づけなかった。そこの住民たちはここでずっと昔から住んでいるらしい。このような島がここには、たくさんあるという。少し言葉も理解できるようになったが、彼らの身体の色にはどうしても慣れなかった。口の中の色は黒く、唾液は汚水のように茶色だった。地下は何らかの装置が置かれ、この島での便利な仕組みはここでコントロールされていると思われた。しかし、住民たちは、これらの機械の仕組みや動かし方は全く知らないと言う。そのおかげで、住民たちは機械は神であると考え、機械的な物に尊敬と怖れを抱いていた。おかげでペイス艦長は、最も神に近い者として、住民たちの手厚い歓待を受けた。その中でも若いヴァ・ラは、毎日甲斐甲斐しくペイスの元を訪れ、彼と話をするのを楽しみにしていた。彼女はずっとここにペイスが住み続けるように願っていた。その気持ちを表すように、毎日、違った色の果物を持ってきた。


 一人
 チャンドラ星は楕円軌道を回っている。トゥルーダイバーのほとんどの機械はエネルギー切れで停止していた。ジョン・ロードが、お手製の自家発電器を作り、通信装置だけが唯一、働いていた。そろそろ何年経ったのか、わからなくなったとき、大きな太陽が、徐々に小さくなってきた。おかげで磁気嵐が収まったのであろうか?幸運はいつも突然やってくる。
「こちら、惑星連合所属HID905号。トゥルーダイバーの乗組員諸君に告げる。もし生きているなら、すぐに連絡をするように、本艦は1日間だけ軌道上にいる。繰り返す...」
母船からの通信だった。
ヒューズ通信士からの報告を受け、艦長からすべての乗組員に向けて発表された。
乗務員たちは、ここの住民と仲良くは出来たし、ここの気候や食べ物も気に入っていた。それでも全員が地球への帰還を望んだ。翌朝、空から強化カーボンワイヤー付きの箱が下りてきた。母船との連絡用エレベーターである。空を見上げると、巨大な白い船体と赤いラインが、モクモクとした雲の合間から少しだけ見えた。出発の合図として柔らかな警笛が鳴ると、すべての乗務員が箱に乗り、母船へと出発した。

艦長を除いて。



 地球にはペイス艦長を持ち焦がれる人も、彼が望むような状況はなにも無かった。あるのは表向きにはわからない差別だけである。そう考えたイアン・ペイスは、この惑星に残ることを決心したのだった。
徐々に遠くなる白い船体を見上げながら、
「もう人間と会うことは無いだろう。」感慨深げに言った。
「しかし、ここの住民たちの肌の色にはどうしても我慢できないなあ。ずっとここに住むなら、スーツに付属していた紫外線フィルターで眼鏡でも作ろうか。」
隣を見た。同時にこちらを振り向いたヴァ・ラを見て苦笑いをした。


(終)

 


















最終戦争

 

 鋭い閃光が,目の前を覆うやいなや,真っ赤な炎と黒い煙を放って,風防を持たないロケットのような戦闘機が,下の方に落ちていった.攻撃機のリーダーである黒木は,最後まで爆発したか,自分の目で確認をしたかった.しかし,地上からの攻撃が激しく,危険を冒すことは出来ない.ここはレーダーに任せて,次の迎撃機のインターセプトコースに進入した.
 2056年,長い間の平和から再び,世界は戦争の時代に突入していた.ただ今までと違うのは,無人飛行機,無人軍艦,無人戦車,歩兵の変わりにはロボットが使われるようになり,遠隔操作で戦うことである.人が戦闘で亡くなることは無くなった.自国にロボットたちが進入したら,それで戦争は終了である.新しい戦争が始まった初期の頃は,最後まで戦うことを主張する人たちもいたが,ロボットと人間では勝ち目は無かった.
 たくさんの小さな戦争が,同盟を結び合わせ,これを繰り返したため,ついに大きな2つの連合の戦いとなった.おかげで,10年以上も続いているこの戦争は,決着がつかなくなっていた.
 ドーン
大きな音と地響きに驚いて,丸山一樹は外へ飛び出した.遠くに,黒々とした煙が立ち上っている.
「あの辺はたぶん,東の中央コントロールセンターのあたりだな.地下にある中枢には届かないだろうけど,ついにここまで来たか.」
急いで家の中に戻ると,家族を連れて,近くの公民館へと避難を始めた.
「ねえ,パパ,ロボットたちがここまで来たの?どんな,顔をしているのかな?僕,ロボットとお話ししたい.」
息子の英樹はまだ4才で,状況がまだわかっていないようだ.
まだ,昔の...ロボットたちが,子供のヒーローだった頃の記憶が残っているようだ.テレビでも,未だに,昔のアニメを流している性だな.丸山はそう思った.一樹も息子にしても,戦争専用ロボットの実際の姿を,見たことは無かった.
公民館の近くで,顔見知りの人たちに会った.皆それぞれ,とりあえず駆けつけたようで,荷物など持っている人はいなかった.公民館の入り口近くに,いつもは隠されている下へ降りる階段が用意されていた.誘導の人が
「さあ,早く下に降りてください.急がなくても大丈夫ですよ.まだまだ入れますよ.」
訓練のような落ち着いた静かな行進であった.無駄口を叩く者は誰もなく,ただ耳鳴りのような避難のサイレンの中,静かに人の列は進んだ.
「ねえ,大丈夫だよね?また,おうちに戻れるよね?」
息子の英樹は心配そうに,一樹の顔をのぞき込んだ.
「ああ.」
迫ってくる恐怖が一樹の心の余裕を吹き消そうとしていた.ただ,返事をするだけで精一杯であった.地下では,小さな商店街のように明るく照らされた光が,避難した人々の心にはありがたかった.
大きな地鳴りがして,地下の地面全体が揺れると同時に,煌々と輝いていた照明がすべて消えた.それと同時に,叫び声と泣き声が,聞こえ始めた.一樹は,しっかりと息子の手を握りしめた.「大丈夫だよ.きっと大丈夫.」祈るような気持ちで一樹はそっと息子にささやいた.
3
番目の地響きの後には,これまでに感じたことのない振動が,体を突き抜けた.真っ暗闇の中,怒号と悲鳴が混じり,どこからとも無く,焦げるような異臭も迫ってきた.
「皆さん,静かにしてください.こちらは中央戦略センターです.ただいま我々の基地からも,超大型戦略ミサイルが発射されました.これが,敵の中枢指令部に命中すれば,もう我々のところには,ミサイルは飛んできません.安心してください.繰り返します.こちらは中央戦略センターです....」
予期しないアナウンスに,あきらめかけた人たちから歓声が上がった.それと同時に,薄暗い非常用照明が,あたりを照らした.瓦礫が所々に落ちて,その下敷きになって,動かない人や,助けを求める人がいた.人の手では,とても動かせないコンクリートの塊である.助けたくても,人々は,自分の安全な場所を探すのに,精一杯である.唯一,下敷きになった家族だけが,助けてくれる人を探していたが,ほとんどの人に断られていた.たまに,家族の話を聞いてあげる男がいたが,その状況を見ると,首を振って離れていくのだった.
 一樹はこの状況の中,定期的に行われていた避難訓練のむなしさを実感した.ミサイルによる戦争を知らない人が,避難訓練をしても,ただ自己満足に過ぎなかった.政府はミサイルはロボット戦闘機や迎撃ミサイルで打ち落とせる言っていたが,100%打ち落とせるわけではないのに,国民には安心するように言い続けた.
 ようやく,地上に上がる階段にたどり着いた.しかし,人であふれた階段はどうやら上には上がれないらしい.一樹たちは,もう一つの階段を目指すほか無かった.ここから1Km先らしいが,それまでにどれだけ悲惨な光景を目にするかと想像すると,心が萎えた.
 もし地上に戻れても,ロボット歩兵がいるのかもしれないな.そう思いながら,人間としての心は徐々に麻痺していくのを感じていた.

「いい加減にやめなさい.」
手元を見ながら忙しく,指先を動かす2人に,母親がうんざりした顔つきで呼びかけた.
「そろそろ,おしまいにしないと,お父さんに言いますよ.」
2
人は,ようやく手を休めた.
「もう少しで,俺の勝利だったのに,残念だなー.」
「お兄ちゃんは,いつも不意打ちで攻めてくるから,卑怯だよ.」
「卑怯じゃないよ.ちゃんと今から攻めるよって,知らせてから攻めているよ.」
2
人が言い合いを始めたので,母親が
「ゲームぐらいでそんなに真剣にならなくて良いの.だってリセットすれば,また始められるでしょ.」
「うん,そうなんだよね.かなりこのゲームはやり尽くして,もう2度とやらないと思うくせに,しばらくすると,また始めたくなるんだ.」
そういって,2人はゲーム機を放りだして,自分の部屋に戻っていった.
弟のゲーム機は,まだ明滅を繰り返していた.その画面には,黒々とした煙が立ちこめ,その中に,不安そうな顔をした親子が,歩いている光景が映っていた.
(終)

 

 


















過去への旅

 


 冷却装置からの、絶え間ない重苦しい音が部屋の中に漂っていた。しかし、それを気にとめることもなく、一人の男が一心不乱に、緑色のディスプレイに表示される数字を見ていた。男の名は三田村慎治という。この部屋にこもってから、すでに12時間以上も、食事も摂らずに、大きな機械と手前の小さな機械の間を、犬のように嬉々として往復している。
「時間のZ軸には、もう少し陽電子を加えて、虚数になるまで増やした方がいいようだ。」
そう言うと、銀色の操作盤のダイヤルを右にひねった。黄色い光が部屋全体を覆った。すると大きな機械の中にあるカプセルの中から、一つの動く生き物のようなものが現れ、ゆっくりと三田村の方に向かってきた。それは、黒い毛を逆立たせ、よだれを垂らしながら、三田村に飛びついた。三田村はそれを驚くこともなく、それの自由にさせた。ついには三田村を押し倒して、その生物の顔が三田村の顔に近づいたとき、
「おお、よく無事に帰ったな。おまえは1年前に戻っていたんだぞ。」
そう言うと、大きな黒いレトリバー犬を思いっきり抱きしめた。
 以前、三田村は日本電信電話局の最新技術研究所の所長であったが、莫大な経費に比べると、研究結果がほとんど実らず、遂に研究所は閉鎖に追い込まれ、同時に三田村も、退職した。しかし、研究の途中であった時間旅行については、研究所が閉められた後も私費で続けられていた。研究の成果はあと少しで、実る寸前であった。01秒前から始められた時間旅行は今では1年前までさかのぼれるようになった。それも動物実験まで成功したのである。人体実験まであと一息である。
 ここの部屋は体育館のように天井が高く、そこからは黒いケーブルが、いくつも下の機械とつながり、膨大な電気を送り込んでいるようだった。大きな機械は高さが10mくらいで、金色に輝く太い円形のリングが何重にも連なり、螺旋状に下がって、人が入れるくらいの大きさの透明なカプセルと繋がっていた。カプセルのまわりには電磁シールドのために、ブロンズ色のシールドが2重に覆っているので、カプセル内からも外からも互いによく見えないようである。 クオーンと高い機械の振動音が、実験の始まりを告げた。
すでに60歳に近い三田村にとっては最後のチャンスである。もし、人間で成功したとすれば、ノーベル賞も富も思いのままである。唯ー、心配なのは世界中のだれもやっていないと言うことだけである。
 もう30分したら、交替の研究員がやってくる。彼は研究のパートナーであるが、若いくせに人体実験は危険であると口うるさく言っている。動物の場合は、意識が弱いから過去に戻っても、それ程差がないが、人間の脳は自我の意識が高いので、昏睡になったり、脳機能の障害を起こす可能性があると言うのだ。若いから無鉄砲だとは限らない。男が利口になればなるほど、冒険は好まなくなるものである。
 ようやく操作盤の【Ready】文字が赤く光った。三田村は機械を操作し、シールドを上げ、カプセルの透明な蓋を開けはなった。タイマー予約を1分後に指定した。すぐに機械的な女の声がカウントダウンを始めた。
「25,24,23...
思ったより狭いカプセルに、滑り込むと、目を閉じ、その場にたたずんだ。
「10,9,8...
機械の音が一段と激しくなり、部屋の中のいろいろなものに共鳴し、大きな音を倍増させた。
「耳栓をしておけば良かった。」
そう思った瞬間、頭の中が光った感じがして、全身に痛みを感じた。

目を覚ました。
どうやらカプセルの中で倒れたらしい。膝や腰をぶつけたみたいで、少し痛みがある。意識ははっきりしているし、まわりの景色も変わっていないようだ。
「カプセルの外に出てみよう。」
すでに機械は停止し、シールドも上に上がったままである。
部屋の中にある時計を見ると、出発から1分しか立っていなかった。
「しかし...丸々一年前の今日かもしれない。」
そう思った三田村は、痛む身体をいたわりつつ、ふらふらと研究所の外に出た。1年前と言っても、この研究所の辺りは、それ程変化があるわけでないし、まだ早朝だから、なかなか人にも会うことが出来ないだろう。そう思いながらも、散歩をするように、近くの公園に向かって歩き始めた。
 遠くから、人が歩いているのが見えた。女だった。肌の露出の多い今風の服ではなく、どちらかと言えば、古い感じのする服装であった。まっすぐにこちらへ向かってくるので、ちょっと立ち止まったが、その女は一瞥もくれずに、通り過ぎた。三田村の心は驚きで凍り付いた。
「今の人は、私の妻にそっくりだ。」
驚いたのはそのことではなくて、三田村の妻は10年前に死んでいることにである。
もう一度振り返ったが、声をかける勇気もなく、ただ後ろ姿を見つめるのみだった。
「他人のそら似かもしれないな。でも、本当にそっくりだった。」
まわりがだんだんと明るくなり、新聞を配る人や散歩を楽しむ人、どこか早朝の仕事に出かける人でにぎわい始めた。次々と目の前に現れる人は、何となく古い服装に思えた。中には顔見知りの人もいて、簡単な挨拶をかわした。不思議なことに、記憶では病気がちだった人でも、元気でとても若そうな顔をしていた。
 もしかしたら、10年以上前にタイムスリップしたのかもしれない。そう思った三田村は、はやる気持ちを何とか抑えながら、時間を確かめようと考えた。新聞を買うために、近所のコンビニエンスストアに向かった。平日の朝にもかかわらず、中にいる人は1人だけだった。更に驚いたことに、店員がいなかった。不用心だと思ったが、中にはまだ客がいるから、なにか用事で、少しの間だけ席を外したのかもしれないと思い、待ってみることにした。
しかし、いくら待っても、店員は現れなかった。仕方がないので新聞を見るだけで済ませることにした。
新聞の日付は【平成22101日】と書かれていた。それは今日の日付だった。

ーエピローグー
 「一人で操作をしたようです。」
若い研究員が刑事に説明をしていた。カプセルの扉は開かれ、男の足が見えていた。死んだように動かなかった。いや、すでに死んでから1時間以上経過していた。
引き継ぎの研究員が、三田村の死体をカプセルの中で発見したときには、まだ、生きているように肌の色が瑞々しく、顔はほほえんでいるようにも見えた。懸命の蘇生にもかかわらず、目を開けることは無かった。
 残念ながら時間旅行の人体実験は失敗に終わり、この研究は、これで極秘に葬られることになった。

 三田村が過去だと思った場所は、同じ空間に存在する死後の世界だった。そして、そこで出会えたのは、亡くなった人々のみだった。

(終)

 


















溶ける男

 

 25階の真っ暗な部屋の中央に男が一人倒れていた.顔は床の方を向いていたのでよく見えないが,息はしていないようだった。更に,その頬の部分から床にかけて,何かの液体で黒々と濡れていた。突然後ろのドアが開き、廊下の光が男の身体を照らした。一組の男女が倒れた男を見下ろすように立った。その男の顔は青白く痩せ、黒いスーツはその身体を更に細く見せた。
「これでこいつも楽になっただろう。」
男は女の方を一瞥すると、胸のポケットから、銀色に光る器具を取り出した。その手は恐れているのか少し震えていたが、それを横たわっている男の近くに持っていくと、そっと傍らに置いた。
 若い女の顔は悲しみに沈んでいるようだった。「こんなことになるなんて...」形の良い唇はきゅっと固く閉じられ、嗚咽を抑えていた。
男が促すように「さあ、そろそろ出ようか。ここでの出来事は2人だけの秘密にしなくてはいけないから、人目に付かないうちに、さあ。」
そういうと、女は男のあとに続いて部屋を出て行った。ガチャンとドアが閉じられ,後は暗闇と男の死体だけが残された。

 1週間前
 曇ったように見える空はよく見ると,ところどころ日差しがそれを透かして,青空と黒い雲が同居していた。冬も徐々に遠くになり、春の香がするような風が通り抜けていた。野坂順ーは朝の通勤電車の中で日だまりを浴びて,ついうとうとしていた。彼は外資系の証券会社に勤める31才の営業マンである。やたらに眠いのは、近頃、悪夢で夜中に目が覚めることがあるからだ。昨日の夢は、自分の家の近くにある外人墓地で墓荒らしがあり、埋められた死体が無くなっているという話だ。それで目を覚ましたが,眠れば夢は続き,今度は無くなった死体が自分の家に現れるのだ.もう一度寝ようとしたが,その続きが怖くて眠られなかった.そんなことがあって、なんだか朝から身体がだるくて、なかなか起き上がられなかった。体温を測ってみたら38度もあった。大事なお得意先への挨拶があるので、どうしても午前中は休めない.しかし,午後には時間を見つけて医者へ行こうと思った。外はそれほど暑くもないが、なぜか電車の窓から差し込む光がとてもまぶしく感じた。低いうなりを上げながら、電車は目的の西新宿駅に到着した。
 高層ビルが建ち並ぶ新宿の副都心のように、ここも堂々とした高いビルが建ち並び、ユアマン証券会社はその25階と26階にあった。主に海外からの顧客を相手に日本企業の株を売買する会社である。売り上げは最近ますます増えて、これから伸びる企業の一つであった。白崎栄子はここのベテランの総務課の主任である。学歴はそれほど高くないが、気配りが行き届くと言うことで重要な会議のセッティングには欠かせない存在だった。すでに給湯室ではお茶の準備がされていた。手伝ってくれる女子事務員もすでに23人いて、話し込んでいた。
「今日の会議だけど、何人くらい来るのかしら?」
10人くらいらしいけど、みんなお茶を出せばいいそうよ。」
「そういえば、最近、会社の中が臭くない?」
「え、それは雰囲気が良くないということ?」
「ううん、違うの、変なにおいがしないか?ってことよ。」
「さあ、私はわからなかったけれど。」
給湯室から話し声ばかり聞こえてくるが、いつまで経ってもお茶が運ばれてこないので,しびれを切らして白崎が顔を出した。
「お客様が来られたから、大会議室へお茶を運んでくださいね。それから、岸本さん、あなたは書類がそろっているか確認してちょうだい。」
入社して2年目の岸本裕子は、若者らしく張り切って会議室の方へ歩き出した。会議室に向かう廊下で、野坂順一に出会った。
「おはようございます。野坂さん。」いつものように思いっきりの笑顔で挨拶をした
「ああ、おはよう。」野坂も何とか笑顔を作り,立ち止まって答えた。
「元気がないですね。風邪ですか。」
岸本は心配そうに野坂の顔をのぞき込むように尋ねた。
「ああ...いや、大丈夫だから。」
そう言い残して、野坂は岸本の目を避けるようにして、自分の部署に向かった。
「身体がとてもつらそうに見えるわ。」
しかし,そう思ったのは一瞬だけで、すぐに自分の仕事を思い出し、会議室へ向かった。
 営業部はこの会社では最も人数の多い部署であり、たくさんのデスクが並んで、多くの人々が出入りしていた。野坂はその部署では中堅であり、やや大きめのデスクの上は書類や郵便物でいっぱいだった。まずは書類の整理から始めた。いらない書類をまずごみ箱に追いやり、緊急度に応じて書類を区分けした。ようやく机の模様が見えてきたので,次に面会予定のクライアントに電話をかけることにした。
「もしもし,安原さんですか?私、ユアマン証券会社の野坂と申しますが、はい、今日の午後2時にですね。...はい、よろしくお願いします。」いつものように営業らしい丁寧で明るい声でアポイントを取り付けた。
その予定を手帳に書き込もうとしたとき、一滴の血が紙の上に落ちた。驚いて鼻を押さえると、手にもたくさんの血液が付着していた。
とっさに目の前のティッシュを手に取り、鼻を押さえた。まわりの人は朝の忙しいときなので誰もそのことには気がついていなかった。
「困ったな。これじゃあ、人に会えないな。」
5
分ほど強くティッシュで鼻を押さえていたら、どうやら出血は止まってきたようである。
野坂は苦笑いをしながら、ドキドキした気持ちを抑えようとした。
心が落ち着いてきたので、血液で汚れた机の上を片付けようとした。拭き取ったティッシュに付いていたのは血液だけかと思ったら、小さな肉片のようなものもそこにあった。指でつぶしてみると柔らかで、すぐにつぶれて液状になった。少しびっくりしたが,すぐに誰に気づかれないようにゴミとして捨てた。そして、何事もなかったように部署の喧噪を後にして、野坂は営業へと出かけた。
 会議室では新しい商品について、プレゼンテーションが始まった。今回の商品は日本の有数の企業の株を集めて、まとめて買ってもらうことによってリスクを少なくすると言うものだった。特に電力株や銀行株がそれに加わったことを強調していた。最初のプレゼンテーションが終わったところで、休憩となった。10人ほどの得意先の男たちは、顔見知り同士はそれぞれ話し込んでいるが、矢崎は今日がはじめての招待であったので、顔見知りなど無くて、ただぼんやりと外の景色を見ていた。大きな窓から見える空には切れ切れになった雲が低く流れていた。矢崎は薬学部を卒業したので、当然のごとく製薬会社に入社したが、もっとやりがいのある仕事を求めて、東京の大手投資会社に再就職をした。もし良い商品があれば、個人客にも紹介しようと言うことで、この勉強会にやってきたのである。喫煙所でタバコを一服している間に、何度も若い事務員が往来しているのを見ていた。その中でとても忙しそうに働いているけど、ちっとも嫌な顔をしないでうれしそうなのが印象的な女がいた。そんな働く姿を見ていたら、不意に目が合い、思わず会釈をした。向こうも少しの間の後に、ほほえみながらお辞儀をして返した。
「何時まで休憩でしたか?」矢崎はその若い事務員に尋ねた。
1115分までです。もうすぐ始まりますね。そろそろご準備された方が良いかと思います。」矢崎は実のところ開始時刻は知っていたが、そのかいがいしく働く若い女に興味があり、声をかけたのであった。
「そう、ありがとう。ところで前のプレゼンテーションで私の分の資料で足りない書類があったのだけど、もらえるかな?」
「あ、すみません。今、持ってきますのでしばらくお待ちください。」
女はさわやかな柑橘系の香を残して走り去った。
「今のプレゼンはぴんと来なかったけれど、彼女はかわいくて感じが良かったな。」
5
分ほどすると、息を切らせながら顔を少し上気させてこちらへ走ってくる岸本が見えた。
「お待たせしました。これで大丈夫だと思うのですが、ご確認ください。」
「お手数かけてありがとう。」
ちょうどその時、後半のプレゼンテーションが始まると係の若い男が告げて回った。
「がんばってください。」
そう言った後で、岸本裕子は矢崎とそんな親しいわけでもないのに、つい声をかけてしまったことを恥ずかしく思った。
午後のプレゼンテーションも期待道理、退屈であった。暗い会議室では背の低い男が高い声を張り上げて投資家への勧誘方法を得意そうに説明していた.すでに長時間の講演でうんざりしていた矢崎は,「キイキイ声め!」とうるさく思いながら,会社への報告書類を作っていた。

 徐々に日差しは強くなり,上からの光は野坂の疲労感を誘った.バスを降りて,坂を登ると,あたりは大きな家々がこれでもかと言わんばかりに,高い塀をめぐらせていた。この時間には,ほとんど人通りがなかった.唯一であったのは,自分と同じ格好をした男であった.バスを降りて10分ぐらいだが,既に何時間も歩いているような疲れである.目的の家は,この先の交差点を右に曲がったところにある。野坂は熱でほだされた身体を引きずりながら、今日の仕事が滞りなく終わることだけを考えていた。歩いても,歩いても,同じような白い高い塀が果てしなく続くと,日常離れした場所に来たような気がした。どこか知らない世界で迷路にはまりこんだ気分になった。白い壁の果てには大きな門があり、扉は格子戸であるが、自然の木ではなくて,木をまねた金属で,鈍い反射を放っていた。
扉の横にあるインターホンで話しかけると、しばらく間があり中年の女の声がした。
「はい、どちら様でしょうか?」
第一印象が重要であるため、野坂は出来るだけ、明るく明瞭な声で答えた。
「ユアマン証券会社の野坂と申しますが、ご主人に面会をお願いしたします。」
ようやく開いた鉄格子のような扉から、石畳の小道が続き、黒っぽい玄関へと導かれていった。
黒っぽい大理石で敷かれた玄関には、着物を着た小柄な女が立っていた。
「生憎、主人は外出していますが、お話を聞くように言いつかっていますのでどうぞ。」
野坂は玄関の右にある応接室に通された。お金のある家の応接室と言えば、たくさんの調度品や骨董品や絵画が所狭しと並べられているものだと思っていたら、応接セット以外は何も置かれていなかった。ただテーブルには来客用のタバコとライターが置かれているだけだった。
この家の奥さんとおぼしき人を正面にして、野坂はあわてて鞄を広げ、今度販売される外国債のパンフレットの説明を始めた。からだの熱と緊張で口が渇くので、何度もつばを飲み込もうとしたが、返って息が詰まりそうになった。それに気がついた女主人は「どうも気がつきませんで。お飲み物をお持ちしましょう。」そう言って、部屋を出て行った.すぐに小さな丸いお盆にビールをついだグラスを乗せて,しずしずと入ってきた.
どうぞと言って出されたビールを仕事中だし、飲もうか飲まないでおこうか考えたが、のどの渇きに負けて一気に飲んでしまった。
「まあ、御ビールがお好きなのですか?」
ちょっと驚いた様子の後,女主人は思わずうれしそうな顔をした。
野坂はまずいなと思ったが、仕事に集中すれば、こんな誘惑もはねつけられると思い、できるだけ事務的な口調で商品の説明をした。
女主人はずっと野坂の顔を見ていたが、説明を終えると、何の質問もなくその商品を購入すると言った。いつもの気むずかしい旦那にあれこれ質問攻めにされるよりは遙かに良かった。会社にとっては特上のお得意様だから,簡単に契約が決まって,これほどうれしいことは無いのだが、野坂はこの女主人の態度に引っかかるものがあって、素直には喜べなかった。
「それじゃあ、お仕事が終わったようですので,御ビールのおかわりを持ってきましょう。」
そう言うと今度はビール瓶とグラスを持って来た。
野坂は更にまずいことになったと思いながら、ここで2人でビールを飲み交わすことになれば、自分に弱みが出来てしまうような気がして不安になった。しかし、ここまで準備されて断れば、まとまった商談も反故にされかねない。仕方なくしばらく世間話をしながら、つきあうことにした。
女主人はよく見ると,声で想像していたよりも,若そうである。30前半であろうか、ここの旦那さんとはかなり年の差がありそうだ。なんとか次の仕事があると告げ、終わりにすることが出来た。また良い商品があったら,教えてくれと言われ、なんとか家を後にした。
 個人相手の営業では,こんなこともたまにはあるが、それでも仕事を忘れないようにしないと、身を滅ぼすことになる。そう思いながら、一時緊張で忘れていた身体のだるさが、アルコールでまた強くなったようである。駅に向かう途中に公園があったので、トイレで用を足すことにした。公園のトイレらしく、かなり薄汚れた感じがしたが、さっき飲んだビールのせいで勢いよく出た。最後のところで軽く腰に痛みがあり、ふと便器を見ると、尿の色がコーヒー色をしていた。野坂はたぶん熱があるせいかと思い、それほど気にはしなかった。しかし、今日の仕事が終わったら近所の医院へ行ってみようかと思った。
 病気が理由で早退となると,出世に響く外資系の会社である.取引先を回って直接帰宅すると嘘をついて,なんとか午後5時には帰ることが出来た.待合室は学校帰りの子供や仕事帰りの人であふれていた。ここで長時間待つのは気が重かったが、明日からの仕事を考えて我慢して待つことにした。ばらばらと外では雨の音が聞こえた。待合室の窓から外を見ると、すっかり日が暮れて、夜の雰囲気があった。冷たそうな外の雨を見ていたら、背筋がぞくぞくしてきた。ようやく名前が呼ばれ、診察室のドアを開けた。
 診察室の中に背が低い太った男がいた。言われるままにいすに腰掛け、これまでの経過を話した。
「風邪にしては、治りが遅いですね。血液検査をしてみましょう。」というと,隣にいた痩せた色黒の棒のみたいな看護婦に,聞いたことのない英語らしき言葉を言うと血液検査をされた.「明日来てください。」とだけ伝えられて,診察は終わった。「薬は?」と聞くと「無いです.」と受付の若い事務員に言われ、このだるさは何とかならないのかと思いながら、もう一日我慢するしかなかった。
 外の寒さと自分の体調を思い、自宅までタクシーで帰ることにした。しかし、自分のアパートに着くやいなや、再び悪寒に襲われ、食卓の前に崩れるように寝てしまった。

 真っ赤な光が頭の上からやってきた。野坂の住むアパートに朝日が真横から照らしだした。野坂の体は昨日と同じ場所にあった。うつぶせの背中は光の加減で黒く見え、心なしか小さくなったようである。それでも、7時の目覚まし時計が鳴ると,むくむくと起き出し、ぶつぶつとひとり事を言いながら洗面所に向かった。
「今日はすっかり風邪も良くなったみたいだ。身体のだるさも消えたようだ。」そんな自分の顔色を確認しながら、歯磨きを済ませた。
直行で9時までに、得意先の横浜信用金庫に行けばいいからまだ時間に余裕がある。そう思うと朝食をいつもよりたくさん作ろうかなんて気持ちになる。料理は得意ではないが、自分の好物はよくわかっていから、冷たいミルクとチーズをのせてよく焼いたトーストと、オニオンスープを暖め、冷蔵庫にあったフルーツとオムレツをそろえてみた。食卓は食べなくても賑やかの方が好きだった。しかし、奇妙なことに,いつもは何かを食べようとすると寄ってくる愛犬が、なぜかやってこない。「そう言えば,近頃は野坂の顔を見ても、うれしそうに駆け寄ることもなくなったなあ.」などとぼんやり考えてみた。テレビでは再開発地区の工事の進み具合をレポートしていた。こざっぱりした細身の、しかし表情の乏しい女が,黒いダブルのスーツの襟を気にしながら,何かを話していた。
 大きなビルの中に大きなロビーを構えて、いかにもな高級感を強調しているが、この横浜信用金庫は天井が低く、薄汚れた感じがしている。堅実な経営をしているようにも見えるが、単に設備投資できないほど台所が苦しいのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えながら、野坂は支店長との面会を待つことにした。通された部屋はただロビーの奥を仕切っただけの部屋であった。壁には,先月のままめくられていないカレンダーだけが,掛かっていた。10分ほどすると、横のドアから愛想の良さそうな髪の薄い太った男が、にこやかに現れた。
「やあ,お待たせしたね.この間のアメリカの証券はうまく売り抜けたけれど、これからが大変みたいだね。世界中が不況,不況では、中小企業相手にしている私たちにとって,融資は命がけだよ。」
大企業相手の融資ならどこの銀行でもやっているが、中小企業となると、なかなか融資をする勇気はどの銀行もなく、失敗すれば共倒れである。そう言う理由でリスクを承知の上で、銀行も外国の株に投資するわけである。
「そういえば、バックについてはどうなっているのかな?」急に支店長は声を低くして野坂に聞いた。証券を買うときに手数料を上乗せして信用金庫に請求していたのである。野坂にしたら直接の利益はないが、おかげで大きな投資をしてもらえる上得意先になっている。支店長のものになった金額は1000万円以上である。更にこれだけでは足らないらしく、最近では勝手に信用金庫の資金を使って投資をするようになっていた。
 一通りの話が済んで、上機嫌で支店長は野坂を姿が見えなくなるまで見送った。その目は沼のように黒々と光っていた。

 「これだから、新人は困るのよね。」あからさまに大きな声で、白崎栄子は何人かの新入社員を前にしていた。
「特に、岸本さん、あなたは仕事中に私用でメールをしないでと言っているでしょう。」いつもは優しい白崎が、あまりに堂々と岸本がメールを送っているので注意したのである。その間中、岸本は元気無くうなだれていたが、気持ちは午後6時の矢崎との待ち合わせのことで心が一杯だった。
午後530分のチャイムが,岸本にはいつもより遅いように思えた。
すでに着替えを終わった岸本は「今日の服装はあまりに派手だと,期待しているみたいに思われるし、かといって、地味ではさえないOLそのままだしね。」と自宅を出る前にさんざん悩んだが、再び悩んでしまった。
積極的な私には派手な服装が似合うと思い、ラメの入った胸元の開いたワンピースで出かけることにした。会社から出るときに何人も男子社員が振り返った。恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。
 徐々に崩れそうな夕暮れの暗さである。ひんやりとした風が、外でヒューヒュー音を立てていた。男がビルの階段の人目の付かないところで、じっと立っていた。慣れた感じで、タバコに火をつけ、一服し終えると、携帯電話で誰かと話し始めた。
「...疑いがあるのだな。ユアマン証券の...背任事件に発展する...」
ちょうど降り出した雨が男の声を消し去った。暗闇が迫り、車のヘッドライトが照らしたその顔は矢崎であった。
ようやく電話が終わると落ち着いた様子で、そのビルの最上階のフレンチレストランへ向かった。
6
30分過ぎ。約束の時間を30分以上も遅れて矢崎は待ち合わせの場所に着いた。すでに30分前からテーブルに座っていた岸本は、矢崎がのんびりと店に入ってくるのを見て、腹が立ち意地悪をしてやろうと思った。
「遅れてごめん。商談が長引いてね。」悪びれずに思いっきりの笑顔で話しかけた。
矢崎をにらみつけるようにして岸本は言った。
「人違いをしていませんか?私は他の人と待ち合わせをしていますから。」
それを聞いて矢崎は少しひるんだが、負けずに
「その人はきっと来ないですから、私に付き合ってください。」強引にテーブルの正面に座った。
ようやく岸本の目にも笑みが浮かび、
「矢崎さん、もう来ないのかと思い、帰ろうとしていたところです。」
「じゃあ,ぎりぎりセーフだね.きょうは付いてるなあ。」
矢崎の冗談で岸本の心の緊張がゆっくり解け出した。外は雨に濡れた都会の色とりどりの灯りがぼんやりと見えている。
ボーイが注文を聞きに来た.2人は,よくわからない名前の料理の注文を終えると,ようやく人心地ついた.
仕事のことや,映画の話をするうちに岸本の気持ちは徐々に昂ぶるようだった.
しかし、矢崎の思いは岸本の思いとは重ならなかった。
「ところで君の会社では監査はいつあるのかな?」
岸本は思いもよらない質問に,若干,間があって,
「えーと、余りよく知らないけれど、決算の頃だから、9月か10月だと思うわ。」
すっかり、言葉の使い方も親密に変わっていた。
「君には迷惑をかけないから、監査の記録をコピーしてくれないかな?」
「そんなの絶対に無理です。困ります。私クビになっちゃいます。」
「そうか、無理には頼めないな。」
「それよりも、食事が終わったら、どこか飲みに行きませんか?私、いい所を知っています。」
情報を聞き出すつもりが、全く手がかりがつかめず、気落ちしてしまった矢崎は、酒で気分を晴らそうと考え、一緒に店を後にした。

 その頃、野坂は仕事も終わり電車で家路を急いでいた。満員の車内は、外よりもむっとした生暖かさで、健康な人でも気分が悪くなりそうである。野坂は運良く座ることが出来た。雨のせいでいつもより混んでいるようだ。膝の近くまで人の足が迫っている。突然、手の上に水が落ちたような気がした。誰かの傘のしずくかと思って手を見たら、真っ赤な血がそこにはあった。近くの乗客たちも、びっくりした様子で後ずさりを始め、野坂のまわりには大きな円が出来上がった。驚いて自分の顔を押さえると、ぬるぬるした感触が口のまわりにあって、指で触ると頬に穴が開いて、自分の歯に触れた。急いで最寄りの駅で降りると、頬の部分をハンカチで押さえて洗面所に駆け込んだ。
 恐る恐る鏡を見ると、左の頬には3cmくらいの穴が開き、下の歯茎が見えた。出血は止まったが、じわじわとあごに沿って血がしたたり落ちた。皮膚の表面が溶けているようで、手で触ると穴がどんどん広がっていった。野坂の脳裏にふと、横浜信用金庫で出されたお茶が、いつもぴりぴりと下に浸みることを思い出した。口の中で浸みる痛さが気になっていたが、すでに穴が開きかけていたのかもしれないと思った。鏡に映った自分の顔のものすごさは大きなショックを与え、野坂は動悸が激しくなり、足が震えてうまく歩けなかった。震える手で何とか携帯を取り出すと、119とボタンを押した。事務的な声が聞こえた。ここの駅名を係員に告げると、そのまま洗面所の壁に寄りかかり、崩れるように倒れた。冷たいタイルの床の感触が体中に広がるにつれて、少しずつ気が遠のいた。

 ローズウッドの床に古風な椅子やソファーが並ぶ部屋の奥の方に、ここには不釣り合いな金属製の机が置いてあった。そこだけ青白い蛍光灯で明々と照らされていた。一人の男が一生懸命にお湯の入ったガラスボールの中で小さなコップを揺らしていた。そのコップの中にある白い液体は泡立ちながら、少しずつその体積を減らしていた。男は目を見開いてそれを大切そうに眺めていた。
「ふー、もう少しで出来上がるな。」独り言のように低くささやき、そのコップに蓋をして、机の横の保温庫と書かれた大きな箱を開くと、その中に置いた。中には同じようなコップが10個ほど並び、入れ替わりにその中の一つを取り出した。コップの底には白い粉末がこびりついていた。男は小さなスプーンでそれを擦り取り、白い薬包紙に移し替えようとした。重なった薬包紙がうまくつまめず、癖で手を舐めようとした。
「おっと、あぶない、あぶない。こっちの方が先にあの世行きだ。」
男の顔にはゆがんだ笑いが浮かび上がり、昼間に見せた人の良さそうな信用金庫の支店長とは思えない表情だった。
「順調に弱っているようだから、後23回飲ませれば、完全に病死だな。」
そう言って、薬包紙を器用にたたんで、自分の財布の中にしまい込んだ。

 様々なきらめく光が交差していた。そんな繁華街の道をゆっくりと走る一台のタクシーがあった。窓越しに一組のカップルが熱中して話し込み、話がとぎれれば見つめ合った。何も知らない他人が見れば、楽しくて仕方がないカップルに勘違いされそうだが、男は仕事が目的であった。何としてもユアマン証券会社の経営が良好か調べて、本社に報告しなくてはならないのである。
「あ、運転手さん、その角を右に曲がったところで止めてください。」
少し繁華街から離れた所に止まった。案内された店は小さなショットバーのようだった。
「こんにちは、じゃなかった、こんばんは,ね。」店のマスターにそう言うと
裕子は矢崎の方をちらっと見た。緊張している心を悟られないように、ゆっくりと奥のテーブルに向かった。
「ねえ、なかなか雰囲気がいいでしょう?」
矢崎は同意を求められたのに気がつかず、どうしたらいいか考えていた。
「矢崎さん、聞いているの?」
「ああ、もちろん、明日は休みだから、遅くまで飲んでも大丈夫だよ。」
「もう、何言っているの。」裕子は白い歯を見せて笑い出した。
裕子はすっかり矢崎のことが気に入っていた。頭が良さそうだし、昼間のクールな所に比べて、夜はなんだか間の抜けた所があって、もちろん外見も好みだった。会社での悩みを聞いてもらっているうちにさっき頼んだダイキリが効いたようで、顔が熱くなってきた。頭もなんだかボーとしているけれど、とても気分が良くなっていた。

 時間がどれだけ過ぎたのだろう。野坂が、次に目を覚ましたときには、ベットの上で全く動けない状態だった。顔を持ち上げると、遠くに人の気配がした。手を動かしてみようとしたが、どこかに縛られているようで、両手足共に動かなかった。声を出そうとするが、頬に穴が開いてうまく発音が出来ない。それで、頬に穴が開いたのは現実だと実感した。口の中は消毒液と血液が混じった最悪な味がした。もし健康だったら吐いてしまうほどである。やがて、野坂のうめき声を聞いて、誰かが近づいてきた。
「目が覚めたようですね。」
「ここはどこだ?」
「新横浜病院です。ここに来たときには出血が酷くて、今、輸血中です。たぶん発熱して気分が悪いと思うけど、もうすぐ終わりますからね。それから、後から先生からお話がありますから。」そう告げると静かに部屋から出て行った。おそらく医者を呼びに行ったのだろう。
耳を澄ますと、人工呼吸器や心電図モニターの規則正しい音のみ聞こえるが、ここ(=ICU)には人の気配は感じられなかった。その中で唯一意識があるのが野坂であった。頭の中はなぜだかはっきりとして、こんな事になったのは、あの支店長に飲まされたお茶に、何か混ぜられたと確信していた。けれどもここで目を覚ましてから、不思議と疲れも痛みも野坂は全く感じていなかった。輸血のおかげもあるだろうが、野坂の身体の中で起こりつつあることが原因だった。
 拘束された手に力を入れてみた。ブツッと鈍い音がして、簡単に拘束していたバンドが切れた。ゆっくりと起き上がると、足のバンドを外して、出口の方へ歩き始めた。廊下に出たところで、さっきの看護婦に鉢合わせた。
「野坂さん、動いてはいけません。また出血しますよ。」
野坂は一言もしゃべらず、包帯の間から鋭い目でにらみつけてきた。顔の包帯がはずれて、傷跡からどす黒い血と唾液が混じった液体がしたたり落ちていた。看護婦はその形相と思いの外、しっかりした歩き方に圧倒されて道を譲った。しかし、看護婦は思い直して、前に回り込んだ。男はそれに気がつき、ものすごい力で振り払った。女は人形のように振り飛ばされて気を失った。廊下全体に低く轟く音がした。それを聞きつけた他の看護婦が集まってきたが、包帯が取れたその顔が怖くて、声を出す者も押さえつけようとする者もいなかった。そのうちに身体の大きな警備員が飛び出してきて、野坂の前を塞いだ。警棒を持って威嚇したが、全くひるむ様子は無かった。体格で勝る警備員は力で押さえつけようとしたが、野坂が警備員の身体を押すと、グシャと肋骨の折れる音がした。悲鳴を上げて警備員はそこへ倒れ込み、もう動けなかった。野坂のそれは人間の力ではなかった。
 午前10時、青空からの光がまぶしく差し込んでいた。きょうも見舞いに来た人や患者で病院の中はあふれていた。突然、顔の半分の皮膚が無く、そこから中の歯が覗いている人間が、血をしたたらせながら現れたのだ。大きな悲鳴をあげ逃げ出す人、好奇心で集まる人、一気に騒然とした空気に包まれた。野坂の手でちょっと小突かれただけで、身体が飛ばされてしまう。しかし、それを続けているうちに、自分の手が変形してきたことに野坂は気がついた。筋力の増大に自己の骨が負けて、骨折や靱帯の断裂を起こしていた。一瞬、自分の姿が廊下の窓に映った。何かに気がついたらしく、立ち止まり、血液で汚れた病衣を見ると、ゆっくりと気を失った警備員の所へ引き返した。その足を軽々つかみ、引きずりながら、近くの空き部屋に入った。しばらくすると警備員の黒い制服に着替えた野坂が部屋の中にいた。鏡を見ると心配そうに自分の傷に触れた。まだ出血が続くため、シーツを裂いて顔全体を覆った。ドアの外には多くの人がいたが、それを全く気にせず、ゆっくりと歩き始めた。「まったく、なんて最悪な日なんだ。」厚く顔に巻かれたシーツの下で野坂はつぶやいた。

 明るい日差しが、ビルの窓から差し込んでいた。岸本は、今、眠りから目覚めたように大きな伸びをした。時刻は10時を過ぎようとしていた。「昨日は、ほとんど寝ていないから、きょうは大変ね。」しかし、昨日の矢崎との一夜を考えると、心は元気であった。その証拠に資料室に向かう足取りは速かった。
「決算報告書なんてどこにあるのかしら?むやみに探しても見つからないわね。」
秘書室の友達なら知っているかと思ったが、反対に、なぜそれが必要なのか聞かれたら、返事に困るので、自分で探すことにした。資料室は25階の奥にある窓のない薄暗い部屋である。
「いつも思うけど、図書館みたいにぱっと明るくしたらいいのに、これじゃあ昔の古本屋ね。」
日本語で書かれた決算報告書はすぐに見つかったが、矢崎がほしいのは、裏の決算報告書である。そんな重要な書類が簡単に見つかるとは思えなかった。ユアマン証券は日本の会社だが、本社は外国で登記されている。もしかしたら、本社への報告書で何か手掛りがあるかもしれない。そう思った裕子は、英語で書かれた項目を探し始めた。
「えーと、レポートだから、Rのところね。」
「これみたいだわ。報告のコメントも載っているしね。後はこれをコピーすればいいわ。」
裕子は早くコピーを終わらないと怪しまれると思い、ドキドキしながらコピーをしていた。思いもよらずドアが開き、総務課の課長が入ってきた。
「おや、岸本君が資料室に来るとは珍しいね。」
「いえ、そんなこと無いですよ。プレゼンの資料を頼まれて、よく来ますよ。」
「そうか、そうか。」と言いながら課長は奥の方へ消えていった。
「あー、びっくりした。コピーしているのが、本社への報告書だとわかったら、産業スパイだと思われちゃうわ。さしずめ女スパイね。」緊張しながらも、どこかののんびりしている性格であった。
「さーてと、今日の夜でも矢崎さんに電話してみようかしら。」
そう言いながら、自分の部署に戻っていった。

 ビルの間には、細い路地がつきものである。高級マンションやオフィスが建ち並ぶ表通りの清潔さに比べて、色んなゴミが吹き貯まっている。人前には出られない人間もそこにはいる。何年も着古したジャケットを大切そうに着た男が、ごみ箱の中をあさっていた。「ここにも、食べられそうなものは無いようだ。」
ふと、後ろを振り返ると、突進してくる黒い影が見えた。あっと声を上げるまもなく、男は突き飛ばされて、ごみ箱に逆戻りした。
 安原が住んでいるのは、信用金庫の支店長にしては控えめなマンションだが、それでも警備員が常駐するくらいだから十分に高級であろう。10時頃、そろそろ休もうかと安原はベッドに向かおうとしたその時、火災報知器が突然鳴りだした。驚いて廊下に出ると、すでに煙はうっすらと充満して、咽には煙の刺激があった。
それ程危険にも感じなかった安原は、のんびりと非常階段へと向かった。
「ここから、30階も階段で下りるなんて、悪夢だな。」
しかし、彼の悪夢はそれよりも酷かった。すぐに踊り場で警備員に出会った。
「警備員くん。どこで火事があったのだ?下まで降りるのはこの年じゃ大変だよ。上に避難した方がいいのかな?」
警備員は後ろを向いたままで「あなたには下へ行く方がお似合いですよ。」
言っている意味がわからなかった安原は
「君はこんな時にふざけているのかね?」顔を赤くしながら怒り出した。
「君の会社に報告して、クビにすることも僕は出来るのだよ。」いつもは愛想のいい安原の仮面が取れた。
「え、聞いているのか?さっさとこっちを向いて話せ!」
 安原が警備員の肩に手をかけると、ゆっくりと振り向いた。しかし、その顔には目も鼻も口も無かった。顔は布でぐるぐるに巻かれていた。安原は驚いて肩にかけた手を離そうとした。しかし、すでに男の手が万力のような力でつかんでいたため動かせない。何とか離そうと抵抗したが、更に力が強まり、指が23本,折れた音がする。痛みのため座り込む安原。その首をつかんで、思いっきり上に放り上げた。ビル全体に響く鈍い音と振動。天井の頑丈なコンクリートの壁に当たり、安原の上昇は止まる。そして、床に力なく落ちると2度と動かなかった。徐々に頭からの血が床に広がり、下に向かって階段を伝っていった。
「私に比べたら、一瞬で苦しみが終わるのだから、ありがたく思え。」そう言い終わると、足での一撃を安原の腹部に加えた。軽々と身体は吹き飛び、窓を破って外へ飛び出した。
たくさんの人の声と足音が上から近づいてきた。避難をする人たちのようだ。
恐るべき警備員は何事もなかったようにゆっくりと階段を降り始めた。そして、顔の包帯を取り去った。更にすごみを増した野坂がそこにいた。頬の穴は口と繋がり、まるで猛獣のように耳まである大きな口に見えた。いやそれ以上に、口からしたたり落ちる唾液と血液が彼を獣以上に思わせる。
大勢が階段を降りて近づいてきた。先頭の若い男が野坂の顔を見たが、何も驚きも恐怖の声も出さずに、そこを通り過ぎた。野坂は大きなマスクをしていた。ついでに「ゆっくりと落ち着いて避難してください。」とまで話し出した。職務に忠実な警備員らしく。

「酷い話もあるものだ。」中年の刑事が話した。
「まったく、誰かのいたずらを真に受けて、窓から飛び出すなんて。」若い刑事が死体を前にして同情していた。
「自殺じゃなさそうだから、一応事故と言うことで、あとは発煙筒を使った犯人を捜すだけだな。防犯カメラですぐにわかるだろう。」
そう言いながら、刑事たちは署に戻った。

 「しゃれたレストランよりも、ここの方が落ち着くわ。特に秘密の話をするときにはね。」
そう言いながら、裕子は矢崎の部屋でうれしそうに話していた。
「何もおかまいできないけど、適当にくつろいでいてくれる?僕はこのコピーをじっくり見たいからね。」
「いいわよ。自由にさせてもらうわ。咽が渇いたから、何か無いかしら?」
冷蔵庫のある方へ裕子は向かった。
それを見届けると、矢崎は優しい目つきから、プロの厳しい目つきに変化した。
「横浜信用金庫の取引では、やけに手数料が高いけど、それ以外に諸費用などが加わっていて結局それをまた信用金庫に戻しているぞ。」
「ねえ、ここにあるビールをもらっていいかしら?」
台所から、裕子の声が聞こえた。
「ああ、いいよ。」
これで、本社への報告も十分な証拠で出来るだろう。本当に助かった。献身的に仕事をやってくれた裕子には何かプレゼントを送ろうかな。そう考えていると、隣に突然、裕子が現れた。
「一人じゃ飲んでもつまんないから、一緒に飲みましょうよ。」
最初は仕事に利用していただけで付き合っていたので、罪悪感を持っていた。しかし、優しくて明るい性格に触れ、矢崎も徐々に好意を持ち始めていた。
「これが人を好きになると言うことなのかな?
今までは美人でスタイルが良くて女優みたいな女とばかり付き合っていたけど、彼女らの性格なんて全く気にしていなかった。でも最後は居心地の悪さで別れることが多かったなあ。
僕もこんな人と一緒にいると自分の性格も、明るくて優しくなるかもしれないな。」
「何か言った?」
「いや、独り言だよ。」
「ふふ、おかしいわね。じゃあ、仕事の成功のお祝いね。乾杯!。」
窓の外はまだ暗い夜が広がっていた。

 支店長が無くなって2日しか経っていないにもかかわらず、横浜信用金庫では、いつもと同じような業務が支障なく行われていた。どれほど重要な人でも、いなくなったら、すぐに変わりが見つかるのが世の常であった。
昼休み時間になった。
噂好きの受付の女が待ちきれないとばかりに、隣のカウンターの女と話し始めた。
「前の支店長の安原さんて、殺されたって噂もあるけど、本当なの?」
「ええ、何でも防犯カメラに顔を包帯で隠した男が写っていたって話よ。」
「ふーん、何か人に恨まれるようなことをしていたのかしら?」
「だって、私たちには些細な失敗でも、すごく怒るから、それでやめちゃった人もいるのよね。きっと人から恨まれているわ。」
「そうね、忙しい人ってみんな同じよ。ちょっとしたことでも気に入らないみたい。今度の支店長もずっと支店長補佐からあがれなかったけど、もしかしたら変わるかもね。」
みんなの予想に反して新しい支店長は機嫌が良かった。前支店長が隠していた預金口座を見つけたのだ。その金の出所はユアマン証券のバックマージンである。
「出世するといいことばかりだ。会社にはこのまま黙って私が引き継ぐことにするか。」

「私、横浜警察署の刑事ですが、こちらに野坂順一さんという方がいますか?」ちょうど裕子が会社で受付をしているときだった。2人の刑事が尋ねてきた。
「野坂でしたら、病気で休んでいます。」
「そうですか、ご住所を教えてもらえるとありがたいのですが。」
「なにか、あったのでしょうか?」
「いえ、病院を抜け出してその後、行方がわからないのです。」
「病院を抜け出しただけで、警察が出てくるのですか?」
「実は横浜信用金庫の支店長の事故死はご存じですね。その犯人である容疑があります。」
裕子は驚いて、刑事に野坂の住所を教えた。
「あの優しい野坂さんが、人を殺すなんて。」
早速、矢崎にこのことを相談してみた。
2
人で何が起きたか調べるために新横浜病院に行くことになった。矢崎の会社への報告に重要な事が加わるかのしれないと考えたからだ。
医師の話は、裕子が妹と言うことにしたら、簡単に聞くことが出来た。
「お兄さんは、専門的な病名になりますが、ミクリッツ肉芽腫症という病気です。この病気は身体の中心部に肉芽腫を作り、そこが壊死するのです。簡単言えば、身体が少しずつ腐って溶けていくのです。お兄さんの場合、脳の一部にもそれが出来て、ちょうど筋力を抑制する部分に出来て、人間本来の筋力が出せるようになっています。」
「人間本来の筋力とはなんですか?」おもわず矢崎が聞いてしまった。
「人間本来の筋力は、通常出せる筋力の35倍です。もし50kgを持ち上げられる人なら、150-250kgを持ち上げられます。つまり、極限状態で出される力が常に出るわけです。ただし、骨や靱帯や関節は、それについて行けないので、壊れてしまいます。それから、言いにくいのですが、治療しないと、長くても1週間でお兄さんは亡くなるかもしれないです。」
医者の話は驚くべきものだった。おかげで妹になっている裕子は、医者の前で悲しみを表すことを忘れる所だった。
「もし、彼に会うことがあれば、この薬を飲ませてください。警察は凶暴な怪物として早く死んでくれることを考えています。警察には秘密ですが、私は彼を救いたいのです。」
そう言って、銀色のケースに入った薬を裕子に渡した。

 突然、耳元の電話が鳴り出した。同時に留守番電話のメッセージが流れる。
「はい、野坂です。ただ今、電話に出ることが出来ません。ご用件を...
途中でメッセージを停止したのは、野坂自身であった。体調は最悪なのに、それを全く感じなかった。ここに戻ったのは食料調達のためであった。外見がとても人前には出られる状態ではなかったからだ。さっきから口からの出血だけじゃなく、小便も真っ赤である。肛門からも出血が始まっていた。もう長く生きられないのは確実であった。最後に自分をこんな姿にした男の名前と復讐を果たした経緯を書き残すことにした。
誰かが見つけて、真実をわかってくれることを期待して。
ふと窓から外を見ると、こちらを見ている2人組の男が見えた。刑事だと直感したので、素早く身を隠した。たぶんすぐにここへやってくるに違いない。野坂は北側の出窓を開け、隣のマンションのベランダへ猿のように身軽に飛び移った。下にいる刑事は気がついていない。更にいとも簡単に2mも離れた非常階段へ飛び移った。
 深夜のオフィスビルは人気がない変わりに警備が厳重である。仕事だと言うことで、何とか裕子と矢崎は入り込んだ。
「ちょっと質問していいかな?」
「なあに?矢崎さん。」
「何でここにきたのかな?」
「なぜって、野坂さんを助けるためよ。野坂さんの留守番電話にここへ来るようにメッセージを残しておいたの。その時にお薬を渡そうと思って。うまくメッセージが伝わっていれば、今日の夜の10時に会議室で会うことになっているの。」
「だけど、相手は化け物みたいなやつだよ。」
「それはそうだけど、メッセージが伝わるなら、まだ人間の心があるはず。それに他の所だと警察の目があるから。」
 会議室は大きく、暗闇だけが存在していた。机はかたづけられてがらんとした大きな空間であった。950分、矢崎が腕時計で時間を確認した。少しずつ目が慣れると、非常灯の明かりだけでも全体が見渡せるようになった。まだ野坂は現れる気配はなかった。
 非常階段に飛び移った野坂は、サイレンの音と共に警察の車がだんだん集まってくるのを見ていた。およそ10台のパトカーが野坂のアパートを包囲していた。いらついた表情で指揮をするひげを生やした色黒の男が、マイクで指示を飛ばしている。中へ突入するのは時間の問題である。野坂は突入と同時に騒ぎに紛れて、地下鉄に乗ることにした。幸い顔を隠すマスクも予備がポケットにあった。突然の大きな音と煙と閃光がきらめき、戦いの始まりを告げた。大声を出して乗り込む機動隊の男もいた。10分以上もその騒ぎは続いたが、やがて「逃げたぞ。」と言う声と共に終わりを告げた。
 ユアマン証券の近くの地下鉄の駅には、私服警官と思われる男たちが、配備されていた。野坂はマスクをしていたが、改札を抜けた所で、すぐに目をつけられた。やがて職務質問をしようと近づいて来る。振り向いた野坂と目が合うやいなや、男たちは走り出した。
「おい、待て!動くんじゃない。」
すでに胸にある拳銃に手を触れていた。
果たして、彼らの追跡を振り切らなくてはならなかった。脚力は5倍だが、内蔵や心臓の能力は変わっていない。おかげですぐに息切れがしてしまう。しかし、苦痛を感じるの抑制部分を犯されている野坂には、そんなことは全く気にならなかった。激しい息遣いと、破れそうな心臓の拍動が、遠くからでも聞こえそうだった。けれども普通の人間である追跡者たちはすぐに野坂を見失った。
 野坂は階段を一気に飛び越え、地上に出た。そこにあった時計を見ると、955分であった。しかし、ユアマン証券にこの姿では正面から入ることは出来ない。そう考えた野坂は、裏口の清掃用の通用口から、入ることにした。業務用のサービスエレベーターを使えば、更に人目には付かないと考えた。サービスエレベーターは小さく、人を乗せるためには作られていない。中にはボタンがないので、あらかじめボタンを押しておく必要がある。25階のボタンを押し、すぐに閉まるドアにめがけて走り込んだ。
 薄暗い部屋の中で,お互いの息を感じるくらいの距離に接近していることは,時には甘美な気持ちを感じさせるが,この時間は神経をすり減らされる.まして待っている相手は恐るべき力を持つ男である.会議室で待つ2人は、10時を過ぎても、野坂が現れないので、一度廊下に出てみることにした。
「僕は階段の方を見てくるよ。」
「じゃあ、わたしはここで待っているわ。」
矢崎が裕子の視界から消えると急に不安になり、まわりを何度も見回した。しばらくすると矢崎が階段の方からやってきた。
思わず裕子は「あら矢崎さん、早いわね。」そう声をかけた。だんだん近づいて来るが、薄暗い廊下では矢崎の顔がよく見えないので、早くそばへ行こうと駆け寄った。2人の間が1mくらいに接近したとき、その男が矢崎じゃないのに気がついた。
男はすごい速さで走り出した。裕子は直感的に野坂だと理解した。怖くなり本能的に隣の会議室へ逃げ込んだ。野坂も後を追って入ってきた。
「あの、野坂さん。よく来てくれましたね。」怖くて声が震えている。
「あなたの薬のことだけど、私は持っていなくて、もう一人の人が持っているの。今からその人を呼んできますね。」そう言いながら、外へ飛び出そうとしたが、野坂の獣のような突進に逃れるすべはなかった。強く腕をつかまれ、あまりの痛さに裕子は、声も出せなかった。「君の事を信じていたから、危険を承知でここまできたんだ。今更嘘だなんて聞きたくないね。」
「嘘じゃないの、本当に他の人が持っているの。私を離してくれれば呼んでくるわ。」
「そんな作り話は、小学生でも信じないぜ。」
気がつくと,野坂は激しい息づかいでとても苦しそうに見えた。しかし、腕をつかむ手は相変わらず,ものすごい力だった。野坂の顔は青ざめ死人のようだった。私服警官からの逃走で更に出血が酷くなったようだ。残された血液はもうほとんど無かった。極限状態まで耐えられるその身体にも最後の時が訪れようとしていた。
「本当なの信じてちょうだい。」
「私はいつも明るい君の事が好きだった。君はそんなに思っていなかったかもしれないがね。最後に君の顔が見られて良かった。」
野坂の手の力がゆるんだ。すかさず裕子は会議室を飛び出し、矢崎のいるであろう所へ向かった。
階段を昇ってくる矢崎に会うことが出来た。
「やあ、野坂は現れないようだね。」
「大変なの、野坂さんは会議室にいるの。だから早く一緒に来て。」
すぐに2人で会議室に戻ると、野坂は部屋の中央に倒れていた。そして、身体を中心にして黒い液体が広がりつつあった。同時に腐ったようなあのにおいも,部屋の中に充満していた。
裕子は声にならず、泣いているようだった。
「もう少しで助けられたのに残念だった。」
そう言うと矢崎は,倒れている野坂の横に歩み寄り,飲むことが叶わなかった銀色の薬のケースを置いた。
矢崎は促すように「さあ裕子さん、そろそろ出ようか。ここでの出来事は警察には秘密にしなくてはいけないから、人目に付かないうちに、さあ。」
そういうと、女は男のあとに続いて部屋を出て行った。ドアが閉じられた後は暗闇と男の死体だけが残された。

(終)

 

 

 

 

野獣の国

 

黒い空を見るのも今日で一ヶ月になる.唯一見える景色は頭の上で輝いている地球だけだ。陸も海も地図で見たとおりの形をしていて,まるで現実感がない.後三日で,帰れるかと思うと,毎日の単調な仕事も楽しくなるから不思議だ.帰還したら久しぶりに海外旅行でもしてみようか?スペインなら今頃は牛追い祭りでにぎわっているだろうな.二千十五年に首都になったバルセロナはとても近代化されているらしいから一度見てみたいものだ.「おや,遠くから何かが接近してくる.最新型の遠距離スキャンでは・・・何もうつっていない?」急いで旧式のマイクロ波を使ったレーダーに切り替え,副操縦士の山下を呼ぶ.神経質でやせている山下の顔がこわばっている.船外カメラで見たところは,虹のように見える.真ん中に明るい光点があり,炎のように揺らめいている.「どういうことだ?遠距離スキャンでとらえられないとは,エネルギーを持たない物質なのか?それなら最近発見されたマイクロブラックホールかも知れない.このままじゃ衝突するか,衝突しなくてもなにか恐ろしいことが起こりそうだ.」副操縦士に命じてスラスターを使い周回軌道を地球に近づけた.
スラスターの軽い噴出音に続いて,ものすごい轟音がシャトルの船内にひびいた.それとともに振動があり,ありったけのアラーム音が鳴りだした.「船外温度1700度を超えました.これ以上の高温では船体が融解します.進入速度を遅くして下さい.」ずいぶん人間に近い声になったが冷静に言われるとやはり機械だなと思ってしまう.急いでマニュアルモードに切り替え,メインエンジンを使って降下速度を下げようとスロットルを全開にした.恐る恐る計器を見る.外壁温度,降下速度も上昇を続けている.手の震えと,心臓の鼓動と,血の気の引く感じを味わいながら,外の光景が目に入った.高温で外壁がプラズマ化してすべてがオレンジ色になっていた.「このままおれも一緒にプラズマ化するのだろうか?」徐々に船内温度も上昇しているようだ.二千度を超えると,一気に船体は爆発するだろうなと思い,目を閉じてその時が来るのを,耐えているしかなかった.おれのミッションは日本初のスペースシャトルで,軌道上の人工衛星の修理と,簡単な実験を委任され,乗員七名とこの有明号で一ヶ月の期間で上空八千キロの静止軌道での滞在だった.二十メートルを超える大型のシャトルも爆発すれば十センチの塵になってしまう.乗員たちもみんな目を閉じて最期のその時を待っているようだった.宇宙船の船長になるには大学の航空宇宙科を卒業後二年の地上訓練があり,その後五年の実地訓練がある.実地訓練はアメリカの世話になったが,アメリカも国内の治安の乱れで,以前ほどの国力は無く,一人につき年間百万ドルの授業料を要求されたらしい.日本は二千十八年,政策を変え,経済大国を目指すことをやめ,教育国家として世界の国の中でも一目置かれる存在になっていた.アメリカで留学中に住んでいた所は上流の人が住むアパートらしいが,まわりはスラム化していた.一握りの富裕な人々と,多くの貧しく教養のない人々に二分され,全体としての国内総生産は二千十年をピークに徐々に下降している.船体のきしむ音や振動がだんだん遠くに聞こえるようになってきた.軽い吐き気を感じながら、もうそろそろ終わりかと思ったときに,一瞬目の前が明るくなり,音も振動も消えて,全くの静かな時が流れ,いつもの船内状態に戻った.「計器は?」山下副操縦士に聞いた.「平常通りです.外壁温度は二百度で,正常です.」震える手足を感じながら深呼吸をした.とにかく落ち着こうと心に言い聞かせ,「予定より早いが,船体損傷がなければ,このまま帰還する.」命令した.一時間ほどの船体のチェックが始まった.原因がわからない.あのマイクロブラックホールはもうどこにも見えない.このままではまた同じことが起こることもあるだろう.そうならば今度こそ帰還できなくなる.こんなことは留学中に聞いたことも経験したこともない.とにかく今は無事に地上に戻りたいだけだ.一時間の重苦しい時が漂った.「船体損傷無し.再突入可能です。」山下の声で緊張感が戻ってきた.おれは胸の支えがとれる思いで命令した「再突入!」頭の上に地球が見える.再び外がオレンジ色に変わる.しかし,外壁温度は千五百度で止まっている.アラーム音も聞こえない.機械仕掛けの声も聞こえない.窓の外の色が暗黒から徐々に青くなり,見慣れた濃く暑い青に戻った.白くかすんだ地上も見える.管制官の声で一気に任務に戻された.「十号滑走路を使用し,降下速度はそのままを保ってください」.丁寧な言い方に違和感を感じたが,地上が近づく安心感で忘れた.
 空が青々としているのを眺めながら,宇宙事業団の中央センターの新しく舗装されたまっすぐに続く道路を黒のリムジンで走っている.外には濃い緑の木々が印象的だ.幹部のいるビルは五十階建てのガラスのような塔である.塔の先端には宇宙事業団の金色のマークが誇らしげに輝いている.前と形が変わったような気がするが気のせいだろうか.ビルの上の階へ行くほど偉い幹部のオフィスになる仕組みだが,おおむねそれにつれて中身のない人間が増えてくる.社員は全部で一万人以上いるだろうが,その中の仕事はお役所仕事である.つまり少しくらいの無駄は大目に見てくれるところが楽ではあるが,それが国からの補助だと思うと,疚しい気持ちになる.それにしても秋にしては日差しが強い.こんな暑い日もあるかと気にもとめず,エアコンの効いた車内で報告内容を確認した.と言うのも,宇宙開発部の大北部長は細かくきびいしいからだ.しかし,部下をまとめるには仕方が無いことだろうが,みんなに嫌われるのが気の毒ではある.社交的では無いが,人間的な魅力はある人なので,報告はそれほど苦には感じない.
高速エレベーターによる耳の違和感を感じながら,三十七階の大北部長の部屋をノックした.
「どうぞ」ていねいな口調だった.
「失礼します.有明号艦長の黒川です.今回の事故についてご報告にまいりました」
「そちらのソファーで伺おう.かけたまえ」
「原因がわからないそうだが,船体には異常は無かったのだね.そうなると君の指揮の不備とも考えられるが...私も原因がわからないと今後の人事にも影響を与えることになるね」
「現在フライトレコーダーを分析中ですのでその後に処分はお受けします.」
「私もこのまま計画が中止することになれば,税金を無駄にしたと,追求されることになるので,根本的な問題よりも君の指揮ミスの方が良いのだがね.」
「...」
「まあ,今すぐに責任を取れとは言わないが,レコーダーの結果が出たら,連絡しよう」
「失礼します」
ドアを押すのが重く感じられた.
「責任はすべてオレか.しかし,部長は優しい言い方でも自分の責任を逃れようとしていた.以前は厳しくても部下に責任を押しつけることは無かったのにな.」
外に出て少しすっきりしようと高速エレベーターで1階に下りた.受付の女性は新しく変わったようだ.初めて見る顔である.私を見て少し驚いた顔をしたが,すぐに真顔に戻った.何かにおびえているような固い笑顔である.落ち着かない感じで,手元を見ている.そういいえば,監視カメラの数が増えたようである.以前は犯罪者のためにもうけられていたのだが,これでは職員を見張っているようなものである.モーションセンサーが付いているので,こちらの動きにあわせて,カメラも動いているようだ.ドーム型なので動きは見えないが,モーター音が聞こえてくる.
「やっぱり外の方が良いな」

「せっかく無事に帰ってきたのに,今,そんなこと言わなくても良いだろ」山下は妻からの言葉に憤った.
「残される私たちのことも考えて」
宇宙飛行士用の保険には入れというのだ.宇宙飛行士の場合はけがというのが無いから死亡だけの保険である.その掛け金の一部は宇宙事業団が負担してくれるが,保険金額が多すぎる.一億円を二十年間にわたって受け取れるというものである.今だって通常の生命保険に入っているが,宇宙飛行士の保険とは初めて聞いた.「いつからこんな保険ができたのだろう?」

ガラスの塔の北側に駐車場があり上級社員用のエアーカーがある.そこまではいつもは地下道を通るのだが、きょうは狭い通路を歩く気分にはなれない。小道の途中に花壇があり白い小さな花が咲いている。名前はわからないが、いつから咲いていたのだろう。こんな小さな花に気をとられることなんてなかったのに、きょうは何気ないものが気になる。いままでどれだけのはかないものがおれの目の前をすぎていったのだろう。宇宙飛行士になるのに大事なものを忘れてきた思いが強まる。駐車場につく頃には太陽も黄色くなり、まぶしさを増している。暗い気分を打ち消すようにラジオの音楽に耳を傾けた。どこかで聞いたことがあるが、歌手の名前は初めて聞くものばかりだ。大気圏外での活動は記憶障害を起こすのかもしれない。久しぶりの本物の重力が体につらい。

「黒川君にも困ったものだ。報告書に今回の事故をそのまま記載するものだから、これじゃあ、社長も今後の宇宙開発を見直さなくてはならないことを、文部科学省に言わなければならないなってしまったな。大北部長」貴重品のたばこを吸いながら、丸山常務が深いため息をついた。
「社長も官僚から天下りしたばかりですから、うまくコネを使って処理してくれるかもしれません。しかし、それがだめなら黒川君の指揮ミスと言うことで処理するのが望ましでしょう」と軽く笑いながら話している。
「ところで、ハワイに新しい別荘を買ったらしいね。今度お披露目がてら一緒にゴルフでもどうだね。高速VTOL機なら日帰りでいけるらしいよ。早く私も隠居して、毎日ゴルフクラブで過ごしたいね。君は高級官僚をねらっているようだからもっとがんばらなくてはね。はは」
「だから今回のことについては何とかうまく処理したいのです。」
「私もそう願うよ.」そういいながら丸山常務は薄くなった髪を整えつつ,返事は上の空だった.

「宇宙飛行士用の保険か...」壁面テレビを見ながら山下はつぶやいた.給料の多い人は高額の保険に入れるが,少ない人はその命の価値も少ないと言うことだから命に不平等があるわけだ.山下は悩んでいた.どんなに働いても給料の少ない人はお金のためなら,多少の危険は顧みず,私みたいに危険な宇宙飛行士を志願するわけだ.宇宙飛行士ならまだ危険は少ないが,もっと危険な,二千百十二年アメリカで承認された傭兵制度を利用して,海外へ戦争をしに行くことができる.一生分のお金を稼げるらしいが,戦死率が三十%を超えている.それでも多くの人が志願している.
「このたび,アラブ連合の内戦で日本に対して傭兵の募集があります.社会保険,障害年金も完備しています.ご希望の方は...」
テレビからのコマーシャルに山下は驚いた.「いつから日本は傭兵を認めるようになったんだ.」何かが変わっている.私のいなかった一ヶ月で,少しだがすべて変わっている.
「黒川艦長に相談してみよう」
茶色のジャケットのポケットから携帯電話を取り出した.その時,なにか気配を感じた.まわりを見回したが,黒い闇とテレビの青白い光だけだった.しかし,テレビの右隅に監視カメラがあることには山下は気が付かなかった.
「あ,山下ですが,ご相談したいことがあるので,今から会えませんか?はい,四ツ井ビルの喫茶店ですね.わかりました.」
山下の後を追うように静かなモーター音が鳴っていた.
夜の喫茶店で男が二人で会うのは気が引けた.電話を受けたとき,すぐに思いつかなかったからだが気に入らなければ場所を変えよう.先に来ていた黒川は,いつもの濃いブラックコーヒーを飲んでいた.
「すみません,遅れて.何か変なんですよ.それでいろいろ手間取って」
「何があった」
「常につけられているか,監視されているようで,いつもより遠回りしてここへ来ました」
「オレもそういう感じが帰還後から常に感じているんだ.それと,会う人会う人に何か違和感があって,以前の彼らとは何かが違う気がするんだ.宇宙に長く滞在したせいかもしれないな.あまり深く考えない方が良いと思ってはいるが.」
「艦長もですか?私の妻も突然高額の保険に入れと言い出すし,以前はお金よりも生きて返ってきてほしいから,保険には入らないと言っていたのにですよ.」
「オレも大北部長に今回の事故は原因不明と言うより君のミスにしてもらった方が良い.と言われたよ.責任はオレに取れと言うことらしい.部長は厳しかったが,部下に責任を押しつけることは無かったのにな.」
「艦長も同じですか.これから,どうしますか?」
「どうも俺たちは監視されているようだから,場所と時間を変えながら連絡を取ろう.また連絡する.」

黒川が自宅に戻ったのは夜の二時を過ぎていた.日記,写真,パソコンなど,過去の自分を確認できるものを調べてみた.几帳面では無いがすぐにものを捨てられない性格は自分では気に入っていない.そういえば日記は三日しか付けていなかった.写真はどうだろう.「二千二十四年十月,出発直前の写真だが鏡で見たように今の自分と同じだな.いや,待てよ.鏡と同じ...鏡と同じ写真と言うことは左右逆か?髪の分け目が逆だ!どういうことだ!!!」
よく見るとほくろの位置も左右逆転している.この写真とこのオレは同じじゃないのか.大変なことになった.あわてて山下に連絡を取ろうとするが,携帯電話がつながらない.「しかたがない.直接山下の家に行こう」
山下の家は車で三十分の所にある.最高級とは言えないが,かなりの豪邸である.「こんなに立派な家に住んでいたかな?一度来ているから住所は間違いないと思うが」
山下の妻が応対した.彼は入院したという.病名は重力性記憶障害らしい.このままではオレもいずれどこかに監禁されるに違いない.適当な病名を付けられて.

暑い.長時間昼側の静止軌道上にいると,一気に外壁温度は五百度以上に跳ね上がる.今日の太陽はとても近くに感じる.あのときと同じ暑さを感じる.あれからオレはうまく報告書を作り直し,有明号のポジトロンコンピューターのシステムエラーが原因ではないかと言うことで決着を付けた.そのおかげで再び艦長として有明号二世で短期の実験飛行を行うことができた.それはある計画のためだった.ロシアの物理学論文の中にプラズマ状態での量子理論で次元の変換が起こると言う報告があった.つまりプラズマ化すると量子運動ではじき飛ばされた原子が他の次元に移動してその空いた部分に他次元の原子が補完されるという理論だ.前回の事故でプラズマ化した有明号全体がはじき飛ばされて他次元に移動したことは理論的には考えられる.そうならばもう一度同じ状態が起これば,他次元に移動できるわけだ.オレ以外の乗員には悪いが,この世界の日本では自分はやっていけない.根本的に求めるものが違っているのだ.効率ばかりを求める会社,命にお値段を付けそれをつり上げようとする家族,出世のためなら人の責任を押しつける上司,富と権力に群がる人がなんと多いことか.テレビによる世論の操作,監視カメラによるプライバシーの喪失,いくら豪邸に住んでお金があっても,ここには誠も意志もないあるのは,動物のようなただ楽して生きている今を守ろうとする人々だ.これでは人間の形をした野獣の国だ.生きていく知恵はあるが,よりよく生きる智慧もない.結果の善し悪ししか判断しない世の中ではその過程に不正があろうと気にしなくなる.気に入らない隣国には傭兵を雇って攻め込む.まさに頭が良いが野蛮な野獣の国だ.

大気圏への進入角度を既定値より三度多くした.アメリカのスペースシャトルなら燃え尽きるところだが,最新の九谷のセラミックタイルなら二千度まで耐えられる.「大気圏への再突入開始します」副操縦士の山下の顔がゆるんだ.彼もオレの計画を知って,うまく自分の病気を認めて,治療に専念し退院できたと言うわけだ.お互い目を見ただけで考えていることは同じだとすぐにわかる.
「外壁温度千八百度,千八百五十度,千九百度,二千度,二千百度...」進入角度の間違いを知らせるアラームは鳴りっぱなしである.おなじみの女性を模した機械音も同じことを言っている.窓の外は明るいオレンジ色に染まり,プラズマ化が始まったことを知らせている.ものすごい轟音と振動が始まった.この状態では地上との連絡も取れないから,今のオレには都合が良い.外気温が二千二百度を超えたとき,目を閉じているにもかかわらず真っ白な光が目に入り,再びあの静けさが戻ってきた.
軽い吐き気を感じていたが、気持ちを奮い立たせて通信コムのスイッチを入れた。元の世界に戻れたか確認するには地上との連絡が必要だ.すぐに宇宙事業団の管制室に通信を送り,ビデオ回線が開くのを待った.ほんの数秒が時間の停止を感じさせるくらいだ。
大北部長が画面いっぱいにうつった.「何をやっているんだ!君ともあろうものが,進入角度が間違っているぞ!もう少しで大爆発を起こすところだ.」
「私のミスでした。」
「まあいい,それより無事に帰れて何よりだ.着陸したらみんなで祝杯をあげるぞ.」
通信は短かったが,見覚えのある懐かしい部長の顔が涙でゆがんで見えた.(終)

 

 

 

 

やさしい気持ち

 

「二十五室の患者は様子はどうだ。」杉谷精神神経科病院の第七病棟の黒川医長が尋ねた。長く広い廊下で話していると、声が隅々までこだまする。黒川は今年で四十五歳になるが,出世は同僚に比べて遅い方だった.それは能力というよりも,そのまじめさと,頑固なところが原因しているようだった.この病棟には病室は全部で五十一室あり,その病棟の中央に位置する廊下の長さは百メートル以上ある。永遠に続くようなデザインの廊下の両側には病室に通じる頑丈なドアが同じように並んでいる.少しでも気分を和らげるために絵が掛けられているが,人物画が多く,その大きさも同じため,かえって不気味さと冷たさを募らせるようだ.廊下の作りも左右対称でありわざわざ中央線まで引いてある.つまりこの病院のような近代的な建築物では機能性が一番であり,次に頑丈さを求めて建てられている.それは人間性がおろそかにしている西洋的な考えからくるものだろう.反対にアジア的な建物なら火事には弱いが,コンクリートは使わず,木材を中心に作られ,さらに代が変われば新しく建て直されるのが日本人の建物に対する考えである.しかしここにあるのは外から鍵がかけられる閉鎖病室であり,外を歩く患者や家族を見かけることは無く,すべての人間性が排除されている.おまけに防音もしっかりされているので,病棟は夜中の湖のように静まりかえっている。
「体の状態は落ち着いているようです。しかし、相変わらず患者の意識は戻っていません。」新任の真島医師が緊張して答えた。「君の診断ではウイルスかプリオンによる脳炎を考えているようだね。しかし、脳の組織にはそれらは見つからなかったそうじゃないか?」
「はい、そうですが、似たような症状を起こす人がここ一週間で十人も入院しているので感染症か何かの中毒が考えやすいのですが・・・」そう答えながらも自信がないのか,盛んに手元のカルテを見ている.
「まあこれから回診だから,一緒に考えてみよう.」
感染力の強い感染症の部屋は一番奥のステージ3の完全気密室になっている.病室に入るには感染防護服に着替えなくてはいけない.「これからは,大声を出しても聞こえないから,ヘルメットの中のマイクで話すのでよろしく.しかし,ここの酸素ボンベの空気は臭いね.長い時間吸っていると,気分が悪くなる.」黒川は口元のマイクの位置を調節しながら話した.
「はい,わかってはいるのですが,主任技師の話では,これでもほかの病院よりはいい方だと言っていました.」真島の声が耳に響いた.
「全くそれで解決すると思っているのだから,あの技師は一度注意しないとだめだな.」心の中でつぶやいた.
「私も注意した方がいいと思います.」
「え,なに?君は私の考えていることがわかるのかね?」
「いえ,いや,その・・・医長が言ったような気がしたものですから.」
「知らないうちに声に出していたのだろうか?私も年だな.独り言をつい言ってしまうようだ.それにこのマイクは性能がいいらしい.」
「エアーロックを開けますか?たぶん昏睡に近い状態ですから,暴れる危険は無いと思います.」
ドアを開けると大きな暗闇だった.同時に暗闇が部屋を支配している感じで何か人を寄せ付けない力を感じた.病室の薄暗い照明をつけると不思議とそんな力は感じられなくなった.八畳ほどの部屋の中央にベッドがあり,そこに横たわる男の姿が見えた.確かに寝ているように見える.寝ていると言われなければ死んでいるようにも思えるくらい全く動かない.ただ胸の動きから呼吸していることがわかるだけだ.精神神経科の閉鎖病室では壊されたり,凶器になるため医療器械が部屋の外の観察室に置かれているので部屋の中は静かである.同じ理由で一切の家具も置いてなかった.薄暗く何もない病室(へや)は深海に潜ったような感覚を催させる.聞こえるのは私たちが背負っている酸素ボンベの呼吸音だけである.私たちは男のベッドにゆっくりと近づいた.そして反対の方を向いている男の顔をゆっくりとのぞき込んだ.驚いたことに男の目は開いたままだった.その男のかたまった顔に表情は無く,顔色は青白く見えた.この世のものとは思えない不気味な形相だった.黒川は病室の隣の観察室で脳波を確認した方がいいと思いその場を離れようとしたその時,男から低い声が聞こえた「・・・おそろしい・・・」男がしゃべり始めたのだ.驚いて振り返ると口だけが動いていた.「・・・のうは・・・」全部は聞き取れなかったがなんとか聞こえたのはその二言だけで,それっきりしゃべらなくなった.気を取り直して黒川は観察室に行き脳波を見ると除波がでていた.この脳波では大脳は活動を休止したいわゆる昏睡である.「寝言だったのか?それにしても驚いたな.」「彼はずっと昏睡状態なのかね?」「いえ,一週間前まではふつうに寝たり起きたりしていましたが,三日前から昏睡状態に入りずっとそのままです.それから,不思議なことに人が近くに来ると寝言を言うのです.」「容体は徐々に悪くなるようだが,栄養だけは欠かさないようにしてくれたまえ.まだわからないことが多すぎるから,早く亡くなられたら困る.」
防護服の暑さでぼんやりしていた真島は「は,はい,昏睡後は中心静脈栄養を使っています.」とだけ答えた.
重苦しい防護服を脱ぎ捨て,それを焼却炉につながるダストシューターに放り込んだ.真島から他の病棟に入院している同じ病気の患者のカルテを見せてもらうため,医局へ向かった.医局はエアコンが効きすぎて寒いくらいだが,蒸し暑い防護服の中よりはましだった.「最初は独り言が多くなり,続いて錯乱状態,その後七日から十日で昏睡になるのが特徴です.先ほど見ていただいた二十五号室の患者ですが,えー,最初は奥さんが異常に気づきました.一人で何かしゃべっていることがあり,様子が変だということで,医者に連れて行こうとするのですが,なぜか連れて行こうとする時に限って,外出しているそうです.そのうちに,頭が盗まれると言って騒ぎ出し,錯乱状態になったため警察を呼んで,やっとここへ強制入院したわけです.」
第五病棟に同じ日に入院したの女もほとんど同じ経過をたどっている.違うのは意識を失ってから入院したことくらいだ.カルテには女,二十八歳,海外旅行から帰ってから連絡が取れなくなり,心配になった両親が彼女のアパートを訪ねて,部屋で倒れているのを発見,当病院に運ばれる.と書いてあった.
「次はこの患者の診察だ.」
「脊髄液はしらべたかね?」
「はい,脊髄液にはタンパク質が少し増えていたのと,リンパ球が増加していました.私が考えるところ、やはり,ウイルス感染かと.」
「たぶんそうだな。それから発生場所や、患者の数の多さから考えても感染経路は空気感染だな.そうしたらもしかすると私たちも感染しているかも知れないな.」
お互いに顔を見合わせながら、「感染したら最後には死ぬのでしょうか?」真島が心配そうに聞いた。「死ななくても意識がないなら,死ぬことと同じことさ.違うのは昏睡になるとお金がかかると言うことだよ.このまま患者が増えれば全員が手厚く看護されなくなるだろう.それはどんな病気でも同じだよ.」とにかく原因だけでも突き止めたい黒川であったが,病理学者では無いので医者である限りはすべての原因を知ってから治療することは出来ない.自分の経験と勘を頼りに治療を開始するしかないのが医者であり,そこが科学者とは違う人間らしさだと黒川は考えていた.
次に2人が向かった第五病棟は三ヶ月前に改装された病棟で,まだ,揮発性の刺激臭が残っていた.壁紙も無機質な幾何学模様がちりばめられ,黒川は再び居心地の悪さを感じていたが、それでも壁が血液で汚れているよりはましだ思った.ここは感染をおこす神経病に対して特殊な病室がある専門病院であり,全国から紹介されて患者が集まってくる.いや,集まってくると言うより強制的に入院させられるといった方が良いだろう.強制入院される患者の多くは,錯乱状態か意識のない者がほとんどであり,精神的にも物理的にも外界から完全に遮断されている.特に感染力が強い患者にたいしては宇宙船並みの気密室になっている.これから向かう女の病室もそれである.もし精神障害がない人が長期間この病室へ入れられたら,おかしくなってしまうだろうなと黒川は思った.音はもちろんや看護婦や医者も防護服を着て自分のところにやってくるわけだから,人間らしい人間を見ることがなく,肉声ではなくスピーカーからの声しか聞こえず,肌と肌が触れる実感もないこの世界で正常を保って生きていくのは皆無だろう.新聞やテレビはあるが実際に自分の目で確かめることができない映像と言葉がいくら大量に知識として氾濫しても,患者が知るものは一度人の手を通った作られたものである.考えてみれば今の情報社会もこれとそれほどかけ離れたものではなく,テレビのニュースも新聞も実際にそこに行かずに知るだけだから,本当のこととはいえない.政府が情報操作しても気がつかないだけかもしれない.ただみんながそういっているからとか,ほかの局のニュースもそういっているからというだけで単純に信じているだけである.そして災害や戦争で何万人もの人間が死んだと知っても実感が無く,一時的な感傷は感じても,すぐに記憶の彼方に流されてしまう.それに対して,身の回りで起こった犯罪や病気には非常に敏感に反応している.人間はいくら情報で頭の中に知識として入っても,実感がないので,自分の行動にはつながらないのだ.人間は肌に触れその触感を感じられるものに対してしか,現実と見なしていない.黒川はそう考えながら,この騒ぎが収まったら休暇を取って旅に出よう.いや,仕事をやめったっていい.本やテレビで見たものを本当に実感できるように自分の目で見て手で触れてみるのだ.ヒマラヤは本当にあるのか?ピラミッドは?そんなことを漠然と考えながら,真島と一緒に再び防護服に着替えて,病室のエアーロックを開いた.さっきの男の部屋と同じ薄暗い深海に泳ぎ出た気分である.暗闇になれたので真島に続いて病室の中央に進み出そうとしたとき,あの男の部屋と同じ感覚に襲われた.一瞬意識を失いそうで自分の体が宙に浮いているような感覚だった.倒れそうになり,思わず壁のレールにつかまった.やがてその感覚は無くなり,吐き気だけが残った.「大丈夫ですか?」真島の声で黒川の意識がこの世界に戻ってきた.「大丈夫だ.ちょっとめまいがしただけだ.それより患者の説明をしてくれ」
部屋の中央には,ベッドに仰向けに寝ている女が見えた.きっと病気になる前は健康でスポーツが好きだったようで引き締まった足がそれを裏付けていた.さらに近づいて女の顔をうかがうと,見開いた目は天井を見つめていた.その目には表情はなく,瞳は吸い込まれそうなくらい黒かった.手足は拘束バンドで縛られていて,手首は赤く腫れ上がっていた.それが黒川にはとても痛々しく感じられた.もう暴れることがないのなら必要ないと思えた.突然,女の口が動き,何かをしゃべり始めた.「・・・か・・・わいそう・・・」と同時に女の目からうっすらと涙が流れた.黒川は驚いて真島に「意識があるのではないのか?」と聞いた.「いえ,いつもこうなのです.誰かがそばに来ると話し始めたり,意味のない言葉を発しています.」愛想のない答えだった.真島にとってはこのことは別段どうってことのない患者の行動に思えたのだ.毎日,10人以上同じ病気の患者を診て,そのたびに上司から同じ質問をされ,かなりあきてきているようだった.黒川が女から離れ,真島が近づいたときにそれは起こった.女がまたしゃべりはじめた.「・・・つかれた・・・」今度は涙が見えなかったが,はっきりと黒川にも聞き取れた.「もしもし,起きなさい.ここがどこかわかりますか?」真島が女の肩を揺すったが,意識を回復することもしゃべることも無く,それっきりだった.しかし女の表情が少し和らいだように見えた.「不思議だな,脳波は完全に徐波で睡眠状態なのに人が近づくと話し出すとは寝言みたいなものかな?完全に昏睡状態なら話し出すことは無いしな.」この不思議な病気の解決の入り口にも到達できず,黒川は重苦しい気分で病棟を後にした.
その夜,まだ意識のある男の患者が一人,誰にも気づかれず病院を抜け出した.彼は女のマンションに向かっていた.「とりあえず,着るものがないとこれではすぐに連れ戻されてしまう.」女のマンションには歩いて1時間ほどで着いた.途中,警察官の姿も見たが最近はパジャマで外出する人もいるから堂々とやり過ごした.マンションのエレベーターで若い夫婦の子供連れと一緒になった.怪訝そうな顔でこちらをちらちら見ているのがわかったが,咳をしながらごまかした.ドアをノックすると驚いた女の気持ちと,男の声を聞いて喜ぶ女の気持ちがドア越しでも,男には頭の中ではっきりと感じられた.男は女に,「明日には病院に戻るから,きょうだけ一緒に居させてくれるかな.」哀願する言葉に女はすぐさまドアを開け,母親のように男を抱きしめた.
しかし,この子供のような男の行動が更に患者を増やすことになった.
 鳥の声が優しく外からささやいている.黒川の部屋にはコーヒーのにおいが充満していた.朝日が青白く障子を透かしてそう広くもない部屋を照らし出した.床の間の花瓶の影が長く伸びていた.今朝は起きたときから頭の奥に軽い痛みを感じていた.ドアの新聞受けから朝刊を取り,居間の座卓の上で広げた.今度の原因不明の脳炎についてかなりの紙面を割いていた.どこの病院でも手の施しようのない状態のようだった.黒川はテレビは嫌いだったが,朝のニュースだけは眠気覚ましに見ている.いつものテレビの天気予報の女性アナウンサーを見て,「大変な事態が広がりつつあるのに相変わらず脳天気なしゃべり方だな.」と少しほっとした.これから病院に出かけようとしたときに電話が鳴り出した.早い時間の電話はほとんど患者の急変だから電話をとるのは憂鬱である.「おはよう.病院長の関口だが,朝早くから悪い話で申し訳ないのだけれど,更に例の患者がさらに100人以上発生したらしく、収容病院がパンク状態で,うちの病院にまた入院することになった.君の負担が増えるけど何とかよろしく頼む。この病院が国の感染対策の指定病院で補助金をもらっている以上断れないのだ.」
「わかりました」返事を聞くとすぐに電話は切れた.
「また金がらみか.最後は金に動かされるわけだな.金のためなら何でも融通を利かせるのがいいことだと思っているし,それなら仕方がないとまわりの人間も納得する世の中になってきているようだ.経済的なことで融通を利かせることをバカにしていたサムライの心はもう無くなったのか!」黒川は院長のことを苦々しく思いながら,「やはり予感は当たったようだ.治療法の見つからない患者を診るのはいやなものだが,その患者がまた増えるのだ.しかし,病院の気密室はすべて使われているはずだが,どうやって収容するつもりなのだ?」と同時に出口のないこれからの運命に弱気になっていた.
病院で唯一くつろげる自分の部屋で休むこともなく黒川は白衣に着替えたあと,すぐに二十五号室に向かった.相変わらず静まりかえった廊下に,自分の足音だけが響く.朝から感じていた頭痛は少し良くなったようだ.気密室のエアーロックを開くと,三つのベッドが見えた.すぐに院長の声もインターホンから聞こえた.「新しい患者は二十三歳男性と三十六歳男性だが,昏睡になってすでに三日が経過している.全身状態は安定しているようだ.国立中央病院からの紹介だ.この病院も有名になったものだ.手に負えないといろんな有名病院から紹介されてくるな.」自分の名誉になることはとてもうれしそうに話す.院長も医者である前に人間であるわけだから,虚栄心が見えてくる.その程度は中くらいだろうか.人間である限り,また他人と暮らしていく限り虚栄心をなくすことはできない.だがその程度には気をつけよう.黒川は院長のことを良くは思っていないが,その人間らしさは憎めないのであった.
「同じ脳炎とはいえ,同じ部屋にしても大丈夫でしょうか?」真島が心配そうに尋ねた.
「部屋がないから仕方ないんだ.そのことで世論やマスコミが騒ぎ出したら,考えるつもりだ.なんと言っても一人受け入れることで月に千万円を超える特級の感染症管理料がとれるし,厚生労働省も暗に認めているんだ.」院長が強い口調で言った.あまりの強い口調に真島は驚いてそれ以上何も言えなくなった.院長を先頭に少しいらついた様子でその三つのベッドに近づいたときだった.三人が同時に何かを話し始めたのだ.「うるさいやつだ!」確かに,三人とも同じ言葉を話したのだ.院長は一瞬凍り付いたようだが,三人の顔を順番に見つめ,彼らの意識がないことを確かめた後,気を取り戻したようだった.震える声で「・・・驚いたよ.今私が,真島くんに対して思ったことを,彼らが話し始めるから・・・いや,本心ではそんなことは思っていないから,真島くん,悪く思わないでくれ.」「はい,そんなことは思っていません」しかし,真島は院長の嘘がわかっているかように返事は冷たかった.
「黒川先生,もしかしたら彼らは人の心が読めるのでは無いでしょうか?」真島が驚いた様子で話した.
「私もそう考えていたところだ.正確に言えば,人の精神状態に反応しているように思える.脳波は?」黒川はモニタールームへ急いで入ると,脳波のモニターを見つめた.「やはり,徐波だ.彼らは昏睡状態でしゃべるのだ.」モニターの脳波は緩やかなカーブを描き,ここは病室の深海のような息苦しさに比べると夜の湖面の静かな波を見ているようだった.
院長がいらいらしながら話してきた.
「この病気になると人の心がわかるなんてことについては発表は控えた方が良いな.わかったところでこの病気が治療できるわけではないし,返って騒ぎが大きくなるだけだ.」それを聞いて院長らしい考えだと黒川は思った.それと同時に院長は自分が都合がいい状態だと現状維持を望む弱い人間だと感じた.人間は現状維持では人間では無くなる.それは動物であり,人間なら歴史が示すように,常に変化し続けなくてはいけない.黒川は感情の高まりを感じていた.しかし同時にまた頭痛が強くなったようだ.いつもと違う体調に黒川は弱気になっていた.午後5時のチャイムが病院にこだました.「やっと5時か.きょうは疲れたので定時に帰ろう.どうしてだろう?考えがまとまらない.最近,頭痛がしてよく寝られないからかな.」病院の自分の部屋に戻り患者の脳波のデータを見直していた.しばらくすると黒川はゆっくりを深い暗闇に意識が吸い込まれていくように感じた.まわりの雑音が静まり,まるで水の中に入ったような耳の詰まり感とキーンという小さな耳鳴りが聞こえ,それまるではスピーカーとマイクでハウリングを起こしているような音だった.その耳鳴りが徐々に小さくなっていくと,まわりの雑音が聞こえ始めた.それと同時にたくさんの人のざわめきが聞こえ始めた.黒川はとっさに自分の部屋のテレビかラジオがついていないかと思い部屋の中を探したが,どれも電源は切れていた.そして近くに人もいなかった.遠くから真島の声が聞こえて,それが徐々に大きく聞こえてくる.しかしその言葉は単語の羅列であり,会話では無かった.それ以上に彼の気分がとてもよくわかった.彼は緊張していた.彼の息づかいや心臓の音まで聞こえるような気がした.真島が黒川の部屋のドアをノックする音と真島自身が聞く音が重なって黒川の頭の中でハウリングを起こした.高い音が耳に響いた.そしてそのまま黒川はデスクの上に寄りかかるように崩れ,意識を失った.
次に黒川が目を開けると徐々に広がる白く輝く明るさに包まれていた.よく眠った感じだった.自分は生きているのだろうか?それとも長い夢を見ていたのだろうか?手を動かしてみた.手首のところに拘束バンドがありベッドの柱に固定されていた.手に軽い痛みを感じ,さらに頭の中がはっきりしてきた.黒川は病室のベッドに横たわっていた.動こうとしたが全く身動きできなかった.まわりにはたくさんのチューブと機械が体につながっている.「どうなっているんだ.たしか,病院の自分の部屋で患者の脳波を見ていたと思うのだが,ここはいったいどこの病院だ.うちの病院では無いみたいだが...」かろうじて右の人差し指でナースコールを押すと,背の高い看護婦がすぐにやってきた.「あら,目が覚めたのですね.良かったわ.もう意識が戻らないかと思いました.すぐに先生を呼びますね.」
「ここは,あの世なのか,それとも夢を見ているのか?」
色の白い太った医者がゆっくりと近づいてきた.「気分はよろしいですか?治療が効いたようで,良かったですね.」
「どれくらい昏睡状態だったのですか?」
「そうですね.約半年ですね.」
その言葉に黒川は驚いた.半年間も昏睡だったとは,まるで昨日のように感じるのは不思議だ.頭がまだもうろうとしているが,この医者はいい人らしい.真剣に私のことを心配してくれているようだ.隣の看護婦は仕事の後のデートでとても心が弾んでいるようだ.なぜか黒川には自分のまわりの人の感情が自分のことのように感じられるほど理解できる.
「私たちの考えていることがわかりますか?」色白の医師が言った.
「はい.」
「あなたも第六感を身につけられましたね.私はワクチンで予防できたのでその能力は無いのですが,私の心がわかっても,人には言わないでくださいね.お願いします.」
私が眠っていた半年の間の話を,この医師から聞くことができた.この病気の原因はすべてがわかったわけでは無いが,新型のウイルスが原因であることは間違いないらしい.症状は脳炎とほぼ同じで,杉谷精神神経科病院では私以外にも真島や百人以上も感染者がでたらしい.二ヶ月前に韓国の研究者が初めてワクチンの開発に成功し,やっと治療できるようになったようだが,ウイルスが体から消え去っても,感染した脳の神経細胞には他人の脳波や脳の磁場を増幅し,その人の心の動きを感じとる能力は残るようだ.すでに地球上の全人口の一割が感染し,この能力を獲得したらしい.細胞と細胞を融合させるセンダイウイルスやアデノウイルスはすでに発見され実験に使われているが,精神と精神を融合させるウイルスは聞いたことがない.黒川は意識がなくなる前のかすかな記憶をたぐり寄せながら,目を閉じて考えた.
あの時,たくさんの声が頭の中で聞こえていたのは,私が狂ったためでは無かったのだ.あの声は私の近くにいた人の,心の声だったのだ.今もその声は聞こえてくるが,原因がわかったせいか,それほど気にならない.人間というものは新しいものや初めてのものや原因のわからないものには原始的な恐怖があり,パニックを起こしてしまう.それに,意識を保つための脳幹までウイルスに冒されたのだから,当時は冷静に考えることができなかったのだ.
担当の看護婦にテレビを見て良いか尋ねた.私の見えやすい所に,テレビを持ってきてくれた.ニュースではアラブ諸国とイスラエルが平和条約を結んだらしい.そのほか地球上の至る所で起きていた小さな戦争がすべて集結したと伝えていた.その原因は,このウイルスに感染して生き残った人には,第六感が特殊能力として授かったわけだが,この人々の前では政治交渉で嘘をつくことはできなくなった.やっと,本音とたてまえを使い分ける不幸な時代が終わりを告げたのだ.大統領や国王がこの病気で第六感を身につけた国では速やかに,汚職が一掃され,お世辞を言って取り入っていた連中はいなくなり,本当に国を思う人だけが,国の立て直しを行った.人と人の関係も少しずつ変わってきたようだった.相手が特殊能力を持っているかどうかわからないが約一割の人がその能力があると思えば,むやみにだますこともできなくなり,犯罪が激減したのだ.うわべだけの言葉は無くなり,言葉と行動が一致する世の中に近づいてきた.
三ヶ月後,黒川は明日を退院に迎え,病室の外の夕日を見ていた.「もし神がいるなら,このウイルスは人間へのすばらしいプレゼントだな.このおかげで他人に対する恐怖,偽り,詐欺,誤解による戦争,言葉の行き違いなどいろんなこの世界の不幸が取り除かれた.たとえば人間より下等だと思っている蜂や蟻も犠牲的精神では人間以上のことを行うのは,精神が一つになっているからかも知れない.たくさんの蜂や蟻が個々の精神を乗り越える大きな集合体としての精神があるのかも知れない.この病気の仕組みがわかってくれば,第六感を身につけ飾った言葉ではなく精神で直接話し合う人々がこれからも増えていくだろう.そうなれば多くの人間が精神で結びつきネットワークのようになり,人類全体として何か大きな一つの意志を持つようになるのだろうか?そしてその意志の行き着く先は何だろう?」
夕日はほとんど沈みかけて,あたりはたくさんのビルや家の明かりが浮き上がる見慣れた夜の景色に変わりつつあった.あの明かりの元にはそれぞれ人が暮らし,なんとたくさんの人々が仕事や近所づきあいや宗教や学校や政治で社会的に網の目のようにつながっていたことだろう.しかしこれからは精神も完全につながる社会になる.そうなれば今までの人間関係は変わっていくのだ.富を集めるために知識を身につけたり,外見にこだわったりする人間の利己的な部分が無くなるだろう.そうして人をだますこともなく,うわべを飾ることもなく本当に精神的に偉大な人間が尊敬される世の中になって行くだろう.
新しい人間社会の幕開けがすぐそばに迫っていた.(終)

 

 

 

 

 

親友

 

校門の近くの桜の樹にはまだ花が残り、さわやかな風に揺られていた。「きょうはなんだかとっても眠いや。」山田 一は眠気をこらえて5時間目の社会科のS先生の小さい声に耐えていた。山田君は今年で六年生である.上級生がいなくなって、せいせいする気持ちが強いけれども、同時になにか心に物足りないものを感じていた。五年生のときから上級生とけんかすることが多く、そのしゃべり方が生意気だということで二,三人を相手にしてけんかすることもあった。たいていは校内で事件は起こるので、怪我をする前に先生たちが止めてしまうことになるのだが、それでも、体は小さくてもがっしりしているので、上級生がやられて泣いていることもあった。彼の言い分を聞くと、上級生が会ったときにあいさつをしないとか、影で悪口を言っているとか、人のうわさが原因になっていることが多かった。しかし,同級生とけんかすることはなく、クラスでも友人は多かった。その中の小島君とは入学したときから、クラスが一緒で,とても話が合うので学校が終わってからも一緒に遊んだ。2人の好きな話といえば、友達のことや学校での出来事や贔屓のプロ野球チームの話だった。小島君は背は高いが、痩せているのでがっちりした体格の山田君に比べれば幼く見えた。話の内容は自分が見たり感じたことをそのまま会話にしているので、その話しぶりには幼さが感じられた。しかし,柔らかな言葉は育ちの良さを物語っていた.ただしとても寂しがり屋で、誰かと話をしていないと不安になり自分が仲間はずれになっている気分になってしまうのであった。その心とは反対に人から見ると社交的で誰とでも打ち解けやすいということで人気があり、クラス委員や人前で話すことが多く,教師のウケも良かったが,それで大きなストレスを感じていた。
「ねえ、山田君。今度の運動会だけど、50m走のクラス代表は誰になるかな?君も速いけど、上進君も速いからね。それより女子の淀橋さんも男子くらい速いからね。そうなると誰がなってもおかしくないや。」
「僕が一番速いさ。」
「でも、上進君は、中学生と競争して勝ったという話だよ。」
「そんなの僕とやってみないと信じないよ。絶対に僕が勝つよ。」むきになって山田君は小島君を見つめた。言い出したら誰の言うことも聞かない山田君なので、小島君は何もいえなかった。
学校から一〇分ほど歩くと、山田君の家に着いた。山田君の家は昔の長屋のような木造の一階建てで、隣の家とはほとんど隙間がないくらいくっついて建っていた。ところどころ割れたガラス窓に、穴をふさぐベニヤ板が当ててあり、家の壁も古い板張りであった。玄関は一間ほどの幅でとても小さかった。「ちょっと、待っていてくれる。」そう言うと、山田君は家の中に入り、家の中を見られたくないのかすぐに玄関の扉を閉めてしまった。
「またせたね.じゃあ,近くの三角公園に行こう。」とカバンだけを置いて、すぐに山田君は出てきた。靴はズックに履き替えたのだが、それはとても古くて汚れていた。そんなことは2人はまったく気にせず、走って三角公園に向かった。
公園にはすでに中学生のグループが野球をしていた。2人は彼らの邪魔にならないように隅のほうでキャッチボールをしようということになり、ボールを投げ始めた。キャッチボールをしながらクラスの面白い話や、テレビで見たプロ野球の投手のまねをしてボールを投げていたが、そのうち夢中になって大声で話したり,小島君が後ろへボールをそらすと,大きな声で笑ってたのしい時間を過ごしていた.
「おい、お前たち!」突然,野球をしていた大きな体の中学生がこちらに近づきながら怒鳴り始めた。
「お前ら、邪魔だからここから出て行け!」急に大きな声を聞いて,驚いて何が起こったのかわからなかった2人はキャッチボールをやめて黙って立っていた。
「お前に言っているんだ。」と山田君に近寄りながらその中学生は言った。山田君はその中学生のほうをにらんだが、すぐに「向こう側に行こうぜ。」と小島君の方に話しかけ、その場を立ち去ろうとした。しかし、それだけではその中学生は収まらなかった。「この公園から出て行けと言っているんだ。」しんと静まり返った公園にその声は響いた。
小島君は怖くなって「山田君、きょうはもう帰ろうよ。そのほうがいいよ。また今度キャッチボールしようよ。」山田君のところに駆け寄ろうとしたが、小島君の心はその大きな中学生をみて急にしぼんでしまい、その場を動けなかった。
遠くで見ていたほかの中学生もぞろぞろと寄ってきた.そんな小学生なんか相手にするなという中学生もいたが、うるさいから早く追っ払えという中学生もいた。その中で大人と間違えそうなくらい背が高くて色黒の意地悪そうな中学生が出てきて、「邪魔だから出ていけと言っているんだ。生意気言うと痛い目にあうぞ。」こういう言葉にも慣れているようで、大人顔負けのすごみかただった。小島君は引きつった笑いで「山田君、早く帰ろうよ。もう遅いしさ。」と言いながら山田くんの顔を見た。彼の顔は悔しさでゆがんでいたが、必死で涙をこらえているようにも見えた。そして、公園の出口に向かって走り出した。小島君もそれに続いて、駆け出したが、怖さで途中で転びそうになった。それを見た中学生たちの笑い声が後ろのほうで聞こえた。「ねえ、山田君、待っておくれよ。」息を切らしながら小島君は追いかけた.しかし,そのまま山田君は黙って走り続け、ついに自分の家まで来ると、「さようなら。」と短く言い玄関の戸を閉めてしまった。
帰り道,小島君は怖さが収まってくると、今の出来事を思い返した。「あんな場合,山田君ならきっと中学生たちとけんかになると思ったのに...でも,山田君は何も言わずに逃げて帰ってしまった。山田君も怖かったのかな?」
 ずっと後になって山田君から聞いたことだが,彼は中学生とけんかになると一緒にいた小島君も巻き添えを食らってしまい、殴られてしまうから、我慢したのだ。でも、そんなことは今はわからないから小島君はけんかにならなくてよかったとだけ思った。こんなことがあって小島君は少しだけ山田君と距離を置こうと考えた。彼と一緒に遊んでいると怖い目にあいそうだという理由からである。
 いつものように教室で友人と雑談をしていると、うわさ好きの宮城君が「うちの兄ちゃんから山田ってやつを知っているかと聞かれたんだ。クラスの同級生だよと答えたら生意気だから一度懲らしめてやると友達が言っていたぞ。と言うんだ。山田はこのことを知っているのかな?」その時,教室に山田君はいなかった.それを聞いて小島君は自分の名前が出なかったことを喜ぶ一方、もし自分の名前が出たら、怖くて、もう外には出られなくなりそうだと思った。
 今の小学校では低学年のときは人と勉強のできない子や運動の出来ない子がいじめの対象になるが、高学年になるに従い、どちらかと言えば勉強が出来る子や教師の評判のいい子や目立つ子供のほうがいじめられるようになってくる。この状況はその後も続き、偉大な人の悪いうわさほど大衆が好むことから,大人になっても全然変わっていない。 自分たちと違う人々への差別や、中傷が無くならないのもこのためである。自分より幸せな人をうらやみ、自分より不幸な人に同情し自分の幸福をかみしめる。もしくは不幸な人への援助でその感謝を至上のものと感じるのである。つまり,自分より優れた人を引き下ろし,自分より弱い人に同情するのが大衆の行動の基礎になっている.それは子供の時から始まっているのだ.
 山田君もこのうわさを知っていたが、今までの行動を変えることは無かった。いつものように三角公園にも出かけるし、中学生たちに会っても逃げることは無かった。それを見て小島君は山田君も少しは変わるといいのにと思っていたが、山田君と一緒に帰ることは避けなかった。それは友情のあかしだと小島君は考えていた。しかし今度あの中学生たちにからまれたらどうしようと言う気持ちは強く、不安で食欲も低下してしまった。夕食のとき小島君がおかずを半分以上残しているのを気がついてはいたが、小島君のお母さんは小島君が何も言わないので病気ではないと思い、ご飯を残す理由は何も聞かなかった。しかし、小島君がだんだん痩せてくるのを見かねて思い切って今日は聞いてみようと思った。「ねえ、雅仁さん。食べたいものがあったら何でも言ってね。お母さん、がんばって作るからね。」
小島くんはうんと答えて、お母さんの顔をチラッと見てうつむきながら「僕、学校に行きたくないんだ。」
「何があったの?お母さんでは解決できないかもしれないけど、話なら聞いてあげられるわ。」
小島くんは口ごもりながら今まであったことを話し始めた。中学生ににらまれているから外に出かけたくないことを話した。でも、山田君と一緒にいると怖い目にあいそうだと言う話はしなかった。これを言うと自分がひどく弱虫に思えるからで、それだけはどうしても言えなかった。お母さんは真剣に聞いていたが、小島君が話し終えると、しばらく黙っていたが、「わかったわ。」とだけ言い、そのときはそれで話は終わった。小島君は物足りなさとこれからの不安はいまだに解決されないことを思い相変わらず気分は晴れなかった。
 次の日は日曜日だった。小島君のお父さんは大学の文学部の助教授だが、暇なときは小島君とよく公園で遊んでくれた。今日も天気がいいので朝から体をもてあましているようで、小島君が起きてくるのを待っていた。「雅仁、散歩でも付き合え。」いつもなら公園へキャッチボールやサッカーをやりに行くのに、きょうは雰囲気が違うようだ。小島君もいつもと違う様子に、戸惑いながら、お父さんと一緒に、外出着に着替え、外に出た。久しぶりに中学生たちを恐れずのんびりと外が歩けることに喜びながらも、そんな気持ちになる弱い自分にいやな気持ちも感じた。
「なあ、雅仁、人が生きていくうえで一番大切にしなくてはいけないことは何かな?」小島君は考えた。なんでそんなことを聞くのだろうか?難しいことを大学で教えているらしいけど、家では難しいことも厳しいことも言わない父親だった。「世の中に出るといろいろな人がいるし,そういう人にいじめられるのが怖いから,他の同じような人たちと同じような行動をしていると安心できるようになるね.これは子供時代だけのことじゃなくて大人になっても同じことが続いているんだ.お父さんでも時にはみんなと違うことを言うのがためらうときだってあるんだ.人間は孤独に弱いから,社交的に振る舞っている人だっている.そうすれば自分が困ったときに何か利用できるからだと思っているからなんだ.そのことを責めるつもりはないし,ほとんどの人間はそういうようにして生きているんだ.たとえば,今,雅仁が歩いているこの道だって,たくさんの人が苦労して作り上げたものだし,毎日読んでいる新聞だって,記事を書く人も必要だし,印刷したり,配達する人も必要だね.それに私たちが話している日本語も多くの昔の日本人が中国の漢字を取り入れながら作り上げたものなんだ.人は一人では何もできないのだから人に合わせて行動するのはもっともなことだけど,その目的が,自分が怖い目に遭いたくないからとか孤独になりたくないからという理由では,弱い人間になってしまうんだ.
たとえ体力的に弱い人間でも,同情で自分のために人を働かせることは出来るし,愚痴を言って相手を困らせることも出来るだろう.でも心の弱い人間は自分より優れた人を引きずり落とすことをするから,良くないんだ.」ここまで話すとお父さんは,立ち止まり,小島君の方を見た.「雅仁はまだ子供だけど,できの良くない大人のまねをしてはだめだよ.人間はみんな平等だとは言うけれどそれは法律の前だけで,実際は平等に値しない人もいるし,富や権力や地位があって,法律を逆手にとって,人の上に立ちたがる人々もいるんだ.だから本当に偉大な人は人に与える人だから貧乏なことが多いし,お金持ちは人からお金を巻き上げるのがうまいだけで,精神的には卑しい人が多いんだ.お父さんはの家は公務員だから貧しくは無いけど,将来,雅仁がその生活を守るために,自分が間違っていることを知りながら体裁や地位を守るために行動してしまうのはだめだ.偉大な友達を,見捨ててはいけないんだ.どんなに生活が困っても,日本で餓死する人はいないんだ.それにもかかわらず,自分だけのことを考える人多くなったのは,昔は貧しかった人がお金をもてるようになったからなんだ.高い志がないと,そのお金や生活を守ることにはとても敏感だけど,そのために人間に対しては鈍感になってしまうんだ.だから雅仁には感性の豊かな人間になってほしいんだ.」そういってお父さんは顔を上げて青い空を見た.「きょうは一日中天気がいいみたいだな.少し寒くなってきたから,ここでユーターンだ.」小島君は心の中で「お父さんはきっとお母さんから話しを聞いたに違いないけど,僕のことは責めなかったし,こうしたらいいとも言わなかった.これからどうすればいいのか聞きたいけど,それは自分で考えて決めなくてはいけないと言うことかな?」小島君は帰り道ずっと黙っていたが,次の角を曲がると,もうすぐ自分の家である.「ねえ,お父さん.」思いきって言ってみた.「僕,今,悩んでいることがあるんだ.」今までのことを,すべて話した.そして「どうすればいいかな?お父さんの意見を聞かせてよ」お父さんは急に立ち止まり言った.「どうすればいいかは,自分が決めることだし,どうしたら一番いい結果が出るかなんて人に聞いちゃだめだ.悩んで雅仁が決めなくちゃいけない.でもどうしても腕力に訴える場合もあるかもしれないけど,そのときは正々堂々やらなきゃいけないよ.自分より弱い人と戦うのは卑怯だ.自分を有利にしてから戦うのも卑怯だ.戦うときは自分と同じくらいの力のある人と戦いなさい.人間だから感情があるし,言葉で言えないほど怒ることもあるんだろう.その時はけんかをしても良いんだ.いつまでも心の中でくすぶらせておくよりその方が良いんだ.」お父さんはどうしたらいいかという答えは教えてくれなかったが,何が起きても大丈夫のような自信がついた気がした.そのおかげで小島君は昼食はお代わりを2回もしてしまうほどだった.「おやおや,すごい食欲ね.どうしたのかしら?でもお母さんはうれしいわ.」「うん,なんだかとってもおいしいよ,今日のご飯.」と元気に小島君は返事をした.
お父さんと話しをして以来,元気になった小島君は,山田君と一緒でも堂々と歩くことが出来た.何事もなく2週間がたとうとしていた.すっかり桜の花は散って,元気な緑が木々を飾っていた.
 堤防の桜の木のトンネルを山田君と冗談を言いながら,歩いていると,前から中学生の集団がぞろぞろと歩きながらやってきた.見覚えのあるあの中学生たちもいた.小島君は心の中で何も起こりませんようにと祈りながら,やり過ごそうとした.彼らは話しに夢中になっているようで,小島君と山田君には気が付かないようだった.一〇メートルぐらい過ぎたときだった.後ろからドスのきいた声で「おい,あいさつぐらいしろよ.」後ろを振り向くと,にやにやしながら,近づいてくる五,六人の中学生がいた.その中の背が高い色黒の中学生は山田君をにらんでいるのがわかった.「おまえたち,最近,生意気だぞ.卒業したら俺たちの中学に来るんだろう?先輩にはあいさつするもんだ.」突然のことで怖さと何とかこの場を取り繕う良いわけを優等生らしく考えて小島君は黙って聞いていたそして山田君の方をそっと見ると,彼はじっとその中学生の目をにらんでいた.心なしかからだが震えているように見えた.それが小島君には怒りを抑えているようにも感じられて,いつ爆発しないかと不安な気持ちで,その時を耐えていた.「何とか言え!おれはな,K組のYさんを知っているんだ.その人に言えばおまえたちの家族が怪我をすることになるんだぞ.」全く怖がる気配を見せない山田君に何とかしてやろうとして考え出した脅し文句だった.K組のことはよくわからなかったが,たぶん暴力団のことだと,小島君は悟った.恐怖が頂点に達し,更に何も言えなくなった.「それがいやだったら,こんどから,毎月あいさつ代として,いくらか俺たちに持ってこい!わかったか?」すでにこの中学生はそういう脅かし方に慣れているのか,言い方も態度もすごみがあった.暴力団の予備軍の資格は十分にあった.しかし,強い人の名前を出さないと,相手にわかってもらえないと思っているのが,自分自身の弱さや卑小さだということには気がついていなかった.人は社会的な動物で常にその集団の中での自分の位を気にかけ,野心の強い人は少しでも,上に行こうとして,頭が良ければ学力で,容姿に自信があればそれで,運動神経が良ければスポーツで,何もない人は人から同情で自分の力を示そうとしている.第2次大戦後,身分制度が崩れ,民主的になった代わりに,誰でも能力のある人が,その人の精神的な卑小さとは別に,社会的に上に行けるようになった.戦前は小作人などのどれにあった人たちが,自由になったのだが,その心根は変わっていないので,常に富や権力を何よりも求めるようになり,それを得ることが出来ない人は,人間関係によって,上の人と知り合いになることで自分を高めようとする奴隷根性が残っている.この中学生も同じだといっても良いだろう.
何も言わない2人に業を煮やしたのか,その中学生は山田君の胸ぐらをつかんで,強く押した.山田君は後ろへよろけて転んだ.その状況に他の中学生たちも勢いづいたのか,ヤジを飛ばして,背の高い色黒の中学生をけしかけた.「なんだ,全然弱いじゃないか.弱いくせにいきがるな!.」そう言い終わるか終わらないうちに,山田君は起きあがり,その中学生に向かっていった.中学生が更に山田君を押した.山田君はその中学生の上着をつかんで離さなかったので,今度は倒れなかった.その勢いに少しひるんだ中学生は,山田君の顔を殴り始めた.それを見た小島君は怖くなり走り出した.気がつくとまわりには誰もいなかった.そっと振り向くと,遠くの方で人の声がして,中学生たちの姿が見えるが山田君の姿は見えなかった.そのうち声がしなくなり,中学生たちが向こうの方へ歩き出したのが見えた.小島君はすぐに山田君のところへ駆け寄りたかったが,中学生たちの恐ろしさで,彼らの姿が見えなくなるまで,そこを動けなかった.
 ゆっくりと元の場所へ戻ってみると,遠くで泥で汚れた布のように見えたのは,山田君だった.彼だとわかると小島君は急いで駆けだした.「大丈夫かい?どこか痛いところはないかい?」山田君は押し殺した声で泣いていた.顔も赤く腫れて,よく見ると目の上には血がにじんでいた.「くそっ,あいつらめ.一人では何も出来ない弱虫のくせに,たくさん仲間がいると,よってたかってひどい目にあわせやがって!」そういって立ち上がると,足を少し引きずりながら自分の家の方に歩き出した.小島君は怪我がひどくなくて良かったという思いと,全く自分の方を目もくれない山田君を見て,大勢で一人をやっつけた中学生たちより,逃げ出した自分の方が弱虫だと言うことを,痛いほど感じていた.
 その他大勢なら,何をやっても自分の責任が軽くなるし,みんなに合わせないといけない状況になり,それに逆らえない弱い人間,無責任な大衆がいる.世の中の大部分の人間は大衆であり,弱い人間と言うことで自分に対していいわけをして,世の中のいろんなことに対して,常にその他大勢であろうとする.しかし,その他大勢に入れない少数の人々に対しては,差別や迫害やいじめを行い,その他大勢であることを自分自身やみんなに確認し,自分の居場所に安泰出来る.たとえそういう行動では無い寄付や慈善行動やでも,自分の名前を出す限りは,自分の居場所をアピールして自分の利益を考えていることになり,全く他人のために行動することは,人間である限りは出来ないのではと思えてくる.しかし,それを人のためにという偽善が見えるとき,人はみんなをあざむき,人間の顔をした動物になってしまう.仲間のためという理由で,群れを作り,少数の弱い人をやっつけることは,同じことだといえる.
 山田君は痛い足を引きずりながら,気がつくとずいぶん小島君からは遠くに離れてしまった.しかし,小島君はもう駆け寄れなかった.このまま山田君が見えなくなったら,もう山田君とは友達じゃなくなるし,たとえ会っても,あいさつもしてくれなくなるだろう.そんな気がして,このまま時間が止まってくれたらと思い,そこにたたずんでいた.
桜の花が散り始め道路もすべてが桜色だった.しかし,小島君にはすべてが色あせて見える毎日だった.あれから山田君は学校を休んでいる.どうしたのか気になるけれど訪ねてみる勇気も出ない.小島君は山田君の家の近くを通りながら,きょうこそ尋ねようと考えながらも,つい通り過ごしてしまうのだった.そして,反省と自己嫌悪の日々を過ごしていた.そういう状態だから,また食欲もなくなり,家族の心配を一身に集めていた.あの事件から1週間たち,そういう日々に耐えられなくなり,ついに勇気を出して学校の帰りに山田君の家を訪ねてみた.
 いままで何度も来た山田君の家なのに,きょうははじめて訪ねた家のような気がした.呼び鈴を鳴らすと,やせた山田君のお母さんが出てきた.「一のお友達でしたかね?一は中に居ますからどうぞお入りください.私はこれから弟を保育園に迎えに行かなくてはいけないので何もおかまいできませんが,どうぞ上がってくださいまし.」そういって,お母さんは忙しそうに出かけていった.山田君の部屋というのは無かった.居間がそのまま兄弟の部屋と兼用であった.母親は几帳面なようで部屋はとてもきれいに片づいていたが,もともと物がないのでそういうように感じたのかもしれない.その部屋の真ん中に,山田君は座っていた.まだ,目の上の傷には絆創膏が貼ってあり,目の回りも黒くなっていた.「ずいぶん長い間,学校を休んでいたけど体の具合は良くなっているの?」山田君はそれには答えず,「僕の様子を見に来たのかい?それとも,この間のことをあやまりにきたのかい?」小島君はそのことをきっと言われると思っていたし,聞かれたらその時の自分の気持ちを正直に伝えるつもりだった.それで山田君が許してくれなくても,それは自分の責任だから,うわべだけのいいわけをするつもりは無かった.「この間はごめんよ.君と中学生のけんかを見ていたら怖くなって,気がついたらその場所から離れていたんだ.君を見捨てるつもりじゃなかったし,けんかが始まったら君に加勢しようと思っていたんだ.これは本当だよ.信じておくれ.」山田君は小島君の目をじっと見た.そして,「君だけは僕の親友だと信じていたのに.もう僕には会わないでくれたまえ.君の顔なんか見たくないんだ.」そういうと,顔を背けてしまった.小島君は涙があふれてきた.押さえようと思っても次から次とあふれてくる涙は,情けない自分に,そして親友を失ったことに対してのものだった.「本当にごめんよ.君は許してくれないだろうけど,ぼくはこれからも君を親友だと思っているし,これからもそれに恥じないようにするつもりだ.」そう告げて,山田君とはもう目も合わせることも出来ずに,家を後にした.もう外は暗くなっていた.その暗闇の中を歩く小島君の足取りには強い決意が感じられた.
 遠くに見える山の頂上の雪もほとんど消えて,日差しにも力が見られてきた.その光の中で小島君はあの場所で待っていた.あの中学生たちがやってくるのを待っていた.彼にとってはずいぶん待っていた気がするが,小1時間ぐらいだった.遠くの方に黒い固まりが現れ,それが徐々に,一人一人の顔がはっきりして見えてきた.あの中学生も他の友人と大きな声を出して笑いながら近づいてきた.その大きくて低い声に小島君はひるんだけれども,意を決して彼らの前に進み出た.「あの,言いたいことがあるんだけど.」ほとんど小島君は泣き出しそうだった.声が震えているのを悟られないように,精一杯大きな声で続けた.「君に話したいことがある.」彼の大きな目をあの中学生にしっかりと向けて話した.「僕たちは何も悪いこともしていないし,あいさつを欠いたこともない.なのに,大勢で一人をやっつけるのは悪いことだと思う.だから,彼に謝ってほしい.」中学生たちは一斉に話をやめ,小島君の方を見た.「なんだその言い方は,生意気言うな!」あの中学生がいつもの調子で,すごみながら近づいてきた.「もう一度言ってみろ!ただじゃおかないぞ.」小島君はまた逃げ出したいと思ったが,足が震えてしびれているように動かなかった.「だから,謝ってほしいんだ.」勇気を振り絞りさっきより大きな声で言った.しかし,言い終わるか終わらないうちに,あの中学生の手が飛んできた.顔が熱くなり,頭の中が,白くなった.少し後ろへよろけたが,倒れなかった.それどころかその中学生に向かって行った.小島君は何度も,後ろや横に投げ飛ばされながらも,何度も立ち上がって,向かっていった.しかし,相手の中学生たちも,それに手出しをするものは無かった.みんな遠巻きに見ているだけだった.小島君は体中の痛さと怖さですでに泣いていたが,それでもふらついた体でその中学生に向かっていった.何度も倒されているうちについに起きあがってこなくなった.血と涙と泥で彼の顔はもう誰かわからないほどであった.「もう,それくらいで行こうぜ.」中学生たちの誰かが言った.あの中学生はまだ気持ちが収まらない様子だったが,人に見られるのを恐れているのか,まわりを見回しながら,中学生たちと帰って行った.
草と土のにおいがとても近くで感じられ.頭がぼんやりして,何も考えられなかったが,気分だけはとても良かった.ずっと陰で中学生たちの悪口を言ったり,復讐を考えたりするよりはずっと気分が良かった.
 その夜,小島君の家では大騒動になった.いままでけんかなんかしたことのない小島君だからお母さんは驚きながらも,一生懸命,顔や手の傷の消毒をしてくれた.幸い医者へ行くほどの怪我ではなさそうであった.「いったい何があったの?」しばらく黙っていたが,押さえきれずに一気に「ぼく,卑怯者になりたくなかったんだ.」と言った.そしてぼつぼつと今日あったことを話した.黙って聞いていたお母さんも話しの最後には「いいわ,今からその中学校に行って,きょうのことを話してその中学生たちを罰してもらいます.だって,何もあなたは悪くないんでしょ?あいさつもその中学生たちにしたし,年下に大勢で暴力をふるうなんて男らしくないわ.」
その言葉を聞いて,小島君は必死にお母さんを引き留めた.「お願いだから行っちゃだめだよ.学校にもお父さんにも黙っていて.僕はこれでいいんだ.もういいんだよ.」あまりに真剣な小島君の表情にお母さんは「わかったわ.あなたの言うとおりにするわ.でももう一度同じことがあったら,その時は,お母さんは黙っていられないわ.」
小島君は親が学校に言えば,山田君と同じになれないと思ったのだ.山田君のお父さんはからだが弱くて入院しているらしいし,お母さんが家のことで手がいっぱいだから,きっと山田君は何も言わなかったのだろう.いや,言わなくても山田君のお母さんはきっと気づいていたはずなのに,何も問題にならなかったのは,強いものには何も言えない弱さがあの一家を支配していたのだと思った.あの中学生たちが停学になったという話しは聞かなかったから.だから,山田君と親友なら同じ状況になりたかった.あの中学生たちが罰せられなくても,小島君は気分が晴れ晴れとしていた.山田君は知らないだろうけど,彼と同じになれたようでとてもうれしかったのだ.
 こんな事件があってから3日後,久しぶりに山田君がやっと登校してきた.教室のみんなとあいさつしたり,最近の授業のことなどを聞いていたが,やがて,小島君に気がつくと,一瞬,目をやったが,その後は気まずそうに,視線をそらした.小島君はこの間のことを山田君に早く報告したくて,彼のところへ行った.「おはよう.体の具合はすっかり良いの?」山田君の顔の傷はもうわからないくらいに治っていた.反対に小島君の顔の傷に気がついた山田君が「どうしたの?その顔?」小島君は少しはにかみながら,今までの経過を話した.ぐんぐん山田君の顔がほころんでくるのがわかった.チャイムが鳴り,1限目の国語の時間が始まった.しかし,小島君は楽しくて仕方がなかった.授業中に山田君と目が合うと思わず笑ってしまうのだった.今までのように友情が復活したのだ.早速,学校が終わってから,一緒に遊ぶことを約束した.帰り道,いつものように,桜並木の道を山田君と並んで,今まで山田君が休んでいる間に学校であったことや,プロ野球の話をしながら帰った.同じ道なのに,いままでと違って,道路の脇に小さな赤い花が咲いていることや遠くの雲の形が冬と変わったことや,ずいぶん空気も暖かくなっているのに気が付いた.いつもは,まわりの景色なんかには目もやらないで,ただ早く家に着かないかなとだけ考えていた.大きくなってから小島君は人生も同じだと思った.いつもゴールを目指して,人生を生きていると,そのゴールまでの人生は味気ないものになってしまうんだ.大学受験に合格したらとか,一流会社に入社したらとか,子供が成長したらとか,考えて人生を生きていると,本当にその間の人生は,つらいだけの仕事みたいなものになってしまうんだ.今の人生を十分に生きないといけないと思った.
 楽しい話に夢中になって,2人はあの中学生たちが前からやってくるのに,気がつかなかった.気がついたときには,すぐ近くまで,彼らはやってきた.2人は驚いて,その場で立ち止まった.やがてその中にいたあの中学生とも目が合った.きっと何か言ってくるだろうと思った.そしてまた,ひどい目に遭わされると思い,息をのんで立ちすくんでいた.しかし,あの中学生は,何事もなかったように友達とまた話を続けながら通り過ぎていった.ゆっくりと去っていく彼らの後ろ姿を見ながら,小島君と山田君は顔を見合わせた.お互いどちらからともなく,笑い出した.2人はとても気分が良かった.うれしさで駆け出したいほどだった.2人はあの中学生に勝った気がした.急に彼らの頭の上に鳥たちが羽ばたいた.彼らはそれをまぶしそうに見上げ,また笑った.(終)

 

 

 

 

 

知能強化装置

 

爆発
 大型ヒーターから吹き出される熱い空気は,すべての物を焦がすくらいの温度である.しかし,それもあっという間に冷たくなるほどここは寒かった.暑い南の島で太陽の光を浴びて肌を焼いていることを想像しながら,南極の越冬基地に勤務している山本和男はヒーターの前から動けずにいた.外の温度は考えたくもないほどだが,壁の温度計は16度を示していた.小さな3重の窓は外からの猛烈な冷気で表面が凍りつき,全く外の様子はうかがい知れなかった.建物の屋上にあるモニターカメラからの映像も激しい嵐のため同じようなものだった.
「寒くても良いから外に出られると気分もすっきり出来るのにな.」
同僚の桑原勲が言った.
「そう言えばこの間晴れ間が見えたときに,凧揚げをしただろう.あれが隊長に知られて大目玉をもらったよ.凧の糸が切れてしまうと南極にゴミが増えるから国際条約違反になるらしいよ.」
「うちの隊長はまじめだからな.」
「でもそれが良いところさ.」
夜勤の隊員と交代時間になったため,観察室へ山本は向かった.これまでの南極基地での活動と言えば純粋に研究目的だったのだが,2020年にこの地に原油が発見されてからは,その採掘を巡って多くの国が争奪戦を繰り広げるようになった.油断をしていると,自分たちのパイプラインを事故に見せかけて壊されたり,製油施設を故障させる破壊工作が噂されている.表向きは研究目的でも,実際は原油を探すことが至上命令となっているのはこの日本でも変わりがない.
 観察室では製油施設と原油の積み出し用のパイプラインが多くの画面に映し出されていた.その中に鮮やかな緑色に光るモニターがあった.原油の取り出し口に取り付けられたカメラからの画像は,緑色の蛍光を発していた.もし原油が盗まれたときにどこの国から持ち出されたものかを判別するための処置らしい.いつものようにただ画面を見ているだけでは,ほんの5分で飽きてしまうため,山本はビデオを見ることにした.屈強な男が銃を撃ちながら,白い車を追っかけていた.クライマックスでは男が好みそうな痩せた美人と一緒に大きなビルの中に逃げ込んでいた.ふとモニターに目をやると,緑色の原油がいつもより明るく見えたような気がした.しかしそんなことには気にもとめず,ビデオの続きを見続けた.今度はエレベーターの天井によじ登り,ロープをたどって更に上に上がるシーンだった.と,その時警報が突然観察室に鳴り響いた.油圧上昇警報だった.山本は驚いてパイプラインの油圧を見ると,すでに通常の2倍の圧力が加わり,破裂の危険があるラインまでもう一息である.それを見てぞっとした山本は震える手であわてて,バイパス回路の弁を解放するスイッチを入れた.圧力は徐々に低下するかに見えたがすぐにまた上昇を始めた.
「このままじゃラインが持たない.爆発してしまう.」
すべての送油ポンプのスイッチを切ることにした.しかし,一度送油ポンプを止めると原油が凍り付き,3日間は稼働できず,その間の損失は莫大なものになる.もしかすると責任は自分が取らなくてはいけなくなる.そう思い躊躇した山本は停止スイッチを切らずに送油先のエルタニン弯の採油所に連絡した.採油所の機械の故障と言うことにして採油所からでの送油ポンプを止めてもらおうと思ったのだ.
「エルタニン精油所?こちらパイプライン観察室の山本だけど,ちょっと都合が悪いことが起こりかけていて,そちらから送油ポンプを停止してくれないかな?」
しかし,エルタニン精油所の職員は驚くべき言葉を伝えた.
「こちらの送油ポンプが壊れて,原油は送っていない.」
その言葉を聞くと同時に再び警報音が鳴りだし,まもなく轟音とともに大きな地震が起こった.たくさんの機械が倒れてきた.それが山本が覚えている最後の情景だった.
 1時間後,事故の知らせを受けて救助隊がやってきた.大きな雪上車の中から,ここの責任者である黒川が見たものは,見渡す限り緑色に染まった雪であった.その中には小さな丘くらいの緑の固まりがあり,それも徐々に激しく降り続ける雪で白く変わっていった.
「この爆発の様子ではここの隊員たちはたぶん全員生きてはいないだろう.特に若い山本は自分が寂しいからと家族をこちらへ呼びよせたのに,本当に残念なことだ.しかし,設備がほとんど残っていないようだから復旧までには3ヶ月はかかりそうだな.困った,こんなことが会社にしれたら一生ここの管理者で終わりだ.」
黒川は南極基地のようやく責任者になったのに何でこんな目に遭うのか自分の運命を呪った.気分が滅入りそうだった.人一倍責任感が強いが,そのせいか自分を責めることが多く,人生を楽しむ性格ではなかった.
「おっと,少しでも飛び散った原油を回収の指示を出さないと.」
「本部か?大至急大型のショベルカーと運搬用の雪上車を用意してくれ.」
原油は零下40度では固体になってしまい,そのまま掘り起こして運ぶことにした.2020年原油は貴重品で,すでにアラブの原油は枯渇していた.残っているのはアラスカの一部とシベリアに残っているだけである.
「爆発の原因はパイプラインの詰まりか?報告書か,困ったぞ.原因不明では突っ返されるしな.宇宙人の仕業とでも書いておこうかな?」
半分あきらめたように黒川は大型雪上車の中で考え込んだ.
 激しい頭の痛みで山本は目覚めた.
「どうなっているんだ?ここはどこだ.」頭痛に慣れてくると,今度は耳鳴りがしているが,その割に全くまわりの音が聞こえない.まわりが静かになったせいかと思い耳を触れてみるが何も聞こえない.どうやら耳が聞こえなくなったようだ.音が無い世界は,現実感も無いものだと実感し,山本は自分が生きていることを確かめるように,傷だらけの手を見つめた.手首に少し鈍い痛みがあるが思い通りに動かすことが出来ることを確かめると,斜めになっているコンクリートの柱を伝いながらゆっくりと起きあがった.鋭い寒気が頭の上から流れてくる.外に穴が開いているに違いないと思い,その方向に向かって,穴だらけの階段を上り始めた.人間らしき姿がコンクリートのがれきの下に見えたが,動く気配は無かった.生きていてくれという強い気持ちから何とかその大きな固まりを取り除こうという努力は一人の人間の力では叶わなかった.しばらくそこでぼんやりと時を過ごしたが,とにかく生きた人間に会いたい気持ちから再び山本は階段を上り始めた.非常用の電灯が点いているのでぼんやりとまわりの物の形は見えるが,足下では陰なのか,あの世に通じる穴なのかわからない.しばらく歩いていると頭がふらふらするし気分もさっきより悪くなってきた.自分で見たところは体に傷は無く,出血はしていないのにどんどん衰弱していくのはとても不安であった.医学の知識があれば爆発の衝撃で体の中では内臓から出血していることに気が付いたであろう.更に知識があればなるべく動かないことが長生きの秘訣であったことも山本は知らなかった.

学習塾
 南極基地に多くの人が住めるようになったのはつい最近のことだが,今では一万人以上の住民がここで暮らしている.いまだに地表で暮らすことは困難であるためほとんど人々は地下ですごしていた.地表から約100メートル下に断熱壁でおおわれた直径50メートルほどの球形のシェルターを作り,連絡路として5メートルほどの通路を持っている.それぞれには100200人暮らしている.隊員の家族も一緒に暮らしているため,学校や病院など社会的に必要な施設はここにある.黒川の部下である清水も妻と2人の子供を連れてこの場所に12月にやってきた.赴任した直後はこの極限の地での暮らしに不安が大きく,毎日が新しいことの連続であり子供たちとの生活に精一杯の状態であったが,3月を過ぎる頃から,そんな心配事は消え,日本で暮らしていた頃と同じような悩みだった.その悩みとはどこにでもある2人の子供を夫のような一流の企業に入れるための教育だった.
「学校はあっても,こんなところでのんびりしていたら三流の会社にしか就職できないわ.」
「もっといい塾とか無いのかしら?」
買い物の帰りに,地表近くの公園を歩いてみることにした.分厚い断熱ガラスのおかげで日の光がまぶしく,初夏のような暖かさを感じた.同じくらいの年齢の女が向こうの方を歩いていた.徐々にこちらの方へ近づいて来るにつれて顔見知りであることに気が付いた.近所に住んでいる山岸美佳だった.
「こんにちは,久しぶりね.ここへは買い物?」
山岸美佳が気が付いて振り返った.
「うん,そんなところね.」
お互いの近況を話しているうちに,同じくらいの子供がいるので自然とそのことに関した話しになった.山岸美佳の息子が中学校に入ってから,成績が芳しくないらしく.それで,子供本人は気にしていない様子だが,塾に通わせるようにいま手続きをしてきたのだと言う.つい一ヶ月前に出来た大手企業の子会社の進学塾らしい.とても評判が良く,ほとんど最下位に近い生徒でも瞬く間にトップクラスの成績をとれるようになるらしい.それでもその塾に通う生徒が増えてきてからは,トップを取るのも大変になってきたようだ.
「あら,そんな良い塾が出来たの?うちの子供の成績が落ちてきたのもそのせいね.」
月謝は結構な金額だったが無理すれば払えないことはないと清水多恵は思った.
家に帰る前にその塾のところへ行ってみようと考えた.塾はプロムナードの北に位置する10階建てのビルの一階にあった.ビルの受付には地味な服装の若い女性が座っており,ドアが開くとすぐに声をかけてきた.一見整った顔をしているが表情に乏しい感じがした.
「受講をご希望ですか?」
その声はとても丁寧であったが,清水多恵には感情がこもっていない気がしたが,清水多恵はそれは初対面だからだと思い気にしないことにした.
言われるままにパンフレットを開き,塾の方針や講師の略歴や塾の設備の説明を受けた.講師は3人しかいないようだった.
「生徒の数に比べて講師が少ないように思うのですが?」
「そのことはよく聞かれますが,とても優秀な講師ですので,多人数の講義でも十分成績アップしますから大丈夫ですよ.」
話を聞いているうちに徐々に子供を通わせたくなったが,金額がとても自分一人で決定できる額ではないので,一度家で相談すると言うことで,資料を持って帰ることにした.
 爆発事故のあおりで清水和彦の帰りは夜の11時を過ぎることがほぼ毎日であった.帰ってもほとんど妻と口をきくこともなく,食事を軽くすませて寝てしまう毎日であった.その日も帰宅するとテーブルの上に,塾のパンフレットと美佳の書いたメモがあった.「ちょっと高いけど,敬一のの将来を考えたら,すごく良い塾みたい.だから入っても良いでしょ?」と書いてあった.美佳は言い出したら聞かない性格だし,それに比べて少し気の弱い和彦はメモの横に「わかったよ」と返事を書いた.
 この南極地下ではビルの屋上は天井の支えになり,すべての建物がだいたい同じような高さを保っている.違うのはビルの横幅と色くらいである.そのためどこも同じような風景になってしまう.おかげで道に迷ってしまう人が多く,案内用のモニターが最近設置された.必要のない時には企業のコマーシャルが映されている.
「またモニターの数が増えたような気がするわ.家の外でもテレビを見ているようで,落ち着かないわね.」そう思いながら,塾に向かった.登録は簡単であったが,子供の病気や特に髄膜炎や脳炎にかかったことがないかと詳しく聞いてくるのが少々煩わしかった.
 三ヶ月後,幸運にも今回の事故について責任は追求されることがなく,黒川はいつものように職場で採掘される原油の状況を監督していた.事故の犠牲者は6人,死亡は5人,行方不明1人,山本は結局見つからなかった.
「この分なら,前月の遅れを取り返せそうだな.清水」
「ええ,前年より2%も良くなっています.これなら本社も文句は言ってこないでしょう.部長も飛ばされなくて良かったですね.」
「まあな,飛ばされるなら君も一緒だろうがね.しかし,こんなところにいつまでもいるのは嫌になるよ.早く日本の本社に帰りたいものだ.そう言えば君は5年間の契約だったね.家族はこんなところでも慣れたかな?」
「ええ,うちのやつはここに来てから子供の成績が上がったと喜んでいますよ.」
「そう言えば君の奥さんは教育熱心だったな.うちは子供がいないからその点は気楽だな.」笑いながら黒川は次の部署へ向った.
 家庭での出来事には鈍感な清水だが,息子の敬一の成績が上がったことには喜んでいた.しかし,親子の会話が減ったのは寂しかった.敬一の話す内容に全く無駄がなく,学校からの伝達事項のみである.それに比べて美佳はこの間の定期試験が20番も順位が上がったことに喜んでいて,息子の変化には,いや変化と言うより大人になったのだわと美佳は考え,息子に手がかからなくなるし,良いことだらけだわと全く息子の変貌に気が付いていない様子だった.
 職場の窓からは人工の太陽による弱々しい青い光が差していた.雨は全く降らない.清水和彦はその人工的な景色がまだなじめずにいた.10階の資料室からは,地下街のほとんどが見渡せるようで,息子の通っている灰色の大きなビルもここらか見ることが出来た.窓には明かりが見えるが,人影は見えないようだった.頻繁に大きなトラックが蟻のように穴から出入りを繰り返していた.

20年後,南極地下都市
 巨大化した南極都市は,更に多くの地下原油を取り出そうとしていた.今では人口100万を超える都市に発展していた.地震が無く,完全にコントロールされた人工の気候と完璧な治安と社会保障の設備によって多くの人々が移住してきた.世界の原油は減少しつつあったが,高いエネルギー効率のおかげで,枯渇するところまでは行かなかった.しかし,商品価値が高いことには変わりは無く,おかげでボーラーオイル社も現在の世界第2位の地位を得ることが出来た.
 清水和彦はその後,子供の教育方針の違いで妻ともめることが多くなり,日本へ帰還するとすぐに離婚した.その後はまじめな性格から特に問題を起こすこともなく,香港支社の副支店長を最後にポーラーオイル社を退職した.
 清水敬一は毛足の長い茶のスウェードで仕上げた椅子に腰掛け,ゆっくりとタバコを取り出した.そしてそばにあった大理石で装飾されたライターで火を付けた.堂々とした黒く大きな机はこの部屋の主人に合っていた.そのほかの調度品は専門の人が選んだ趣味の良い上品なものばかりであった.
「ここからの眺めは最高だな.もしここへ母を呼んだらますます俺のことを見直すに違いない.」
妻に引き取られた一人息子の敬一は本社採用のエリートとして南極採掘所の管理官になり9月からここに赴任したばかりだった.
「もしもし,清水だが,予約をお願いしたいのだが...いやそれは困る.どうしても今日じゃないと.もう時間がないんだ.では7時に.」
「疲れがたまっているみたいだ.早くすっきりしたいものだ.」

知能強化装置
 若い男がゴツゴツとした岩壁の隙間から突然現れた.ここは南極都市の最果ての都市の通信や温度の調節や空気や水の清浄の中枢がある場所で,関係者以外は立ち入り禁止と表示されている.多国籍の土地柄にふさわしく5カ国語で書かれていた.最後の注意書きには生命の保障は出来ないと書いてあった.その男は素早く無駄のない歩き方で通りの中央まで行き着くとタクシーを拾い,以前あの学習塾の在ったところへ向かった.その場所は現在も学習塾として営業を続けていた.不思議なことに一階にある受付の様子も変わらず,受付嬢さえも同じ人に思えた.
男は受付の女に目であいさつをするとそのまま何も言わずに,奥の部屋に入っていった.奥の部屋は学習塾には似つかわしくないほど大きく,またそこにある機械の数と種類もふさわしくなかった.そのまわりには白衣を着た人間が忙しそうに働いていた.その更に奥にガラスで囲まれた小さな部屋があり,そこへ男は入っていった.
「所長,今帰りました.特に研究所に対して疑われることは無いようです.」
大きな太った所長と呼ばれた男はうなずきながら低い声で
「われわれのやっていることを芳しく思わない奴らもいるから,気をつけるようにな.これからも監視を続けてくれたまえ.それから,会社では君のことを疑う者はいないか?特に昔からこの会社にいる黒川には気をつけろ.」
「黒川さんはいまでは相談役で会社のことには興味がないから大丈夫ですよ.しかし,一度だけ,昔の事故で行方不明になった山本の話題になった時に,つい山本の妻のなれそめを話しててしまい,そのことをなぜ知っているのかしつこく聞かれましたが,山本の友人から聞いたと何とかごまかしておきました.」
「それは用心してくれないと困るな.何しろ君の頭の中の記憶は山本本人なのだから.いくら外見が違うからと言っても記憶はそのまま残っているから無意識に思い出してしまうこともあるだろうから十分に気をつけてくれたまえ.」
「わかりました.」
山本の記憶を持った若い男はその部屋をあとにした.
大きな部屋の隣には小さな部屋5つが連なり,中には机と椅子があって普通の教室のようだった.一番手前の部屋では,10人くらいの子供と一人の若い男がいて,一見したところ整然として授業を受けているようだった.その中の一人の子供が若い男に呼ばれると,一緒に教室を出た.男の子は少し不安なのか盛んに若い男に質問していた.隣の大きな部屋に入ると,若い男は中の職員にあいさつをした.
「第3ステージの子供を連れてきました.処理をお願いします.」
2
人は奥のガラスで囲まれた小さな部屋に入った.
「準備が出来たら,その赤いスイッチを入れてくれ.」所長が若い男に向かって話した.男の子は不安そうで怖がっているようだったが連れてきた若い男にうながされてベッドに横たわった.ベットが上に移動し,「知能強化装置」と書かれた大きな機械の中央に開けられたトンネルの中に入っていった.そのトンネルの周囲にはたくさんのコイルが放射状に広がり,青白い光を規則的に放っていた.
「今回は100テラでお願いします.」若い男が他の職員に声をかけた.
「記憶の容量はいくらでも増やせるものなのかな?」所長が隣にいた技術主任の前田に尋ねた.
「ええ,この機械を使えば,記憶は理論上はいくらでも増やせるはずです.将来は文字で書き留める必要は無くなるかもしれないですな.私も10%拡張していますが,物覚えが良くなったと会社や家でも好評です.」うれしそうに前田は答えた.
「私は所長に着任したときに24%の拡張を受けた.おおむね幹部は20%以上の拡張を受けることを本部から言い渡されている.君も幹部になるときにはがんばって拡張を受けてくれたまえ.」言葉は丁寧だが,少し冷たく所長は話した.
ベットに寝かされて機械の中に入っていった男の子が再び黒いトンネルの中から出てきた.一見したところ意識はあるのか無いのかわからない.弱々しい呼吸であった.機械から出てきたときに体全体が青白く光って見えたが,一瞬のことであった.次の瞬間,心停止のアラームが鳴り,白衣を着た医者とおぼしき人が駆け寄り,心臓マッサージと人工呼吸を始めた.彼の努力が報われ,心電図の規則正しい音が聞こえ始めた.
主任の前田が青い顔をしながら「記憶力を上げるためとはいえ,たまにこういうことがあるから彼の心臓にも私の心臓にも悪いな.」と震えた声で話した.
「やっと体の状態が落ち着いたみたいだな.それでは記憶拡張後のテストといこうか?」子供に声をかけるとゆっくりと目を開けた.若い男が早口で歴史の年号と起こった出来事を矢継ぎ早に読み上げた.
「今,私が言った年号と出来事をすべて言ってみてくれ」と子供に言うと,驚くべきことによどみなく一つも間違えることなく答えた.
「何度もこの場面を見ているがすばらしい記憶力だな.これなら,トップクラスの成績も間違いないだろう.」前田主任は満足そうな顔をした.
「それで,今回の拡張率はどれくらいだね?」
「およそ7%になります.前回と併せて約16%の拡張です.」
「精神的には特に問題は無いのだな?最初の頃には,聞こえない音が聞こえるとかうつになった者もいたようだ.」
「詳しい検査をしないと分かりませんが,今のところは正常です.意識もはっきりしています.」
「それなら安心だ.失敗が本部にしれると,給料ばかりか左遷されてしまうからな.それも拡張された脳をこの機械で元に戻されてしまうわけだから,全く社会的には底辺まで落ちてしまう.なんとしても失敗は許されないから,君たちも将来毎朝起きるたびに資源ゴミを探すような暮らしをしたくなければ,このことを忘れるな.私なら今の地位を守るためなら何だってするつもりだ.分かるだろう?おまえたちが私の立場になれば...」感情的になった所長は顔を赤くしながらしゃべり続けた.
 彼らが知能強化装置と呼んでいたこの機械とは,人間の脳の記憶が存在するという海馬という部分のネットワークを拡張する装置である.記憶の拡張を受ける人間はあらかじめイボテン酸という神経を破壊する薬を注射され,その後強い磁気を使って神経の回復をうながし,以前より神経シナプスの数を増やして,結果として記憶できる容量が増えることになる.
最初にこれを発見したのは偶然脳梗塞の治療で強い磁気を当ててリハビリを行う治療中の出来事であった.失語症に陥っていた患者がある日突然,うまくしゃべられるようになったからである.最初は自然回復かとも思われたこの現象も多数見つかったことから人為的な出来事であることに気が付いた.しかし,その応用については未知の部分が多く,すでに脳の病気で傷ついた機能の回復のみに限定された.
事実,イボテン酸で破壊された海馬の周辺はサイレントエリアと言われ,いまだに脳としての働きの分かっていない領域であるため,破壊されても外見上は何の障害も見られないのだ.その部分を記憶領域として拡張するのが知能強化装置である.
 清水敬一は研究所への道を急いでいた.いつもなら会社から10分で着くのだが今日に限って渋滞していた.彼は子供の頃に知能強化を受けたのだが,最近になって記憶力の低下を感じていた.いつもなら書類に一度目を通せば,そのことを忘れるはずがないのだが,会議の時間を間違えたり,突然言葉が出なくなったりするのだ.そればかりか,少々気が短くなっているようだ.今まで自分の出世に響くような失敗は出来るだけ目立たないように自然現象や慣れない部下の責任にしていた.それがうまくいかなくても激怒したり悲観することはなく,人前で感情をあらわにすることも無かった.「くそ!こんなことになるのはきっと知能強化の効果が薄れてきたからに違いない.早く処置を受けないとみんなの前で恥をかくことになってしまう.それだけは耐えられない.なんとしても急がなくては.」.前の車が急ブレーキをかけて停車した.清水は何とかブレーキが間に合い,衝突を避けたが,後ろのほうから突然キュルキュルと言う音が聞こえ,激しい音が鳴り響き,清水の車に別の車が衝突した.清水は強いショックを感じたが,体は無傷だった.しかし,清水はその場の人たちの救護よりも,研究所に向かうことを優先し,車を乗り捨て,集まってくる人々をかき分け研究所へと向かった.

真実
 南極では太陽が昇らない日が数ヶ月続くが,ここの南極都市では人口太陽のおかげで朝の6時にはうっすらと白い光が差し込んでくる.お昼には少し色を変えて黄色の光に謹,夕方には赤い色となる.ただし,ここには四季の移り変わりは見られず,冬がすぐそこに迫っている晩秋の趣である.
 山本の記憶を持つ若い男はポーラーオイル社の本社ビルの10階にいた.部屋の名札には資料室と有り,関係者以外立ち入り禁止とも書かれていた.そこでその男は,コンピューターの端末で何かを探しているようだった.画面には「南極基地の爆発事故について調査資料」と表示されていた.
「確か記憶によれば,爆破の起こる1週間前にパイプラインの改良工事を行ったはずだが,送油量を増加させるためパイプラインを改良した工事のことが載っていないぞ.パイプラインの中で原油が冷却されて詰まってしまうのを抑えるために送油管の回りにヒーターを付ける工事をしたはずだが?確かに黒川部長はそう言っていたのだが?」画面には次々と工事を請け負った会社名が出てくる.
 黒い影が後ろから近づいているのに会社名の検索に夢中になっているので気が付かなかった.その影が画面に映るまでは.
「何を調べているだね.」
「驚かさないでください.新人なので自分の開発部の人の名前を覚えようと思って名簿を探していたのですが,どうにも機械の使い方がわからなくて,」とっさに答えた嘘だった.
「ところで貴方は?」
「私は相談役の黒川だ.わからないことがあれば何でも聞いてくれ.名簿なら,コンピューターの中じゃなくてそこの棚においてあるよ.」
黒川はそう答えて,のんびりとした足取りで去っていった.
「やり手だったあの黒川さんだったのか.歳をとったものだ.割と簡単にやり過ごせたな.さてさっきの続きは...」
「ヒーターコイルの発注先は三和テクニカルか.まずここを調べてみるか.連絡先は東京本社は81-033-2764-XXXXか」
男は携帯電話を取り出しその番号を入力した.「現在この番号は使われておりません.」と言う意味の英語と日本語のメッセージが流れた.男はあわててコンピューターを使い今度は三和テクニカルという会社を探した.間違いなく本社は東京でその会社は存在していた.「どうなっているんだ.電話番号だけが間違っていると言うことか.」
次にお金の流れを調べることにした.代金は工事完了後すぐに銀行振り込みで三和テクニカルという名義の口座に日本円で120億円という大金が振り込まれていた.「この工事の核になる装置だから金額もそれなりに多いが,本当に機能していたのだろうか?そうじゃなきゃ爆発事故は起こらないし,俺も死ななくてすんだわけだから.」
男は記憶だけではなく心も山本になっているようだった.「爆発の後,確か俺は階段で上に向かって歩いていた.すごく寒かったのを覚えている.そのあと出口だと思った穴の中を通り目の前が真っ暗になった感覚がしてからしばらくして俺の名前を呼ぶ声がしたので,目を開けようとするのだが目が開かない.おまけに裸でいるような感じでとても寒かったのを覚えている.それから先は余りよく覚えていない.」
「おっとまた山本になっていたようだ.元の仕事に戻らなくては主任に怒られてしまう.」
そう言ってその男は開発部のある4階に降りていった.
三崎由香は机の上のモニターを見ながら,他の部署からの予算の申請報告を見ていた.「今期もこの分じゃ開発部の予算は切りつめられそうね.もっとがんばらないと失業する人が出てきそう.」まるで人ごとのように言いながら手元にあった書類の作成の続きを始めた.そこに山本の記憶を持つ男が現れた.「あら,佐伯さん.良いところに来たわ.ちょっとこっちに来てくれないかしら.」.男は由香の顔を見つけると微笑みながら近づいてきた.
「何の頼みだい?お金なら今は無いぜ.」
「私の顔を見るといつもそんなこと言って,私が佐伯さんにお金を借りたことなんて無いでしょ?失礼しちゃうわ.」そう言いながらも由香はあまり怒っていない様子だった.
「ところでさ,噂で聞いたんだけど,ここの会社が脅迫されているって言う話は知っている?」
「さあ,それは知らないなあ.」
「ずーっと昔に,ここがまだ南極基地と言われていた頃に大きな事故があったらしいの.その時のことみたい.物知りで頭の良い佐伯さんならもっと知っているかもしれないと思ったのに期待はずれね.」
確かに佐伯は頭が良く,記憶力もすでに知能強化装置で改良を受けている幹部よりも優れていた.しかし,あまりに頭が良くできすぎる人間は人から恐れられるため,人間関係がうまく築けず,孤独だった.唯一気さくに話しかけてくるのが由香であった.たぶん友情からと言うよりも恋の感情から親しくしたいのだと思われた.佐伯はそのおかげで能力の割にはいまだに名刺に肩書きがない.
「一体誰が,会社の何をネタに脅迫しているのだろう.」

手術
 研究所では所長の指示のもとで知能強化装置がもう一台作られていた.今度は処理時間の短縮を目指して制作され,知能強化されたスタッフの元では仕事も滞りなく,すでに完成段階にあり,試験運転を待つだけとなった.
主任の前田がうれしそうに所長に話しかけた.
「この機械なら一日15人,いや20人は処理できます.前の機械と併せて稼働させれば30人は固いですね.」
「そうなれば,我が研究所も更に発展し,いつかは世界有数の企業の仲間入りだ.頭が良くなりたいやつなんていくらでもいるから,それに他の人の頭が良くなれば更に記憶を拡張して賢くならなくちゃ競争に負けてしまうから,いつでもいくらでもこの装置が必要になるわけだ.」
「でもいつかは拡張できる領域が脳に無くなるので限界はありますね.」
「なに,いざとなればあの山本のやり方でまた拡張が可能だ.しかしそのためには瀕死の肉体が必要になるが.」
20
年前,記憶の拡張装置の開発に成功した佐々木博士は実験段階から臨床試験を成功させたが,一定以上の記憶の拡張が出来ず悩んでいた.記憶容量が元の容量の30%を超えることが出来ないのだ.それを超えるためには,更に脳の領域を増やす必要があった.ちょうどそのころ採掘現場で大きな事故があり,瀕死の山本が発見された.残念ながら内臓破裂による出血性ショックで心停止状態であったが,長時間南極の外気にさらされたため脳細胞は壊死することなく研究所へ運ばれてきた.佐々木博士が以前から考えていた海馬の拡張のため脳組織の移植を実行するチャンスがやってきた.山本の頭は大きく開けられすでに大脳皮質が見える状態であった.海馬と呼ばれる部分は大脳皮質の下層にあるためよけいな大脳皮質を吸引で取り除いた.大脳皮質はゼリーのように吸引管に吸い込まれた.すでに心臓は止まっているため出血は起きない.大脳皮質が取り除かれると白いゴツゴツとした固まりが見えてきた.それを博士がメスで大きく切り出して,冷たい培養液の中にさらした.
隣の手術台では10歳くらいの男の子供が横たわっていた.全身麻酔のため呼吸音だけが聞こえ,頭は釘のような固定器でしっかりと支えられぴくりとも動かない.ガウンを着た男が側頭骨の一カ所に穴が開け長い筒を機械を使って脳の中へ差し込んでいった.15cmくらい入ったところで,死んだ男から取り出した脳をその筒を通して中に入れた.その後,子供は3日間眠り続けた.次に目を覚ましたのは明るいベッドの中だった.
手術は成功した.残るは記憶の拡張だが,これも予想以上の効果を見せ,100%以上の拡張に成功した.このことはこの子が将来天才になると約束されたことであり,佐々木博士も満足の色を隠さなかった.予想外だったのは,死んだ山本の記憶が残ってしまったことだった.この記憶を消去するのは困難を極め,イボテン酸や磁気ショックなどあらゆる手段を使っても記憶は消えなかった.幸い知能にはもちろん生活上も支障がないが,次回の実験ではまだ記憶のできあがらない5歳までの幼児の脳を使うことが検討された.

横領
 コンピュータの画面を食い入るように見つめながら,柳原広明は悔しそうにつぶやいた.「くそっ!またやられた.これで1億の大損だ.」
消耗品の購入係の柳原は帳簿で架空の発注をして,支払代金を1年前から横領していた.最初は横領したお金で先物取引をして儲けたお金で,会社へ戻していたが,最近はどうもツキが無いようだ.
「このままではいずれ会社に横領がわかってしまう.そうなればあのやり手の清水管理官だから,即刻懲戒免職だろう.いや,まてよ,責任を取らされるとしたら,やつの方だから,うまく打ち明ければうまくやってくれるかもしれないな.」
今までの負けを一気に挽回しようと為替の先物取引で新興国の通貨を買ったのだが,突然その国の体制が社会主義に変わってしまったのだ.おかげでそれまで稼いでいた蓄えを使い果たし,証拠金として5億円が借金として残った.
 次の日,柳原は管理官の部屋に最近の消耗品の仕様状況の報告に訪れる機会があった.
「...と言うことで,我が社は他の会社に比べると約2%消耗品の節約がされています.この状況は今後の維持していけると思われます.」
「世界に少しでも近づくためには,そう言うところから節約していかないとな.報告ご苦労さん.」
「ところで管理官.ご相談したいことがあるのですが.」
「今は忙しいんだが,この次にできないのかね?」
「いえ,貴方にも関係のある重要なことですので...」
柳原は会社の金を横領したことを告白した.しかもこのことが本社に知られると,管理官も責任をとらされるかもしれないとなかば脅迫じみたことを伝えた.
「一体いくらあればそれは解消できるのだね?」
「え?.」意外な管理官の言葉に柳原は聞き返した.
5億です.」
清水は思った.せっかくここまで出世できたのに,こんな男の為に経歴を棒に振ってしまうのはなんとしても口惜しかった.彼の作られた優れた頭脳が働いた.
「私が何とかしよう.ただし,君には依願退職してもらう.それでいいな?」
「ええ,その方が退職金ももらえるし,次の就職も楽ですね.なんと言っても刑務所に行かなくても良いのが一番です.」
こんな軽薄な男のために骨を折るのは心の底からいやだったが,なんとか気を取り直して善後策を練ることにした.幸い会社の経理や資料についてはすべて私が管理している.その中で何か会社が隠している都合の悪いことを探し出して,それをネタにいくらか頂くことにしよう.もちろん決済も私が行うから,いずれにしても誰にもわからないで出来るはずである.
 南極都市のメインストリートは大都市らしく,いろいろなカフェやレストランがあり,その中で豪華な感じのフランス料理店に佐伯と三崎由香は来ていた.店の飾り付けは白と金を中心に色づけされている.ウエイトレスも上品そうであった.
「仕事は嫌いじゃないけど,やっぱり佐伯さんと話をする方が好きね.」
「僕も三崎君と話していると楽しいよ.」
「ところで,佐伯さんてなんだかよくわからないところがあるでしょ?もしかしたらみんなに言えない秘密とかがあるとか?」
「何もないよ.君と同じ人間に決まっているじゃないか.それより噂になっている脅迫について教えてくれないか?」
「そのことだけど,会社の上の人から絶対に他の人には話すなと言われているんだけど,知っている人もいるし,佐伯さんになら教えちゃうね.」
20年前に起きた事故の原因が会社の手抜き工事じゃないかと脅迫されているようなの.」
「やっぱりそうか...」
「あら,知っていたの?」
「いや,噂でね聞いた話だよ.」あわてて佐伯は答えた.
「ふふ,佐伯さんおかしい.体調でも悪いの?元気がなくなったみたい.」
そんな由香の話しも上の空で,会社を脅迫している人物は誰なのか考えていた.

脅迫
 焦る気持ちがそうさせるのか,それとも性格がそうさせるのか,清水敬一は会社の高価な部屋の中で,机をひっくり返し,調度品の花瓶やグラスの食器を壊していた.すべてを破壊し終えたとき,息づかいも荒くその場に立ちつくした.
「私としたことが,成績が上がった頃から自分の感情を抑えることが出来なくなってきた.自分の性じゃなくて他人の性で自分の築き上げた地位が無くなるのはどうしても我慢が出来ない.何で私だけがこんな目に遭うんだ.あの横領したどうしようもない男の為に」
「悪いことをされたら,悪いことをしてやり返すのは気分が良いものだ.脅迫なら5億と言わず10億くらいもらってやろう.それくらいこの精神的ストレスの慰謝料代わりだ.」
清水は受け取りに銀行振り込みでは追跡されることを恐れて,現金による受け渡しを計画した.他人を信用できない性格のため自らが現金を受け取ることにした.受け渡し場所は,地上にした.地上への抜け道はいくつか記憶しているし地上の地形も記憶している.記憶力では誰にも負けない自信があった.現金では持ち運べる重さではないのでカードに変換して受け取ることにした.

 繁盛するのも限度を超えると苦痛でしかない.研究所に併設されている塾はその限度を超えていた.機能強化装置は休むことも故障することも許されず,夜間も午前2時まで働き続けた.研究所の職員も2交代で勤務することを余儀なくされ,給料は増えたが休暇はほとんど無かった.
「この分じゃ早い時期に3台目を完成させなくてはいけないな.幹部は知能強化装置で処理しても良いが,ここの下部職員は処理していないだろうな?」
所長が厳しく確認を求めたので,あわてて技術主任が答えた.
「はい,言われたとおりにしています.」
「それなら良いが,処理を受けると,性格変化があるようだと,博士が報告していた.良い性格になるのなら問題はないのだが,どうもずるがしこいというか,抜け目がないというか,とにかく部下には持ちたくないタイプの人間になるらしい.君とは反対の性格だな.」
どう答えて良いのか困ってしまい,主任は笑っているだけだった.
記憶容量を拡張することによって,その隣のサイレントエリアといわれる部分を記憶のために使うことは,性格が変化してしまうことには研究所では築いていたが,特に苦情もなく,知能強化を受けたまわりの人間も頭が良くなったからそれくらいの性格は当然だろうと考えているようだった.犯罪が起きるまでは.

 白一色の雪原は方向感覚を狂わせ,自分がどこにいるのかわからなくなる.それも今は冬だから,天気が良くても一日中闇の世界である.雪明かりと手に持ったライトが頼りである.清水は受け渡し場所に向かっていた.その場所は少しくぼんだ盆地のような部分でまわりには小さな雪の山が有り,人の目を避けるには好都合である.すでに,荷物はそこに置かれ,まわりには人影は無かった.素早くそれをポケットにしまうと,あたりを見回しながら,地下への抜け道へ向かった.受け渡しに警察が介入すれば,会社の汚職もわかってしまうわけだから,つけられる心配は無い.清水は自分の仕事が完了したことに大きな満足を得た.後は柳原のしでかした横領の跡を消すだけである.柳原はすでに退職していたが,まだ就職先が見つからず南極都市にいるという話しである.
「今度はあいつが私に脅しをかけてくることはないだろな.金の出所を知られると困るが,あいつの頭ではそこまではわからないだろう.」

手紙
 しばらく何事もなく,平穏な3ヶ月がポーラーオイル社の管理官室に流れていた.相変わらず仕事が生き甲斐である清水にとって,幸せな時間であった.
「すべてが順調だな...ここであと5年がんばれば,本社の副社長も夢ではないな.それまではとにかく不始末がないようにしなくては.」机の上の大量の書類を整理しながらある一通の手紙に気が付いた.
「おや,差出人が...Yとしか書いていない手紙だな.」
中を開けると
「拝啓,貴社ますますのご発展をお喜び申し上げます.さて,わたくしは貴社の大変重要な事柄を知り,このまま公にしないのは貴社にとっても,社会にとっても大いなる損失と考えております.しかし,一度貴社に相談の上判断いたしたくお手紙を差し上げました.7月12日 午後12時に以下の場所でお待ちしていますので万障お繰り合わせの上、いらしてください.

KI病院 一階 脳神経外科 待合室

敬具 」
清水が最初に考えたことは,あの柳原が何らかの情報で私がどうやってお金を工面したか気が付き,柳原が横領した金額より多かったと言うことも知り,それをわけていただこうということだった.
清水にとって選ぶべき道は柳原がこの世から消えてもらうことだった.
「やつの立ち寄りそうな店は知っているから,そこで待つか.たしか,ジョイフルという安いキャバクラだったな.」
清水は前にある大きな机の引き出しをあけ,中の書類を取り出した.そして奥の扉を開けると,銀色の小さな拳銃があった.
 アリバイを作るため会社はいつのも午後7時に退社し,いつものように自分のマンションに帰ったが,出かけるところを誰にも見られないように注意しながら,ジョイフルのあるアルファ通りに向かった.胸に銀色の凶器を持って.通りのビルの陰に潜んでいると,一時間ほど待っているとふらふらとした足取りで歩いてくる男の姿が見えた.柳原が徐々にこちらへ近づいてきた.男が目の前を過ぎようとしたところ声をかけた.
「久しぶりだな.柳原.」
柳原は振り返った.
「あ,清水管理官.どうしたんですか?こんなところまで飲みに出かけることがあるとは知りませんでした.」
「たまには気晴らしもしないとな.それより久しぶりだからいろいろと話したいこともあるんだが,そこのジョイフルで飲まないか?いや,もっと静かなお店が良いかな?」
「ええ,どこでもいいですよ.私も管理官と相談したいことがあるしね.」そういって柳原はにやりと笑った.
それを見た清水は確信した.「やはりこいつが私を脅迫しているに違いない.仕事もしないで飲みに歩いて,強請るとは人間のゴミだ.ダニだ.こんなやつは消えてもらうのがこの社会のためだ.みんなのため会社のために死んで当然だ.」
「柳原,君の相談したいことは知っているよ.お金のことだろう.あいにく君に渡すお金は無いね.君に渡すのは弾丸だけだ.」
「はあ?何のことですか?私はただお礼が言いたくて...」
「とぼけても無駄だ.せめて最後は男らしく,本当のことを言ってみろ!」
そう言うと胸のポケットから拳銃を取り出し,引き金を引いた.鈍い発射音を残し一発目は柳原の耳元をかすめた.驚いた柳原はあわててかけだした.2発目を撃とうとしたが,すでにビルの陰で男の姿は見えなくなっていた.
「まったく,慣れないことはするものじゃない.これで,彼が命をねらわれていることに気が付いただろうから,ますます彼に近づくことは出来なくなった.やつが今度どうでるか?金額を増やしてくるか?それともあきらめるか?まあいい.どうするか様子を見るしかない.」
翌日,清水は手紙に指定された病院へ出かけていった.正確には,指定された脳神経外科の待合室の隣の内科の待合室から柳原の姿と伺っていた.しかし,指定された時間になっても彼の姿はどころか怪しそうな人物は一人もいなかった.
「やつは用心してこないのか,あきらめてこないのかわからないが.油断できない.」
自分の人生に更なる暗雲が立ちこめる気気分で呼び出されることのない待合室でたたずんでいた.
2
日後,差出人がYと書かれた手紙が郵送されてきた.
「拝啓,
一時間ほどお待ちしていたのですが,お目にかかれなかったようです.お忙しいとは思いますが,重要なお話でしたので残念です.貴方には交渉する意志がないと考え,今回の取引は無かったことにいたします.
ただし,それなりの責任は取って頂くことになりそうです.
敬具

清水は顔をしかめ荒々しく手紙を破り捨てた.
1
週間後,本社からの電話連絡が直接清水管理官にあった.
副社長からだった.心が凍るような気分でおそるおそる清水は電話に出た.
「清水管理官かね.明日にもテレビや新聞にも発表されるだろうけど,20年前の事故に関連して脱税事件が発覚したんだ.しばらくはそれらの問い合わせや対処が大変だろうけどよろしく頼むよ.」
「はい,すぐにマスコミ対策チームを作り,万全の体制で臨みます.」
電話を切った後,不思議な気持ちになった.なぜ私の責任を追及しないのだろう.脱税事件じゃなくて脅迫事件だと思ったのだが,副社長が言い間違えたのだろうか?

結末
テレビでは,山本と名乗る人物から内部告発の投書があり,その内容は20年前の事故の原因はパイプラインを暖めるヒーターの手抜き工事が原因であり,その代金は三和テクニカルへ支払われた後に,再び発注元ののポーラーオイル社へ戻され,裏金として保管されているとのことであった.通常の送油量ならパイプラインを暖めなくても,特に問題は無いと考えていたのだが,原油不足のあおりで安易に送油量を上げようとしたのが事故原因であると結論づけていた.
清水に送られてきた手紙の主の山本は,個人的なゆすりを目的としたのではなく,会社の不正を暴きたかったからだと言うことが,ようやく清水には理解できた.
「柳原は何も関係がなかったんだ.本当に後一歩で彼を殺してしまうところだった.それにしてもあの事故でただ一人行方不明の山本と同じとは偶然の一致かな?」
山本の記憶を持つ男=佐伯はいつものように開発部で,忙しく働いていた.頭の良さは変わらないのだが,それをなるべく隠すように心がけ,それよりも思いやりや心配りに勤めるようにしていた.そのおかげで友達も少しづつ多くなり,部下も信頼して付いてきた.今では課長代理にまで出世したのだが本人は仕事自体を楽しんでいるようだった.三崎由香は佐伯の友達が増えて,更に出世したことで彼と話す時間が減りなんとなく寂しい気持ちであった.佐伯は記憶の拡張をまわりの脳組織を破壊することなく行われていたので性格の変化は無く,そのことが彼の人望にもつながっていたと言って良い.
清水は相変わらず出世欲と頭の良さを発揮したが,南極支店の管理官以上の地位に昇ることは出来ず,不平不満が多くて,まわりから敬遠されていた.
秘密裏に知能強化を行っていた研究所は公式にその後,研究が認められ,順調に発展を遂げ,特に一流企業や富豪と提携を組んでで優れた人材を次々と育てていた.しかし,幼児の脳と使う研究は倫理的に認められず,今まで通りの拡張方法でのみ知能強化が行われていた.

50年後南極都市.
 知能強化装置によって急速に科学が進歩すると思われた人間社会であるが,街を見たところで50年前と変わらなかった.都市の一部はスラム化していた.そこには知能強化を受けられなかった貧しい人々が住んでいた.
2
人の若い男が汚い服装で座って話し込んでいた.
「今度のライブはどこでやるの?」色が黒い若い男が聞いた.
「アルファ通りの古いビルの前でやる予定さ.」もう一人の髪の長い男が,楽譜を見つめながら,ギターを使って自分の曲を弾いていた.
「いつになったら俺たちは金持ちになれるのかな?」
「いつになっても無理だろう.あの頭の良くなる機械を使って賢くならないと,普通の会社は雇ってくれないに決まっている.」
「そんな金も無いしな.」
「ところでさ,知能強化を受けたあいつらは文字で書き留める必要がないらしいけど,本くらいは読むのかな?」
「金や出世につながる本なら読むらしいけど,小説や詩集なんかは読まないだろうな.音楽も聴かないらしいし.」
「へえ,じゃあ何が楽しみで生きているんだろうね.」
「俺たちには理解できないことさ.」
「あいつらは人の作った技術を利用することには長けているが,自分では何も作り出さないし,芸術もわからないし,いつまで経っても昔の技術や思想を繰り返しているよな.」
この2人の男たちが言うように,現在,この社会は科学技術や文化の停滞が著しくなりつつあった.過去の芸術だけが,掘り起こされてお金持ちたちの観賞の対象になっている状態であった.
「あ,今のフレーズ良い感じだよ.今の俺たちの明るい気分にぴったりだ.」(終)

 

 

 

 

時間が止まった日

 

 光は人間にいろんなことを連想させてくれる。希望、命、爆発、そして消滅である。自分がいる現在だけでは無く未来と過去があることを知っているのは人間だけである。動物が気楽に生活しているように見えるのは現在しか考えていないからである。
 時間旅行ができると信じているから,過去に戻って異なる未来を作り出せるなんて,勘違いをするのも人間だけである。
 太く響く音とともに黒いBMWは、白い壁の建物の前にタイヤを鳴らしながら滑り込んだ。ガルウイングドアを開いて出てきたのは、背が高く、痩せた男だった。ヒゲを伸ばした顔は精悍であった。建物の正面のモニュメントにはマケーナス研究所と書かれていた。入り口からまっすぐに続く廊下を進むと、もう一つの 厳重なドアがあり、男はそこで網膜のセキュリティーチェックを受けた。機械の合成音声で「コンバンハ、シンドウハカセ。ショジヒンヲ スベテ トレーニ  ダシテ クダサイ。」男が手に持っているのは缶ビールだけだった。それをトレーに置き、開かれた分厚いドアの奥に入った。そこはエレベーターで、地下 300mまで降りたところで停止した。薄暗い研究室は、モニターのグリーンの光とインジケーターランプのオレンジの光が所々に見られた。男は自分の席につ くと、手に持った缶ビールのふたを開け、一口飲んだ。「きょうの予定は500msecからだったな。」男は小さな籠の中から、白いモルモットを取りだし、 螺旋状に重なった直径10メートルのコイルの中心にそれを置いた。机の上のコンピューターに表示されるコンデンサーにたまる電気量が一兆エレクトロンボル トを超えたとき、コイルの中心は紫色に変わり蛛のように漂うプラズマが作られた。しかし、すぐにその状態は元に戻り、そのたびにコンデンサーに電気を貯める必要があった。モルモットの形が一瞬見えなくなりすぐにそれは現れた。
 いつものように実験は何事もなく終了するはずであった。しかし、男は持ち込みを禁止されている缶ビール、つまりアルミニウムを持ち込んでいたのだ。アル ミニウムは通常の状態では何の変化も起こさないが、超伝導状態では急激な温度上昇をもたらすのだ。自分で招いた種とはいえ、徐々に男のそばにある空のアル ミ缶は温度の上昇を続け、ついに発火した。空気中に酸化アルミの分子が充満し、超伝導状態が刻一刻と不安定になった。そして、実験室全体が光に包まれた。
 次の瞬間、男が見たのは暗闇だった。思わず手を目の前にかざしたが、やはり何も見えなかった。「ここは、どこだ?俺は死んでしまったのだろうか?」 手探りで周りを確かめると、実験室の机やパソコンはそこにあった。ノートパソコンのスイッチを入れると、画面が光り自分の居場所が見えてきた。その明かり を頼りに、実験室の出口に向かう。そこには出口は無いどころか、壁さえもなかった。そして、実験室の床も無くなり、黒い地面が無限に続いていた。遠くには 星も月も見えず、そして、全く音が無かった。
「何か大きな爆発で地下の施設が壊されたのかもしれない。そして残ったのは俺のいた実験室だけというわけか。」
男は実験室にあった懐中電灯を持ちその光を頼りにさらに奥へ進んだ。方向は他の実験室に続く廊下のようだが、コンクリートと岩の瓦礫に阻まれた。男はだんだん不安になってきた。
「このままじゃ、迷子になってしまう。きょうはこのくらいにして一旦実験室に戻ろう。」煙って見える実験室の明かりを目指し、ようやく戻れた。唯一残っていた時計は午前240分を指していた。幸いバッテリーで動くものは大丈夫なので、ここでしばらく休むことにした。 床に座り込むと同時に激しい疲れと眠気が襲った。男はいつの間にか寝てしまっていた。

 いつもと変わらない朝がやってきた。交差点にある時計は午前7時を指していた。青く澄んだ空が、太陽の光に混じって輝いていた。研究所近くのレストラン では朝食を摂る人でにぎわっている。突然テレビで臨時ニュースが流された.「昨夜午前2時頃,大きな爆発がマケーナス研究所で起きました.死傷者はいない 模様ですが,研究所で仕事中だった新道博士が行方不明になっています.なお,放射線や危険物質の汚染はありません.」そこにいた人たちは事故を知らなかったのか,一様にざわついた様子で,テレビを見ていた.
 ともあれ爆発事故に関係のない大部分の人々には、今日も平和な輝く一日が過ぎるはずであった.黒い雲が近づいてくるまでは.

 再び大きな衝撃音で、男は目を覚まされた。依然としてまわりは果てしない暗闇だった.時間は午前8時を過ぎている.手探りで地上に出る階段を探した。何 度か転んだが、ようやく地上に出ることが出来た。しかし地上もお昼だというのに薄暗く、太陽は見えず、黒い雲が空一面に広がり夜のように思えた。辺りの風 景も全く昨日とは変わっていた。建物らしいものは何も無く、黒い地平線がどこまでも続いていた。「ここは地球じゃないのか?」驚きと疲労の影が彼の心を包 んだ。
 どこであろうと生きて行くにはまずは食料が必要である.懐中電灯を手に再び男は,辺りを探り始めた.少しずつだが,まわりの地形がわかったのでそのたび にメモに書き込むことにした.幸いここには空気もあり,気温も変わらないようだ.かなりの距離を歩いた気がした。やがて川のほとりにたどり着いた.飲める かどうかわからなかったが見たところはきれいだった.すでにあの事故が起きてから10時間以上何も口にしていない。これ以上時間が経って、食べ物も水も見 つからなければ死ぬことがわかっていたので,男はそのまま手で川の水をすくって飲んだ.
男は深くため息をつくと,やがてとりつかれたように何度も水を飲んだ.
近くで何か動物のような息づかいを感じた.そっと身を伏せてあたりを見ると,10mくらい離れたところに小さな山がいくつも見えた.黒い小山の高さは約 3mでほとんど同じ大きさで,全部で10個くらい並んでいた.しばらくすると少しずつ大きくなってきた.「こちらへ近づいてきている!」そう思ったときに は,すでに5mまで迫っていた.近くまで来ると光る目が見えた.
「生物だったのか.」
しかし,その大きさに圧倒され,後ずさりするしかなかった.山のような生物はお互いに何か連絡し合っているようだが,男の耳には何も聞こえなかった.男か らの話しかけも無駄になっているのかもしれない.そう思った男はくるりと反対に体を向け,川を渡ろうと走り出した.川幅はかなりあり,男は流されつつ泳ぎ 続けた.途中何度か振り返ったが,山のような生物たちは追いかけてくる気配はなかった.
ようやく反対の川岸に着いた男は,すでに遠くになってしまった何もない研究所のあたりを見ながら,たぶんあの生物たちによって、そこも調べられるだろうから戻れないと確信した.
 見たところこの惑星は植物がなく,地表も黒い砂のような物が覆っているだけで,岩や建物が無かった.空には星も月も見えずぼんやりとした薄暗い空だけで ある.雲がかかっているのかとも思ったが,こう暗くては何もわからない.風は時々吹くみたいだから,何か大気を暖めている物があるはずである.途方に暮れ て、川の流れに沿って歩いてみることにした。急に頭の中に映像が現れ、さっきの大きな生物の姿が浮かび上がった。何かを話しているようだが、その言葉がわ からなかった。その生物の形は固い象のような肌と、8本の太い手足とオレンジ色の目が印象的であった。「私の名前は、ゴ・ガン。私の名前は、ゴ・ガン。私 の名前は、ゴ・ガン...」何度か繰り返した後、「君の世界は失われた。君の家は無になった。君の仲間は一人もいない。今は.」
その言葉に衝撃を受けた男は頭からその映像と言葉を消そうと、目を閉じたり、耳をふさいでみたが、無駄であった。
「私は君を助けることができる。君の後ろを見ろ。」
男が振り返るとすぐ近くに大きな黒い山があり、すぐにあの生物であることがわかった。8本の手の一つには通信機と思われる小さな銀色の箱が乗っていた。
しかし,話しかけてきたゴ・ガンと男のまわりには多くの黒い山が取り囲んでいた.その中の先頭にいた山のような生物が男とゴ・ガンに向けて何かを光らせ た.体が動かなくなりやがて呼吸も出来ない気がした.数秒後,ドスンと大きな音と土煙を立ててゴ・ガンと男は倒れた.
 夢を見ている感じで目覚めた.周りがとても白いのが不思議だった.目が覚めて見ると,大きな部屋らしきところに男は倒れていた.そして,檻のような丸い カゴにゴ・ガンは入れられていた.ゴ・ガンはすでに目を覚まして,オレンジの大きな目でこちらを見ていた.何かを話しかけようとしているように思えたが, あの銀色の小箱がないと,人間には通じないらしい.近くでゴ・ガンを見ると服を着る習慣はないらしい.体表は固そうだが,無数の傷があり,その中には最近 傷ついた物もあるようだった.彼の太さが1mはあろうかという太い腕でも,この檻からは出られないようで,時々格子を握って揺らしているが,びくともしな かった.
檻の格子は金属のように見えるが,触っても冷たくはなかった.
男はポケットにある物を確認した.持っていた懐中電灯は奪われたようだが,もう一つのペンライトはそこにあった.大きな部屋の中には,いくつかの操作盤ら しきものが見えるが,部屋の照明がなくほとんど見えなかった.唯一光っているのは天井だが,それも全体がぼんやりと赤く光っているだけでこれが照明なのか 外の光なのかわからなかった.男はペンライトを使ってまわりを照らしてみると,確かにいくつかの操作盤があったが,スイッチはおろか表示される文字は何も なかった.ただ部屋を含めて全体が淡く光っていた.そういえばここに来てから全く文字を見ることがなかったし,生物たちの声を聞くこともなかった.言語は 最も原始的な伝達手段であり,相手に誤解を与えることが多い.「だから,俺も女房とうまくいかなかった.愛しているといつも言わなきゃいけないなんてまっぴらさ.どんなに好きかは言葉で伝えるものじゃない行動で示すものだ.」.根っからの研究者だった男は,口のうまい伊達男よりは言語能力は弱かったようだ が心は情熱的で行動的であった.
 人間が火を使うようになってから20万年,しかし,未だに動力源と言えば炭素でできたものを燃やすことから発達はしていない.しかし,この世界はすべて が少しずつ常識では計り知れない不気味な感じがした.どんな灯火に手を触れても熱を感じることはなく,それでいて,寒さも感じない.壁や床は自然のものを 使っているようだが,同じ模様が繰り返されているところを見ると,人工物なのかもしれない.しかし,さわった感触が無く,磁石が反発するような感じと言えばいいのか,直接は物体に触れられないのである.たぶんわずかながら空中に身体が浮いていると想像されるが足音も全く聞こえない.これに比べると,なんて 俺の世界は遅れているのかと思った.せいぜい宇宙ロケットを打ちあげたり,原子爆弾を造るくらいが最先端の技術である.
 やがて出入り口らしき壁の切れ目にたどり着いた.ドアは無いが,向こう側が少しかすんでいるように見えた.男は用心のため,持っていたペンライトを転が してみた.ペンは向こう側へと移動した.安心して進んだ.だが,見事に身体は跳ね返され1mmも進めなかった.やはりここは捕獲した<<生物>>のみ閉じこめておく部屋だったのだ.
 ゴ・ガンの方を振り返ると,しきりに上の方を指さしていた.その方を見ると平滑な白い壁だったが,手で触れてみると触れることのできる部分があった.そこに触れたとたん出口の向こうの靄が消えた.男はゴ・ガンの方をみてうなずきそして,外へ出た.
 「科学者として科学技術の分野ではそれなりの能力があると思っていたが,ここは確かに遙かに進んだ技術が使われているが,生物が作ったところだから,生 物としてどのように考え行動するかが重要だ.」男は自分に言い聞かせるようにして次に広がる大きな部屋か広場を歩いた.部屋の向こう側が見えないから広場 のようだが天井はあるようで,星は見えなかった.後ろを振り返ったが,出てきた所はすでに無かった.見渡す限り白い世界である.雪山で遭難したらこんな感じなのかもしれないが,ここは確かに建物の中である.下を見ながら,歩いてみた.うっすらと見える床の模様が全く変わっていないのがわかった.前に進んで いないのは明白だった.手探りでいろんな所を触れてみると,触れることができる部分があった.ここの住民は足も手も同じように使えるらしい.そこに触れた とたん足に少しの衝撃があり地面に降り立った感じがした.
「これが外に向かっているのか,中に向かっているのかわからないが,こうなったら進むしかないか.」元の世界に戻れることを諦めたと同時に、ここで何とかして生きていこうとする強い気持ちがわき上がってきた.
足下の感覚を頼りに,どこかに突き当たるまでまっすぐに進んだ.
 別の部屋では,あの黒い山のような生物が6本の手を使って,前方のパネルに忙しく触れていた.興奮していたオレンジの眼球は青い色に変化し機械に向かってまっすぐに前を見ていた.眼球が小さくあまり動かないのは視力は発達してないようだ.それに比べると身体は遙かに人間より大きく,小さな家くらいの大き さである.発達した筋肉のため動きも早く,ねらわれたら戦うことはおろか逃げることさえも不可能に思えた.前方のパネルからは銀色の長いコードがその生き 物の大きな頭につながっていた.よく見るとその銀色のコードは蛇のように動きながら光っていた.仕事が終わると銀色の蛇は口を広げて頭から離れ,パネルの 後ろの穴に入っていた.どうやら目や耳は使わず機械からの電気信号を銀色の蛇によって化学伝達物質に変化させ,その大きな生物の頭に送り込むようだ.モニターのような銀色の板には,この星で唯一の人間が映っていた.それを見ていた巨大な生物は隣の生物に何かを言うと隣の生物は外へ出て行った.出て行く前 に、互いに何かを言ったように思ったが,それは声ではなく,身体から出る例の甘いにおいの化学伝達物質だった.
 白い道はどこまでも続いていた.その生物が目の前に現れるまで.突然現れて黒い影に本能的に男は身を翻して反対方向に駆けだした.その生物のにおいだろうか甘いにおいがいつまでも離れず,息遣いも離れなかった.後ろを見た.さっきと同じ距離にその生物はいた.離れていなかった.足下は地面から離れ,直接 触れるものは何もなかった.とっさに身をかがめて,手探りで直接手に触れる場所を探した.それは右横にあった.男は足をそこに着け,手探りで少しでも離れるように進んだ.白い入り口が見えた.後ろを見た.陰は見えなかった.入り口の周囲を手で触り,透明な仕切りが無くなり入り口が開いた.
急いで陰に隠れて目をこらした.大きな黒い影と呼吸音が少しずつ近づいてくる.小山のような3つの陰だった.身を潜めながら,男は長く感じるその時間を心臓 の音が聞こえるくらい息を潜め通り過ぎることを願った.しかし,その願いも届かず,影たちは入り口に近づいてきた.ところがその中の一つの生物が化学伝達物質の分泌物を体外へ放出すると,影たちはそこから離れていった.
「何があったのだろう.こんな時でもまだ幸運は残っているものだな.しかし,相変わらず殺風景な部屋だな.」つまりここに住んでいる生物たちは目が発達していないため,目に見える景色には配慮されないのである.たいていの操作パネルは触覚でわかる仕組みになっている.いろいろとパネルを触れていると,モニ ターみたいなものが出現した.この建物のどこかの部屋のようだった.黒い大きな生物がそこには映っていた.
「なるほど,これでどこに何があるのか少しはわかるな.」
その時,顔の近くで影が見えた.なに?と思って下を見ると首に痛みを感じた.痛い部分を見ると銀色の線があった.いったい何が起こったのかわからず,その コードを引き抜こうとしたが全く離れなかった.それどころか手に動く感触があり,戦慄した.やがて身体が固まったように動かなくなった.しかし目と耳は はっきりと周りの状況を伝えていたし,意識もしっかりしていた.苦しい時間は短くても長く感じるものだが,まさに身体は1mmも動かせないが意識と周りの 様子は今までよりも遙かに鮮明にわかる.静かで凍り付いた世界にいる感じである.魂の存在を信じる者であれば,自分は死んだことを確信したかもしれない. しかし,少しずつ手足の先に暖かみを感じた.そして,身体は動き出した.おそるおそる手を背後に回してみた.首の後ろにあるはずの銀色のコードはもう無 かった.
「いったい,今、起きたことは何だろう?夢でもみていたのだろうか?しかし意識を失う前に銀色のコードと痛みはあった.」そう思って首の辺りをさわると手が濡れた.血が出ているかと思ったがよく見ると薄い青色の液体だった.
「これは何だ?」男は手のにおいを嗅ぐとあの甘いにおいがした.
もう一度出口を探すため男はモニターを見ることにした.今度は用心して少し離れて見ることにした.切り替えスイッチだと思われる部分にさわると,今度は ゴ・ガンのいる檻の部屋が映った.男はよく見るため身を乗り出そうとしたその時モニターの後ろからあの銀色のコードが飛び出してきた.男は素早く後ろへ身 をひいたため,かろうじて一撃をかわすことができた.「な,なんだ.こんな所に蛇がいるとは.」銀色の蛇は何度か相手を求めて,向かってきたが,2,3m 離れていては届かず,そのうちにモニターの後ろへと戻っていった.
「おどろいたな.アレは生物なのか?たぶん一度アレに俺はやられているようだな.幸いなことに身体に影響はないようだが,一体アレに何をされたのか?」
慎重に攻撃をされないように距離を取りながら,モニターを見た.画面はピンぼけで音も鮮明ではなかった.」次に脱出方法を考えた.
「あの生物たちには体力では全く勝ち目はないし,ここの構造もわからないが,とんでもない規模の建物のようだ.地球ではこれほど大きな建物は存在しない.何しろ建物の中で地平線が見えるのだから...こうなったら,いろいろ試してみるしかない.」
男はもう一度モニターの前に注意深く近づいた.果たしてあの銀色の蛇のような生き物が現れたが、男はじっとしていた.銀色の蛇は再び首の後ろに回ると,皮膚の表面で溶けるようにして,男の体の一部になった.そして,規則的な震えと光を発してそこに落ち着いた.
心を落ち着けて、ゆっくりと目を閉じた。
「まず,この建物の見取り図を探して見るか.」
心に建物を想像しただけで、その必要な画面は頭の中に現れた。
「広さも何もわからないが,たぶんこの点滅しているところが自分のいるところだろう.」
「そして,何もかかれていないところが建物の外だから最短距離でこの方向へ行けば良いみたいだ.」
外の風景を想像してみた。すると今度は出口が表示された。
一通り調べ終わったら,何も考えず頭の中を真っ暗にした.
すると再びからだが暖かくなり,手足が動きようになった.銀色の蛇は消えていた.
「この出口からただひたすらまっすぐに進めばいいようだ.ようやくここから出られる.」
 建物の中では重大な非常事態が起こっているようだった.すべての壁の色が規則正しく輝きだし,今まで明け放れていた大きな通りも所々に,障害物のように仕切りが床からせり上がってきた.おかげで男は遙かに長い道のりを歩かなくては外へ出られなくなった.
そしてようやく最後の仕切りを超えた.外の薄暗い風景が見えた.外の冷たい空気も感じたような気がした.しかし,彼の後ろには大きな生物がいた.ゆっくり と手に持った黒い細長い箱を男の背中に向けた.すぐにフラッシュのような光がまわりを照らし,男はその場から消えさった.
 体中の筋肉が痛みを放っていた。その痛みも徐々に和らぐと顔に冷たい風が当たるのを感じた。どうやらここは建物の外らしい。暗闇の中で,壊れたラジオのような雑音が頭の中でザザザとうなりを上げていたがそのうちに人のささやき声のような音に変わった.自分に話しかけているとは思えなかったが,その声に耳 を傾けてみた.聞き覚えのあるゴ・ガンの声だった.
「君を助けるにはこの方法を使った.君を削除したように他の仲間には思わせた.」
「私の仲間が君の世界を無くしたのは、君が時間旅行を行ったからだ。時間旅行をするとこの宇宙全体が消失するのだ.われわれはそれを止めに来た.」
「やっぱりここは地球だったんだ.地球上の生物をすべて殺したというのか?」
「そうだ.君の足の下には死んだ生物の灰があるだろう.」
「そんな...この地球を全部滅ぼす必要はなかった.私だけで良かったのだ.」
「本当にすべてなのか?」
「すべての生物だ。」
「すべての生物に罪がある訳じゃないだろう。」
「いや、すべての生物に責任がある。」
男は涙があふれて止まらなかった。その黒い灰を手で拾い上げた.さらさらとしたその黒い灰は,人工物のようにも思えた.
「時間旅行と言っても私が行ったのはたった1秒にも満たない未来へ行くことだけだ.それが悪いのか?」
「そうだ,未来に行くことが出来れば,いつか過去に戻れる方法を見つけるだろう.そして君が過去に戻り何かをして現在と過去が食い違った時,この宇宙は消失する.」
「君も削除した方が良いと他のものたちは主張したが,私は反対した.おかげで君と同じ目に遭った。ここでは君は長生きは出来ないだろうと言うことで仲間も ようやく納得した.だから私たちは君を削除しないでここを去ることにする.」そう言い残してゴ・ガンは建物へ入っていった.ゴ・ガンが高さ5メートル以上ある四角の穴に中へ消えると巨大な建物は淡い光を放ち,ゆっくりとその輪郭がぼやけてきた.気がつくとそこには何もなかった.後は暗黒の空と黒いざらついた地面だけだった.一瞬,鳥や犬の鳴き声,そして大勢の人間の話し声,そして区別はつかないけどたくさんの生物の声を聞いたような気がした.その後はいくら 耳を澄ませても何も聞こえなかった.ふと空を見上げると、いつの間にか雲は無くなっていた。そして消えたと思った星々がまぶしいくらいに光を放っていた。
 男は時間旅行の公式を何とか思い出そうとしたが、なぜか記憶から消えてしまった気がした。やがてふらふらする足取りで光の見えない地平線の彼方に向かって歩き出した。(終)

 

 

 

 

 

 

仮想手術

 

大学病院―手術室
「どうした?まだ出血が止まらないのか?」
1手術室では大がかりな新しい手術が行われていた.緊張した顔で心臓外科の医者が4人,血管外科医,麻酔科医,医療技術者,看護師たちがあふれていた.
0年後
 暗くなってきた道路を病院に向かって竹下武雄は運転していた.今日手術を行った患者の様子がおかしいという連絡を受けたのは夜中の2時であった.病院はその次の角を曲がるともうその大きくて白い姿を現した.この町には産業がないため目立つ建物と言えば,病院ぐらいである.
 病院に着くとすぐに白衣に着替えて,竹下は病棟へ向かった.ナースステーションには看護師は一人もいなかった.心停止のアラーム音が病棟の廊下にこだましていたので,病室を探さなくても,竹下はすぐにそこに駆けつけることが出来た.
302
号室 ID2786452
すでに当直医の井上がそこにはいて,新型の患者の胸部を覆う自動心臓マッサージ器を付けられていた.心電図を機械が診断して自動的に除細動とマッサージを 行ってくれるので,人手はいらないが,この機械を付けたままでは死にかけた患者もいくらでも生きていることが出来るので,使用時間は国から1時間までと制 限されている.それ以上は,厚生労働省に電話をして患者のIDから解除キーを聞き出さなくては行けない.同じ患者には2度と使えないようになっている. 「全く,国のお役人は人の命をなんだと思っているんだろう.」竹下が吐き捨てるように言った.「あと15分以内に心臓が動き出さないと自動的にこの機械は 止まってしまうぞ.」「ドパミンをあと40ガンマ増やせ!」しかし,この薬を使って長生きする患者は少ない.最後の命を絞り出すために使うようなものだ. 「後4分です.」か細い声で井上が言った.医者になってまだ5年だから,患者が亡くなる場面に出会う経験はそれほど多くない.もう声を出す者はいなかっ た.長いような短いような時間が過ぎ,ピ,ピ,ピ,ピーという機械的な電子音が鳴り,機械は動きを止めた.
「今何時だ?」竹下が重い口を開いた.
350分です.」婦長が答えた.
「そうか.」とだけ答えて,「後を頼む.」と言い残し,病室の外へ出た.エレベータのところで患者の家族らしい人たちとすれ違ったが,早足でナースステーション向かっていたので,竹下には気が付かなかった.
 きょうの手術は成功したと思っていた.確かにその手術では日本では一流と言われる東京医療大学の前田教授に遠隔手術を頼んで,自分も手術に立ち会っていたのだが...
竹下は自分の部屋に戻るとゆっくりと,今日の手術のことを思い出してみた.患者は胃ガンで胃を全部摘出する予定だった.癌も飲み薬で治る時代になっていた が,胃ガンはいまだに摘出することが一番の治療方であった.患者の名前は野村誠一45才、胃ガンは第3期で早期癌とは言えないが,まわりのリンパ節を一緒 に取れば,少しくらい癌細胞が残っても,手術後の抗ガン剤で良くなると思われた.一流の術者ともなれば,一日に10件以上の手術があり,それが可能になっ たのは,インターネットを使った遠隔手術が発達したおかげである.初期の遠隔手術は手術室におかれたモニターカメラで手術部位を見ながら,手術者の手元に ある操作用のハンドルで操作し.一方遠く離れた患者のおなかの中にはロボットハンドがあるわけである.ロボットハンドも用途によって使い分けていたもの が,今では小型化と多様化のため正確さ手術時間ともに飛躍的な進歩を示した.画像もモニターではなく,MRICTでの3次元のデータを使い,仮想画面で 画像化されるため,たとえ手術をされている場所が暗闇の中でも手術は可能になった.おかげで,患者のいる手術場での医者の役目はそれらの精巧な機械の準備 と最終的な傷の縫合だけとなっていた.手術もプログラム化されていて,胃ガンの手術を選択すれば,手術の最初のところは自動的に機械がやってくれることに なっている.外科医の間ではこの手術を仮想手術と言っていた.昔の手術を習得した古参の外科医にとってその名前には軽蔑も含まれていた.しかし,手術の正 確さと時間の短縮は治療効果を上げることとなり,この手術方法に異論を唱える者は,表面的にはいなかった.
302
号室では,妻と息子と娘が当直医の井上の説明を聞いていた.
「何で亡くなったのかわからないのですか?」声を荒立てる妻がいた.
「はい,こちらとしても全く原因がわからないのです.直接の死因は心不全と言うことになりますが...」
「手術前の検査では心臓は異常が無く,手術にも耐えられると言われたのですよ.」妻は引き下がらなかった.
「だからこちらとしてもなぜ亡くなったのか調べたいのです.それで剖検,つまり解剖したいのですが.」
「そんなこと言われても...いえ,これ以上体を切るのは耐えられません.それで主人が生き返るわけでは無いのですから.」娘と息子がその言葉にうなずくのを見て妻ははっきりと断ってきた.
これ以上の説得は無理と考えて
「そうですか.わかりました.それでは機械を外しますのでいったん待合室の方でお待ちください.」
一週間後,仮想手術のシステムのメンテナンス会社がやってきたが,3日以上も点検をしていたが,引き上げてい く社員の様子では何の手掛りもなかったようだった.その証拠に,2週間後,今度はアメリカの本社から調査員としてバーナード・ムスカという男がやってき た.たどたどしい日本語ではあるが,原因の追及には執念深く,まるで刑事のような感じで担当医を一人づつ調べて回っていた.
「主治医の松村先生はどこにいますか?」ムスカが外国人特有の親しそうな顔で聞いた.
8病棟にいると事務所の女性が伝えると,エレベータに乗り込んだ.
病棟につくとの看護師に松村医師がどこにいるのか尋ねた.親切な応対でカンファレンス室にいることをすぐに教えてくれた.
その男たちは地獄にも聞こえるような大きなノックをするやいなやカンファレンス室に入ってきた.部屋にいる医師たちが一斉にドアの方を見た.
「初めまして.USSメデッィクの本郷と言います.そしてこちらが調査員のチャド=ムスカと言います.お忙しいところ申し訳ありませんが,この間の仮想手術の件についていくつか質問させてください.これがその許可書です.」
許可書には厚生労働大臣のサインがあった.
そして,丁寧な言葉遣いもそこまでだった.
 
男たちの質問からは機械の操作方法を確認しているようだが,その言葉の端々に明らかに医師の操作ミスを疑っているような感じを与えた.元々この機械の操作 は難しくなく,人間が操作をする部分はほとんどないのが売りのはずである.だから人為的事故とは考えられなかった.その場合,責任は会社か病院か国かとい うことになるが,人為的ミスがない以上,会社の責任は逃れようがなかった.それをひっくり返すためにこんな刑事まがいの取り調べを行っているのではとも考 えられた.
「その時手術室にいた人はだれですか?」
「たしか,看護師が2人と医師が3人です.」
「名前を言ってもらえますか?」
「私と麻酔担当の安藤と医長の竹下です.看護師は手術記録を見てください.」
「直接機械を操作したのは誰ですか?」
「私がしました.」
「貴方は今までこの機械を扱ったことがありますか?」
それを聞いた松村は少し顔を紅潮させ憮然として答えた.
「もちろん,こう見えても貴方の国へ行って,1年間の研修を受けてきました.」
「そう,興奮しないでください.もう少しで質問は終わりますから.他の2人の医師は何も機械には触れないのですね.」
「そうです.機械の操作は私だけで,竹下医長には機械を使う前に皮膚を小さく切開したり,手術が終われば縫合を手伝ってもらっただけです.」
ようやくカンファレンス室で行われている刑事の取り調べは終えようとしていた.
「聞き忘れたことがあったらまた連絡したいので皆さんの連絡先を教えてください.」そう言って2人の刑事は帰っていった.
被告人になったような質問は良い気分はしなかったが,松村はそれよりもこれほどUSSメデックにとって重大な 事件,すなわち大きな損害になることが気になった.以前から仮想手術については,外科医の出る幕が無くなるとか言われていたが,厚生労働省の巧みな宣伝と 世論の盛り上がりで,地方の下手な医師やレベルの低い病院でも一流の手術が受けられることがメリットとして強調されて,全国の病院に広がっていった.しか し,仕事にあぶれた外科医の妨害も少なからず最初の頃の仮想手術にはあったようだ.インターネットを介した操作は外からの影響を受けやすい反面,安定した ネットワークを維持できるため,専用回線のバックアップに使用している.今回の手術では専用回線で問題なく,操作ができていたはずである.松村の操作ミス であの2人は納めたかったようだが,高度に簡略化されたインターフェースでは機械の操作を間違えるはずがなく,誤操作による訂正機能も働いているはずであ る.
松村は仮想手術で執刀医だった国立癌センターの山中博士に会ってみることにした.まだ1月の新潟は寒く,自動販売機で缶コーヒーを買い,それを手に待合室 へ戻ろうとしたとき,ふと黒いコートの男が目に入った.その男はこちらを見つめていたのではないのだが,ほとんど顔が見えないのがかえって気になったので ある.新潟駅まであと1時間ほどで到着するが,それまでに今まで起こったことの振り返ってみた.
「胃切除術自体はそれほど難しい手術じゃないし,これを仮想手術でやる意味があるのかと言えば,患者の希望と,USSメディックの利益のためだろう.噂で は手術料の10%が会社に払われているらしいが,どんな手術でも仮想手術でやれない手術はないだろうが,件数を増やして,安全性の高さを政府にアピールし たいのかもしれない.」
トンネルを抜ける現れたのはどんよりとした雲と全くの雪景色だった。車内の暖かさが窓から吸い取られるように感じたので、松村はカーテンを引いた。車内のアナウンスと共にガクンとスピードが落ちてきた。
 ホームに出ると空は少し晴れてきたようだが,2月の新潟はまだまだ寒かった.コートの襟を立てて松村は国立がんセンター前のバスに乗り込んだ.車内は暖 かく,座席はほぼ満席だった.老人たちに混じって,健康そうな若い人も乗っているが,身なりからは病院の職員だろうと思われた.病院に着くまでは。
 丘の頂上にある病院は,まわりの景色にはとけ込むにはほど遠い近代的な作りをしていた.その時,急に黒いワゴン車がバスの前に回り込んだと思ったらいき なりブレーキをかけたのだった.バスはよけきれず,衝撃音が聞こえた.気が付くとさっきの若い男2人が松村の両脇を抱えて,もう一人はバスの運転手に拳銃 を突きつけながらドアを開けろと命令した.こんな場面はたしか大学時代に彼女と一緒に映画で見たかなと今目の前で起きていることがあまりに現実離れしてい ることが松村を冷静にさせた.拳銃を見ては抵抗もできないだろうと思い,松村はおとなしく黒いワゴン車に乗った.
 黒いワゴンの中で2人の男に両脇から挟まれ,運転手に「Aビルに.」とだけ言い,後は脇腹に拳銃を突きつけたまま,一言もしゃべらなかった.ワゴン車は すさまじい速度で関越自動車道を南下していた.たぶん東京に向かっているように思えた.助手席に背が低くて気がつかなかったが若い女が座っていた.いや, 若く見えると言い換えた方が良いかもしれない.後ろを振り向き,松村に「手荒なことをしてごめんなさい.こうするしかあなたを止められなかったのよ.本部 に着いたらすべてを話しましょう.」
その顔は無表情だったが美しい顔をしていた.
松村は思った.「たぶんこの女は日本人のように思うが,この両脇の男はよく見ると体格や髪の色から外国人のようだ.黙っているのは日本語がわからないからかもしれない?それなら...」
「ところで,いつまで乗っていればいいのかな?そろそろトイレ休憩なんてものはあるのかな?」前の女に向かって話しかけた.
若い女はしばらく返事がなかったが、やがて口を開いた。
「しかたがないわね.次のSAで降りるから.」
松村はしめたと思った.なぜなら次のSAには一般道に接続しているため,助けを求めやすいからだ.
車は減速しSAへ入った.予想通り,2人の若い男のエスコート付きでトイレに行くことになった.10m先に,お手洗いがあり,その手前に売店があり,多く の人であふれていた.男たちは左右から支えれば逃げられないと思ったのだろうが,松村は何かに躓いたように,腰を落とした.驚いた2人は松村を支えようと 手を前に出した.その瞬間,大きく上にジャンプして,捕まえられていた両腕をうまくふりほどくことが出来た.あとは,観光客の中に背を低くして一目散に紛 れ込んだ.2人の男たちは二手に分かれて,一人は後ろから一人は前から松村に迫った.松村は売店に続いている食堂に入り込んだ.入り口で店員から「お食事 は何にしましょうか?」と食券の購入を求められたが,「きょうからここで働くものです.遅刻しちゃって.」と言って奥の厨房に駆け込んだ.それを見た店員 は驚いた様子で立っている。ちょうど夕食時で厨房は混雑していた.うまく誰にも怪しまれることなく後ろの倉庫にたどり着けた.「あとはここの搬入口から出 れば脱出完了だな.」と言いながら一息ついた.1時間くらいしただろうか?もう良いだろうと後ろの搬入口からまわりを伺いながら外へ走り出た.
一般道路に入って少し行けば,公衆電話くらい見つかるだろうと,歩き始めようと思ったとき目の前に見覚えのある若い女が現れ,黒いバンが3台に増えて行く手を塞いだ.
「あまり手間をかけないでちょうだい.今度同じことをしたら,けがだけじゃ済まないよ.」心なしか美しい顔がゆがんでいるようだった.
用心のため手錠をかけられた松村は脱走の抵抗をやめ,今後のために眠ることにした.
2
時間ほどで寝たところで起こされた.Aビルに着いたようだ.
多くの若い男たちと一人の若い女は地下の駐車場から,一緒に松村とエレベータに乗った.
エレベータの各階の表示をみると,薬務課や感染症対策課など厚生労働省のビルのように思った.しかし,階のボタンを暗証番号のように打ち込むと14階と15階の間でエレベータは停止し,ドアが開いた.隠し階だった.
正面の明るい廊下をまっすぐに進むと,「か」とだけ書いたドアがあり,そこで待つように若い女に言われた.
しばらくすると,自分はアメリカ人で大きな会社の幹部であると名乗る男が現れた.その横には国際警察の調査員という男がいた.
Mr.松村.今までの乱暴と非礼を許しください.」
「私は日本語がうまくないので簡単に言いますが,実は仮想手術で犯罪が行われている可能性があります.」
「内密に調べたところ,我が社のコンピューターに何者かが侵入し,政治的に重要な人物が手術の失敗で死んでいるのです.表向きは術後の合併症と言うことに していますが,わざと縫合を緩く縫ったり,栄養血管を閉塞させたりして,全く巧妙に事故のように見せかけているのです.」
「それで私に何をしろと言うのですか?」松村はやや怒りながら質問した.
「それはあなた次第です。協力してくれるのなら私たちもあなたに惜しみない援助をします。お金、出世、政府への口利き、どれでもどうぞ」
松村はお金や出世には興味はなかったが、政治的な影響力は必要だと思った。なぜなら、政治は医療よりも簡単にたくさんの人を救えるからだった。
「わかりました。協力しましょう。」
そういって、お互いに手を取り合った。
すでに仮想手術の機械には成れていたので、妨害の手口だけ知れば良かった。
 松村と仮想術者の戦いが始まった。これほど発達した仮想手術のおかげで今やこの機械を抜きに手術を行うのは難しかった。詳細まで人間の手で遠隔操作をす るのではなくて、たとえば切除する部分の指示や、術式など大まかな手順を決めたら後は機械が手術を行うのである。しかし、この仕上げの段階で犯罪が行われ るため、間違いがないか、最終的に人間が確認するのである。手間と手術の出来る外科医が少ないため、最終確認を必要とする患者は最重要人物に限られる。
 手術日は日が照らない蒸し暑い日であった。日差しが高くなり、更に外の気温と湿度は上昇した。反対に建物の中は冷たい空気が漂っていた。第3手術室では 人間の手術者が居るために、冷房がかけられ、更に患者の体温を下げないために複雑な空気調節が施されていた。仮想術者はアメリカの胸部外科の権威者である シュレジンガー博士が光ファイバー回線を介して手術をアメリカから行う予定だ。術式は大動脈弁置換術と胸部の人工大動脈置換術である。人間がこれをすべて 行うなら8時間以上の大手術であるが、機械の補助を受けるので、ほぼ半分の4時間の手術時間である。更に術者も一人で助手は必要なかった。
 手術がはじまり、何事もなく手術は進んでいった。しかし、大動脈弁を固定するときに結び目が完全に閉まっていなかった。これだと、心臓の拍動で遅かれ早 かれいずれ弁が外れ、急性心不全で急死するのは確実である。人が行う縫合は結び目を2回から3回行うが仮想手術では特殊な縫合糸を結ぶことなく熱で接着し ていた。機械を停止し松村は確認のため、心臓の弁の縫合部を調べると果たして縫合糸の接着が弱かった。軽く触れただけで、その中の23本は外れて手術部 のからの出血が始まった。幸い、すぐに手で縫合し直すことで、完全に弁が外れてしまうことは無かったが、松村は大きく息をつき、心臓の鼓動が高まるのを感 じていた。少しばかり手も震えるようだが、「これくらいの震えはちょっとした手術ではよくあることだ。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら、修復を続 けた。一度、通した糸を抜くと針穴から次々と血液があふれ出てきた。よく見えないので唯一の助手に丁寧に吸引するように指示した。なんとか弁の縫合をやり 直すことが出来た。カリウムの点滴を止めたので徐々に心臓が拍動し始めた。弁は今のところ大丈夫だった。人工血管の交換手術については異常がないようだっ た。松村は体力の限界が近づいていたのでほっとした。
 手術室の上のブースでは手術の間、10人以上のオペレーターがずっとで仮想手術の機械の異常を調べていた。その部屋の真ん中の辺りにいた顔の長い男が報 告した。「手術に使っている回線への進入が見つかりました。場所はさいたま市あたりです。進入時間は10秒です。」自分の仕事を終えた男はもう一度座り直そうとしたが、画面を見て驚いた。「場所の特定ができました。場所は、場所は...
中央に腰掛けていた壮健な男、名前はスミスと言う、がじれったそうに「go ahead!」と叫んだ。
「場所はこのオペレーターブースの中です。」顔の長い男が言いはなった。ブースの中でどよめきが起こり、お互いの顔を見合せそれに続いてざわざわとした声が響いた。
スミスが言った。「Do you have more detail?」
顔の長い男は首を振った。
この中にスパイがいることになる。しかもそいつは手術の進行状況を見ているし、更に妨害することも考えられる。スミスは大きな身体を丸くし考えこんだ。何 か指示を手術室に送り、食い入るように手術室の様子を映し出すモニターを見ていた。モニターには仮想手術者つまり機械が人工心肺を取り外す様子が映ってい た。小さなマニュピレーターを使い手慣れた様子で簡単に人工心肺の取り外しは完了した。傍目には松村はその作業を横から眺めているだけのように見えたが、 一つ一つの機械の動きに目を光らし、何か異常があれば手元の緊急停止ボタンを押すことになっている。
「あと少しでこの手術も終わるな。しかしこんなに疲れるとは思わなかった。これなら最初から自分で手術した方がましだな。」
そうぼんやり考えながら、動きの速い機械のマニュピレーターを見ていた。
「さすが機械は速くて正確だな。人間がやるよりも縫合が速い。」
最後の皮膚縫合も無事に終わり、助手やまわりの技師に軽く挨拶をして、そろそろ引き上げようと思った瞬間、ふと機械のマニュピレーターが光ったようにを見 えた。手術は終了したはずなのに、機械の手には銀色に光る...鋭い...メスが握られていた。松村はようやく気がついた。停止ボタンの所へ駆け寄る。 メスが高々と振り上げられる。停止ボタンはすぐ目の前だ。すべての時間がゆっくりと流れる。メスが心臓めがけて振り下ろされる。何度も何度も目にも見えな い速さで機械の手は上下に動いた。停止ボタンに届いたときには、手術台は血の海だった。非常用停止のサイレンが鳴り響き、すぐに輸血を開始し、蘇生処置を はじめた。松村を始め、多くの外科医が止血と心臓壁の縫合を試みた。
しかし、すでに手術での衰弱に加えて、機械による正確なメスの攻撃で心室を大きく損傷した心臓は細かくふるえていた。心臓がうまく働いていない証拠だった。松村の努力は報われなかった。事故発生から2時間後、某国の外務大臣は死亡した。
 患者の命を救えなかったことについては、松村の負けだった。後日、判明したことだが、そのスパイは世界外科学連盟に関係する機関から送り込まれたエージェ ントだと言う話だ。どうやら、外科医の仕事が無くなることを恐れての妨害だったようだ。むかし、産業革命の時にも毛織物の職人が機械による紡績工場に嫌が らせをしたのと同じことが繰り返された。科学は進んでも、人間の考えはほとんど進んでいないなと松村は思った。
この事件の後、首謀者がわかったため、十分な予防が出来るようになった。再び仮想手術のシステムが動き始めた。そのおかげで多くの患者が一流の外科医の治療を簡単に受けられるようになった。この意味では松村は多くの人の命を救ったと言えるかもしれない。しかし、目の前で苦しんでいるたった一人ではあるが、その命を救えなかったことは彼の心に大きな傷を残した。
人を救うのは同じだと人は言うが、医者と政治家は同じじゃない。今、目の前の人を救いたいのだ。会ったことも無く自分が知らない人々じゃなくて、苦しんでいる目の前の人を一人でも救うのが医者なんだ。政治が多くの人を助けるかもしれないけど、代わりに必ず別の人々を苦しめることには気がついていない、いや、気がついていない振りをしている。今回の事件でもそのことが証明された。だから将来、また仮想手術が、政治的に利用されることがあるかもしれない。それでも自分は一生医者として、生きていくしかないと、松村は心の中でつぶやくのだった。(終)

 

 

 

 

 

 

 

昭和一代女

 

 

 武生市から東の方に20kmほど行くと,今立町という山に囲まれた自然の豊かなところがある.冬には雪が屋根まで届くほどの山奥であった.唯一そこで開けた平地には20戸ほどの世帯があり,文代はそこに室町時代から続く寺の7人兄弟の2番目の長女として生まれた.文代の生まれた昭和九年は,満州国が独立し,徐々に日本の軍国主義が濃くなってきた時代である.それでもまだ自給自足の生活が当たり前であった今立の片田舎では、食料などや日常品を欠かすことは無く、のどかな雰囲気があった。
文代にはたくさんの兄弟がいたため,学校から帰ってくるとすぐに弟や妹たちの面倒や家事をしなくてならなかった。小学生であっても、その日常は目が回るほど大変だった.しかし、文代は上手にそれをこなしていった。おかげで近所や親戚の間ではしっかり者で評判だった。反面、勝ち気で負けず嫌いな面もあり,両親や長兄でも,言い出したら聞かないので御するのは難しかった.そんな性格であったため,「えけねいちゃん(しっかりした女の子)」とよばれ兄弟たちからは一目置かれる存在であった.文代の父親は教師であったが、養子の身であったため,自分を認められる存在にするには,まじめに振る舞うことが唯一の自己表現であった.まじめに過ごしていれば,封建社会ではそれなりの地位を保てるのであり,それが戦前の日本の習わしであった.多くの婿養子がそうであったように、自分の威厳を保つために父親は子供に対してやさしさよりも厳しさを選んだのであった.しかし,その厳しさも自分の妻の前では十分に発揮されることはなく,子供たちは母親からはやさしさを感じていた.
 ようやく戦争も終わり、新しい仕事を選ぶ時がやってきた。文代は父親の勧めに素直に従い,当時ではややまれな女教師の道を選んだ.武生師範学校の短期学科で2年間過ごした。そこで、文代は敗戦後の自由主義的な考えに触れ、教師という仕事に大いなる期待を持ち、卒業した.まだ20才であった.昭和29年,最初の赴任校は今立の粟田部小学校であった.そこでの文代の仕事ぶりは,負けず嫌いな性格から,理科の実験が教科書通りにならなくて,生徒の前で泣いてしまう時もあったが、教育への情熱がそうさせたのかもしれない。文代の取り柄は記憶力と忍耐力に負うものが多かった.しかし応用力が乏しいので,数学よりは歴史,英語よりは国語のできが良かった.その頃の性格は単純で物事を正面からしか見ることができず,自分の納得できないことやわからないことに対しては,自分の想像の中で自己完結的に解決されていた.そのため,他人に対しては独断的な判断になることもあった.
毎日の家と職場の通勤は国鉄を使い,山から山へ移りゆく景色を毎日楽しみに見ていた.たまに無断で福井市に遊びに出ることもあった.そこは戦後の復興がめざましく,大きなバス,駅前にあふれる人の群れが文代を華やかな気持ちにした.しかし、家に待つきびしい父親の顔を考えると遅くまで楽しめなかった.忙しくても充実した生活を送る文代に最初の転機が訪れたのは,旧家の資産家である征一との結婚であった.戦後とはいえ昔の風習が残るので見合い結婚であった.本人よりも家柄,性格よりも親族関係が重要視されていた時代である.征一は短い結婚生活ではあったがすでに一度失敗していたし,薹(とう)も立っていた。また彼の母は後妻であり,年齢も文代と10歳も違わなかった.結婚前から人間関係の難しさは若い文代でも想像できたのであろう.しかし,まじめな征一を文代の両親は偉く気に入り,その結果,特に父親から強い勧めがあり結婚することになった.文代にとっては全く気の進まない結婚であった。それにもかかわらず断れなかったのは,有無を言わせない父親が決めた結婚相手を拒否するのは勇気がいるからであった。
 征一の家は資産家として有名であったが、その暮らしぶりは倹約と吝嗇であった。戦後の農地解放で田畑を取り上げられたせいで経済的なことが最優先されるのであった。結婚後は,夫の家の方針から教師の仕事を続け、家計を助けることを望まれた.そして文代の分としての家事は,朝食の準備と掃除,洗濯であった.その結果,睡眠時間は短く,そして労働は長くなり,ついには結婚時に456キロあった体重は30キロ代まで減ってしまった.それでも教師の仕事に喜びを見いだしていたため,仕事を続けることは文代にはとても幸せなことであったに違いない.また義父と後妻とは,潔癖な気性の文代にとっては許し難いものであったため,普通の家で予想されるであろう嫁への忠告はすべて自分へのいやがらせであると受け取ったのである.後妻との諍いは文代だけの問題ではなく,後妻をもらった義父の悪口を常に征一から始終、聞かされたため,義父母に対する印象は悪い方向へ変わっていった.ついには若い後妻と夫の関係も疑うようになった。家の中の人間関係に多くの問題を抱えているにもかかわらず,子供たちの目の前では,表だった争いは無かった.しばらくはそのようなある微妙なバランスを保った平和な時期が過ぎていった.文代の勤務先も粟田部小学校から武生市の神明小学校へ移った.そして学校が期末休みになると一目散に実家へ戻り,幸せな時間を今立の夏の青々とした山の中で過ごしたのであった.文代の子供たちもそのうちの何日かは実家へ連れて行かれることになった.文代の教育は厳しく,中学生になった長男とはよく口論になり,手を挙げることもあった.教育者であるなら,大きくなった子供を力で押さえつけても,反感を植え付けるだけのことは知っていたはずである.しかし,日頃からの家庭内での鬱憤は文代の心の余裕を消してしまっていた.その結果、家庭での長男の教育問題を力によって短期決着するしかなかった.
 文代に次の大きな転機が訪れたのは36才の時,末の娘を出産してからのことだった.産後の肥立ちが悪く,口に潰瘍がたくさんできて食事もとれず,いろいろな医療機関を訪れては見たものの,期待するような診断や治療は得られなかった.診断を求め、ついに東京大学病院までたどり着き、そこでようやく病名を知ることができた.その病名は膠原病であった.しかし,一家のものにとっては始めて耳にする病名であり,また予後についても全く知識がなかった.ただ医者の言われるままに東京大学までの通院することは、困難なために県立中央病院へ紹介されることとなった.これを機会に文代は家での休養も考えたが,後妻のいる家の中では気が休まらないと考え仕事を選んだ.けれども,小学校の普通学級の勤務は難しく,日赤病院近くの中央小学校の養護学級に勤めることになった.さらに追い打ちをかけるように,心臓の弁膜症も併発し,血圧の上昇が著しくなり,同時に膠原病に特有の関節痛も強くなり,ステロイドホルモンの服用も始まった.こうして文代と病気との闘いが始まった.年に12回の入院があり,そのたびに回復するどころか,だんだん入院期間が長くなり,退院しても体調は何ら良くならなかった.家族は日一日と文代の体が弱っていくのを感じていた.長男は幼少時に妹の死に巡り会い、また母親の難病を目の当たりにしていたので後に医者になった。嫁いでから26年後,義父が亡くなった.地元の名士と言うことで会葬者が多かった。その頃の文代は病人とは言っても寝込むほどではなく小康状態であった。しかし文代の予想に反して家族が減ると、家の中では更に精神的な緊張は強まったのである。その2年後,文代は脳梗塞で学校での授業中に倒れた.心臓の弁から血栓が脳の血管に詰まったのだ.長男は唯一の医療がわかると言うことで、真っ先に文代の運ばれた自宅へと呼ばれた.居間で寝かされていた文代は,長男を見るなり「手と足が全然,動かないの」と泣き叫んで「兄ちゃん,助けて!」と何度も呼びかけ,すがるように長男の顔をじっと見ていた.長男はいたたまれず「少しずつ良くなる」と何の根拠もなく励ました.その自信のない答えにも関わらず,「うん,うん.」と何度もうなずき,病院へ運ばれていった.約3ヶ月の入院が文代を待っていた.脳梗塞になった人は誰でもリハビリを頼りにするように,文代も懸命にリハビリをやり遂げ,なんとか身の回りのことができるようになった.しかし完全に回復することはなく,約10年間という長い時間を不自由な体で過ごすことになった.肉体の不調は精神の弱さを際だたせる.すなわち,病気は忍耐力と気の強さを文代から奪うことになった.病気になる前でも,夫と表だった言い争いは無かったが,影では子供たちに,父の不平を言っていた.しかしそれも夫が文代の面倒を見るようになってから,その口からは悪口は消え,代わりに夫を擁護する言葉が目立ち始めた.それが長男には文代が夫をひどく恐れているように見えた.末の娘が嫁いでいなくなると,今までくすぶっていた家族の不和が吹き出した.文代と後妻である義母の仲が決定的なものとなり,ある晴れた日に義母は、近くに住む息子夫婦に引き取られて行った.子供たちがいたから繋がっていただけの家族であった.大人たちは互いに面と向かって見つめていなかった.子供たちを介して向き合っていたので,その子供がいなくなれば,直にお互いに話さなくてはならない.たとえばちょっとした一日の話題でさえも,子供の話題を差し引いたら,どれくらいの言葉がやりとりされているか?だがそんなことは,この家だけのことではなく,どこの家庭にでも起こりえることである.しかし文代は日々の葛藤の原因に気がついていたであろうか?文代の愛読書は「PHP」であったことを考えると,心の悩みの解決方法を常に探していたようである.それならば、後になって周りにいた人たちが、文代に対して「ああすれば良かった」とか「こうすれば良かった」と後悔するのは,人生に対して何とかなるものだと軽く考えているような気がするのであった.あの時の文代はそう考えるしかなく,子供たちに後妻への不平不満を言い続けるしかなかったのである.病人の心理状態を健康な人が病人の身になって考えるのはたやすいことではない.ただ言えるのは,病気や年齢で体が弱ったときや,仕事で追い込まれたとき,生活が不自由になったとき本来の性格が表面に出ようとする.そう考えれば,文代の性格は潔癖であり,妥協を許さないものだった.文代が亡くなったのは今から9年前であるが,残された者にはとても時間がたっているようにも思えるし,ふと思い出すちょっとした場面は最近のようにも思えるのである.

 

 


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