ツラツストラはかく語りき (意訳)  

ツラツストラの序説
わたしはいま私の知恵のみが過剰になっていることに満足できない。
賢いものが賢者意識を捨てて,おのれの無知を自覚し,受けるものとなった幸せを喜べ!
貧しいものの心が受けるべく開いているのは富である.

嫌悪の情を消し,幼子のように舞踏者のように澄んだ目で見ろ!
神は死んだ.今まで支配的であった神を信じる意義がなくなってしまったこと.
賢い人の代表である宗教人の説教には生の意志を弱める.
大地に忠実に生きろ!
宗教家たちは肉体が弱り飢餓の状態であることを望む.そうすることで肉体と大地からの支配から逃れられると言った.しかし肉体が弱るときは魂も,不潔,惨めな自己満足に至る.
汚れた人間を飲み込む超人になれ!
自分の幸福には何の取り柄がない.私の幸福とは私の生存によってかなうものでなくてはいけない.
理性でもってまっすぐに突き進んでいくのも意味がない.それは自己満足にすぎない.
徳が自分自身を熱狂させたことがないのは,善悪が退屈であるから...
正義の人は熱い人でなくてはいけない.
狂気や稲妻のような大胆さと強さを見せろ! 
自分を目的とは考えず,次につながるよりよい人間のつなぎであることを自覚しろ!
そして,没落していくことを望む.
宿命的なくらい徳を愛す.
無償で与える意志に満ちているから,自分もお返しをするという考えを持たない.
目標よりもさらに上を行く.そうすれば止まることがない.
未来と過去の人間を認め,現代と戦う.
まぐれの成功を恥じ,自分の責任において生きていこうとする.従って苦難にあって没落することをおそれない.
理想を鍛え大きくしていくが,自分はそれで滅びることもある.
失敗したときもつらいときも自分の理想を変えない.小さい体験でも自分の未熟さを自覚できる.
意志や感情が中枢であり,知性(頭脳)は末梢である
寄せ集めただけの知識を優越の印として持っている.
末人とは現代文明の生んだ生産性のない教養俗人
もっとも軽蔑すべき人間の時代は自分自身を軽蔑することのできない人間の時代である.
人間関係をまじめに考えそれに苦しんだり失敗したりするものは愚かではない.
働くなら身を損ねることがあってもいい.
貧しくなることもとむことも煩わしいと思うな.
統治しろ!服従しなさい.
すべての人は平等を欲するがそれをはねのけろ.個人主義的で政治にも背を向ける.
末人は気持ちが冷たく,人の嘲笑の多根を見つけようとする.
彼らは戦うけれどもすぐに和解する.
彼らは健康を何よりも大切にする.
彼らは幸福を発明したと自慢げに言う.
人間として存在することは無意味である.しょせん人生ははかりがたくて不気味である.一人の人間が世界史を変え無数の人が悲運に泣く.
慈善家はどこか押しつけがましいところがある.
眠っているときが偽りのない姿を見せるのでそれを見るのは興味深い.
理想に目覚めて自分を必要とするものを彼らを怒らせることで得よう.
彼らとは善い人や正しい人と呼ばれている.
破壊こそが創造の準備である.
創造するものが求めるのは伴侶であり,信者ではない.
人間たちと生活することは動物といるより危険である.
自分がそれほど賢くなくても,また愚かになることがあってもそれを自分の運命とし,しかし,生きる誇りだけは失うな!
いつか賢さは無くなるだろうけど,愚かでも誇りを持って生きる.

ツラツストラの言説
三様の変化

もっとも重いのは自分だけが偉いと思い、他人を見くだして、かってな事をしないこと.自分の愚かさをさらけ出すこと.
自分の成功に甘んじることなく,次の目標に向かうこと.
真実の追求のためには醜いものや汚れをもいとわない.
らくだのように重荷に耐える精神は重荷を背って,砂漠を行く.
その砂漠で獅子となり,そこで主になるため,道徳的命令や習俗的な価値と戦う.
そして,子供になり善悪正邪の区別無く,世界と生を肯定しろ!
無垢と忘却と遊びで.

徳の講壇

善い眠りのために,外見だけが美しい知恵を求めてはならない.

背面世界論者(世界の背後に神や原理があると説き,現実逃避する人々)

世界は神が作ったが,不完全なために神自身も悩んでいるということは,神も悩みがあったのでわざと矛盾に満ちた世界を作ったと背面論者は考えたが,真理の世界には入れない.
神を作ったのは人間であり,それも妄想から作った.それを信じることは自分に対しての苦悩であり屈辱である.
神に導かれてとか,信じることにより一時的な陶酔感は得られるが,解決には至らない.
疲労から辛抱強く進む気力を失い,一足飛びに安易な神の世界に入り込んではいけない.
現世の肉体に絶望したのに,精神的なものかと勘違いして,安易に精神的なものを求めて,神を求めてはいけない.
現世に絶望するのは肉体であって,精神では無い.それなのに,形而上的な考えで,宗教の世界に飛び込んではいけない.
人間が作り出したという証拠に霊は人間的な現れ方や語りかけをする.
魂とか精神は必ず肉体を欲している.その証拠に必ず大地や肉体をたたえる.
歩くべき道がわからず,今も盲目的に歩いているこの地上の道を自覚しろ!
病人や瀕死の者の様に突然考えを変えて抜け出そうとするな!
宗教的教えができた動機は現実の問題からきている(現実に問題がなければ宗教は存在できなかった)
弱々しい者達が宗教でもって自分のを慰めるのは悪いことでは無い.しかし,そのことで自分を回復し困難に打ち勝つ者になり,より高みに登ることをやめるのは許されない.
すでに過去のものとなった神を未だに信じて自分の妄想を回想することは仕方のないことである.しかし,そういう姿も病んだ肉体である.
妄想を回想するものは過去の徳を重視する.新しい徳や真実を語ることについては憎悪する.
そういう人たちは人から信じられることを望んでいる.そして,彼らは宗教を信じていると言いながら本当は現世の肉体を一番信じている(自己欺瞞がある)しかし,彼らの肉体(考えも含む)は病んでいるため,そこから宗教を使って脱出しようとする.
健康な肉体の声を聞け!現世について語る誠実で純潔な声を聞け.

肉体の軽侮者(魂だけを強調して,肉体を軽視する態度を改めよ.精神は肉体からやってくる)
肉体こそ根本であり,魂はその一機能である.
また肉体はたくさんの機能を含み,戦争をする心,平和を願う心,支配する心,支配されたい心が混じっている.
精神より大きいのが肉体である.その精神は無意識のうちに活動する.
感覚と精神だけに頼るな.それがすべてではない.
精神と感覚の後ろに精神と肉体の一体になった無意識で総合的な生きた自我がある.
それが現実であり,地上に生きるものの中心となる.
人間が苦痛を感じれば,精神はその苦痛をさけるにはどうしたらよいか考える.
快楽を感じれば,もっと心地よくなるにはどうすればよいか精神は考える.
このように精神は肉体のしもべである.
肉体を軽蔑する考えは本来の自分が死ぬことを欲しているからだ.
本来の自分のもっとも欲するのは自分自身を超えて創造することである.それができないから本来の自分は死ぬこと(この世を捨てる)を欲する.

喜悦と情熱 (真の徳は情熱から生まれる.世間一般の徳と違って破滅も招く)
自分の徳は他人と共有することは無い(全員に共通する徳は本当の徳では無い)
自分を徳をかわいがるほど,その徳は民衆と共通の徳となり,堕落してしまう.
自分の徳は人に語れるほど簡単な(低い)ものでは無い.
もし語るならこれが私の善いと思っていることだが,それが世間一般の善いと思われていることと同じであることを望まない.それを行えば天国に行けるものでは無い.自分が愛する善はこの世の善である.それは一般の人の知恵や理性とは異なる.
かつて悪と呼んだものでも情熱を持って生まれたものは善と言ってもよい.
すなわち,昔の短気者,淫蕩者,狂信者,復讐心の強い者であろうとも,情熱は善となる.
ただ一つの善をもて!たくさんの徳を持つのはいいことだか重くて何もできなくなる.
自分自身を破滅させるような強い徳をもて!

青白い犯罪者
犯罪者は生きていくことの弱者であるが,破滅に飛び込む狂気と情熱は持っている.
犯罪者を規制の善悪で評価するな!
犯罪者は悪人では無く,自分の敵として戦え,もしくは生の弱者と認識しろ!
裁判官であろうと心の中は公にできないことでいっぱいである.
しかし行為に表すことは別であり,自分自身を犯罪者と認めることは自分の狂気を認めることである.
犯罪行為の前には狂気があり,その自分の狂気が恥ずかしくて言えずに,もっともらしい動機を述べる.j
犯罪者は弱者であるが故に,外界と交渉できずに,その交渉を犯罪で行う.しかし,その情熱は強い.
現在ではただ長生きするためだとか,しかもそれは惨めな安楽な生き方をすることが善だ教えられている.

読むことと書くこと
精神的なものだけで書かれた文章は信じてはいけない.
読書しても心の動かないような読書はするな!
書くことも大衆受けするようなものを書くな!
精神的な徳は以前は神の言葉だったが,今では大衆の言葉に成り下がっている.
肉体を重視して書くことは,読まれることを要求していない.むしろ読まれないことを望む.
そのためには強い体を持たなくてはいけない.
そして自分の周りに敵がいることを望みなさい.しかし,その敵はあなたの勇気を知り恐れ退散するだろう.
そのようにして乗り越えた生の苦悩や困難は,まだ乗り越えていない大衆にとっては恐ろしい障害である.
そのように高みに登ったものにとっては,人生の悲劇や真面目さは遊びにしかすぎない.
勇気に満ち,泰然とし,嘲笑的で,暴力的であれ.
生きていくことは重いしつらいことであるが,誰でも耐えていけることだから,大変そうな振りをするな.
私たちが生きていくうえでいやなことがあっても慣れるのでは無くて,いやなものでも多かれ少なかれ愛するからやっていける.
すぐに散る花や蝶などはかなく軽快なものの方が生きていくことをよく知っている.
もし神を信じるなら,踊りを知っている神を信じよう.
嫌いな悪魔は重く,真面目で,おごそかである.
悪魔を殺すのは怒りでは無く,笑いである.
人に押されて歩き出すのではなく,自分で軽快に足に任せて歩み出せ!

山上の木

人が悩まされるは目に見える出来事や力ではなく,目に見えない無意識の不満や欲望や嫉妬によるところが大きい.
人間は高みに登ろうとすればするほど,野心が強くなる.
それと引き替えに疲労を感じ,登ることの意味がわからなくなる.それでも自分を飛び越えるものを憎んだり,自分の野心を憎む.
また青年時代に高みに登ることは危険なことであり,落ちることもあるが,真剣勝負の満ちに入ったのだから落ちることも本望である.
本当の高みに登っていない人は,自由ではないから,ずる賢くて臆病で粗悪になる.
それでも愛と希望を忘れるな.高みに登れば他の人の嫉妬もあるが,それは君を認めているからだ.一般の善い人にとって高みに登ろうとする人は邪魔でしかない.それは新しい徳を作ろうとするからだ.
善い人は古いものが維持されることを望む.
高みに登ろうとする人は平凡な人にはならず,多数の人に惑わされない強い心を持ち,はっきりと否定できる心を持つことだ.
自分の中にいる英雄を投げ捨ててはいけない.

死の説教者
この世には現世の生を軽んじて来世を重要視せよと説法する人たちがいる.そのような人はこの世には不要なものだ.魂が永遠であることを信じているからそういうことを言うのだ.
そういう人々は病人や死人や老人に出会うと生きていくのはむなしいと言う.しかしむなしいのはそう感じた自分自身である.生の一面しかみていないからそう感じるのだ.
また生きていくのは悩みばかりだと愚痴や不平を言わずに強い意志を持て!
人への憐れみでもって一時的な施しで生の苦悩をつなぎ止めるのもよくない.
死にゆく他人(自殺者)を一時的な憐れみで生につなぎ止めても無駄である.
また生は激しい労働や激動が必要だと言っている人は生きることに飽きている人だ.
つまり何かを一生懸命勉強していないと,なにか異常なことや新規なことに関わっていないと何のために生きているのかわからなくなるのも間違いだ.
それらの勤勉さは逃避であり,自分自身を忘れようとしているにすぎない.
もっと生を信じているなら瞬間に熱くならなくてもよい.静かに待てる人ほど自己の中が充実している.

戦争と戦士
私たちは最善の敵からいたわられることを望まないし,最愛の人からいたわられることも望むな!
自分の本当の好敵手は一目見ただけでわかる.
いさぎよく負けて相手に教えられることも必要である.
平和を愛するにしても新しい戦いの手段として愛すべきで,長い平和よりも短い平和を愛せ!
労働は戦闘でなくてはいけない.平和は勝利の平和であること.
人は武器を手にしているときは静かだが,そうでは無いときにはののしりあい,いがみ合う.
戦士には勇敢であることがよいことである.小娘には愛らしく心にふれるものがよいのである.
情愛の多い人はそれが多すぎることを恥じるが,心の冷たい人はそれが少ないことを恥じるのでつくろう.
君たちは憎むべき敵を持つべきで,軽蔑する敵を持つべきではない.
自分の敵を誇れるような敵をもて.敵の成功は自分の成功にもなる.
高い理想に対して服従し,ほかの人に命令するときでも,その理想から命令していると言うことを忘れないように.

新しい偶像
国家には民族という自然の基盤に立った考えは無い.
国家は民族のためという嘘をつき,それで人々を操っている.
国家は実態が無いにもかかわらず,もっとも冷ややかな怪物である.
かつては民族の信仰と愛で機械的では無い国を作り上げたのに,今では欲望と武力によってその民を操作している.
民族としてまとまっている人たちにも風習や掟に反するとして国という枠をはめてようとする.
国家は善と悪について嘘をつきながら民衆を操る.
利害を中心に善悪を決めているからその時々で言うことが違ってくるご都合主義である.
よって国家は生命や生きた創造を喜ばずにすべてを,人間を機械の部品と考えている.そして宗教を利用し死に人々を導く.
人口が増えるとよけいなことを考えるものが出てくる.国家は多くの人間を集め,何をしようかとたくらんでいる.
そして国家は言う「私は混乱をまとめる神の手だ」と.それに続くのは愚かなものも居るが,身を捧げる豊かな心の人も居る.
国家は人の心も見抜ける.英雄と尊敬すべき人をたたえ,国家は自分のやましさを隠す.
そして,国家に従うものにはすべてのものが与えられる.そして,その人の威厳も買い取られる.
与えられた人も見かけは立派だが,中には死のにおいがする.
国家は戦争でたくさんの人を死なせながら,その死に美名を与えて,生を成就させようとしている.
善い人も悪い人も国家によって毒を飲まされ,自分を失い,死んでいくことを生と呼んでいる.
そして彼らは常に病気になり,真実が言えなくなる.
彼らはすばしっこく上に駆け上がろうとする(出世しようとする)他人の足を引っ張りながら.
彼らの幸福が上にあるように勘違いしている.しかし,上にあるのは泥である.
彼らは狂人であり木登りをする猿であり,熱に浮かされたものである.
国家から離れろ!
所有するものが少ないものは所有されることも少ない.(たくさん富を持っているものは人や国からねらわれやすい,持たない方が自由である)
少ない所有に甘んじて貧しさをたたえよう.
国家が終結するとき,よけいな人間が居なくなり,真の自由な生が始まる.

市場の蠅
世の中の有力者が起こす騒ぎに気をとられ,また大衆の起こす小さな責めを逃れて孤独になれ!
自然の森や岩は高い品位を持って沈黙している.その中の木のように君も気品を保ちなさい.
孤独でなくなるとまた人々の騒ぎが始まる.そこには大袈裟に人前で演技するものが居る.その人を大衆は偉大な人物と呼ぶ.しかし,大衆は真に偉大な人物や創造するものに対しては理解力がない.
本当の偉大な人の周りを世界が回っているが,演技者(政治家など)の周りには名声と大衆が回っている.
演技者はどうしたら人を信じさせるかという技術は持っているが,良心が無い.
次々とその演技者の言うことはその場の状況で次々と変わる.人々を熱狂させ,支配することが好きだ.
繊細な耳には真実が入ってくるが,そのような演技者の耳に入ってくるのは大きな騒ぎだけだ.
世の中はそんな演技者であふれている.また,大衆もそのような人物をもてはやす.
そして,どの演技者の味方になるのか迫ってくる.
しかし,このような人々をうらやむ必要は無い.いまだかって真理がこのような人を選ぶことは無かった.
このような場所はさけて安全な孤独の場所へ行くべきだ.そのような金と名声から離れたところに偉大なものはできてくる.
君はあまりにちっぽけでみじめなもの達のそばに住んでいる.その大衆は自分とは異なるものへ復讐をしてくる.
彼らに対して怒ってはいけない.彼らは数が多すぎるし,君は石ではないから砕かれてしまう.
君は彼らの毒のある言葉に傷ついている.彼らは何も考えないで人を傷つける.しかし,感受性の高い君は小さな傷でも深く考えてしまう.
しかし,これらの不正に耐えるだけでは悲運となる.逃れなさい.
反対に君を押しつけがましく賞賛することもあり,君の前でへつらい,泣いたりするがそれに惑わされるな!
君は大衆には理解されないから,あれこれと詮索する人もいる.そして,いろんな方法で考えを聞き出しそれをとがめる.彼らが求めているのは君の失敗である.
君は優しく正しい心を持って接しても,彼らには軽蔑されていると感じ,害を加える.
君が話すときも謙遜すればするほど彼らは喜ぶ.
相手のずるい性格を認識して接すると,相手を助長し開き直ってますますずるくなる.
だからずるい人に接するときは,相手の本性に気がつかないような振りをして警戒しろ!
君に向かうと彼らは自分を小さく感じる.だからその復讐をするのだ.
彼らは意気盛んに君の悪口を言うが,本人を目の前にすると意気地が無くなり黙ってしまう.
そう,君は彼らの良心の呵責なのだ.
それだから,おべっかを使わない君を憎み,偉大さを知るたびにますます有害になる.
君は生き生きした世界で孤独になるべきだ.

純潔
自然な森を愛せ!町には淫蕩なものが多すぎる.
淫蕩な女や男は地上ではセックスよりましなことは無いと思っている.
彼らが動物であるならもっと無邪気さが必要だ.
しかし,官能をなくせと言うのではなく,官能の無邪気さをなくすな.
貞潔はある人には善であるが,多くの人には欲望を無理に押さえようとするから,性の自由な人へのねたみや恨みになる.
そしてそれは自分の善と結びついて冷たい精神となる.
肉欲の満足が得られないと精神上の仕事を心がけて賞賛を浴びようとする.
そのような人は悩んでいる人を見つけると同情と称して舌なめずりして喜んでいる.
純潔が守れない人に無理に守るようにすることは,かえって地獄と淫蕩の道へ向かう.


一人で居ると考えすぎてしまうが,友はそこから拾い上げてくれる.
優れた他人に嫉妬することもあるが,彼を友として愛すれば嫉妬が止まる.
友になると同時に敵にもなれ.つまり,あまりに友に近づきすぎると,隷属されてしまう.ともに甘えず自分を鍛えなくてはいけない.
親しくなって友の前では着るものをつけなかったり,ありのままの自分を知らせることは友の名誉にはならない.裸で友とつきあいたいと思うのは自分のくつろぎや憩いをともに求めるだからだろうが,それでは相手をうやまうことにはならない. 
君は友のために美しく装っても装いすぎることは無い.
なぜなら君は友にとってもあこがれであるからだ.
眠ったときの友の顔はありのままの顔だが,起きているときの顔は自分が思っている友の顔だ.
寝ているときのありのままの顔を見たとき人間の不完全さに愕然とするだろう.
しかし,君は沈黙しなくてはいけない.またすべてを見尽くそうとしてもいけない.
大切なのは起きているときに友が何をするかである.
同情もよく考えてしなさい.もしかしたら友が望んでいるのは永遠の理想を追いかける強い意志を持った君かもしれない.
君は友にとって濁りのない心で接しているか?自分自身が達成できないことでも,友のためにやってあげられるか?
君は友の奴隷でも主人でもいけない.
女性は友達のつきあいを奴隷か主人のつきあいしかできない.しかし,愛は知っている.
女性の愛さないものに対しては不公平と無知がある.
また知的な女性でも感情的な接し方になる.
魂が貧しいと,友のいいところばかり吸収して,友のためになろうという気持ちがない.

千の目標と一つの目標
民族にはそれぞれの独自の道徳があり,隣の民族がお互いに反対の善悪を守っている.
古い時代には集団の言うことに従っていればよかったが,近代では最大多数の最大幸福として民主主義を一番と言っているが,十分では無い.
千の民族が居てもその目標は一つ(人間を超えること)である.現状に甘んじてはいけない.

隣人愛
隣人愛とは自分自身から逃避することであり,自分自身への悪い愛である.人間は自分自身をしっかりと見つめることなく,隣人の愛を求める.それは自分を無くすことである.
遙か昔の人間は自分を映す鏡がないから自分というものを知らなかった.あるのは他人の姿である.他人からの自分に対する反応である.
隣人を愛するな!
愛するなら遠い未来に現れる人間を愛せ!それはさかのぼれば自分につながる.
君たちは自分の欠点を見つめることができず,また自分自身を愛することができないので,隣人を巻き込み,その間違った愛からの優しい言葉で自分を醜く着飾ろうとしている.
今やらなくてはいけないのは,近所の人,あらゆる種類の隣人から評価を求めないことだ.
自分自身をほめたたえようと考えたとき,他人を招き,彼が自分をほめるようにたぶらかし,自分もそれに満足し,たいしたものだと考えるようになる.
嘘つきとは自分がよい人間かどうかわからないのに,よい人間だと語る人である.
つまり,君は隣人と交際して自分自身について語り,隣人も自分も欺いている.
人間との交際で人の性格がゆがんでくる.特に性格の無い優柔不断な人間は!
ある人は自分自身がいい人か悪い人かわからないので隣人のところへ行く.またある人は,自分を偽りたいので隣人を欺きに行く.
自分自身に対する程度の低い愛が,孤独になると自分自身を苦しめる.(常に人と会っていないと居られない人達のこと)
そういう人々の話の中では必ずその場にいない人の悪口が始まる.
隣人ではなく,友を求めなさい.その友はすでに完成した自分を持っている人であり,あなたのために完成された世界を教えてくれる.
既成観念を打ち破ることにより新しい世界が広がってくる.その世界とは意義と統一性があり,目的を持っている.(この世はむなしくつらく悲しいことばかりだと嘆く世捨て人とは違う)

創造者の道
君のまわりの多くの人は孤独になるのは道に迷いやすいから良くないと言う.君もその声に負けて木痛を感じるだろうけど,力と強さでもって孤独になれ!
世の中にはいろんな分野で人の上に行きたい野心家が多い.そういう野心家は自分を大きく見せようとすればするほど中身はからになっていく.
束縛から自分を解放しただけでは,真の自分に戻ったことにはならない.何を目指しての自由なのかをはっきりさせなくてはいけない.
自分で決めた善と悪に自分を従わせることが必要だ.
孤独の中ですべてはむなしいという虚無的感情に打ち勝たなくてはいけない.
大衆からは孤独な者は軽蔑されるだろうが,だからといって大衆に同じことをしてはいけない.やい.
大衆は君が彼らを超えて高みに登ることを恨んでいるのだ.
正しいと言われている人や善人と言われている人を警戒しなさい.彼らは君を論争で打ち破ろうとしている.彼らは孤独で自分自身の意見を持っている人を憎むからだ.
また大衆の持つ単純さにも警戒しなさい.彼らは考えもせず純真に残酷なことを行う.
また孤独になると出会う人にすぐに愛の手をさしのべたくなるが,これも気をつけなさい.同情が良くない人には厳しさが必要なのだ.
しかし,一番気をつけなくてはいけないのは,自分の弱さである.
自分の道を行くうちに対決しなくてはいけない自分自身の中に持っている問題を通り過ごしてはいけない.
その問題を解決するには自分自身を滅ぼさなくてはいけないときもあるだろう.しかし,そこから新しい自分が再生するのだ.
孤独であっても自分への深い愛と現在の自分を軽蔑し,より高い自分を生み出さなくてはいけない.
君への高い評価は後年されるだろうが,そんなことは気にすることなく,滅びることをおそれずに孤独でいなさい.

老いた女と若い女
女の望むことは妊娠であり,男は子供を得る手段である.男にとっての女は危険と遊びである.男は日々の戦いの疲れをいやすために,危険と安らぎを女に求める.
女は男におそれを持っているが,そんな男を愛せ!女は名誉を求めないが,その代わり,男に負けないくらい男を愛せ!
男は女が愛するときはその女を恐れなさい.彼女は愛するときにはすべてを犠牲にして自分を捧げる.そして,それ以外のことには一切興味が無くなる.
女が憎むときは,男がしっかりとその女を決して離さないくらい引き寄せないからだ.
男にとっての幸福は女を必要とすることであり,女にとっての幸福は必要とされることだ.
女が世界が完全になったと感じるときは,愛の力で男に従うときである.
女の心は変わりやすいが,男に従うことによって,心は不変となる.

まむしのかみ傷
善い人や正義の人にとって君は道徳の破壊者と呼ばれるかもしれない。つまり今までの話は道徳を教えるものではない。
もし君に敵があるのなら、その敵が君に対してした悪には、善を持って返すな。それは相手を恥じさせることになる。相手を恥じさせるよりは、むしろ怒れ。もし悪口を言われても、気にしないとか、祝福の言葉で返すのはよくない。少しはのろいの言葉を返してやりなさい。
もし1つの大きな不正が加xえられたら、5つの小さな不正で仕返ししなさい。
自分ひとりがよい子になって相手の悪に堪えているのは見るからに不快である。
不正に不正をお返しすることは、半ば正義なのである。不正を受けても黙っていられるのはかなりの強者だけである。
小さな復讐をするほうが、まったく復讐をしないよりも人間的である。
君に不正を加えたものも、刑罰を加えられることで、この世では一人前と認められるのである。
常に自分の立場の正しいことを主張するより、不正なものと見られることを意に介しないほうが、高貴である。そして、自分に正しさがある場合はそうである。しかし、それを行うには心豊かでなくてはできない。
冷たい公平さでもって人を見るな。そこにはその人を罰しようとする冷たい心がある。
絶対的な公正はできないのだから、君はそれぞれの人間を君の立場で見ていいのだ。

子供と結婚
君は若く、結婚して子供を持つことを望んでいるが、君は子を持つ資格はあるのか?考えてみろ!
結婚を望んでいるのは君の動物的な部分ではないのか?それとも孤独の寂しさからではないのか?または自分自身への不満から結婚でやり直そうとしているのか?
子供に自分の果たしえなかったことを求めるのではなく、自分自身が達成した強さを子供に伝えることが重要だ。
君はただ自分自身を増やしていくことを望むのではなく、自分自身を高めていかなくてはいけない。結婚はその高めていく場所になるべきだ。
結婚とは2人の意志が結合して、自分たち以上の者を作り出すことである。お互いに尊敬しあうことである。
これが君の結婚の意義であり、真実であることを望む。
しかい、多くの人たちは、それができずに、貧しい心、みすぼらしい享楽にふけっている。彼らはこれを結婚と呼ぶ。
どんなに優れた人でも、結婚となると十分に相手のことを知ることも知ろうともせずに、そのまま相手の言うことを鵜呑みにしてしまう。
誰であろうと、買い物のときは、その品物を十分に吟味するにもかかわらず。
恋愛では短期間の多くのおろかなことをお互いに行っている。しかし、結婚は長期間のおろかさが始まる。
通常は2匹の獣がお互いの腹を探り合っているのに過ぎない。
真の結婚生活ならばより高い道へと進む入り口をならなくてはいけない。

自由な死
多くの人は死ぬのが遅すぎる。ある者は死ぬのが早すぎる。時にかなって死ぬのがいいのだ。だから時にかなって生きなかった者がどうしてときにかなって死ぬことができるわけがない。そういう者は生まれてこないほうがよかったのだ。
すべてのものが死ぬことを大げさに考える。死そのものは葬儀に値しない。葬儀になるのは生を完成して死んだ者だけだ。そういう人たちは希望を持った人に囲まれながら死を遂げたい。
死んでいく人が生きている人の誓いを固めるようでなくては葬儀の意味はない。
よりよく死ぬことが最善である。次にいいのがよりよい意志を出し惜しみすることなく浪費することだ。いいと思うことは節約してはいけない。
それではいつ死ぬのがよいのだろう?目的を持ち自分の意志を継いでくれる相続者が現れたときである。そのときに生にしがみついて栄誉をむさぼることは良くない(年取った政治家や社長のように威厳しかない人)。栄誉を得ようとするものは、適正な時期に名誉と別れなくてはいけない。
その人こそ長い間人から惜しまれることとなるだろう。
いずれにしろ生に値する人生を持つことが重要である。そうでない人は、死が成功するようにしなくてはいけない。いつまでも生き延びようとするのは臆病者の考えることである。
多くの人がいつまでも忍耐強く生にしがみついている。それはこの世を生ぬるいものにし、強く生きようとしないからだ。
忍耐強く辛抱しているのは、人間たちではなく、迷惑をかけられているこの大地である。長く忍耐を続ければ、憎しみがわいてくるし、自然に対する愛(自然にわいてくる人間の感情も含む)が消滅する。
自然を愛することができれば、笑いも出てくるだろう。若いときは人を未熟に愛し、また未熟に人と大地を憎む。そしてその心と精神はまじめだが重い。
だが成人になれば、その中に少しの子供らしい無垢と、少しの悲しみを持つようになる。生きることより死ぬことをよく理解する。
死に対して自由であり、死に際しても自由である。時がくれば平然として死を迎えることができる。このように成人になれば死ぬこと生きることをよく心得なくてはいけない。
死ぬときも君の精神と君の徳は夕焼けのように輝いていなくてはいけない。またそれを見た君の相続者がいよいよ大地への愛を深める死を望め!

贈り与える徳
いつも他人からのいたわりや施しを求めるのではなく、人々に自分を贈り与えることが一番の徳である。しかし、その周りにやってくる人々は我欲が強く、どん欲にその人のいいところを盗もうとする。それは肉体に宿る生命力が弱っているからだ。人に贈り与える魂のないものは退化している。
向上を求める肉体は創造するもの戦うものとして歴史を貫いていく。善悪の判断を人に聞いた知識によって得ようとするのは愚か者である。君たちの精神が目覚めて、善悪の独自の判断ができて自分で進もうとする精神の自主性で活動しようとするときの一刻一刻を大事にしなさい。
その時、君の精神は世界の中心になり、万物の価値がわかるようになる。
君の精神があふれ出し、たとえ他者に危険を及ぼすことがあってもその真剣さが徳になる。
君が快適な住まいや柔らかいベッドをさげすみ、荒々しい世に出て行こうとするなら、それが君の徳となる。困難や辛苦をさけるな!それを意義あるもの、価値あるものに変えるべきだ。
その時生まれる君の徳は新しい価値観に基づく善と悪である。その徳は力でもあり、支配する力を持つ強い思想である。
君たちは大地に忠実であってほしい。君たちの贈り与える愛と認識が大地(自然)に忠実であれ。天からの徳(大衆が信じている善)と称するものにまどわされ、失意することが多いのだ。
偶然というやっかいなものと君たちは何千年も戦っているが、その偶然を無意義と考え愚かなことを行ったりせずに、自分の意志がこの世の支配者とならなくてはいけない。
そのためには君たちは戦うものであり創造する人でなくてはいけない。
肉体はそれを認識すること(肉体と精神が一体になること)でより清純なものになっていく。さらに自分自身を高める。
そして、肉体も衝動も自覚できるから、悩むことが無くなり快活になる。
医者であっても人を治す前に自分を助けなくてはいけない。患者もその医者を見ることでいやされる。
この世にはまだ見つかっていない多くの健康(肉体と精神の)と、隠れた生命が眠っている。敏感な君には耳を澄ませばそのことがわかるだろう。
今日、世俗を離脱し孤独である君たちよ。その中から選ばれた民が育っていくだろう。
まことにこの大地は人間のいやされる、新しい香り、祝福に満ちた希望のある場所であるはずだ。(死後の安楽ではなく)
ここまでの話を聞いたならばもう君たちは、十分に考える力や創造する力が満ちているはずだ。だから、私(ツラツストラ)に反抗して憎んでもいいのだ。いつもでも弟子でいることは死に報いることではない。君たちが考え、自分の足で力強く踏み出すことに意味がある。
まず、自分自身をさがし求めなさい。師に教えを請い、信じるよりも。信じることはつまらないのだ。
君が自分自身を見つけたとき、私は君を独立した人格として認めよう。ついには君と私が同じ希望に向かっていることを期待する。
人間が獣と超人の間の架け橋ならば、超人の方へ向かって歩かなくてはいけない。そしてその道を見つけたときは自分の最高の希望として祝おう。
たどり着けず、没落した人でも、それに続く人がいるから、人間の向上を未来につなぎ、その一員になったことを喜び自分を祝福しよう。

第二部
鏡を持った小児
相手のことを思って、与えないでいることや、相手にあたえても自分自身がおごり高ぶらないことは難しいことである。
そして自分の敵を持つことは自分の力を十分発揮することができることだ。

至福の島々で
神は君たちが作り出した憶測であるが、それによって君たちの創造する意志がなくならないように。本当に神を作り出すことはできないからだ。しかし、よりよい人間を作り出すことはできるだろう。
君は人間だから感知できるものを究極まで考え尽くすことが必要だ。つまり、君が感じるものや、君たちの理性、君たちの意志、君たちの愛そのものが、自分自身の世界と幸福にならなくてはいけない。この感性がなければ、神なしで君はこの世の中を生きていくのに耐えられないだろう。
神が実在するとすれば(もし現実に神が現れたとするなら)人間は自主性と創造の意欲を失い、(すべてを神に頼り、報われないと)絶望に陥る。
神が存在すれば不滅や完璧があることになり、生物が生まれ時間が経過することが無くてもいいことになる。
創造とは私たちを苦悩から解放してくれるものであり救いであり、生きていくことを軽やかにするものである。しかし、創造するためには自己向上や自己克服という苦しみを伴う変身が必要である。
しかも創造するということは自分だけでできるものではなく、次の世代に伝えることが重要だ。それには苦悩と苦痛を伴うが、受動的な運命として受け入れるのでは無く、積極的な意志としなさい。
意欲が無く、自分を評価することもなく、創造することもない倦怠に陥らないようにしなさい。
自分の認識に無邪気さが感じられたら、それは、創造の一歩である。

同情者たち(同情するのはその人を自分より弱いものと見なすことで、その人を恥じさせることになる。愛する人なら鍛えて高めるのが崇高な愛である。)
人に同情して幸福を感じるような哀れみ深い人間になってはいけない。そういう人にはあまりにも羞恥心が欠けている。同情せずにはいられないときにも、同情心の深い人間とは思われようとするな。つまり同情するときには気づかれないように遠くから同情しなさい。
この世には悩み多き人が多く、つい同情してしまうことが多いが、前に言ったことを忘れないでほしい。
人に同情するよりいいことは、自分自身が楽しむユーモアを持ったときだ。人間が生まれてから、楽しむことは罪だといわれ続けてきた。しかし、自分がよりよく楽しむことを学び覚えるなら、私たちは他人に苦痛を与えようとは思わないだろう。(宗教の原理主義者はあまりに厳格なため人に苦痛を与えることをよしとする)
同情で苦しんでいる人を助けるとき、その人の誇りを傷つけることになる。その恩恵があまりに大きいときは相手に感謝の念さえも起こさなくなり、相手に復讐心を芽生えさせる。
小さい恩恵の場合には、その人に対して借りができたという責めを長い間負うことになる。
反対に同情を受ける場合には気安くそれを受け取ってはいけない。「特別に受け取ってやる」と思うくらいがちょうど良い。
だからといって同情するなというのでは無い。出し惜しみすることなく与えるのがいいのだが、相手に恥させるような与え方は良くない。
乞食や罪人や良心に責め続けられているものには同情は必要がない。特に良心の呵責に責め続けられているものはこっちに噛みつくようになる。
良心の呵責に責められるような小さな心を持つよりは、悪を行う方がましである。
また小さな意地悪をするのは、大きな悪をするよりましだと考えてはいけない。はっきり現れるような悪の方が良い。小さな悪はカビのようなもので、気がつかないうちに全身にまでおよび、君自身が腐ってしまう。
人と長い間一緒に暮らしていけば、その人の実情がわかるだけに、同情心にほだされることが多い。だから、同情しないことは難しい。
相手に悟られないで同情しなさい。
同情をするなということは、無関心でいなさいということとは異なる。すぐれた人間ほどたくさんの人と共に生きて小さい同情心にとらわれないということは難しい。
だがもし君が悩む友人を持っているなら彼(彼女)の安息の場所になるのは良いだろう。しかし、そこは堕落させる場所でなく、もっとの役に立つところであるべきだ。
大きな愛は同情を乗り越えるが、そこまで達していない人は同情におぼれ、理性も感情の違う方向へ逸脱してしまう。
神も地獄を持っているがそれは人間に対する同情(愛)である。つまり、神も惨めな人間の同情に気をとられ自由な創造をすることを忘れてしまったからである。
大きな愛は同情ではなく相手をより高くのびることを助ける。

僧侶たち
宗教家は意志の強さや苦難や自分の信じるものに対する強さを持っているが、悩み苦しんだため他人にもその苦悩を与えようとしている。彼らは外見は謙遜しているが復讐心が強い。
かららの求めるものは彼岸(死後の世界)を信じること、君たちが信じなくてはいけないのは現世の(この世)で創造することである。
彼らは人間をすべて罪人にし、良心のやましさをいつも感じるように教える。しかし、それでは人間たちは生ける屍になってしまう。それにもかかわらず人は苦しみを与える彼を神と名付けた。
彼らは同情心が強すぎて、それにおぼれてしまい、表面に出てくるのは愚かな考えになってしまう。その愚かな考えに従う人々も、本当のこの世界を見ることをしないでゆがめて認識してしまう。そして、天国(成仏)するのはこの道しかないといわれるままに自分を高めることもなく漂う。
血は真理を示すとして、殉教することが真理に近づくことと誤らせ、盲信や迫害につながる。そして暑い心情と愚かな頭脳が結びついた人になり、あまり考えることなしに、狂信的に行動する。
いまだにこの世でもっともくだらない人とすばらしい人とはまだまだ差が少ないものである。

有徳者たち(世間一般でいい人といわれている人々の低い志を暴く)
自分が良いことをしたと思っても、報酬を期待してはいけない。つまり、名声やこの人はいい人だと思われようとしてはいけない。良いことをしたから報酬を、悪いことをしたら罰をと繰り返しいわれてきた。でも人間の中の真実はそれを求めていない清潔なものなのだ。
君たちが良いことをしようと思うのは、母親が子供に行うように、元々支払いを求めるものでは無いのだ。
本来の自分に戻ることが、善となる。君の行った善は人の目に触れなくても残っている。強制的に善(これから学校教育で行われるであろう強制なボランティア、奉仕活動)を行うことも善だと思う人もいるがそれに耳を傾けてはいけない。
また、悪事を行わないで何もしないことが善であると思う人もいるが、それはただ悪事を行うエネルギーがないからで、そういう人が優れた人を見ると、正義の名を借りて憎悪や嫉妬の気持ちが強くなる。しかし、不平を言うだけで何もしようとしない。
楽な方向へ堕落する人は自分勝手な神や理想を求め始める。
ある有徳者は重々しい威厳や歴史や徳について君に話すだろうが、その内容は君の行動を止めるだけで現状を守るだけである。
また、規則正しく方を守るだけの人もいる。それが善であると勘違いしている。
片寄った正義を振りかざして、そのためにいろいろな不正をはたらく(テロ、それに反応するアメリカ)。正義を行ったといいながら、それは復讐である。彼らのすることは他人を低めることばかりである。
また自らを世の中から遠ざけ、事なかれ主義を通そうとする。
ある人は(こう思う人は多いが)「道徳的になるのは良いことだ」と言う。それで治安が良くなると道徳を警察か裁判所のように考えている。
またある人は高尚なことを聞いて自分の心を高めること(教会での話、法話)や、が徳であると言う。しかし、これは他人からの徳であり、自分の内部からでたものでは無い。
君たちは人間の高貴な部分を見つけてほしい。人間の低劣な部分を見つけて批判すること(新聞の三面記事や社説やニュースのコメンテーター)を徳と考えないでほしい。
いままでの善と報酬、罪と罰と結びつける考えを貫けば自分が無くなっている。本来の自分を感じ行動してほしい。

賤民(自らのびようとする意志がなく、ただ現状維持を望む人々、大衆)
支配者(国のトップ)も自分の国を支配するのに権力を持つことを報酬にこれら賤民と駆け引きをしなくてはいけない。
日々の出来事も新聞などのジャーナリズムに寄生する賤民でけがされている。このため真実が見えず聞けず知ることができないでいる。
そこで真実を求める高貴な人は一歩一歩ゆっくりとそれを確かめながら、認識するしかない。
真実にふれたとき賤民はそのまぶしさに近寄ることができない。ただ、非常識とか変わっているとかたづけようとする。
真実はそのため賤民に濁されることが無く、孤独である。しかし、真実の流れに逆らってはいけない。

毒ぐも
なんでも人と平等にしようとする平等主義者よ。本当は自分の復讐のためにそれを唱えているのではないか?正義といいながら高い価値を持つ人を嫉妬し、それを引き下ろして復讐することではなく、素直にその高さを認めることが人間の発展につながる。
しかし平等者は不平等がなくなることより、自分たちのように平等を訴えることより増えることを望んでいる。しかし、みんなが平等になったらそこには無力感が漂うだけである。
代々続く自負とねたみが復讐の炎となって外へ飛び出してくる。彼らにあるのは心情の高まりではなく嫉妬である。
人を強く罰しようとする人は質が悪くまるで自分を裁判官と思っている。同じく正義について多くを語るものを信用してはいけない。彼らはやさしさもなく、人間としての良さもない。
自分から正しいものとか善い人間と呼んでいる人は権力の座に着くと、小うるさい特権階級になる。
真実は人間は平等ではなく、平等になるべきでもない。それぞれが自分のやり方と方向で自分を発展させるべきである。そして彼らの間には不平等と戦いがあるのが真実の姿である。(平等にすれば、堕落や無気力になる)
善悪、貧富、身分の上下が戦いの原因になるだろう。そして、人間としての高みへ上っていこう。
互いに対抗して向上するのが人間の本来の姿だ。しかし、反対論者に重い刑罰を課そうとするのは君たちのやり方ではない。対抗するにも軽快にやってほしい。

名声高い賢者たち
名高い思想家たちも真実を解明したのではなく、大衆に迎合して、それによって大衆に支えられ尊敬を集めている。
彼らの機知に富んだ意見でも所詮は民衆を喜ばせる程度である。民衆がおそれ憎むのは自由な精神、従順でないもの、人里離れてすんでいる者(自分たちとは身なりや振る舞いの違う人)である。そういう人を正義感と称して追い立てることが民衆の正義であった。
民衆の共同体が絶対的力を持っていた頃(日本では村組織)には、真理を探求する者は迫害され、近代では多数を占めることから民衆の意見を尊重する政治が行われ、少数意見は無視される。有名な政治家も民衆を崇拝し、民衆の言う正義を弁護し支持している。政治家はそのため抜け目なく民衆の代弁者として辛抱強く活動している。しかし、本当の自分の中になる誠実さを信じるためには、民衆とその大衆の俗的な価値観を捨てなくてはいけない。しかしそれに気づく政治家は少ない。たとえ気づいても自分を支持し尊敬する民衆を捨ててまでは行動できない。
飢えて猛々しく孤独で神を持たない獅子になれ!そこには奴隷的な幸福からは自由だ。それが誠実な人の証である。
すでに政治家は民衆の荷物を運ぶ人になっている。その民衆はどこにその荷物を運ぶのかも見えていない。
精神の幸福を目指さなくてはいけない。涙も苦痛も伴うその道をかつては知っていた(子供の頃)その誠実な道をめざしなさい。謙遜さを忘れずに進みなさい。

夜の歌
人に光を与える者は,それに慣れると,与える人へ感受性が弱くなり,今彼が何を求めているかと言うことがわからず,ただ闇雲に与え続けてしまうのは危険である.

舞踏の歌
人間が克服しなくてはいけないのは,物欲,野心など,人を束縛し,人間の自由な行動を妨げる者である.それは重さの悪魔と言っても良いだろう.
よりよく生きようとすれば知恵(認識)が必要となるが,それだけでは満足できない.

墓の歌
青春時代の理想や夢は年を重ねることにより,無くなっていく.その無くしていく原因は,君のまわりにいる大衆のせいである.しかし,今も残すべきものは,勇気や闘志や忍耐であろう.
かつて君は世界中にあるものを理想化しようとした.また,どんないやなものや苦しいことにも立ち向かおうと決心しただろう.若いときには批判力がないためすべてを認め夢中になるだろう.
なのに人々は君の業績を認めず,批判した.そうして若いときの理想は汚されていき,若者もそれになじんでしまう.しかし,強い意志を持って,以前の自分に戻りなさい.

自己超克
世界中に起きている事件や出来事が起こる理由や意味を考えるとき,真理ではなくてつい自分の考えに沿った意味づけをしてしまう.そうすることで自分自身はそこで主人となり得る.
それを力への意志と呼ぶ.その他の民衆はただ流されるままに,時代の出来事に従っている.
しかし,その流れを作っているのは生の意志である.その生の意志とは,
1) 人はまわりの人を見て従う.
2) 自分自身に従えない者は他人に従うことになる.
3) 人に命令するのは人に従うより難しい.人に命令するとき,その命令の中には試練と冒険が含まれていて,命令者自身を賭けている.
弱者が強者に仕えようとするのは,その弱者より弱い者の主人になろうとするからだ.主人になろうとする気持ちは人間である限り捨てられないものである.
冒険や危険や大ばくちもは強者の主人になろうとする行為であり,犠牲の行為や奉仕,愛は弱者の主人になろうとする意志である.
人間の生とは子孫を増やすこと,高い目的へ向かうこと,より多様なものへ分化することである.もしこれらのことが1つでも欠けるなら,生をあきらめるほうがましである.
これを実践すればかつて愛したものと敵対することもあるだろう.
また,生きていると生そのものよりも重要視されることもあるのは,力への意志である.力への意志とは人間同士の生存競争であり,国家や種族や家や個人のいろいろな争いとも言える.

崇高な者たち
君は心の底に常識人には計り知れない謎と笑いをいつも持ちなさい.精神的に苦行を行い崇高になろうとしている修行者(人)は輝くような美がない.ただ苦しく醜く見える.いつもくらい顔をしている.そういう人こそ笑いを学ぶべきだ.しかし,修行者より劣るのは,何も考えずに生きている大衆だが.
行為する場合,その結果を恐れず,太陽のような明朗さがほしい.また君の敵に対して,征服するか征服されるか張りつめた態度で臨むのは君自身を暗いものにしている.
勇気を持った強い人が美を持つことは難しい.しかしそれは最後の自己克服である.悪いことを行うときも美しさを忘れてはいけない.それは誰にもわかるような態度を取ることが,美となる.

教養の国(過去に自分がかき集めた教養に頼らず,未来に向かって創造すること)
現代人はたくさんの教養を身につけているが,それは,自分のためではなく自分の着飾るための仮面になっている.本当の自分を見せたくないために,たくさんの教養を身につけ塗り固めている.反対に裸になればその貧弱さに驚かされる.
現代人は現実的だから信仰がないから迷信を信じないと自慢しているが,それは自分の知識ではなく他の人が見つけた知識の寄せ集めでありから,教養を追いかければ追いかけるほど,自分の信じるものが無くなっていく.信仰もある意味信じることから始まる.

無垢な認識(主観や欲望から離れた純粋で無垢な認識は,生気に満ちた創造行為から始まる)
欲望や自分中心の考えから離れてこの世にあるものを平等に見ようとしても,人間である限り愛にとらわれ,それが偽善的なことを言うときに良心のやましさとして感じられる.(分別のある大人が子供に諭すときに使う先祖が...神が...前置きをつけるが,それは本人たちは自分のする行動にやましさを感じているので,それを自分の口から言うのではなく,神や先祖の威厳を借りて口にすること)
その場合物事を一歩引いた傍観者としてみるしかないのでその態度は冷たい.その態度は神経質な偽善者と言えるだろう.その態度は無邪気さが足りない.
無邪気さは自分自身を超えて創造するところにある.つまり,愛(この場合の愛は単純な愛ではなく,生に対する愛)したら死をも意欲することである.
このような考えは分別を持った大人には理解できず上品では無いと言われる.しかしそこに偽善はない.

学者(政治家と言い換えても良い)
教養を身につけた学者でも,その知識は自分の実践から得たものではないので,冷たい感じがする.また教養のない大衆は学者の言うことを鵜呑みにして,自らは考えようとしない.
学者は貴要で細かいことに気が付き,それは学者同士にもおよび,お互いを信用していない.また論争に勝つためには,手段を選ばす,詭弁も使ったり,人間的な過ちや弱点をついてくる.

詩人(大衆と言っても良い)
精神は肉体の上に立つ絶対的なものではなく,肉体を含めた本来の自分の一部である.
感情の底まで詩にできる詩人はほとんど居ない.大部分は多少の悦楽と多少の退屈を表現するだけだ.彼らは清くないので,ごまかして理想と現実,精神と肉体の間を取り持ち,折り合いを付けようとしている.その分苦悩も浅いが真実がない.

大いなる事件
革命家は大衆を操り自由への扉があると扇動する.大衆は自分の意見がないため,そのため他の人から圧迫されて,思想をうのみにする.しかし,歴史は革命ではなく静かな動きとして確実に起こっている.革命と大きな声を出して,人々を扇動しても,その後はまた同じことが続けられている.伝統を葬り去ろうとしても,再びよみがえってくるのだ.しかし,長い間続いている国家は,内部が腐敗していることが多いので,転覆して一度作り替えるのは良いことだ.古くなった国家は偽善が満ちてくる.そして,国家自身が自分はこの世で一番重要なものだと主張し始める.そして,人々もそれを認めるようになると,その国家は腐り始めている.

ある予言者(すべてはむなしいとする虚無感の克服)
すべてはむなしいという考えは,厭世観と言うより信仰である.
そういう考えの人はすべてに疲れているので,死ぬことすらできない.力強く生きるものは命の捨てがいのあるものを持っている.

救済(永劫回帰の話)
障害者は障害があることで彼の生存と精神活動の源になっているので,それを手取り足取り助けすぎると,彼はふぬけになってしまう.世の中には障害よりももっと嫌悪することがある.つまり一つの能力のみ人より秀でているものである(科学者,スポーツ選手など).世間ではそういう人々を偉大な人とか天才であると呼ぶが,一つのことに抜きんでているために,他の人間が持っているべき多くのものが無いのだ.現在,一つの能力に抜きんでることが重要視されているため,世間には,半端な人が多く,人間として片寄った人が重要視されているし,みんなもそれを目指している.
 過去にあったことをすべて認め,自分自身を責めるのではなく,自分がそう希望したのだと認識することが,自分を救うことになる.それは強い意志である.
しかし,人々は過去を振り返り,現在におけるさまざまなことに不満を抱き,理性的な人は法律を作ったり,宗教では過去にこういう悪いことをしたから今その報いを受けていると説くのは現在に対する復讐である.つまり仏教では意欲することを業(ごう),キリスト教では原罪という.
過去に対して私はそうであったし,これから先もそうであることを欲するであろうと,過去を愛することが重要である.

対人的知恵
理想だけに走っては現実の世界から離れてしまうし,いろいろなことに神経質ではまた大儀が見えなくなる.
誇りはいたわられたり,傷つけられてもそれを契機に向上するが,女性的な虚栄心はそうはいかない.虚栄心を持っているのは人からの注目を浴びようとする人や,人からの賞賛を待っているものや,お世辞を喜ぶものである.
事なかれで凡庸な人よりも悪人を排除しないこと.悪を行うと言うことは善を知っているわけで,説くに悪にはエネルギーが多く,未来の可能性を持っている.世間一般に言われいる善人が悪を恐れるが,その恐れから起こる人間不信,戦争,ねたみこそ悪である.

最も静かな時刻
偉大なことを成し遂げるのは困難だが,しかし,より困難なことは人に偉大なことをさせることだ.この次は人の先頭に立って,人を指導してほしい.

ツラツストラはかく語りき 2 (意訳)

さすらいびと
我々の体験とは、結局ただ自分自身を体験することだ。
いっさいの体験は、本来のおのれの再確認である。
君が上ろうとしている山(理想)は谷(現実)を含めてすべてである。理想だけではない。
真の自分に帰ることは非常に危険なことであるが、他に行くべき所もない。
自分自身の道だからだれも後を付いてこない。
頂上の更に上を目指せ!自分自身を乗り越えろ!
いつも自分自身をいたわることの多いものは、その多いいたわりによって病弱になる。
目を凝らしすぎるとあらゆることの先が見えなくなる。
孤独である人にとっては愛は危険で,生きているものであれば怪物であろうと愛そうとする.高い愛は厳しくすることによって,相手を向上させなくてはいけない.

幻影と謎
旅を好み,危険無しでは生きられない者,安全な方法を憎んで冒険を好む人になれ.
上昇を妨げるのは厭世,虚無感,偏狭な現実主義.
人間がもっとも勇気のある動物であり,人間が受ける苦痛が動物の中でも一番深い苦痛である.
勇気は死や苦悩をも打ち殺す.勇気があれば苦しい生でも,それをもう一度生きようと決意する.

望まぬ至福
孤独の内に自分を完成させよ!
人々が根底から愛しているのは自分の子供と仕事である.
子供には孤独と抵抗心と先見を学んでほしい
愛への熱望があるときは,すでに自分を失ってしまった状態で,相手の所有が完全ではないからである.
至福は望まず,深い苦痛を進んで受ける.
幸福を望まないと幸福が追いかけてくる.思いどおりにならない女のようだ.

日の出前
妥協の無い態度が真の生産性,創造性と結びつき,妥協には生産性は無い.
すべての事物を本来あるものとして肯定し,祝福すること.
善悪は人間のそれぞれの立場から行う相対的なもので,すべての事物はその本来の姿において永遠のものでありそのまま肯定するものである.
いっさいの事物には偶然や無垢や気まぐれや放恣がありそれは祝福されるべきものである.
それによって隷属から解放される.
世界の本質は非合理的なものである,神の遊びや戯れと考えても良い.
偶然とは昔から人間にとって過酷なものであった.ある人が自分よりより才能があったり,美しかったりする偶然.突然襲ってくる事故や不幸や死.その代わりにあの世での幸福を約束するためにも宗教が必要であった.しかしこの世では偶然を肯定し生きていくしかない.偶然こそが善であり,美である.神頼みは通用しない.

卑小化する徳
建物であろうと仕事であろうとすべてそれを造った人の象徴である.小さい人間に必要なのは小さい徳である.
人に讃辞述べ立てるものはそれが何かのお礼であるような不利をする.しかし,本当はもっと贈り物をもらいたがっている.
安逸とよく結びつくのは控えめな徳である.
そういう人たちは懐古的で保守的である.それなのにただ他人の意志によって動かさられる.
真の男がいないと女は男性化する.つまり充分に男であるものが女の内部の女を引き出す.
支配者が民衆や国への奉仕者の顔をすることが許せない。
そのような人は善意はあるが弱さがある.
正義や同情はあるが弱さがある.
互いに優しく親切である.
小さい幸福を手に入れると次の幸福を求める.
だれにもいじめられたくないから,誰にも親切にする.
しかし,そういう人は怜悧である.拳が無く冷たい指だけを持っている.
徳と謙遜でもって人間を最善の家畜にした.
自分の中にいる哀訴し懇願する臆病な悪魔を追い払え!
偶然に支配されず,自分の意志でそれを肯定すること.
盗みは卑小であり,略奪は男性的な戦闘と冒険がある.
意志を持って行わないことは,中途半端な行動より意味がある.
隣人を愛する前に,自分自身を愛せ!
大きな愛と大きな軽蔑を持ち自分を見つめる.

橄欖(かんらん)の山
夏よりも厳しい寒さの冬を愛する.
冬空のように明るく長い沈黙もまた良い.そして,自分の内面を外へ漏らさないこと.
それも,明るく澄んだ目で,また人をだますような技術も使わず,燈明な人こそ内部は深い.苦労性の魂は人の幸福がねたましい.
かれらに自分の幸福を悟られないように.
そのためには偶然や不慮の災難を避けず,彼らの同情を一心に受ける.
反対に孤独に耐えられずみんなと同じ考えを持ちたくて世俗的になる人もいる.

通過
人を軽蔑するなら自分自身に警告しろ!
愛の中から軽蔑しろ!
他人に対する復讐から不平を言ってはいけない.
悪は一種の力であり生命である.それも無いようなところはすべてがいい加減である.

離反者
若者たちも飽きて疲れて卑俗になり,安易なものを求めるようになる.かつては光と自由を求めたのに少しだけつらくなると暗くなり,密談し,金と権力のあるところから離れなくなる.
長期にわたる勇気と自身を持ち他を恐れない意気を持つものは少ない.
変わることのない忍耐強い精神を持っているのは少数だ.
その他はみな臆病者だ.
中途半端なものは全体を損なう.人間の生死を含む自然現象に対して嘆くことは無い.
すでに枯れているものを速やかに自分から遠ざけろ!

誠実に思考し,ムードに流されないものには祈ることは恥ずかしいことである.
臆病になると安易に生きたがり神を信じるようになる.
休日は祝い事からちなんでいるがすでに安逸な休みになっている.
 
帰郷
見捨てられていることと孤独は別である.
いたわってもらいたがっている人とは心底からうち解けない.
孤独の中ではお互いに愚痴もなく自由にあらゆるところを行き来できる.暗いところでは明るいところより時間が重く感じられる.
静けさの中で至福を感じることができる.
多くの人間と交われば真実を語ることを抑制し,哀れみから小さな嘘をつく.
長い間人間と混じっていると,日常的利害や地位などで人間というものを見失う.
小さな人間が小さく振る舞うのは彼らのせいではない.
善良な人間は何の責任感もなく悪口を言い,嘘をつく.
それは同情心からだと言うが,そこに暮らすのはうっとおしい空気を感じる.
私自身の精神力の強さや富を見せないようにする.相手にあわせて話をすること.

三つの悪
向上発展を願い強く生きようとするものは時間を感じ,宗教的な天国を感じるものは時間を感じない.
生産的な肉欲によって子は生まれ未来は生まれる.
支配欲によって高いものは低いものに話しかける.
我欲によって高みに登ることができる.
肉欲は自由な心を持つものにとっては無垢で自由なものである.未来がある.
枯れた心の弱い人には甘い毒である.
強い心を持つものには強壮剤となる.
結婚生活以上にお互いに高めあうことができる.
男女の隔たりを実際以上に大きく考えている人が多い.
孤独な哲人が孤独なもの,汚れなき者,自足している者を誘って高みへ上ろうと愛を持って誘う.
また彼が高い力をより下方に伸ばそうとするときは卑しいところや後ろめたいところは無い.(贈り与える徳とも言う)
みずからを楽しみ喜んでいる魂は力強く美しく生気あふれる肉体を持つ.
そのような肉体と魂が味わう喜びを我欲という.
そして自分で良悪を判断し,いっさいの卑怯なものや臆病なものを排除する.
それはくよくよしたりため息を漏らしたり,泣き言を言うもの,どんな小さな利益でも拾い集めるものである.
用心深い不振の態度も我欲に反する
態度だけではもの足りず,言葉を求めるものや疑い深い知恵は臆病である.
さらに悪いのは,たわいもなく人の意を迎え,卑下するものである.
また,決して抵抗しないものや,悪意を向けられても反抗しないもの,一切を忍ぶもの,何にでも満足するものも同じである.
粗悪なものとは腰の低いもの,偽りの妥協と譲歩の態度
女,老人,奴隷で生活に疲れたものが賢ぶって話すのはえせ知恵である

重さの霊

大地と生を重いものと考えるものは軽くなれない.自分を愛するものは軽くなれる.
自分が自分自身であることに堪え,よその場所をさまよわないこと.
よその場所をさまよい歩くことを隣人愛という.
隣人愛によって偽善が行われ,世の中は重苦しくなる.
己を愛することはすぐにできることではなく,もっとも微妙で忍耐を要することである.小さいときから善悪を教育されて,自分を愛することを忘れる.
多くの他人の荷物をしょわされているため,生きていくのが重くなる.
情に厚い人間ほどたくさんの多者の重い言葉と価値を背負い,ついには自分が砂漠の中で生きているように感じる.
反対に他人の目を気にせず外見がみすぼらしいと,その人の持っている多くの善と力が察知されず人からも認められない.
女はそのことをよく知っていて,外見にとてもこだわる.
世俗的な因襲が自分で自分を探すことを困難にしている.
すべてのことに満足し,この状態の世の中を最善といわず,は気むずかしさと,強情をもて!
過去の文化や現実離れした理想は,人間の血や肉を無視している.
それより良くないのは人を愛することが無く,人にいたわってもらえなければ生きられない人間である.
このような主体性のない人間を地縁,血縁,義理,人情で支配しようとする政治家は人間を動物扱いしている.支配するほうもされる方も哀れである.
人から命令されるまで何もしようとしないしそれに反発することもしない人たちも哀れである.(警察官,自衛官,下級役人)
自分自身に命令されることを覚えよ.それも難しいことではなく,立つこと(自立),歩くこと(目標に向かう),走ること(努力),よじ登ること(より高見を目指す),踊ること(重くならならず,無垢な気持ち)である.
高見に登るにはいろんな道を試さなくてはいけない.
人に道のことを聞いてはいけない.道に聞け!そして試せ!
人に聞かれたら私の多くは語らず私の趣味と答える.
万人の道はなく,人それぞれの道がある.

新旧の表
何が善で何が悪かは自分の道を自分で作り出し未来を与える者にしかわからない.
聖人や宗教家の言う善も悪も小さい.
世界中で起こる一切のことが神々の戯れであり,いいかえれば破壊と創造の繰り返しである.
必然的に起こると思われた苦しいことも意志によって肯定すれば自由と見なさ,戯れとなる.
強制,規定,必要とその結果,目的と意志,善と悪は飛び越えられるために存在する.
人間は乗り越えられるべきものである.
人間は発展途中であり,人間自身が目的になってはいけない.
隣人をいたわるな!
人間を一足飛びに超えるのは無理で,少しずつ乗り越えなくてはいけない.
そして,自分の権利は自分で獲得しなくてはいけない.
報復は恐れず,そべての好意を自分の責任において行うこと.
自分自身に命令できない者は他人に服従しなくてはいけない.
しかし,それもできない人が多い.
どんなものでもただで手に入れようとしてはいけない.
生きることもただで生きようと思わないで,努力してよく生きるようにすること.
生は創造や愛の喜びを与えてくれるが,それを待っているのでは無く自分の力で実現する.
自分が貢献したことでは無いことには,報酬を求めてはいけない.
褒美は自然に与えられるまで待つべきである.
求めるなら罪と苦痛を求め,自分自身の向上と創造を求めよ.
先駆者はいつも犠牲になる.
自分の中にも古い価値観や習俗的な考えがあり,それほど根深いものである.
よって,新しい先駆者は犠牲となって滅びるだろう.
最初は自分は昔の考えに負けて没落するかもしれないが,それで自分自身を保存しようとしてはいけない.
周囲に配慮して真実を語らない善人にはなってはいけない.
善人は譲歩し忍従し,他人の話を聞くが,自分自身の話を聞かない.
反対・困難などを押し切って行うことや,持続する懐疑,残酷な拒否,飽満への嫌悪,生きている者に切り込む勇気から真実が生まれる.
冬眠する者と暖かさから離れようとしない者は世の中が何も変わっていないように思える.
同じように善と悪の判断もずっと変わらず保とうとするのはそういう人たちだ.
生の中に戦いがあるのにその真実を隠し神聖な言葉として人をまやかすのは正しくない.過去や歴史は後の世の都合によって解釈が都合良く変更させられる.
賤民は過去を振り返ることが少なく,安易な現実万能主義に陥りやすい.
暴君は過去を振り返るが自分の都合のいいように書き換える.
目先の利に目がくらみ過去のすべてを無視してしまう.
価格のあるものはすべて価値に乏しいものである.
名誉は自分がどこの生まれかと言うことでは無くて,これから何を目指すかと言うことである.
現在できあがっているものや持っているものを守ることが名誉では無い.
貴族である君たちは自分の親や祖父母の国から追放されなければいけない.
自分の子供の国を愛するべきである.
この世の中で楽しんでよく生きることはむなしいことではない.
神には頭を下げるが,勇気のないものにはなってはいけない.
世界はすべてが汚いと考えないで,汚いものもあるが,それを見て向上しようとする気持ちも出てくる.
自然は自然に任せればいいとか,なるようにしかならない,それなら何もせず俗世間から離れた方がいいという遁世者は必要がない.
多くのことを学んだとしても,多くの欲念を忘れるな.
生きていくことは楽しいことであり,惑わされず自分以外の世界を認識しろ!
弱い人間は生きていく間に自分自身を見失ない,何をしても同じとか,いったい何のために生きているのかと言う疑問を持つ.
弱い人たちには人間のすることは何もならないので,欲を持ってはいけないと言う教えを受け入れてしまう.
意欲を持ち人生を楽しめ!それが健康と元気の印である.
創造するためにだけ学べ.世の中のいやな面を学ぶ必要は無い.
世間に疲れたものは唇が垂れ下がり,現世欲にとりつかれている.
それは世間には有益で快適なものがあるからで,それに甘えて元気に歩かない.
そのような不治の者は去るべきである.
努力の果てに疲労しきってその場を去ろうとしない者と怠惰でその場を去ろうとしない者を混同してはいけない.
目的を達成できず倒れた英雄には教養人と呼ばれるウジ虫がとりつくのでそれを取り払うのが情けである.
高みに登る人はそれだけ俗人とは違った世界を作る.
偉大な精神や高貴な精神の持ち主たちを食い物にする人間たちや,人の弱点を話のネタにするような人間を遠ざけろ!
広く高みを求める心は運動量が多く,それだけ迷いも多い.
世界の一切の出来事を必然と肯定し,それを避けることをせずに,世の中に起きる偶然の中へ飛び込め!
すでにできあがった精神でもさらなる成長を忘れるな!
勇気は大切だが,自分がそれをふるおうとしている相手を確かめなさい.
自己を抑制して程度の低い者の前を通り過ぎる方が勇気がいることがよくある.自分と戦うのに値する者に勇気を持て!
憎むべき敵をもて!軽蔑すべき敵を持つな!自分の敵を誇れるような敵をもて!
民族について訴えるのは帝国主義的政治家,国内の民衆に訴えるのは社会的・階級的闘志である.かれらは自分が正しく,他人は正しいと譲らない.
そんな彼らのやり方を見抜けば,彼らを切り,勝利したことと同じである.
自分自身の道を行きなさい.彼らには勝手に暗くて希望の無い道を迷わせておけばよい.今この世を支配している民衆は王者の価値は無い.そこでは小商人が支配している.
彼らはどんな小さなゴミの中からゴミのような利益を拾い集めている.
そして他人の顔を伺い,相手から何かを取ろうとしている.(金,信頼,愛など)
それを宗教は隣人のよしみと呼んでいる.
権力意志や名誉心を隠すから,偽善的な人間が増えてくる.

労働者が楽に金が得られるようになると,ストレスがたまる.労働者は猛獣と同じだから簡単に餌が得られると,それだけでストレスになる.
人間は次々と困難を乗り越えないと,生きていくのに苦労する.
一つの笑いもない真理は偽物である.
ゆがんだ結婚や偽りの結婚よりは離婚の方がよい.
結婚生活のうまくいかない2人は何に対しても暗く不満を持っている.
正直な夫婦は常に2人でいると居ることが重要である.
正直な夫婦だけでにとどまらず,お互いに高めあってほしい.
すでに禅尼と悪人の価値観は二つに分けられ,正義をもって悪を懲らしめる形ができあがっている.
どんな悪人よりも善人の起こす害の方が大きい.それは悪人が起こす犯罪よりも,国とその国民が起こす戦争や,国の民衆への弾圧の方が被害が大きいと言うことである.しかもそれは,正義であると信じ込んでいる行為である.
善い者や正しい者たちの精神は,宗教の強い力により,人からとやかく言われることもない,やましくない良心を得て,世の中のいろんな矛盾に対して鈍感になる.
自分たちの宗教やそれ以外の徳に対しては迫害を加える.
既成の道徳を破る者や新しい道徳を創造する者は犯罪者と呼ばれている.
善い者たちはいつも救済のためと言いながら終末(最後の審判,天国に対して地獄)のことを考えている.
そうして人間の未来を犠牲にしている.
善い者たちが作った道徳を打ち破り,自分たちで大海へとこぎ出でよ!
善い者たちが作った偽りの安全を打ち砕け!
その人たちの嘘で固められた中で生まれた人たちは,人間を発見することにより,本当の人間を求めて旅に出るだろう.忍耐強く歩き,転んでも立ち上がる強さを身につけろ!
その大海は常にとどまることは無く,変化している.
回避的,譲歩的ではなく,簡単に取り消したり中止するような決意で行動してはいけない.
創造するためには優柔不断よりも固い決意が必要である.
困難や災難を受動的に感じれば苦痛(後悔)になるが,積極的に意志でもってそれらを担えることができると,そのことが必然となる.そこでは意志による自由と意志による必然が同一のものとなる.
日常の小さな勝利で満足するな!
自分の意志が運命と同じになる.運命を認めれば,今まで自分の生きてきた生をそっくりそのまま、また繰り返す。今まであなたが経験してきたすべてのこと、うれしいことも悲しいこともすべてひっくるめて、一からまったく同じことが始まっても,受け入れることができる.
小さな勝利に惑わされず,最後の大きな勝利を目指せ!

快癒しつつある者
真実に目覚めたらそれをいつも持ち合わせるようにしなくてはいけない.
言葉と歌は人と人の間の架け橋であるが,それはそれ自身あたかも存在しているように見えて本当は実在していないものである.それを知りながら,言葉と音楽が芸術の域にまで高めて楽しめ!
それぞれの人の持つ魂の世界は他人には計り知れない.
似通った者同士の溝は小さいけれどもその溝が小さいだけに,お互いに何とかなると思うが,それがどうにもならないことを悟れない.
意志によって世界に起こることをすべて認めて重い人生だが,何気ない詩や音楽にそれを忘れて心が躍る.
孤独でもお互いの間に流れる詩や音楽で愛が見て取れる.
哲学者の目から見ればすべてのものが行ったり来たり踊るように見えてくる.すべての事物は繰り返されている.
そこに存在すると言うことはまた巡ってくると言うことである.
時間も空間も今ここという地点を中心に起こっている.
悲劇や闘牛や磔や人の不幸を知り自分が幸福の中にいるのを感じる人間は残酷な生き物である.
地獄を発明したのも人間であり,その発明者は善人でその地獄を見て幸福を感じるだろう.
偉大な人間が不幸な目に遭うと賤民が駆け寄り,喜びで同情の言葉をかける.
厭世的な詩人は人生への絶望を口にするが,それは人生への欲望の裏返しで,生きることへの残酷な言葉がつづられている.
生というのは女と同じで追いかければ人をあしらう.
また人間は自分自身に対しても残酷なことをし,罪人とか十字架を背負う者とかお金や品物を出して自分の罪を許してもらうことを自虐的な快感とする.
人間は善悪の戒めによって変わるものでは無く,善でも悪でもない.
人間における最悪と言っても小さく,最善と言っても小さい.
どんなに良いことをしてもどんなに悪いことをしてもそんなに違いは無く,人生は繰り返される.
生きている場所には花園がありそこでは歌うことが似つかわしい.
すべてのものは永遠に巡り,人間の同じく,同じことが繰り返されている.そして,その中の最大(幸福)のことも最小(不幸)のこともほとんど変わらない.
人の死は魂だけが残ると言うことはなくて,すべてが無になる.そして,その塵から再び自分を作り出すだろう.私自身が永劫回帰の一つの部品であるから.
よりよい自分でも無く,新しい自分でもない同じ自分が作り出されて繰り返す.
消失する自分を祝福しなさい.それはまた繰り返すのだから.

大いなる憧れ

周りに影響されることなく,意志でもってイエス,ノーを言え!
軽蔑は愛情を持っておこなえ!
また,意志は論理的,原因と結果との間には、一定の関係が有るという法則(因果律的考え)を超えてこそ自由になれる.
魂を広げ,常に過去現在未来を含むように,また世界をすべて肯定すれば悪いことも善いことも無くなる.
人々の魂の過剰を解放する超人が自由意志でやってくる.

後の舞踏の歌
この世を生きることは自分の好意も反映されない.受動的ではなく時には,生きることに積極的に厳しくあれ.
しかし,あまり強く押し通しては自分の思いは伝わらない.
善悪の基準で行動せず,天真な心で物事を観察せよ.(事象の本当の姿を観察すること=善悪の彼岸)
この世には善も悪もなくそれらは人間が作ったものである.
生きて行くにはすべてをあるがままに感じることがよいのだが,知恵がそれを邪魔する.この世は知恵や理性がはかれるほど簡単では無い.多くの謎や未知のものがあるし,それがあるからこそ魅力的で喜びがある.
生の苦しみも含めて生き生きと生きなさい.

7つの封印
神がいない永遠の世界は重くつらいが,永遠を愛することから生きることに充実感がある.
生きているこの瞬間が永遠に繰り返されるのだからあらゆる瞬間に自分で責任を持って生き抜く.
この世の善と悪,悦楽(感覚を満足させて、楽しむこと)と苦悩の区別を付けず,すべてを味わうこと.
悦楽と苦悩を混ぜ合わせるのは,自分自身である.
この世の彩りを鮮やかにするのは悪である.
自分にどんなに逆らう人生でも,それに好意を持ち,今,自分は岸を離れ,2度と帰ることのない航海に出ていると思え!
真実を語り,人を明るく嘲笑するのは良い,それは邪気のない笑いだから許され,次の創造につながる.
自分が世界であるし,世界が自分であるから,その中を自由に生きなさい!
理由を述べて論理的に語るのは重い.歌のような詩のような会話が本当の声だ.

蜜の供え物
どのような困難も苦難も積極的に担って,自分の体験としていけ!決して堪え忍ぶことは必要がない.
運命は急いでいない.人間が熟成するのを待っている.言い換えると,自分が運命を活用するべきだ.
神の声(道徳)として人々を戒めるよりは,人と戯れていた方が幸福である.
自分と自分の運命は話し合う時間が大いにある.

危急の叫び
悲観主義に陥ってはならない.人生のつらさがこの世にはあふれているが,それは自分の内面まではやってこない.
人々の危険・災難が まぢかに迫っていることの叫びが聞こえるかも知れないが,自分には関係ないことである.
それに惹かれることは同情と呼ばれるが,それは罪である.
この世には当然悪い場所も良い場所もある.だからといって逃げても避けてもいけない.
王たちとの会話(権力階級についての批評)
一人の王による支配はもう終わった.俗的な民衆の力が強くなり,彼らが社会を支配するようになっている.
現代社会は勇敢な戦士による戦争(王国同士の戦い)はもう無くなっている.

蛭(学者についての批評)
物事を厳密にとって身動きできず,全体が見えないのではいけない.

魔術師(俳優についての批評)
真実と虚構の間の言葉で人々を惑わせるな.
偉大な人間だと大衆から持ち上げられるが,ついには引き下ろされるか自滅する運命にある.
偉大さを求めて成功したものはいないし,それは大衆が何が偉大で何が卑小かわからないからだ.何もわからない者の方が成功する.
大衆にあわせて虚構で偉大さを出してもむなしいだけである.

退職(古くなってしまった神への批評)
僧侶とは世界の生気や生きる喜びを神に背くとして禁止する人である.
この世では野獣も悪人も許される.
愛が深い神なら審判者(最後の審判や死後の審判)にはならない.
道理や論理による否定よりも,趣味が合わない否定の方が大きい.
神の言葉は持って回った言い方でわかりにくい.しかい,それがわからないと神は怒る.もっと良い耳をなぜ神は作らなかったのか?
神の怒りは自分の作った人間があまりに不出来だったからか?
そのような不完全な人間を作る神はほんとに神なのだろうか?

最も醜い人間
神である以上は全知全能ですべてを知っているはずである.なのに人間の醜さに対して同情するのは,神が存在していない理由となる.
人間に同情する神とは人間が作ったものである.
人のために大きな功績をあげた人は迫害された人が多い.
迫害する理由は人の偉大な仕事を見て,それがねたましくていじめるのである.同情も人の大きな苦悩を見て同情する.どちらも人間は人の後を追いかけるのが好きである.
同情は厚顔である.
神の同情も人間の同情も恥知らずである.助けようとしないことは,助けようとすぐに近寄ってくることよりも高貴である.
しかし,大衆の間では同情が徳と呼ばれている.
こうして大衆が善と言うことは善年tげ長い間認められてきた.
そして,権力も大衆が手に入れた.
その善(同情など)は宗教家が言ってきたことで,真理では無い.
同情で甘やかしあうと倦怠や無力感を生み,人類の向上への意欲や希望がなくなる.
すべての大いなる愛は同情を超えたところにある.
そうして君が強くなると多くの者が助けを求めてやってくるだろうが,同情の虜にならないようにしなさい!
神は不完全な人間を作っておきながら,その不完全さに同情するという恥ずかしい行為で,死なざるを得なかった.
人間もそれを知り,神を信じなくなった.
頭や書物で神がわからないなら,実践的に世の中に出てみるのも良い.行動することでわかることもある.
自分を愛すれば愛するほど自分を知り,自己を軽蔑することになる.しかし,それはよりよい自分を目指すことになる.
自分を愛することが,高みにあがることである.

進んでなった乞食
イエスは言った.多くのものを求めず少しの体験や知恵をかみしめてそれを幸福とすることと.しかし,純粋な気持ちではあるがそれは消極的な考えだ.
正しく人に好意を送ることは難しく,たいていは恩はあだで返される.
今の時代は大衆が主導であるが,かれらは徐々に不満が大きくなっている.貧しい大衆は少しの慈善と施しに怒っている.また富んだ大衆は盗まれないように用心しながら落ちている小さな利益という利益を拾い集めている.これが今の世の中だ.


知力はあるが自分の意志を簡単に変えるような弱いインテリになってはいけない.
そういう人は良い思想があると追随するがたびたび変更するので,自分をすり減らしてしまう.
この世界では価値観が変われば,悪もまた善になる.つまり見えるものは見せかけでしかない.
日常的な善良な社会の伝統や慣習を大衆は嘘と思わず,高尚なこととして無邪気に信じている.
自主性が無く,まわりにあわせて真理や真実を追うと,疲れ果てて何が正しくて何が間違っているのかわからなくなる.
偏った考えには自由な精神を持つ人ほど引きつけられるから気をつけろ.

正午
晴れた青空は,そのそぶりを少しも見せずに,いつの間にか水蒸気の一滴(人の魂)を飲み込む(死ぬこと).そして,また地上へと戻ってくる.
人の生き死には永劫回帰しており,その姿は情緒的で夢幻的である.意志でもってこの世を生きるときにも,このような自然の姿に安堵感を感じることがある.

挨拶
自分がやみ衰えると,何よりも他者からいたわられることを望むが,それではこの世を強く生きていくことはできない.
より強く,笑いを絶やさず,肉体も魂も正しい大きさのものに自分たちは乗り越えられると言うことを自覚しなさい.
絶望からの解放ばかりを問題にせずに,人類全体の向上を考えなくてはいけない.
未来の子供達のためには,すべてを贈り,話さなくてはいけない.

晩餐
この世を強く生きていくためには強い心身と軽いユーモアがあるのがよい.
つまり戦いを避けず,祝祭を喜ばなくてはいけない.暗く,夢におぼれる者ではいけない.良い食べ物や清らかな晴天,強い思想,美しい人を強く求めよ.それが強い生の意欲である.

高人(まとめ)
大衆の集まるところは騒がしく,みんな人のうわさ話が大好きである.そして偉大な人の存在を信じないで人はすべて平等であると,知ったようなことを言う.
苦労性の人は今の生活をいかに維持しようかと考えをめぐらせるが,人間は今の状況を乗り越えなくてはいけない.今までもそうしてきたように.
努力しても願いかなわず,没落することもあるが,愛と希望をたくさん持つことがよい.そして自分を軽蔑することは,より高い価値を目指すことだから良いことである.
絶望することも良いことである.それは世の中の流れに身を任せることでは無く,屈従することでもないから.多くのこざかしい知恵を身につけなかったことだから良いことだ.現在,この世の主は大衆である.彼らはみんな忍従,謙遜,用心,勤勉,まわりの状況に合わせて手心を加えたりすることを徳と考えている.
さらに大衆は飽きることなく,今の生活水準を保ちたいとか,もっと快適になることを求めてやまない.
偉大な人はこの大衆の求める最大多数の最大幸福を征服しろ.
君たちは勇気を持っているか?人が見ているところで見せる勇気でなく,孤独であるときの勇気だ.
人を見捨てる冷たい勇気や,何も考えない勇気や,力だけの勇気は本当の勇気ではない.本当の勇気は恐怖を知っていながらそれを押さえられることである.
人間はより善く,より悪くもなくてはいけない.
最大の悪は人を超えるために必要である.
試練があってこそ人間は成長できる.つい,自分の身の回りに起こることを悩んでいるがこの先人間がどうなるかを悩みなさい.
他人のためにいろいろと働くことはあるだろうけれど,他人のために何かを作り出すことは必要ない.
人のためにとか,人との関係ゆえにとか,こういう理由でとかで行動しないことだ.このような行動は偽りの多い人の小事である.
人のためにという考えは大衆たちの道徳だ.相身互いとか隣人のよしみや昔の仲間という理由がこの世では幅をきかせているが,そのような気持ちは細心の配慮がない.
自分自身を大切にするべきであり,自分の評価は自分自身がするべきである.まわりの人の偽善に満ちた評価を信じてはいけない.
多くのことを新しく始めるには,精神は疲労し汚れたことも考えるだろうが,また元の健康を取り戻しなさい.
自分の力以上に善人になろうとするな.可能性を超えたことを自分に求めてはいけない.人間としてこの世を生きることは大きな賭博場に居るようなものだが,勝ち負けにムキになってはいけない.もし書けに失敗したからと言って,あなたは出来損ないではない.
もし,自分が出来損ないでも,人間が出来損ないではないし,人間が出来損ないでも,この世は捨てたものでは無い.
高等な種ほど完全なものは少ない.まず,自分自身を笑うことから学びなさい.
当然,笑えることを笑うことを学びなさい(たとえ,王様が転んだにしてもそれがおかしかったら笑え)
どうやっても自分たちが半人前の人間でも,その未来(人間の未来)はたくさんある.それに比べると自然は完全にできあがっている.だから,自然を身の回りにおくことは,自分をいやしてくれる.自然は完全だから,私たちに人間の未来に希望を持たせる.
この地上で笑いを見つけることは重要である.
大きな愛は愛されることを求めず,相手の成長や向上を望む.
良い仕事は遊びが無くてはいけない.無駄を省いて(合併,リストラなど)利潤ばかり追求すると,楽しみが無くなる.目的地に向かう歩き方を見れば,その人のことがわかる.一直線に脇目もふらず歩く人は,早く目的地に着くが,その課程は楽しくない.幸福に出会っても気が付かない.
不幸に突き当たって考えが不器用になるよりも,幸福に突き当たり当惑する方がよい.最悪の時でも良いことは必ずある.(絶対の不幸というものは無い)
大衆のように悲観したり,悲哀にふけることはやめよう!
自分の中にある最ものろまなものを奮い立たせろ!そして,危険なものにも立ち向かえ!悲しみに満ちた陰気な気持ちは大衆のものだ.それはすべてのものを暗く見ている.
自分が完全じゃないからと言って,悲観するな!楽しく軽やかに生きなさい.
君はまだまだ可能性がたくさんある.そして,自分自身を乗り越え,楽しく笑うことを学べ!

憂愁の歌
(自分は強い思想を説き続け,真理探究を目指してはいるが,それはただの道化師,詩人のたわごとにすぎないのではないか?理想のみを追いかけているのでは無いというニーチェの誠実さが現れる詩のところ)

精確な知識
太古の時の恐怖が精確な学問となり,不確かなものに立ち向かう意欲が勇気となった.

砂漠の娘たちのもと
可憐で華奢な笑いや快活さを求めても,いままでに培われた道徳によって征服されてしまう.

覚醒
ここまで来たら,君の虚無感や絶望は君の中から出ていったであろう.もうありのままの自分を示すことに恥じてはいけない.

驢馬(ロバ=神)祭り
みんながやったからわたしも嫌々ながらやったというのは善くある弁解の形だが,そこにはずるさが感じられる.子供のような素直さや純真さがあると天国に行くには重宝されるようだが,君たちはこの世界で強く生きるのだから大人にならなくてはいけない.

酔歌
もし今までと同じ楽しいことやつらいことを含めて人生がやり直せるとしても,繰り返したいと思う気持ちを持て.
人間は時間や生きることから逃げてはいけない.(時間から逃げるとは過去を振り返って後悔することである)
宇宙が始まり君ができて,再び宇宙は消滅し,これを永遠に繰り返すのだが,その永遠を幸福とと考えるべきだ.
昼の理性(人間の知恵)では説明できないほどの深さをこの世は持っている.だが,それがこの世の魅力である.
しかし世俗的な人ほど,人間の知識に頼りがちで,それに支配されている.
完全なものほど消滅を願うが,不完全なものほど生きたいと思う.
悩みとか悩みの解消とか言う意味で幸福を求めるのではなく,生きていくことに意義を見つけよう.


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