今時の親子の将来について(2009-4-7)
近頃の父親は、病気の子供の付き添いで来院することがある。父親は恋愛時代の欲望の下の優しさだけじゃなく、結婚後も優しくなっているから、自分の子供や妻が待合室で行儀悪くしても怒らない。しかし、おつりを間違えると怒り出す人はいる。私の医院は主に鼻の吸引や咽などの処置が多く、それらは大部分の子供たちにとって、あまり気持ちの良い出来事ではないらしい。だから、当然のごとく、処置中に暴れるが、怖くて押さえつけることが出来ない父親が目立つ。それに比べると、母親の子育ての態度は昔とあまり変わらないくらいの厳しさだ。
人間がずいぶんと長生きになったので、大人になっても世話を焼いてくれる年老いた母親が近くにいるので、いつまでも甘えてられる。それ以外にも家事が、科学技術の発展のおかげで、ずいぶんと楽になり、子供の手伝い無しに、かなりのことを母親が一人で出来るようになった。しかし、一番の原因は世の中を一人で生きていく厳しさと自由になる楽しさを子供に教えていないからではないだろうか。
思えば私が小さいときは、家の中に段ボールで、自分の家を造って喜んでいたが、次の日にはかたづけられていた。多くの子供は更に成長するにつれて、興味のある者は大工さんになり、あるいはやっぱり段ボールの家に住みたい人はホームレスになったものである。私の場合、段ボールの家では満足せず、家の軒下にトタン板を追加して自分の秘密基地にしていた。攻めてくる仮想敵を偵察するのぞき孔や、夜も怖くないように電気スタンドを持ち込んで、雨に弱いことを除けば本格的なツーバイフォー建築であった。欠点は、キッチンと浴室が無いことぐらいであった。仕方がないので自宅でそれは済ませていたし、ついでに寝るのもテレビを見るのも自宅であった。別荘があるというのは何か心が弾むものであった。ところが、いつのまにかその別荘はすっかり無くなっていた。子供ながらに、油断していると、家さえ盗まれる事を教えられた。
昔の子供(私を含む)はこれくらい自己独立の精神にあふれていたものである。世間の厳しさについては、私は自給自足できれば、乗り切れると言うことで、早く貯金を増やして、家のじいさんのように隠居しようと、小学生らしくお年玉を募金するとか、親に何か買ってやるとか、無駄遣いをしなかった。せいぜい駄菓子屋でクジムキを10回するくらいであった。
怒りについて(その2)(2009-4-3)
セネカは怒りは短時間の狂気と言っていたが、忙しさがその原因になっている。医者は忙しい職業の一つであるが、それがイライラした顔貌や気むずかしさを作り出しているようだ。幼いときからエリート教育を受け、競争意識を植え付けられている人間には、怒りを持つことが多い。ただし、怒りの表現には個人差があり、表面的にわかりやすい激高型から、嫌みを言うだけの隠匿型まで様々である。もう一つの怒りの原因は自分の能力を超えることである。今の教育もスポーツも、人との競争で、更に自己の能力を引き延ばそうという方針が、当たり前のように受け入れられ、頑張らない人は落伍者や駄目な人間として扱われる。そうなると自己の能力を超えたハードルが用意され、クリヤーできるかどうかわからない不安が怒りを引き起こすのである。
たとえば会社の中で能力の劣る職員がいて、たびたび仕事で失敗を起こせば、上司は注意にとどまらず、怒りに変わることがある。そうなると次第に個人攻撃に変化し、仕事がうまくいくように指導するのではなく、その人を傷つけることが目的になる。特に相手が叱られてもあまりショックを受けていないように見えるなら、上司の怒りは更に強くなるであろう。最終的に他人が傷付いていることを確認して、その怒りは収まるのである。
裁判でも同じ罪を犯した場合、男の方が罰が重くなるのは、裁判官とはいえ人の子であるから、冷静さを装っても怒りはあるので、彼の怒りが女の外面的な弱さで収まるからである。
総理大臣や裁判官は理性的でいてほしいが、理性的じゃない方が大衆には人気が出るようだ。戦争になれば怒りは更にエスカレートし、人間であることを忘れたような、更に動物でもやらないような酷いことをしてしまう。
まずは日常の怒りを目覚めさせないために、忙しくならないように、自分の能力を超えた仕事をしないようにしよう。
修学旅行(2009-1-30)
今までに修学旅行というものは小中高と3度経験しているが、私は元来、乗り物酔いをしやすいので実のところ楽しみではなかった。小学校の修学旅行は京都と奈良が目的地である。出発日が近づいたある日、6年生を集めて、引率の先生から注意が言い渡された。まず、お小遣いは2000円までよいと言われた。今の価値にすれば5000円くらいであろうか。次に外人にあってもサインを求めないようにと言われた。私にはピンと来ない話だったが、先輩たちがそんなことをして先生たちが恥ずかしい目に遭ったのかもしれない。今なら国際交流として、お互いの住所のやりとりをして親睦を深めるのは良いことだと考えるのだろうけど、その頃は欧米へのコンプレックスの裏返しで、恥ずかしい行為だったらしい。
ずいぶん昔のことなので何に乗って京都ー奈良を観光したのかあまり確かでないが、乗り物酔いをした覚えが無いから電車で行ったのかもしれない。そういえば新幹線に乗った気もするし、乗らなかった気もする。客車の座席が回るから、窓向きにして叱られた覚えはある。
お小遣いを使う段になって、何を買おうか迷っているうちに福井に着いてしまった。結局、買ったのは村松君と一緒に買った小さな京都の観光地を紹介したカードだけだった。色々と迷ったはずだが、迷い始めるとすべてが買ってしまうと後悔しそうで、買わずに終ってしまった。現在もその気質は変わっていないようである。だから高価なものは衝動買いするに限るのである。
中学の修学旅行は、横浜駅から貸し切りバスで箱根まで行くことになった。その頃は身体が背が小さくて、バスの座席は前の方だった。ほとんどどこを回ったのか忘れてしまったが、最後の箱根の山道では予想通り酔ってしまい、まわりの同級生たちに知られることを恐れながら30分間。自分の気分とは正反対の高原のさわやかなホテルに到着した。高原のホテルらしく赤い屋根と白い壁が印象的だった。夕食後から就寝までの間、加藤君と大橋君と吉田君と誰某(だれそれ)君と何かを話していた。そのうち湊君という男の子が話に加わったが、加藤君に「君は臭い。お風呂に入って来たまえ。」と言われていた。帰りのバスは速度が遅くて揺れないので酔わなかった。
高校の修学旅行は、電車で長野へ行った。特に浅間山や霧ヶ峰などの自然を目指したらしい。というのはそれまで九州へ行くのが定番だったが、人の歴史を知ることから自然の歴史を勉強することになったらしい。うわさで引率の先生たちが毎年同じ場所で飽きてきたからと言う話も聞いた。どちらが真相かわからないけれど、高校生ながら、あとの話の方が真実に思えた。私は当時、高校生のくせにカメラを持っていたので、この修学旅行の写真係になった。写真係の欠点は自分の写真が残らないことである。いざ写真を撮るときになると、特に女生徒が、一番いい顔を写したいので、なかなかシャッターを押させないのである。そのうち焦燥して持ちきれずに写してしまい、不平を買うことが何度かあった。
大学生では卒業旅行と名前が変わり、義務ではなくなる。そのため、仲の良いグループで行くことが多い。私の場合、高校で同級生だった山本君と車で目的地も宿を決めないで旅行したのが、卒業旅行といえるかもしれない。富山と長野を当てもなく回ってみた。夏休みだったので、学生の旅行がたくさん目に付いた。宿が取れないこともあるかと恐れてテントを持参したが、お昼頃に駅で聞いたら、何とか民宿が予約できたので、その後は安心して観光を続けた。大学で知り合った岡本君は一人でオートバイに乗って日本一周を計画していたが、幸運にも留年しなかったので止めた。人間が成長するにつれて、勉強から親睦、そして冒険へと旅行の目的も変わってくるようである。
生物工学を軽く考えてみる
ワトソン君とクリック君とあと一人、名前を忘れたけど、この人たちがDNAが発見してというか、DNAが4種類のアミノ酸配列で出来ているのを見つけてから、生物工学は進歩したらしい。つい最近になって、人のDNA配列の順番をすべて解読したらしいが、人によってかなり違うらしい。人によっては猿ほどの違いがあるから、まだこのDNAが有ったら人間だと言えるところまではわからないようだ。科学で人間のことがすべてがわかるなんて、一生懸命考えている人もいるけど、もしすべての生物の働きがわかっちゃったら、「人間は精密なロボットである」なんてことになる。病気はいわゆる故障だから、すべての人間は標準型に作り替えられる。美男美女、中肉中背がたくさん現れる。耐用年数最大120年、なんて背中に書かれそうだ。結婚もだれを選んでも同じだから、恋愛なんて感情は無くなって、子作りだけが目的になるな。まあ、それも良いけれど、風情は確実になくなっちゃう。遺伝子が同じなら、姿形は同じ、でも性格は生まれ育った所によって少しは変わりそうだけどね。だけど、その頃までに人間が滅ばないで進歩できる保証はないから、実際は天変地異や戦争でまた昔の生活に逆戻りなんてこともあるね。
身近には品種改良なんてものは何年もかけて、やっと完成させたけど、生物工学のおかげで1000倍速く品種改良が出来る。一気に進んじゃうわけだから、何が起こるかわからない。宝くじに当たった人みたいなものである。当分は良いけど、後はどうなるかわからない。何年も経ってこの大豆は実は虫だけじゃなくて人にも毒だったなんてね。そんなこともあると覚悟の上で食べるなら、何にも言えないけれど。
身の回りのいろんなことがとんでもないスピードで進んでいる。実際、速すぎて研究している本人でもその後どうなっちゃうかわからないくらいだ。道に落ちていたゴミを拾おうとした瞬間、生きているようにゴミが逃げ出した。そして、転んで挟まれた。よく見たらそこは動く歩道だった。ちょっと前までは放射線は健康に良いと言われていた。昔の健康優良児は成人病になりやすい。小さいときに饑餓だった人は長生きする。日焼け大会は皮膚癌の元。あまり先が読めない人間。だったら、少しずつ慎重に進んでいくのが良いのだ。どうやって神様は生物を造られたのかわからないのに、都合の良いところだけちょこっと弄ると後で大変なことになるかもよ。
創造
ショーペンハウワーは言った「人生は遁世生活をするか,芸術に生きる以外は不幸である」と.不幸は人と人との関わりから生まれることは簡単に理解できる.もう一つの幸せに生きる方法である芸術とは創造であり,他の誰のまねでも無いことである.人のまねとは,他人の考えを追従することであり,たとえば読書もそれに含まれる.またテレビゲームも運動競技も他人の設定したルールの上で遊ぶことであり,自分の考えを抑え,速やかに他人の作り上げた法則に従うことがゲームでは有利になる.ある他人の考えに飽きたら,次に別の他人の考えをなぞってみたりする.ところがどの考えが良いかと言うことを判断できる人でも,自分の考えは形成されない.そのような安直な比較を続けながら,いつまでも他人の作り出した既製品を追い求めることになる.果てしないモノの比較と獲得競争を続けるにはお金が必要になり,子供も大人も最終的に求めるものはお金と言うことになる.
モノのない時代は必然的に子供たちは自分たちでいろいろな遊びを考え出さなくてはいけない.たとえば紙と鉛筆があればそれだけで何を描こうかと想像するだけで幸せな気分になれるのである.蓋し,子供の頃の幸せな感覚を生み出す原因の一つには,何もないところから何かを作り出すことにある.それが大人になればきれいな既製品が高価格になればなるほど出来が良くなって店に並んでいることに気がつく.しかし,それを手に入れれば,さらに良いものを手に入れたくなる.しかも自分では何の苦労もすることなく,ただお金を集める単純作業に没頭することで手に入れることができる.
今日でも,手軽にできる芸術は絵画,文学でそれは昔とほとんんど変わりはないみたいだ.大がかりな機材が必要なものとして新たに映画や音楽などが加わったぐらいである.絵を描いたり,言葉を使って簡単な物語を書いてみたり,笛やオルガンで即興音楽を演奏してみたり,誰でも子供の時には試したものである.それが,ただ洗練されているからという理由でプロの他人が作り上げたものを求めることから,人の苦しみが始まるような気がする.
どんなに原始的でも初歩的でも何もないところから他人とは違う何かを作り出すのは偉大なことであり,それに生きることは幸せに繋がるのではないのかしらと思う.
悲観主義と楽観主義
自分のことを例に挙げるが、50才を過ぎてみて、後何年生きられるかと落ち着かなくなるのが悲観主義で、まだ何十年も有ると悠然と構えるのが楽観主義ではないだろうか。私の父は全くの悲観主義者で、人生で大きな失敗はしないかわりに、いつも何か悪いことが起きないかびくびくして暮らしている。60歳を過ぎた頃から、平均寿命まで後十数年しかないと言い続け、それはやがて顔つきにも現れ、心の厳しさを眉間に刻んでいった。人生の100点満点を目指して、減点が少しでもあれば、たちまち不機嫌になるのが悲観主義であるが、それは得てして、お金持ちに多いようである。生まれたときから財産がたくさんあると、それが減らすことは、この世界では日常的に起こることであり、そんなことが何度もあると、遂にお金持ちの未来は暗雲が立ちこめ、昔は良かったと懐古するのである。反対にお金持ちでも今の財産をゼロから築き上げた人は、次々と富が増えるので、そんな時代は楽観主義になるだろうが、やがてピークを迎え減り始めると悲観主義に変わる。自分の所有する若い力や富や美貌が増す時と減る時で気分は変化するとは機械のような人間たちだが、そうならない人間も存在する。しかし、最も簡単に楽観主義に成れる方法がある。いわゆる清貧だが、持っているものが無ければ取られることもないし、悪いことに手を染めなければ世間を恐れて生活しなくても良いので、自ずと楽観主義になる。自分の過去の精神状況を振り返ってみると、8−9才の頃はすべてが楽しく、楽観的であったようだが、中学高校と進学するにつれて悲観的になったような気がする。特に大学に入ってからは、自分の未来が決定され、横道にそれることが許されない気がした。学部の5年生から始まる臨床講義(内科外科など専門課程)では、急激に学習意欲が無くなくなってしまった。ただ、医者になってからはそんな自分の情緒の変化に考えをめぐらせる余裕がなく、毎日、寝食もないほど働いた。今、思い返すと他の同級生たちも私と同じように、徐々に悲観主義に陥っていたように思える。それを忘れるために彼らは趣味、贅沢、研究、権威、出世、名声を求めて突っ走っていた。そんなときにふと中学時代のあの明るかった友人は今も楽観主義でいるのかなと考えることがある。
鼻がつまる
世の中には2種類の人間が存在する。鼻がつまる人間と鼻が通る人間である。私は長い間どちらかと言えば後者だと思っていた。しかし鼻がつまる人間は更に2つに分けられる。鼻がつまっていることに気がつく人間と気がつかない人間である。耳鼻科医になってはじめて私は鼻がつまっているのに気がつかない人間だとわかった。幼少の頃に思い当たることと言えば、寝姿がおかしいのでいろいろな小児科に連れて行かれたらしい。医者から「うつぶせ寝をするたちだから病気ではない。」と親は言われたらしい。しかし実際には鼻やのどが腫れていると息苦しいのでうつぶせ寝になる。うつぶせ寝の原因はともかく、子供ながらに寝入りばなだけ鼻がつまることは自覚していたようで、冬になると「鼻が詰まる」と言って祖母に鼻をマッサージをねだり寝付かせてもらったらしい。寝付いてしまえば、寝相が悪い以外は特に気になることは無かったらしいが、今にして思えば鼻がつまって苦しいため熟睡が出来ず、寝返りを繰り返していたのかもしれない。
幼少時にそんなことがあったので、鼻づまりの人には多少は親身になれるつもりである。診察で子供が鼻づまりで苦しんでいるのに気がつくことがある。しかし、子供は鼻がつまることを言葉にすることが出来ないので、気がつかない親がたくさんいることがわかった。私が医者に成り立ての頃は「下甲介切除術」、すこし手術がうまくなったら「粘膜下甲介骨切除術」を覚えた。しかし、どちらも出血が多いし入院しなくてはいけない。自分なりに浅知恵を働かせて鼻づまりの手術も色々と考えてみたりもした。日帰り手術でやろうと思ったら、出血を減らすことを考えなくてはいけない。出血を減らすには傷を小さくすることである。そこでお金はかかるが機械の助けを借りることにした。これだと傷の大きさを5-10mmに減らし、手術時間も短縮出来る。元々は蓄膿症の手術に使う機械だけれども、細かいドリルが付属していたので、これで下甲介骨を削ることにした。欠点は設備に費用がかかることぐらいだが、借金したら解決した。
著作権
この雑文のコーナーも文章を重ねてみると、まるでブログの様なものに見えるが、かといってブログに移行するのも面倒くさいのでこのまま、だらだらと書き連ねている。私の気にしていることに、ホームページでは著作権法違反や特許権侵害に注意しないと、凄腕の弁護士から内容証明郵便が届くことがあるらしい。まだこの郵便を受け取ったことはないが、上品に書かれた脅迫状みたいなものだろう。最近になって日本も欧米の考えをまねして、これらの権利をやかましく主張し、取り締まるようになってきた。私は身近なことでしか考えないことにしているが、流行の歌謡曲やテレビ番組はこの法律で勝手にまねするなと言われているし、キャラクター商品やソフトウェアや電子機器もまねをしてはいけない。
ここで著作権について私がある人に相談を受けたとしよう。
ある人「どれくらいのまねなら良いのか?」
私「たぶん、見分けが付かない程度のまねなら良いかも。」
ある人「具体的にはどこまで良いのか?」
私「相手が訴えないところまで」
(会話の最初に戻る)
と言う話になってしまう。
しかし、音楽で現在まで残っているのは、クラッシックや童謡や民謡など著作権とは関係ない時期に出来たものだし、昔の家畜や農作物や文字には著作権や特許権は設定されていない。遺伝子操作で造られた最近の動物や植物には特許権があるらしいが。本当に大事な物事や技術には著作権は無いのではないかなと思う。短期間だけの小銭を稼ぐために造られれた著作権や特許権は、本当に重要なものを造り出さないで、返って目先の珍しさや便利さのみを追求しているように思える。最先端技術を駆使し特許技術をたくさんつぎ込んだ携帯電話でさえも、空中を飛び交っているメールや会話の内容を考えれば、大いなる暇つぶしと無駄話である。また目標物だけを壊すスマート爆弾、クラスター爆弾や物陰に隠れた人間を攻撃する空中炸裂銃弾などなど軍事目的の特許は数え切れないほどある。反対に、敵に追いつかれるまでの短期間ではあるが、敵より優れた技術は成果を上げやすいので、最先端の未来型殺人兵器には特許を公表しないで小狡く使われているみたいだ。長い間、人のためになる重要な技術や芸術は著作権を設定していないし、設定されては困ることになる。そういえば私の雑文は著作権が設定されていない。
急性中耳炎の原因
物事の結果には必ず原因がある。病気にも当然のごとく原因があるわけである。私の医院には冬になると子供の急性中耳炎の患者がたくさん来るわけであるが、よく母親から「急性中耳炎の原因は何でしょうか?」と聞かれる。ここで、「細菌やウイルスが原因です。」と言って納得する親は少ない。更にインフルエンザ菌やアデノウイルスが原因になることが多いと専門的な説明をすれば済む話でもない。母親が聞きたいのはなぜこの子だけがこの病気になるのでしょう?と尋ねたいのでは無いだろうか。この子は免疫のできあがる遅いのでしょうというのがその説明になるが、本当は集団保育で他の子供から病原菌をいただくからである。次々と感染していくのなら、一番最初に急性中耳炎になる子はどこから菌をもらってくるのだろうか?たぶん菌を持っているが急性中耳炎にならず、見た目は健康な人がこの世の中に居るはずである。つまり健康そうに見えるから菌を持っていないとは限らないのである。人は見かけによらないと言うことがまた証明された。
騒音問題
家の近くにはJR線とえちぜん鉄道という2つの鉄道が走っているが、昔は電車のブウーンという加速する音やブレーキの音や連結器のガチャガチャするのが、夜中に突然目が覚めた時の良い子守歌になっていたが、最近はほとんど聞こえず、トラックの走る音の方が大きい。電車の走行音が昔より静かになったよう思える。それに踏切の警報もほとんど耳に届かない。これも時代の流れかと思うが、線路のすぐそばに住んでいたなら考えも変わったかもしれないが少し物足りない。そういえば音が騒音に聞こえるか、心地よい音に聞こえるかは主観的である。音楽が狭い店内で大音量で流されても気にもしない若者が多いことから、音が大きいから耳障りと言えない。中学生の頃、小型エンジンの付いた模型飛行機を近所の日の出小学校のグラウンドで飛ばそうとしたことがあるが、飛ばす準備をしている内にだんだんと人が増えて、遂には身動きが出来ないほどの黒山の人だかりとなった思い出がある。エンジンが始動すると小さい子供はその音の大きさに吃驚してその場から離れていったが、返って大人たちの見物が増えた。今、同じ事を実行したらうるさいと大目玉を食うだろう。ついでに言うなら、どんなに大きな音でも雷鳴に文句を垂れる人間は居ないし、アラレが屋根を打つ音に腹を立てる人はいない。しかし、人がもたらす音はそれが小さな音でも気に触る。たとえば聞こえづらい内緒話は当事者以外は気分が良くないなど。航空ショーやF1も今のところ騒音問題は免れているが、飛行機や車が珍しく無いので今に騒音をまき散らすものに仲間入りするであろう。
レジで気がついたこと
子供時代を除けば、人に何かをしてあげてお金をもらうなんて経験は無かった。しかし、今は一人一人から仕事の報酬としてお金をもらって日々の生活の糧にしている。それと違って給料としてお金をもらっていると、その会社や国からお金をもらっているように勘違いしてしまい、その組織の言いなりの朴念仁に成り下がってしまうようだ。会社なら消費者から、国なら国民からお金をもらっていることをつい忘れてしまう。さて医院で私がレジを担当する機会は少ないが、その時は診察時とは違った顔つきになっていると思う。卑屈とまでは行かないが、たぶん愛想良くなっているに違いない。それから相手が財布を出してお金をもらうときの短い間が結構気まずいのである。だからあまりじろじろ見ないように気をつけているが、お年寄りで古びた財布から小銭で出されると、何となくお金をもらうのが悪い気持ちになる。なじみの患者だと、小銭をこの医院で使おうと一円玉を30個くらい合わせて出してくる。他の店では小銭が出しにくいのなら、よほどこの医院は気が置けないのであろう。そういえば医院で購読している新聞も楽しみにしていると言っていた。それから病院に勤めていた当時は患者のお金を目の当たりにすることは無かった。だから自分が患者の目の前で小銭を数える行為がお金に執着していると思われないか抵抗があった。しかし不思議なものでそんなことも慣れてしまうと、お金を数えることががおもしろくなる。たとえば二千円札が出回り始めた頃よりも、返って二千円札は数え間違いしやすいと人気が無くなったときの方がよくお目にかかる。はじめて医者にかかる人はどれくらいかかるのか相場がさっぱりわからないので、大金を持ってくる人が多い。つまり1万円札で支払う人が多いのである。まだ診察料を値切られたことはないが、後輩の勤めている大阪の病院では実際にあるらしい。保険診療でなければ、診察料の端数をおまけしてあげたり、ツケにして支払いが大変そうなら棒引きにしてあげることも出来る。しかし、お上の方針でそれは駄目である。患者にお金を払わせて診察料がいくらかかっているか実感させるのが良いらしい。気安く診察を受けるなと暗に言っている。商店街のお店と比べて小銭が少ないとは言え、3日くらい貯めると数えるのが億劫になってくる。ある日、近所の玩具店で貯めたお金の額が表示される貯金箱を見つけた。貯金箱にしては高いように思ったが買ってみた。使い始めて最初の頃はこんなに便利なものはないと、何度も硬貨を入れては喜んでいたが、そのうちに5円玉と10円玉の区別がつかなくなり、仕方ないのでそれ以外の硬貨用と割り切って使っていた。それもつかの間でついに硬貨が途中で詰まって万事休すになった。子供の貯金箱だからそれほど丈夫ではなかったようだ。今では元の箱に入れられて部屋の隅に目立たないように置いてある。
お隣り
地球温暖化のおかげで、今年は一度雪が降った後は春が来たような暖かさである。近所を歩くと、道路で工事中の看板が目につくけれども、何を掘り出したり、埋めているかはわからない。ある日の午後、診察の始まる前に面会の人が来られたそうだが、運良く職員が応対してくれて、名刺だけをもらった。隣の空き地で工事をするらしく、うるさくなるからよろしくと言うような話らしい。さっそく翌日から、ダンプカーやブルドーザーがやってきた。その空き地には黄色や紫や赤など季節によっていろいろな野草が咲いていたが、それ以外にもツタのような草が医院のフェンスを支えにしてよく育っていた。そこから種も飛んでくるのか、それほど肥えているとは思えない砂利を敷き詰めた医院の小さな庭にも小さな芽を出していた。夏にはその土地の所有者に雇われた夫婦が草刈りを年に二度ほど行っていたが、今年はなぜか一度しか草刈りをしなかった。私は草刈りがあまり好きではないので自分の地所については防草シートを敷くことにした。それでもシートの少しの隙間から力強い芽が顔を出し、そのうちにそれがシートを持ち上げてしまうと、草は日光を浴びて急に大きく成長するのである。しかし、10月を過ぎると植物の青さは薄くなり、そのうち気がつくと茶色くなっている。その頃から、セイダカアワダチソウという立派な雑草が黄色の花を咲かせるようになる。この草は外来種らしいが、アレルギー性鼻炎の原因にもなるし、たくさん群がって生えるため鮮やかな色の割にはみんなに嫌われている。しかし、そのおかげで何も彩りのない晩秋はその空き地は賑やかに見えた。
2、3日後には土が30cmほど盛られて、すっかりその雑草たちは無くなっていた。土の色は黒くなり、黄色と黒のロープが地面をはっていた。これからは隣の雑草を気にしなくても良いという反面、なぜか寂しい気分になった。住宅で囲まれた雑草だらけのその空き地は箱庭のようだったが、人の土地なので私が勝手に弄るわけにはいかない。
職員に「自然が無くなるのは寂しいものだね。」と話しかけたが、
「そうですか?きれいになって良いと思いますが。」
「そういえば虫の声も聞こえないねぇ」
「私、虫は嫌いですから」
虫たちもどこか良いところを見つけて飛んでいったのかもしれないし、土の中に埋まってしまったのかもしれない。
通り魔事件とテロ
新聞を賑わしたり、漠然とした不安をかき立てる多くの事件の中の一つに無差別の通り魔事件がある。被害者が加害者と関係がないという設定がいつ犠牲者になるかもしれない恐怖を煽り話題になる。戦後、我が国では身分制度が撤廃され、誰でもが平等であるという知識のみを学校で習わされるのであるが、実際は生まれた家の資産や、自分自身の能力や、健康状態、病気や、縁故関係などは努力だけではどうにもならず、とても平等とは言えない状況である。そのため自分が失敗した人生を送れば、他人をうらやむ気持ちが強くなる。反対に自分が成功すれば、他の人が駄目な人生を送るのは自己責任であると突き放す論理がまかり通る。
イスラム教はイスラム圏以外の国では社会の最底辺の宗教となることが多い。そしてなまじ民衆の生活様式と宗教が結びついているために、その習慣に反する人々を堕落していると見なし、世の中に適応しきった老人たちよりも洗脳しやすい若者が協力者となる。また、他宗教に対する許容度も、自己の追い詰められた境遇から、ほとんどゼロに近くなっている。その結果がテロリズムとして表面化するのである。しかし、ここでのキーワードは貧困である。高級私立小学校や無差別通り魔事件を見る限り、我が国で起きている無差別殺人事件も、すべて貧困層から引き起こされている。つまり、我が国で起きている事件も外国で起きているテロも階級闘争であり、貧困層からの逆襲である。日本のような法治国家では憲法上は法の前の平等を説いてはいるが、容姿や能力や健康は生まれつき平等ではないのである。更に悪いことにこれらは遺伝するので、なかなかその悪い境遇から脱出できないのである。
海外で起きているテロの原因を見つめ直せば、それは遠い世界の話ではない。
霊について
人は動物に比べて認識力が高度であるため、自分の今置かれている状況分析や、未来における不安から利己的な行動を起こす。富についてはそれが将来必要な金額よりも少ないと予想される場合は、何とかこれを蓄えようとする。すなわち世の中には必ず不安がつきものだが、それに誘導されて、不正なことをしたり、あるいは全く役に立たないものを集めてみたりして、なんとか富を蓄えようとする輩が目立ってきた。それは自分や子孫が将来、饑餓や欠乏に陥らない目的であろう。しかし、人の中には自分とは関係のない他人の未来の子供たちのために献身する人も存在する。そういう人たちの自分には関わりのない人たちへの慈悲や献身の動機はどう考えればいいのであろうか?それは自分が存在しない未来での生まれ変わり(人間とは限らないが)を知っているが故に、遙か未来の多く人や動物たちに対しても慈悲を感じるのであろう。現代心理学ではそれを単に生き物に対する同情や生き物としての連帯感と片づけているようだが、それが湧いて出る原因についての更なる考察は未熟なままである。霊力の強い人は霊が不滅であることを無意識に感じ、今の自分の肉体は存在しない未来を守り、霊力の弱い人は、自分の生きている時間だけの幸せを考えるのである。動物たちは認識力が弱いので霊力もそれに応じて弱いのであろうと推し量られる。それは動物たちの行動を見れば、短い将来のことしか考えていないように見えるので自ずと理解できる。霊が存在する故に、未来の生き物のためになる仕事に対してすばらしい力を発揮するであろうし、反対にそうでない仕事ならば、あまりやる気も成果も出ないかもしれない。それは守護霊と呼ばれる自分に宿っている霊がなせる技なのかもしれない。
寿命があるのが生物であるなら、それを切れ目無く未来へつないでいくのが生物の使命と言えるし、種を問わず生命を伝えていく役割は霊が司っていると予想する。SFならばここでその正体が暴かれ、長寿の寄生体が登場するのだが、これも霊に対する別の解釈かもしれない。
行動の自由について
私にとって今のところ医者の仕事が、主な生きる糧であるが、あまりに忙しくて体調を崩す程になると何のために働くのか疑問に思うことがある。私がもっとのんびり仕事をするのか、それとも、もっと精力的に仕事をするのか、一般的には自由だと思われがちだが、実際は休む期間が長ければ患者が離れるのではとか、仕事をやり過ぎれば忙しさから医療事故が起こるのではないか、と言うことが心配で今のペースを変えることが出来ないのである。
もし無職でも資産があって不動産収入だけで暮らしていけるなら、人はそれをうらやましいと思いがちだが、不労所得に対する世間の目は厳しく、それを実行できるのは病気の時か、かなりの高齢になったときだけである。自分の行動が意志によって自由に為されることは説明をしなくても自覚できることであり、毎日ゆっくりと過ごすのも、忙しく過ごすのも自分の意志で決定できると考えているなら、その人は、自分の周りで起きている物事がよく見えず、深く考えることのない、おめでたい人である。
翻って、この世間の目に見えない束縛やしがらみから完全に自由になれたときが、解脱や涅槃といわれる状態である。宗教と哲学のない人は、ここに至るには残念ながら死を待つしかない。本来、人間は個々にプルシャと言われる自我(フロイトの言う時間とともに変化するエゴとは異なる)を持ち、これは世界の苦しみも楽しみも時間も空間も超越している、いわばそのもの自身は解脱した状態である。しかし、人はこの世に生まれたときにプラクティというこの世の網に捕まってしまうのである。その網の中は一瞬たりとも同じ状態はなく、日々変動し流動している。更に人間の世界に生まれたならば、毎日の生きる糧を求め、人間との関係を学ぶ故に悩み、その結果この世の苦しみを知らされ、全く自由もなく、まっしぐらに人生を進むのである。医療での例を挙げると、新しい治療を発見しても、それを支持する多くの医者がいなければ、その治療を施すことが出来ないし、間違っている治療でもみんながやっている治療なら、それを行わなければ非難されたり罰せられたりするため、医師の自由采配と言いながら自由に出来る治療は皆無である。
私も皆さんと同じように執着心から完全に離別できないので、このまま世間の中にいては解脱することは困難だろう。出来ることなら人里離れて修行したいが、自活の不安やまだ借金もあるので、せいぜい在家で勉強するのが精一杯である。
生命の起源
近年、生命という物を自覚するようになってから人間は、それをかけがえのない大事な物として扱ってきた。中世までは生命とは自然に発生する物であり、あまり重要視されていなかったようである。もちろん自己の生命は重要ではあるが、他人、特に異端者や人間以外の動物に対しては厳しい状況であった。すべての生けとし生けるものに慈悲を持つように言ったのは仏陀であるが、生命が自然発生的なものと考えられていた時代であっても、この世で生きていくことの無常さ熾烈さを考えれば、動物に対しても慈悲と同情の気持ちが、あふれ出るわけである。
しかし、遺伝子工学が格段の進歩を遂げ、人間は、もう少しで単純な生命なら創造することが可能なところまで達している。すでに最初の生命体は光合成生物ではなくて、地熱を利用した生物が最初だと最近の研究でわかってきた。DNAは無いが代謝は可能な細胞膜を持ったマイクロゾームと呼ばれる生物とも化学物質とも判定出来ないものも造られている。アメリカのテレビ番組では嬉々として研究に取り組む科学者たちの姿が、映し出されていた。彼らは、雄弁に自分たちの研究がすばらしいことをアピールしていた。もしこの研究が成功して、人間が生命を造ることが出来たなら、生命の価値は、低下することが予想される。これまでのクローン技術は、確かに同じ生命を造り出しているのだが、クローンを造るには同じ種の生命が、必要であり、根本的には生命から生命を造ることには、変わりないのである。しかし、無から生命を造ることが出来るとなれば、都合の良い生命の製造や無用な生命の抹殺が心理的に簡単にできてしまうのである。生命の創造については神の領域に達したと言えるが、「造り出した生命が今後どのように環境や生態系への影響を与えるか?」という完璧に未来を考える力は、人間にはまだない。恐ろしくて使うことの出来ない生命創造の能力なら、最初から無い方が良いのである。この番組からは多くの科学者たちには、好奇心と功名心はあるが、自分の研究が、何をもたらすのか考える哲学は無いように見えた。闇雲な科学の進歩を許しているアメリカをはじめとする現代社会の怖さがみえる。
ボクの自動車ロン
最近、福野礼一郎氏の「自動車ロン」という本を読んだ。自動車好きの人にはたまらない内容と紹介さていたし、同年代なので大いに興味を持って読んでみた。まず、自動車評論家とはどんな職業であるのか書かれていたが、ほとんどの評論家たちは、自動車メーカーの宣伝マンでありユーザーに悟られないで称賛記事を書けることが、その人の評価につながるらしい。どの業界もよく似たもので、たとえば、医療界なら大製薬会社の宣伝に出る大学の先生、政界では大企業からの献金、官僚への接待、内容が良くても視聴率が悪ければ打ち切りとなるので、大衆受けするドラマしか作らないTV業界。今の時代は何事も経済性のみが優先される。このようなときに自動車はどのように変化するのであろうか?まず一番売れるのは価格が安く、壊れにくく、室内の広い車である。いわゆる大衆車と言うことになるが、人が乗るところ以外をどんどん小さくするため、極端に言えば携帯電話のような構造になっている。故障をしてもユーザーは、全く手が出せないほど高度に集積され電子化されている。たとえタイヤ交換でもジャッキを当てる部分が、少しでもずれれば軽量化のために最適化されたフレームは変形を来す。室内を出来るだけ広げるためにエンジンルームを小さくし、手や工具が入り込む隙間を排除し、代わりにプラグや油脂や冷却液もロングライフ化が進められた。こういう車は、調子の良いときは有用だが、いったん故障をするとユーザーはもちろん町の自動車修理工場でさえも、多くのセンサーを使い電子制御されるため、その原因が突き止めにくく、直らなければ外観はきれいでも買い換えをすることになる。内装も、修復しながら乗りつづけることを考えられていないので、取り外せば再利用不可になる部品が多い。また補修部品の在庫も、製造終了後6年であり、モデルチェンジは4−5年毎なので、最短7年、長くても11年で部品が手に入らなくなることも希ではない。自動車も家電製品と同じように、大量生産大量消費の結果、大量廃棄物になる運命である。常に新製品が手元にあり、壊れたら買い換えることは、どこか軽薄で後ろめたさの残るライフスタイルである。
ところで、日本では特有の軽自動車規格が、存在する。税の優遇があるためとても需要が、多いのである。加えて、理解しやすいお買い得感(多機能であることや室内の広さ)を優先するため、理解しにくい安全性や車としての性能は重視されない。つまり、多くの自動車の中では軽自動車が、携帯電話化の最たる製品である。福野礼一郎氏が言うように軽自動車とは、時速50kmで衝突したら無事かも知れないが、時速80kmなら死亡事故になるような乗り物である。日本は、国土が狭いし国民が貧乏なので、と言うことで始まった軽自動車規格は、国が豊かになり文化が発達すると、矛盾を多く含んでいることがわかってきた。つまるところ、考えや行動に矛盾を持つ唯一の生物であるヒトが作りあげたもの(=工業製品)には、矛盾が存在するのは当然である。ただ、それが多いか少ないかの差である。自動車はいろいろな工業製品の集大成であるため、矛盾がより目立つのである。
工業製品は、農作物に比べて自然の影響を受けず付加価値も多いので、企業努力や大量生産で利潤が増えるが、そのうちにライバル会社も増え、先進国では種々の規制について政府との折衝やロビー活動が必要なため、人件費や交際費が増える。自動車も含めた工業製品は普及率が上がるほど、その売れ行きは企業努力だけでは伸びないのである。しかし、開発途上国への輸出は、どうであろうか?安全性やデザインや環境に配慮するよりも、むしろ安くて丈夫なほうが購入台数は増加するであろう。そのため先進国では、必要な排出ガスの清浄機能は省略されている。今後はBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)での自動車の売り上げが、企業の発展につながるために、販売競争は熾烈である。ただし現地生産が進んで、BRICsの工業力が充実すれば、やがて自国の自動車企業が力をつけてくる。その結果、恒久的な売り上げ向上は見込めない。しかし、長期的未来を考えていては経営が成り立たないので、現地生産をしながら、自動車販売を続けるのが、今の先進国の自動車産業である。
身体の特徴について
身体の貧弱な人と屈強な人の体や顔貌の差は、生まれつき、つまり遺伝であろうと一般に考えられている。しかし、耳鼻科医を長年していると、顔の作りが病気によって変わるのを経験することがある。よく知られているアデノイド顔貌とは、鼻づまりによって開口が常にあり、それによって前歯の突出や下顎の未発達になる。また長年の副鼻腔炎と鼻茸の充満によるhyperterolism(眼間距離拡大)なども、そうである。しかし上記疾患以外にも、肥満や軽度の鼻づまりで、うつぶせ寝が常習化すれば、圧迫によって、下顎や上顎骨の成長不良によって細長い顔が造られる。もし病気がなくて、日中も就寝時も適正な体勢でいることができるなら、成長期(顔面骨は14歳頃に完成する)の発達が正常に行われるために、顔つきは本来のものとなる。また病弱な人は、容易に座ったり、横になったり、物にもたれる機会が多いため、下腿や体幹の筋肉や骨の発達が悪く、側臥位で寝る人は、横からの圧迫があるため、骨盤や大腿骨の発達が悪く、おしりが細くなる。幼少時の正座は、下腿の脛骨の弯曲をきたす。このようにして、体格は、生後の体勢の習慣によって作られる。長時間、同じ姿勢を保つ体力がないと、テレビを見るときにはほおづえをつくため、手のひらで下顎が圧迫され下顎枝が薄くなり、外見上、口が下についているように見える。つまり、生後の病気で体格や顔貌が、変化してしまう。反対にその子が成長期にあれば、適切な指導や治療で、健康な顔貌や体格を得る可能性がある。親の思いこみで生まれつきだろうと諦めてしまうのは、子供にとって不幸である。最近は、男女ともにあごが小さく細い顔や細い身体が好まれるようだが、そのような顔貌と身体は個性的と言えるが、本来の健康美からかけ離れている。そのためには、健康な顔と身体がどういう物であるかを知るのは、大切な親の責任である。子供の精神や身体が良い方に向かっているか、常に意識して注意しなくてはいけない。
テレビの功罪
その人が積極的にテレビを否定しない限り,現在の日本ではテレビの影響の無い人を探すのは難しい.これほど普及しているテレビであるが、成人の一日のテレビの平均視聴時間は、3-4時間程度である.しかし人の起きている時間から仕事をしている時間を差し引けば,どれだけ多くの時間を使っているかわかる.老人など余暇が多い人は、ほとんどの時間をテレビと一緒に過ごしている.
それではテレビの利点としてどんなことが考えられるだろうか? まず,1)手軽な娯楽である.実際にコンサートや劇場に行かなくてもいいし,録画すれば好きな時間に見ることができる.2)情報を早く知ることができる.など以上の2点ぐらいであろう。
次に悪い点としては,テレビから視聴者への一方的な情報の流れになり,長期間その状態に慣らされると、言葉のキャッチボールである会話が、苦手になる.子供や若い人にとっては、ドラマやアニメに出てくる人物の考え方や行動がまねされやすく,画一的な人間になりやすい.テレビで大きく取り上げた事件では、模倣犯と呼ばれる2番煎じの独創性のない犯罪が続く。そればかりか将来なりたい職業や夢も、かなりテレビに影響を受けていると言っても良いだろう。昔はテレビの悪影響と言えば、画面からの電子線や近視の危険性を指摘されていたくらいだが、現代ではテレビの内容そのものに重大な問題を抱えている。つまりテレビで垂れ流される膨大な情報によって個人の経験値は上がるが、それと同時に世の中に対する不安が高まり、知らなければ幸せに一生を過ごせたのに、次々と送り込まれる情報によって常に対策や予防に追われるようになる。一般的には、テレビから情報を得たり、もしくは年を取って経験が増えることは、人生での失敗が少なくなり、良いことだと考えるかもしれない.しかし幸福感は、薄れていくだろう。それは自分が子供の頃を思い出してみると、自ずとわかるはずだ.子供の頃が幸せなのは、何も知らずに毎日を過ごしているからである。
自殺について(2008-4-3)
今年に入って、自営業一家の無理心中が、2件起きている。足立区(2008/2/11)、文京区(2008/3/28)。デュルケームの分類によれば、アノミー的自殺である。アノミーとは、無気力とか絶望と訳されるが以前は(日本では第二次世界大戦前、欧米ではフランス革命前)人は、誰であろうと社会秩序の内で自分の役割につながれていたわけである。つまり生れた時からすでに明確な固定された地位と役割をもち、人生の意味は、疑う余地のない、叉疑う必要もないものであった。しかし、敗戦や革命によってこの秩序がなくなれば、だれでも昔の王様のようにこの体制下では社長になれる可能性がある。しかしそこには不断の競争と事業の失敗の不安、更には社会関係におげる競争相手や幸せそうに見える他者への潜在的敵意が、神経症を引き起こす根拠になる。現代社会ではよりどころとするものは家族であるが、そこからの協力が得られないときには、天皇制が無くなった今、規範であり秩序であると考えていた家族が崩壊しアノミーに陥ってしまう。自分を家族を同一視しているため、自分の絶望は、家族の絶望と同一視されることになる。
自殺といえば日本の場合、マスコミの考察が足りないため、いまだに個人的な理由が、自殺原因と見なされている。同じ理由で、政府の自殺件数を減らそうとする試みも、的外れなキャンペーンに終わっている。自殺の多くは社会的自殺であり、今回の場合も不況が引き金になっている。デュルケームによれば、経済の繁栄期と不況期に自殺件数が増える。すなわち、経済の変動は同じ仕事をしていながら報酬の増減をもたらし、資本主義では富の増減は、自分の評価と見なされるわけである。その結果、心理的混乱と向かうべき方向性がわからなくなり、何をやっても無駄という無気力や無益感、不安の増強、孤立感に陥ることになる。これは、マートンのアノミーの分類によれば儀式型に当てはまり、激しい自由競争の下での家族の維持が困難になるという不安から、規範から逸脱した方法(心中など)も辞さなくなる。
社会全体としての経済的な発展にもかかわらず、盲目的な社会の変動は、個人的な道徳的孤立と道徳的感覚の萎縮を来たしアノミー的自殺の原因になりうる。
医師と整備士(自動車工学 2008年4月号のR&Eコーナーに掲載されました)
2年前にたまたま覗いた中古車販売店で、ドイツ製の中古車を衝動買いしてしたのが、自動車整備に興味を持った始まりでした。色々と手をかけてやると調子が良くなることに自信を覚え、この車以外に日本車にも乗っていますが、今までだったら乗り換えてしまうようなちょっとした不調でも、何とか自分で直せるようになりました。そのおかげで最長保有年数を更新中です。記事の中では整備日誌アラカルトを楽しみにしているので、いつも真っ先に読んでいます.故障の原因を推理して直すという課程が、私の医師の仕事とよく似ていているからです.どうしても診断がつかないときは,治療をしながら様子を見てもらうことも同じですね.リビルト部品も医療では、安いジェネリック医薬品が出ていますし,整備に出した後に違う箇所が故障したと客からの言いがかり的な事例も,医療にもよくあることで,病気が悪くなるとまず医療ミスを疑う患者が目立ってきました.医療もサービスと考えるため,お金を払っているから治って当然と思うようです.そう思って読ませていただきますと,整備士さんたちの苦労がよくわかり,控えめで常に自分を向上させようとする態度には見習うべきものがあります.しかし,そういう世情の流れですから,私の医院でも車で言えば重整備に当たる手術や入院は、神経を使うのでやめようかと考えています.ところで,車のハイテク化によって専用の設備投資が必要になり,ディーラーしか修理ができなくなるのは、考えものですね.自分としては、未来的なデザインやハイテクよりも整備しやすい構造や部品供給の確実なメーカーの車が気になります.そうするとどうしても旧車に目がいくようになってしまいます.
努力について( 2007-05-15 )
努力すれば報われる.石の上にも三年.ローマは一日にしてならず.努力に勝る天才無しなど世界中にいろいろなことわざがあるのは,いかに人間が努力を大事にしているかの表れである.しかし,努力しても究極の目標にはたどり着けないのはわかっているにもかかわらず,何のために努力するのかわからないまま、まわりが怠けることを許さないのは不思議である.昔,努力した人がたまたま出世したとか言う話しを聞いて、努力することが、良いことである考えたのなら,努力しなくても出世する人については、全く後世に伝わらなかったことになる.つまり,それを伝えた多くの人間がそんな結果は認めないと判断したことから、人間は、目標もわからず努力する生き物であると結論づけられる.
物質にはそれぞれ性質を持ち,それを押さえつけていることによって、その状態を維持することができる.もし重力が今より強かったら,宇宙のバランスは崩れ,一つの点に凝縮してしまうかもしれない.植物は重力によって一定以上の背丈にはならないが,重力が弱いなら更に高くのびるであろう.分子は温度と気圧によってその運動を閉じこめているが,もしその束縛がなくなればあっという間に分子は拡散してしまうであろう.
人間も寿命という束縛がなくなれば,自分を更に成長させるために努力を続け,自己破壊や自己以外の破壊(競争や自然破壊も含まれる)がもたらされる.たとえば,最初は貧困から逃れるために始めた金儲けの努力も、自分が生きていく上で十分なお金があっても、更に多くのお金をかき集めようとするものである.努力は満足によって終焉を迎えるが,たいていの人間はそれで満足することはなく次の目標に向かって努力を始める.一瞬の満足は人間に幸福を与えるが,それにすぐに慣れ,何も感じなくなっていしまう.
努力は動物においてもなされるが、人間に比べるとその度合いは少ない.認識力の弱さが、今ある現状に不満を感じることがなく,幸福でいられる時間が長いからである.頭のいい人ほど、自己環境の不満を見つけ出すのがうまいので,それを良くしようとするために努力を繰り返し,同じく苦しみも繰り返すようになる.これが仏教でいうところの生の苦しみである.
マスコミの報道や取材では、努力をして報われた人だけが取り上げられているので,実際には努力の結果がでない人の数が、遙かに多いであろう.単純に努力しているのがわかるのは,スポーツの中継である,誰でもその真剣に努力する姿に感動を覚える.しかし毎日他人のために働いている労働者には目もくれないのが現実である.
性格について(平成19年5月10日)
性格でその人の人生は決定されると昔から言われている.性格は生まれつきなので変えることはできないとされて,それ以上の研究や分析はなされていない.性格とは、ある出来事に対してどういうように反応するか、その様式から判断される.身近の人が亡くなれば哀しくなり,お金を儲ければ楽しくなるなど反応の大筋は、人間であればそれほどの差はないので,性格はその程度の違いである.一般に感受性の高い人は、まわりの様子をうかがい,その状況に応じてしまうため、失敗をしないようにおおむね反応は控えめである.感受性の低い場合は,最初は反応がストレートに表現されるため,よく言えば素直であるが,失敗をすることもあり年齢が上がり,経験を重ねるうちに相変わらず感受性が低いためにどうすればよいのかわからないので反応は控えめになり,性格は素直ではなくなる.もし,感受性が低くて素直な性格がそのまま保たれるのならその人は,無人島に住んでいるか,誰も逆らわない王様であろう.
つまり性格は、感受性の度合いが決定すると考えられる.特に青年期以降の自分の行動を律する年齢以上での性格は、それが大部分を占める.それに対して幼児期までの性格は、大脳辺縁系に支配されており,この点は人間も動物も大差はない.感受性が高いことと気が弱いこと(慎重なこと)は、同一であると考える人もいるだろうが,気が弱いというのは感受性が低いことで大きな失敗を過去に経験した人であり,その場合,失敗を恐れて決心が、なかなか付かないことである.
感受性が高い場合は,最初のうちは隣人と上手につきあうことはできるがが,人付き合いに疲弊しやすく,ついには人に対して何の反応もできなくなる.つまり神経症に陥りやすい.こういう人たちは、芸術家に多いしその方面でしか生きていく道はない.もしくは世の中のいろいろな不幸を見たり聞いたりするにつけ,この世には幸福などなく,それに救いを与えるため宗教家になる場合もある.キリストも仏陀がその良い例であろう.彼らは感受性が高いが故に,世の中の不幸を見捨てられなかったのである.キリストは愛で,仏陀はさとり(解脱)で衆人を助けようとした.
この世を平穏に過ごしたいならほどほどの感受性を持っていることが望ましいが,感受性の高い人はなるべく人と接することを避けて生活するように心がけるのがよい.職業では農業や文筆業が良いであろう.
次に性格の大部分を決定する感受性は、変えられるかと言うことが関心事になろうが,残念ながら変えることはできないであろう.ただし,自分の感受性を覆い隠してきた場合は、それに気づくことによって,性格が変わることもあるだろう.例えば代々会社を経営していて将来社長になることが予定されている息子の場合,幼少時は目的のために,無意識に感受性の高さを押さえこむため,感情が乏しく冷たい性格に見える.そして将来、感受性が高いとやっていけない社長業を無理して続ければ心身の衰弱を来す.これと反対に経営には興味がわかず、贅沢に興味があるのが、3代目社長である。
青春期の性格は知識が無い場合,周囲の意見に影響されやすく,性格が無いようなもしくは素直な印象を与える.これは自分が何ができるかとか何をやりたいかが理解していない場合に現れる.そのため若いときは確かに元々備わった性格に引きずられて行動するが,傍目から見れば,紆余曲折もしくは逆行する様に見える.それに伴い大きな苦痛と挫折をより多く味わうことになる.己の力を知らずに,力を必要とするときにその能力がないことを知るときほどつらいことはないのである.反対に持って生まれた力を伸ばさずに終わることもつらいことである.
悪口について(平成18年12月19日)
最近,本を買いに本屋へ行くことは少なくなって,代わりにアマゾンというインターネット上で購入する場合が多くなった.その中で自分の買った本に対して,書評をする欄があって,その評価を読んだ人が同意すればポイントが上がり,次回,アマゾンでの買い物で割引されるという仕組みである.多くの書評を見て気が付いたのであるが,手放しで賞賛する評価と非常に悪く評価する場合で同意するポイントが多く,更に言えば悪く評価する方が多くの人からの賛同が得られると言うことである.ここでわかったことは人はほめることよりも悪口に同意しやすいと言うことである.それに比べると私のように率直な意見は,非常に同意を得にくい.たぶん識者の間では評価が高いはずだが,識者が少ないのか,識者はインターネットをしないのかのどちらかであろう.
悪事千里を走るというが,本来の意味は悪事はたちまち知れわたるということだが,悪事=悪口は人の噂になって広がりやすいと言うことでもある.反対にいい噂はなかなか人に伝わらずたとえテレビや新聞で取り上げても,読者の興味は汚職や連続殺人事件の半分以下である.週刊誌になればもうこれ以上はないというくらいの悪口の連続である.有名人にもなればその中で自分の悪口(本当のことも含む)が書かれていないか心配であろう.幸い私のことで週刊誌に話題を提供したことはないので図らずも私は清廉潔白な人物であるか,有名人でない可能性がある.有名人になるには,1)高校野球で3年連続優勝投手になる.2)テニスでグランドスラム取るか,グランドピアノを丸飲みする.3)ちびっ子のど自慢で10週連続チャンピオンになる.4)グラビアアイドルになる.5)犯罪者になる.など...
その中で一番努力しないで有名になれるのは犯罪者であろう.ただし事件が人の目を引くものでなくてはならない(小学生が暴力団を恐喝、乳牛が飼い主をセクハラで訴える、漁船にぶつかって北朝鮮の戦艦沈没、南極点に落とし穴を掘った犯人捕まるなど)
なぜ人は人は人の悪口がこんな言うのか考えてみると,世の中には高貴でハンサムな人(私のような)が少ないことが原因になっている.もし私を見ては貧弱そうで貧乏神のように見えるなら貴方の視力は正常だと眼科医が言っても信じないでほしい.しかし,人格者でありながらの悪口の犠牲になった人の中にはキリスト,ソクラテスなど見た目が劣るために,僻みを買ってしまったためである.そんなことがあるので人知れず,私も自分の高潔さを隠さなくてはいけないのは,大変なことである.同じようにへそくりを隠すのも大変だが,最近では記憶力が低下して自分のへそくりを探し出すのも大変になっている.
悪口ついでにトノ(うちの猫)のこと言わせてもらえれば,歳をとったからと言ってトイレ以外で用を足すのはやめてほしい.寝たきりじゃないのだから.ご飯もちゃんと一日2回あげているのに,更に私にしつこく要求するのはやめてほしい.しつこさに負けて餌をあげると結局食べ過ぎて吐いているじゃないか.後かたづけをするのは誰だと思っているんだ.家で一番偉い人(私ではないが)なんだぞ.裸で家の中をぶらぶらしても猫だからと言うことで何も言われないが,となりの家の旦那さんは裸で涼んでいるだけで家族にしかられているぞ!
忘年会のあいさつ(平成18年12月19日)
くろかわ医院と私のゆくえについて
開院以来6年が経過しましたが,ここまで続けられるとは思いもしませんでした.その理由として第1に院長がハンサムだけど病弱である.第2に集客力がないし,どうせ来てもろくな患者が来ない.第3に気が弱いし,貯金も苦手ですし,よくお金を落とします.これだけ立派な理由がありながらよく開業する気になったと思われるでしょう.私はよく若く見えるねと言われるのですが,若者のような無謀さもありました.それから,いつも言っていることなのですが,私は被害者になることが多いです.被害者がいるなら加害者のこともお話ししなくてはいけません.私の医院には屈強な職員が6人います.外見ではまさっても,体力では彼女らの方が上です.私がかなうのはハンサムなアリかハンサムな乳児までです.ハンサムで屈強な小学生には負けるかもしれません.私も見た目はダイエットしたボブサップのようですが,見た目以上に貧弱です.今日も朝から頭痛がして,寝ている間にバットで頭を叩かれたか,バックドロップを3回食らったようなダメージが残っています.これ以上言うと更に被害が広がりそうなのでこれくらいにしておきます.加害者が誰であるかと言う勇気が私にはありません.このように私のまわりには屈強で健康な女ばかりがそろっています.もし,暴力団に絡まれたときには,彼女らに言いつけようと思っています.また,彼女らも時には病気で休むときがありますが,病弱な私でさえ休んだことがないのに,彼女らは仮病を使っていると思います.最近では私の幸せはせめて静かにひっそりと暮らして行けたらと言うことだけですが,それさえもかなえられないことが多いです.非常に短いあいさつではございますが,忘年会のあいさつに代えさせて頂きます.
前世について
人間になって50年近く生きているとそろそろ休息後(定年ではない)のことが気になってくる.本当に休みになるのだろうか?それとも来世にすぐに出発するのか心配になる.出来るならしばらくはきれいな花園のようなところで,(場所は地獄でも天国でもかまわないが)美人の女の人たちと遊んでいたいものだ.ところで大きな戦争や疫病がはやり,たくさんの死亡者が出たときには,次の年には出生率が高くなるそうだ.そう考えるとあの世にはたくさんの人をゆっくりと住まわせる場所は無いみたいである.これを仏教やヒンズー教では輪廻と言い,ユダヤ教,キリスト教やイスラム教では再生という.ただし来世になったからと言って性格もそのままで生まれるときには知性は忘れ去られ,賢くなっているわけではないから,同じ失敗を繰り返し,やはりこの世はつらいことばかりとなる.この世でいい目に会うのはほんの少しの人間であろうが,本人はそれが当たり前なので相変わらず幸せとは感じていない,それよりもその満ち足りた生活を奪われないかかえって心配になるようだ.金持ちや権力者に渋面が多いのはそのせいである.動物界に目を移せば,人間界と同じように強い動物は孤独であり,弱い動物は群れを作って生きている.同じことが人間界では独裁者や大統領は敵はいても友人は得られず,その他大勢の弱い立場の大衆は団結して暮らしていくことになる.
時間を無視するならばいずれ物質はエネルギーに変換されブラックホールに吸収され最後には消え去る運命であるし,真空の何もない空間から再びビッグバンが発生し,この世が始まる.今までこの繰り返しは数え切れないほど続いていただろう.量子物理学が発展することとは形而上学的なことを解明すると言うことかもしれない.
壮大なことを考えても,やはり自分のことが一番重要項目であり,きょうの晩ご飯や給料や年金など生きていくために必要なことが優先されるのは致し方のないことである.贅沢な学問が哲学だからそんなことを考えるのは一番最後(死ぬ間際?)に回される.それでも来世があるから死んでも大丈夫という気持ちにはなかなかなれないものである.そんな気になれるのは不治の病床にあり寿命があと一週間くらいの人である.
前世の記憶が残っている人もいるらしいが,精神病院に入っている人を除くと極めて少数と思われる.私はチャールズ1世の生まれ変わりだ.その証拠に私は処刑ではなくて暗殺されたことを知っている.と言っている人がいたら三崎君に紹介してあげてほしい.彼は後輩の精神科医である.
前世がどうのこうの言っているのは認識力の強い人間だけであるが,この認識力が人生が幸福であるか不幸であるかを評価し,不幸なのは前世の行いの為で,今の自分のせいではないと判断を下すならば,その人の人生について責任はその人にはなく,人生とはあらかじめ決まった道筋があると言うことになる.自分の行動については形而上学的なことを別にすれば自分が責任を負うことによって,自分の人生が自分で決定できるという実感が持てることになる.けれども幸福を実感できる人間はほとんど居ないから,来世では幸福になろうと永眠の前には固く誓いを立てることが何度も繰り返されている(と思う).
生まれ変わりについて論じるためには,現在だけの認識ではなく時間の観念が必要である.しかし,実際に自分が生きているのは現在のみであり,他の世界が同時に存在するわけではない.それが出来るのは記憶に頼るわけであるが,記憶はその時代時代で変化し,たとえば小さいときに美人だと思った女優が,大きくなったときには全く興味を持てなかったりする.記憶とは普段から大いに思い出すことによってその内容や形を保つことが出来るが,そうじゃないとどんどんそれが変わっていくことになる.久しぶりに会った友人の顔が分かる場合とどうしても思い出せない場合があるのは思い出す頻度の違いだと言えよう
でもどうせなら来世では富豪で美人の娘になれたらいいね.
バイオリズムについて
調子の良いときの次には必ず不調がやってくる.好調は長くは続かない.家宝は寝て待て.言われているが,スポーツ選手でも好調のあとには必ずスランプが訪れるものである.私は大リーガーのようにやや不調なときと非常に不調なときがある(ただし私は大リーガーではない).もしわたしに好調なときがたくさんあればアレキサンダー大王のように世界征服をする恐れもある.ちなみに非常に不調なときは無気力,緩慢,怠惰で鈍感になる.これは植物の性格であり,再生力を高めようとしている時である.普段からこの状態の人もいるが,そういう人は概して健康である.反対にやや不調なときは敏捷さ,力強さや勇敢さが現れ,いわゆる動物の性格になる.体や頭を使い戦闘状態かその準備段階である.ただし私の場合は知性を大いに使うため,しだいに脳を疲労させ,ついには体も疲れ切ってしまう.その好不調の繰り返しについて,精神科に行けば躁鬱病と言われ,内科に行けば疲れですね.注射をしておきましょう.と言われ,産婦人科に行けば科が違うと言われる.
人間においても植物と動物の意志があり,それは交互に現れ,それぞれ時期によって態度や行動が異なってくる.もし動物の時期だけが現れていれば,効率よく多くの仕事をこなし,余った時間には多くの愛人を抱えて,大散財をしていることだろう.その後,まわりから責められ,お金もなく,体をこわして人との接触を避けるようになるのは明らかである(アレキサンダー大王もチンギスハンもそうだった).金も健康も恵まれない私にすれば夢の様な生活に思えるが,一般受けは悪いようだ.クラス委員には選ばれないし,とても生徒会長には立候補できないだろう.ただし議員や政治家にこのタイプの人が多いのは不思議である.
もし今後私がK-1にデビューすることがあれば対戦相手のバイオリズムを対戦相手に聞きたいものだ.相手が教えてくらないなら,誕生日はいつですか?などアンケート形式で尋ねるつもりである.おもいおこせば私が小学生の時には夏祭りの相撲大会に出て,3人抜きで醤油や鉛筆をもらったことがあるので,格闘技に対する素質は当時すでに目を見はるものであったに違いない.残念ながらその後は野球選手を夢見て,日々妹を相手にを投球練習とバッティング練習に励んだものだが大リーガーへの道は遠かった.たぶん英語が不得意だったからかもしれない.
一流の運動選手の外見を見れば,素人でも簡単に何の種目の選手か推察することができる.しかし,時として砲丸投げのオリンピック選手かと思う人物に出会うこともあるが(なぜか中年の女性に多い),間違った時の私の体への危険性を考えると確認はし難い.つまりその人間の意志は体つきや顔に表れる.たとえば暴力団は一目で見て分かる風体をしている.動物界の暴力団とも言える猛獣は危険な体や鳴き声をしているし,草食動物はおとなしい顔や身体をしている.つまり生命の生きていくべき意志が体に表れていると言える.ファッションモデルが美しいのも,私が人知れず男前なのも,目立ちたいという意志の表れである.反対に人から見られることを意識しない人は人から見られることを重視しないため,対象物(人の場合は人がもっとも興味を持つ対象物である)を見ることを必要とせず,網膜の発達が弱く,眼球は小さいであろう.要約すると外見について意志を持つ場合は目が大きくなるのである.今更大きくできない適齢期の若者は目を大きく見せる努力(化粧やプチ整形)をしているが,中年以降は元に戻ってしまう.同じように言葉を使ったコミュニケーションをそのまま素直に受け取る人は耳の穴が大きくなるはずである.良い悪いを別にして外界からの言葉(音)の情報を屈折することなく受け入れる人がその形態を持つはずである.
相変わらず私の好調の時期はやってこない.不調が普通の状態になってきている.不調な人ばかりを相手にしているからかもしれないが,このままでは引退まで続きそうである.こうなったら...バイオリズムを気にするのはやめて,今後は姓名判断にしよう.
犯罪について
人を殺すまでの強い意志を持った犯罪というのは,種族保存の本能(性欲)と飢餓欲(ただ,日本における犯罪の動機を考えると,多くの人間が豊かであるため,大部分は性欲によるものであることが多い.またこれらの犯罪は一般人も興味があるためワイドショーや週刊誌でも長期にわたり取り上げられる).元々種族保存の為の欲望であるにもかかわらず,それに対して厳罰を処することを望むのは宗教によるところが多い.その宗教は集団の秩序を守ることが基本に作られ,多くの人にこの世での幸福は期待できないからそれは来世でのお楽しみと言うことで説明されている.人は他の動物に比べると認識力が強いので,特に時間に関して動物より遙かに遠い未来のことを予想することが出来るし,過去についても失敗したことを糧として教訓を得ることが出来る.動物の場合は本能で危険を避けることが出来るが,認識力が乏しいので将来に対しての不安は持たない.人においては認識力が高度である反面,将来必ず死が待ち受けることを知るので,寿命が尽きるときが近づくにつれて死後の世界が存在するのかどうかと言う不安と孤独感を強めることになる.
飢餓欲(生存欲)が巻き起こす犯罪は軽微なものから万引き,窃盗,詐欺,強盗,恐喝などがきりがない.近年,日本が豊かになったため,それらの罰則は軽くなりつつある.アフリカやイスラム国に行けばいまだに窃盗は死罪になる国もある.現在の日本では手軽に大金を稼げると言うことで,詐欺がはやっているが,結婚詐欺を例として口がうまくなければ成り立たない.運悪く捕まった犯人を見ると不思議なことに男前はいない.年齢も若いわけではない.相手の心の隙をつくのがうまいと言えるだろうが,結局は心理学にたけた対話術の持ち主である.ハンサムでそのような能力を持っている人も結婚詐欺師には居るのだろうが,相手がいまだに信じているので捕まらないと思われる.
人間の飢餓欲が起こした犯罪は,一時的には大きな収入といえるが,持続できないので,公務員のように安定した仕事ではない.年齢をとれば体の反応も悪くなり,もし逃走しようとしても追いつかれたり,転んだりすることもある.定年は無いが,年金も無いのでずっと(犯罪を)働く必要がある.
考えてみれば人間は多くの動物から当たり前のようにいろんなものを盗んできた.鶏からは卵を,牛からは牛乳を,馬には無断でまたがり,大きく育てたかと思えば食べてみたり,戦わせてみたりしている.そう考えるなら人はすべて犯罪者に分類される.しかし,やむ終えずそれを行わないと生存が出来ないので免罪されている.だから必要とする以上を動物から盗んだり殺すべきではない.いにしえより生きるために仕方なく行われた盗みや殺人は罪を軽くされたり無罪にされてきた.戦争も良いか悪いかの論理は別にしても,それをはじめるときは民族の存亡を理由にはじめることが多いし,そうでなくては民衆を納得させることが出来ない.それ以上の強奪や殺人は犯罪に位置づけられるからであろう.
客観性について
テレビで野球の世界一を決める試合で日本が優勝したとき,日本人なら喜んだ.高校野球の優勝なら出身県の人たちが喜ぶ.町内対抗の運動会なら山の前町内会(わたしの住んでいる町内会)が優勝することを望んでいる.自分と共通の部分,人間,国籍,住所,性別,年齢で共通点多いチームを応援する.オリンピックではフィギィアスケートの女性が金メダルを勝ち取ったが,彼女との共通点は人間であることと,国籍が同じことだけである.たったこれだけの共通点で喜んだり,がっかりしたりする.
この世に生まれてから,いろんな人間と関わり合いになっているがそのたびに自分たちとの関係を考えているので,人間やそのほかの生き物や物事についての関係も絶対的な関係から時期や相手によって変化する相対的なものになっている.動物も人ももっとも親近感を持つのは姿形である.動物園に行ってみるとニホンザルやオランウータンやチンパンジーたちは人間に興味を持つためこちらを見つめることがあるが,ライオンやキリンや象やシマウマたちを観察すると人間には全く関心がないように見える.更にはフラミンゴ,ニシキヘビ,ピラニアでは人間に対して敵か食べられる物かどうかの関心しかないようだ.小学生の頃,幼い鳥に飛ぶことを教えるために鳥のぬいぐるみを着ていた人を見たことがあるが,感動よりも笑いを抑えるのが大変だった(私は小学生のころから紳士であった).
恋は相手を見る目を完璧に相対的にしてしまう.男の目から見て何であんなとんでもないやつとつきあうのか?という光景を何度も目撃している.(いい男ならここにいるぞと心で叫んでいるにもかかわらず).一緒になって後悔している女も多いだろうが,後悔している男も多い.その後,更に良い相手が見つかればよいが,たいていの場合は踏ん切りが付かず,今の相手の良いところを探すことになる.いうなれば貧乏な家で金目のものを探すようなものである.選んだ理由もたまたまその相手が合コンの中で一番目立っていたとか,歌がうまかったとか,お酒が強いなど日常ではあまり発揮されない能力で,魅力的に見えてしまう.それに比べるとお見合いは客観的に相手を見ることが出来るが,直接会ってみて判断を狂わせてしまうことがある.以上から人は相対的な人生を生きていることが分かってもらえたと思う(私が客観的にハンサムなことは別にしても)
プラトンも言うように物事の中のイデアを見ないと本物が見えてこない.イデアを見ないから,少しくらいの汚いもの間違ったものいびつなものに鈍感になってしまう.ここに男のイデアが座って文章を書いていると言えば嘘になる.それに勝るとも劣らない人物がいるのに,他の人々からは理解されない苦しさを想像してほしい.だからと言ってここでしつこくわたしが紳士であると訴えているともしかしたら紳士じゃないのでは誤解を与えてしまうのは本意ではない.
不老不死について
現在の医学の究極の目的は不老不死であるが,もしこれが可能になったとき,人間は幸せになれるのか考えてみたい.現在もずいぶん平均寿命が延びてきたが,絶対的な寿命の延長には至っていない.最新の医療技術では無限に分裂する癌細胞の遺伝子原理から不老不死の細胞を作り出そうとしたり,成長ホルモンや性ホルモンを若いときと同じくらいになろうとして注射や飲み薬で若返ろうとする金持ちたちもいる.たとえ薬の効果が出てもそれだけでは若返りが今までの記憶を消し去り,若者特有の傍若無人や向こう見ずな部分を取り戻せないと見かけが若いだけの老人に過ぎない.生命力はその人の精神も反映しているため老人のように慎重で説教がましく世渡りの上手な抜け目のない狡猾な人物のみ増えても人間社会に良い影響は残さない.一部の特権階級だけがそんな恩恵にあずかるならば,全体としての社会変革は起こらないであろうし,不老不死になった人々の幸福感はその人数が増えるにつれて薄まるであろう.不老不死じゃなくてもそれに近い状況になれば老人による穏やかな社会,しかし刺激も変革もない表面的には非常に統制のとれた冷たい面を見せるであろう.現在の高齢化の進んでいる状況下ではすでにその前兆を知ることが出来る.若者に対して厳格な統制や制限が始まりつつある.50年前なら若者が多く,その若者たちが世の中を担っていくことを期待しているので,少々の無軌道にも寛容な態度で臨む人が多かった.しかし,徐々に長生きできることが分かってくると,自分たちの安定した生活や収入を守りたくなる.そこで若者の法律違反には厳罰を処することを望むわけである.飢餓欲(=生存欲)は生物である限り変わらず続き,その形は知能や時代の変化によって形を変えるけれども続いていく.不老不死で人間自身が変わるならば社会も飢餓欲に応じて変化を見せる.
曖昧さについて
クイズ番組がはやっているが、私も知識人の中心に立つものとしてテレビで放映されているクイズに不本意ながらお茶の間から挑戦した。司会者の言葉に惑わされる挑戦者が多いことに驚いた。私ならあらかじめ耳栓をするだろう。可能なら目隠しもしたに違いない.それで答えが分かれば一流の手品師になれる.問題は簡単で4つの選択肢の中から正解を一つ選ぶのだが、その中には明らかに違っている選択肢が一つ、笑いを目的にしているものが一つ、紛らわしいものが一つ、引っかけが一つある。たった4つの選択だが、それに比べると人生の岐路の選択は無限にある.しかし、無駄遣いをしたときや遅く帰ったときのいいわけは2つぐらいしか思いつかない。このように世の中には選択できない場合の方が多いし、選択肢に分けられない問題もある。医師国家試験も選択肢の問題になって久しいが、そのほかの国家試験、共通一次試験も採点しやすいという理由で選択肢問題がほとんどである。そこから得られる答えははじめから用意されているのでほかの答えを考え出すことができなくなる。わかりませんなど、白紙で出すことさえも許されないのだ。(学校では何でもいいから選べと教えるらしい).将来、私も自分の名前など忘れたときには選択肢で問題を出されると幸いである。その中には紛らわしい名前として、ブラット・ピット、デカプリオ、デビット・ベッカムがあるといい問題といえる。
名前が違ったとしても、人間であることは見るとすぐわかるからほとんどの場合問題は無いはずである(どこの国の人かまでわかってしまう)。反対にあいまいさをなくすと居心地の良さやおおらかさや自由な考えを狭めることにならないだろうか?自分だけではなくついには他人にもあいまいなことを許さなくなる。1年前の何時何分にはどこにいましたかなど、聞かれても答えられる人間などいるのだろうか?しかも答えられないと犯人か認知症にされてしまう。できれば私の時にはもっと簡単な質問にしてほしい(あなたの鼻の穴は何個ありますかなど)細かいことにこだわらないで、もっと全体を見て犯人かどうか、認知症かどうか、善人かどうかわかってほしいものだ。いい大人なのだから、それくらいは判断してほしい。
とくに税務署も警察も病院も人のことを知りたがりすぎる。しかもあいまいに答えると、重病人にされるか、重加算税特別延滞税を払わされ、凶悪犯人で指名手配される可能性もある(無い可能性もある)。正確に答えられない場合など、追いつめられる時は人は自己防衛のために嘘をついてしまう。それが病院ではコルサコフ症候群という病名がつけられ、重症ならば入院が必要だと言われる。税を払うのが好きだったり、刑務所で上げ膳据え膳を体験したい人には関係ないが、嘘をついたら偽証罪になったり、さらに税がかかる心配もある。
文章を書くときにあいまいさを無くしてしまうと、恋愛小説も前置きに主人公の生年月日や身長と体重を書いておく必要があり、彼女のスリーサイズも最初に書きとめなくてはいけない。最初に会って108時間目で手を握ったなどと書いていたら、全く読者の興味も薄れてしまうのである。人間らしさや人生とはなんであるかを求めるのが芸術であるため,すべてを正確に表現したろう人形よりも色づけのされていない彫像のほうが芸術として受け入れられる。
正確さを求めてもろくなことは無く、どんどん人間らしさから遠ざかってしまう。私の医院の診察時間も「朝の九時くらいから、気が向いたら午後九時くらいまで,時々無断で休診します」と表示したいものだ。
節約術
バブル期が終わってから,家庭でも職場でも節約することが望まれている.実際に節約されるのは男の小遣い,散髪代,ガソリン,灯油,トイレットペーパーが多い.節約されないものとしては,女のハンドバッグ,美容室,化粧,友人と食べる外食など家計を管理する人に関係している.よく似たことが会社でも行われている.横領では事務や経理のひとが捕まっている.捕まる前にそんな女とつきあってみたいと思っても言いすぎではない.反対に節約して捕まったという事務の女は聞いたことがない.節約を強制されるのは,開発部,営業部にいる無駄遣いをする人たちである.皆さんの家にハンドバッグがいくつあるか,バッグの形の違いが分からない人がいたら,私に聞く前に,奥さんに聞いてほしい(私が知っているバックはランドセル,ゴルフバッグ,ボストンバッグなど日常で使わないものばかりである).そしていらないバッグがあったら私に譲ってほしい.贅沢は言わないので,傷が無くてほとんど使われていないのでかまわないから私のところへ郵送してもらえれば責任を持って近くの質屋へ持って行くつもりである.バッグがなければ時計でも可.化粧品は使ったことがないので肌に合わないおそれがあるので不可である.
節約できないものの代表には食事があるが,ダイエットをしている人にとっては食事の節約など朝飯前と考えがちだが,食欲を抑えるための,食事が高価らしい.私の友人も奥さんのダイエットのおかげで,食欲を抑える料理ばかり作るので(まずい料理とも言う),本人よりも亭主が痩せたのを知っている.食欲が満たされない状態でそれ以外の欲望(購買欲,美容欲,旅行欲など)が達成されないと,暴れる,暴飲暴食に走るなど,更に手に負えない状況に陥るのは,石器時代から言い伝えられている(文献などの証拠はない).クレオパトラもダイエットに失敗したことを悲観し,シーザーと焼き肉屋で腹一杯カルビを食べたと言うことを信じては嘘になる.
私も学生時代に一人暮らしをはじめた頃から,節約に興味を持ち続け,食器を洗う水,トイレに使う水,風呂に使う水など検討を重ねてきたが,いつしか忘れてしまった.原因は私の飽きっぽさよりも,日本経済の消費優先社会にあると強く感じた.新年の日記が続かないのも,そのせいだと決心した.世の中では結婚をすると女のほうが節約に心がけると思いがちだが,元々の金遣いの荒さのレベルが違うので,たとえて言うなら校内の卓球大会で6位の男が,トリノオリンピックのフィギィアスケートで金メダルをとるところを見たいという女と結婚するようなものだ.100万円あったら貯金をするという女が節約妻と思ったら大きな間違いで,何を買おうか考える時間も有効利用して利息で増やして一気に使おうとしていると言っても言い過ぎではない.決して夫に好きなように使ってくれとか,それどころか私に有効に使ってほしいとは言おうとしない(信用できる男だと私が言うにもかかわらず).
これ以上女の本当のことを暴露すると,この先スーパーモデルとつきあったり,若手有望女優との見合い話がなくなるのでこれくらいにしておく.それからわたしが死んだら老衰や病死に見えても他殺を疑ってほしい.たぶん動機は三角関係のもつれである.
乗り物酔いについて
自分では定期券や診察券や教科書を持たないでバスや電車に乗ることを旅行と決めている.小さいときには年に一回の家族旅行が楽しみだったが,いつも乗り物酔いが心配だった.特にバス旅行は乗り込んで1分で駄目だなと思うくらい苦手だった.そのため母の実家へ行くときもバスより汽車で行ったものだ.母の実家が同じ本州で本当に良かった.母親は小学校の教師だったので,休校のたびにしょっちゅう実家に帰れるので,それを見て将来は教師になるぞと誓ったものである.帰省時になぜか私も連れて行かれたのだが,乗り物酔いが心配であまり行きたくなかったのが本音である.
大人になってからは乗り物酔いは少し良くなったようだが,それでもバスの中ではコバチをしたり,窓から足を出すほどの余裕は無い.旅行には修学旅行や卒業旅行や傷心旅行や新婚旅行など古き良き時代にお別れするときがあってそんな時には感傷的になって私は後世に残るような詩や俳句を詠んだりしたものだと言えば嘘になる.なんとか乗り物酔いをしない旅行は出来ないものかと考え,自分で車を運転してみることにした.バスの運転手と違って,乗客がいないので,到着時間や停留所をアナウンスしなくて良いし,お菓子や飲み物を食べることだって出来るし,カラオケも可能である.しかし眠ったり,テレビを見たりすることが出来ないのは残念である.
耳鼻科医になって乗り物酔いのことを動揺病と言うのを知った.正真正銘の病気だから神経質だとか,気のせいだとか,根性がないとか言われないですむ.これで人にも堂々と車に酔いやすいと言えるようになった.ところで,車や船や飛行機では大丈夫な人も宇宙旅行では酔うらしい.どんなに訓練をしてもだめなのでたくさんの酔い止めを飲むが,それで眠たくなるので覚醒剤を注射する.難しくて誰でも運転することが出来ない乗り物は免許がいらないし(宇宙船,F1,戦闘機など),免許がないから取り締まる法律もないから覚醒剤を使っても大丈夫だ.ついでに免許はいらないが難しい職業を考えてみた.占い師,透視師,霊媒師,催眠術師などどれも科学で説明できないことばかりだ.だから法律では取り締まれない.
車に酔いやすい人は平衡機能が発達しすぎているのも事実で,その証拠に酔い止めの薬は,平衡機能を抑える機能を持っている.体操選手も結構移動の車で気分が悪くなることが多い(寝不足のときやご飯を食べながら逆立ちをしたときや指もしくはスプーンを咽に入れたときなど)
乗り物酔いをしているかどうかの見分け方だが,話しかけても返事がないとか顔色が悪いとか食欲がないなど死んでいる人とよく似ているから間違えないように.私の経験では乗り物酔いをすると隣に座っている友人から「大丈夫か?」と聞かれるが,本音が言えなくて(中学生の時も紳士だった),なんとか笑顔で「大丈夫だ.」と答えたが,その甲斐もなく友人は「黒川くんの気分が悪そうです.」と先生に教えた.その後,みんなの注目を一心に集めたのは言うまでもない.これからわかるように言葉よりも顔色の方が人にはアピールするようだ.そんな時には必死に気分がさわやかになるものを考えてみたりしたものだ.春一番,クールミントガム,朝風呂,サロンパスなど.反対に気分の悪くなるものはごまだれ,乗り物酔いしている人,プリン,ガソリン,日本酒(西洋人ならワイン)などが考えられる.
200年前で乗り物といえば馬かカゴくらいだから庶民には縁がないし,更に500年後の未来ではカーク船長によれば転送で瞬間移動が出来るようになるから,現代がもっとも乗り物酔いをしやすい時代と言える.(言わなくても良い)
動物の欲
猫だけではなく,動物一般に言えることだが,常に食べ物のことを考え,発情期には,メスのことばかりを考えている.あらかじめプログラムされたこの行動を本能と呼んでいるが,本能とは何であろうか?人間にも本能があり,それに従って生きるならば,動物のように多くの不幸をもたらさないであろうが,同時に大きな幸福も期待できない.本能に加えて,人間の持つ想像力が加わるために,より大きな欲望を期待できるようになる.しかし,世の中にある幸福,つまり富や食料や女の数は一定であるため,誰かが多くを求めれば,誰かがその分,分け前を減らされるのである.しかし,減らされた原因はわからないから,その理由を宗教に求めてきた.日本では世間体と言うことでこの欲望を抑えてきた.反対に言えば人の見ていないところやわからないところでは,何をしても許されるし,何を考えても良いわけだが,そこには人間本来の姿が見える.自己保存の行動は,言葉が発達するにつれて,建前と本音を使い分けられるようになった.それが悪いこととは言わないが,自己保存のためには,かなり困難な仕事の一つである.今後,言葉によるコミュニケーションを使う限り,その性格上,儀礼的な面と日記のように自分の気持ちを表現する面に分けられるようになり,それがますます言葉と人間自身の表現の困難さを表してくる.精神をそのまま表現できる方法については,今後の課題であるが,それが可能になれば,人間社会は一気に平坦化すると思われる.隠し事ができないなら,隠し財産も,隠し子も,悪口もすべて無くなる.自己を確立することができなくなる可能性がある.しかし,人間全体としては,争いが無くなり今と比べれば良い社会と言えるだろう.人間が目指すものは,平和で,平等な社会であるなら,個人は消失する可能性がある.自分という存在がどこにいてもみんなに知れているわけだから.
動物の観点に戻って考えてみよう.大規模な共同社会を持っている蟻や蜂では,まるで個人の考えは持っていないようで,犠牲的な行動が日常的に行われている.共同社会を持つ猿では,群れの掟はあるようだが,それに嬉々として従っているようには見えない.自己を隠しながら,仲間はずれを恐れて,従っているに過ぎない.その証拠にその群れのボスがいなくなれば,すべてのオスがその座をめぐって争いを始めるわけであり,そこには犠牲的な精神は見られない.自己保存のための行動があるだけである.そう考えれば,人間の行動も猿の延長と考えられなくもない.欧米では長い間,人間と動物とは異なるものであると考え,人間は神が作ったものであると信じ,宗教をその糧としてきたが,進化論によって,現代に至るまで,動物との境界が薄らいでいる.
あいさつについて
医院に行けば職員がいる.医院に象やライオンやトカゲがいなくて良かったが,その場合はどういうあいさつをすればいいのかわからないが,しなくても文句は言われないだろう(食べられることはあるかもしれない).しかし,職員が自分たちにあいさつが無かったみなす時は以下のことが考えられる.1.院長のあいさつの声が小さかった(上品な人の声は小さいものである).2.タンザニアのあいさつを知らなかった(私も知らない).3.院長のことなど気にかけていられない.のどれかだと思うが,出来れば良い風に解釈してほしいものだ.なにしろあいさつが遅れたと言うだけで,仲が悪くなるような職員だから油断できない.無事に朝のあいさつを終えて,自分の部屋に入ることが許されると,ほっとしてコーヒーを自分で入れるのが日課になっているが,これも職員に入れてもらおうと頼むと大変なので先手を打って私にはコーヒーを入れないように言ってある.無理にコーヒーを入れてもらうと,コーヒー以外の物を入れられるおそれがある(コーヒー色の花瓶の中の水とか,コーヒー色のヨードチンキとか,コーヒー以外はろくでもない物がコーヒー色をしている).昔から栄養の吸収が悪くて痩せていると言われていたけど,悪い物に限って体に取り入れてしまうものである.最近,体が弱ってきたのは老化のせいだと思っていたが悪い物を知らずに飲んだり食べさせられたりしていたのかもしれない.(カロリーや塩分の多いものなど,特に餅などは一撃必殺の劇物である)
生まれてから今まで約50年間(自分では20年くらいに感じている)ずっとあいさつをしなさいと言われていた.小さいときは家に来た客にあいさつをしてほめられたり,お菓子をもらって満足していた.犬や動物園のアシカと同じレベルである.しかし言葉をしゃべれたので彼らよりは頭が良かったのは言うまでもない.中学高校時代にはあいさつをしても誰からもほめられることは無くなり,あいさつをしないことで,反抗していた.何かもらえたら喜んであいさつをしていただろう.医者になってからはあいさつは比較的楽になった.「どうしましたか」「お大事に」の二言を覚えればよい.例えば患者とこんな会話が繰り広げられる.「どうしましたか」「風邪を引いたみたいなんですが」「お大事に」「どうしましたか」「それから咽がとても痛いのですが」「お大事に」というように使うととても便利である.
近所の人にもあいさつをしているが,知らない人には親しくしくすると誘拐されると言われているので,向こうから親しそうにあいさつをしても,走って帰るようにしている.知らない人が地球人ならまだしも,宇宙人の可能性もあるのだ.友好的な宇宙人ばかりではないのだ.宇宙人の暴力団もいるはずだ.知らない人だと思っていたら,化粧をしていない隣の奥さんだったり,おたふく風邪にかかった近所の子供であったりする.ところで私は仕事を忘れるために家の中では白衣は脱いでいる.しかし裸ではなく人間らしく普段着を着ている.そして近所に出かけてみると,ほとんどの人は私だとは気がつかないようだ.学生服を着て出かけたからかもしれないが,外へ出た緊張で顔が男前になっている可能性もある.子供には見破られることが多く,そんな時には自ら上品な顔を崩してやり過ごすことにしている.
このようにあいさつは化粧をして服を着て行うことが前提となっているが,守られないと誰かわからないのである.わたしがまわしをして歩けば,重病後の相撲取りに,タイツをはいて歩けば老けた幼稚園児に見えるはずである.もちろん白衣を着て歩けば散髪屋の見習いかパン屋の店主くらいには見えるはずである.
そろそろ職員に帰りのあいさつをしなくてはいけない.ドアをノックされて壊されない前に.
怠惰について
日本人は勤勉だと言われているが,それは中国の儒教の影響であろう.人の見ているところでは勤勉だが,自分一人になると,自分のペースで仕事をする人が多い.自分の普段の仕事の手順がよく考えられて,整理整頓された仕事を成す人であるなら,いつもと変わるところは無いのだが,多くの人は自分の考えを整理することもなく,その日その日をうまく切り抜けることだけを考えているので,その場のすばやい計算や言い逃れはうまいが,人間らしく先を見通した計画の立った仕事はすることが出来ない.むしろそう言う人は計画や設計図は人より上手に描けるのであろうが,実行できない場合が多い.その場合,その人を怠惰と呼ぶのであろうが,仕事を始めたときは,一から十まで自分で確認しながらやっていたことが,怠惰になると人任せになったり,確認を面倒くさがったりするようになる.怠惰は少しでも自分の時間を作り出そうとする奴隷根性に似てはいるが,その自由時間をストレス解消と自己に言い訳をして,享楽にのめり込み,無駄な時間を過ごすことになる.もし怠惰な人が労働をしなくても良い時代(ギリシャ時代)に生まれたならば,退屈に困り,社交や享楽的な行動に人生を費やすことになるのだろう.金も健康もある時期は,徐々に増していく欲望に応じることも出来るが,不健康で困窮した場合はいっそう惨めな人生が待っている.時間だけがあり,その退屈を死が訪れるまで紛らわすことができない余生が.
人を使う場合,つまり簡単な仕事を人に任せて指揮官もしくは経営者もしくは家長である者はもっと高度な仕事を行うための時間を必要とすると考えがちである.しかし,その任せた人が多くは怠惰な人間であるので,人目を盗んでいい加減な仕事を行いがちである.加えて仕事を任された人にとっては,上司のことを仕事を押しつけたと悪く受け取ることもあり,その場合,上司に対して信頼感が消失する.部下の自主性に任せて居心地の良い職場を目指す経営者もいるであろうが,少人数の職場であるならたぶんうまくいくし,働く人が上下の差がない様な友人のようなグループならたぶんうまくいくであろう.公的な機関や大企業では自分がいったい何の役目を果たしているかわからなくなると最小限の仕事だけをするようになる.責任を問われない最小限の仕事になりがちである.そこへ怠惰が加わると,新しく入った人へ仕事を押しつけるようになる.更に仕事が細分化されると全く全体が見えなくなり,自分の働く目的がお金だけになる.役所でよく見られる風景にある窓口の職員はとても忙しく働いているのに,隣の窓口では暇そうにしている職員がいる.担当が違うと言えばそれまでだが民間では珍しい光景である.楽をして仕事をしたいのなら誰かに仕事を分配する必要があるので仕事が細分化される.
ユーモアについて
我が国でのユーモアと言えば,あまり頭を使わなくても良いダジャレや意味のない行動を繰り返すギャグが大部分である.もともと意思疎通では言葉を中心に使っているためジェスチャーによる意志の伝達は日常では必要とする割合が小さい.日本では落語に多くのユーモアが見られるが,その使い方は一般に広がっていない.つまり落語の話としてはよく知られているが生活上応用されていないのである.ユーモアについては世界で一番進んでいるのは英国らしいのでそれに従ってユーモアを分類してみると,1)意味の取り違え.この場合,その取り違えが大きく離れているほどおかしい.例えば,「おまえの母さんでべそ」「母は君とつきあっているの?」人間が腕時計をするのは動物に間違えられないためだよ.2)全く意味の違うことの組み合わせ.心は広いが家は狭い.現在は社長だが元小学生だよなど.3)規模(数)を大きくしたり,小さくしたりする.この映画は露出度が高いので18歳未満禁止だ.(興奮すると心臓に良くないので80歳以上も禁止だ).ちりも積もれば山となる.(粗大ゴミも捨てれば罪になる).4)常識やタブーに反したことを取り上げる.死なないでくれと祈りながら,死ぬと早く成仏しろ祈る.幼稚園児に「若く見えるね.」とお世辞を言う.反対に老人に「大人っぽく見えますね.」と言うのも同じ.5)物事を分類してみる.その方法は偏っているほどおもしろい.食べ物には2種類ある.身になる食べ物と身にならない食べ物だ.しかし,それを見分けることは難しい.食べてみないとわからない.世の中には2種類の薬がある.効く薬と効かない薬だ.しかし,飲んでみないとわからない.6)繰り返し.分かり切ったことでも繰り返すことによっておかしくなることがある.ただし繰り返しすぎるとユーモアではなく本当にバカだと思われる.
怒りについて
人間であるならば理由もなく機嫌が悪いときがある.本人は機嫌の悪い理由があると言い,まわりの人もその理由を知ろうとする.理由もなく怒ることは,程度の低い動物的なことだと言われないために.しかし,動物が理由もなく怒ることは無い.人が怒る場合怒りたいから怒っているわけで,その理由は後付である.そう言う人は自分の恨みや怒りの理由を探しているうちに,更に怒りが強くなり,怒りが怒りを呼ぶようになる.最後には何で怒っているのかわからなくなってしまう.違う人間は,怒りを気分転換で抑えることが出来るし,うまく自分をコントロールすることが出来る.人間は思考力が優れているため,先のことまで予想することが出来る.しかもその予想は多くの場合,悪い予想である.もし良い予想をするなら,それが外れ,さらなる不幸が来ないようにするためである(しかし,最後に自分が死ぬ予想は確実である).つまり人間には悪い予想の積み重ねが詰まっている.そうなればいつかはそれは爆発し,理由のない怒りとなって現れるであろう.
将来に良い予想を描く人は,宝くじを買う人,貧乏な画家や小説家と結婚する人,40歳を過ぎてプロ野球選手を目指す人,50歳を過ぎてオリンピックを目指す人,90歳を過ぎて結婚しようとする人である. 反対に悪い予想を立てる人は,お金持ちと結婚する人,生命保険に入る人,健康に気を使う人,旅客機に乗らない人などである.
時々怒ることによって,その人は怒りを収めることは可能であろうが,周期的にやってくるその気分を無くすことは出来ない.それから,その人が孤独である場合は,対象が無いので怒ることは無いであろうし,怒るとしたら自分自身に対してである.しかし,怒りが自分自身に向かうことは考えられないので,常に怒りは人間に対してである.原因がない限り,怒りがタンスやカエルや象やキリンに向かうことは無いのである.実際に怒っている対象はあるのだが,それに対して怒れないときにはそれに近い者に向かう.例えば病気になった時に医者に対して,暴力団に絡まれたときに警察に対して,上司にしかられたときに部下に対して,食中毒を起こした菌の代わりに料理した人に対して怒りが向かうのである.
科学が発達して人間の相手を機械がしたり動物(ペット)がするようになっても,ちゃんとしてほしいと思うのは人間が対象であり,動物や機械が失敗しても文句を言ったり,怒る人はほとんどいない(動物園の飼育係を除く).太古から自然災害に悩まされ苦しめられ続けたにもかかわらず,自然に文句を言ったり,雨や風に怒りをぶつけた人はいない.人間の怒りが大したものでなく,怒る理由も同じくらいいい加減である.
無について
量子物理学者や天文学者が言うにはこの宇宙は真空の無から作り出されたらしいが、それが本当なら、この世界には光の部分と暗黒の部分が存在する。お互いがそれぞれ同じ量だけ。人間がこの宇宙の中で特別な存在でない限りは、人間に関するすべてのことに対して当てはまるはずである。つまり、人間にとって都合の良いことも都合の悪いことも同じだけ存在する。どんなにすばらしく幸運なことでも必ず悪い面は一緒に伴っているはずであるし、危機的な最悪な場面でもいいことはついて回るものである(最も恐れられている死も苦しみからの解放という面がある)。ただ、それが予想できないために、あまりに突然の幸運は人間を不幸にするものであり、予想される不幸も人間を不幸にする。反対もまた然りである。何が起こるかわからず、運命に翻弄される感が強くなれば、この世は不幸だけしか存在しないように見える。
こんにちわれわれ人間の世界では、有史以来もっとも豊かな時代になっているが、この豊かさを良い面と考えれば、悪い面は環境汚染や自然動物の減少や、発展途上国の戦争や貧しさとして現れている。人間は理性によってすべて解決することが可能であり、未来がよりよくなるという考えは、それによって生じる悪い面を無視しているのか、見えないかのどちらかである。
病気に勝つ方法
病は気からと言われ続けて、約1000年は経っているが、その間に気力で病気を治そうとして病気で死んだ人は多い。この歴史からわかるように気力では病気は治らない。顔も気力では良くならない。病気になってわかるのは他人の重病よりも、軽くても自分の病気が最重要であるということがわかる。ところで、病気になる人の気質は気が弱いから病気になるのか、病弱だから気が弱いのか判断はできない。気を強く持てといって持てる人は元々気の強い人である。気の強い人に、もう少し人に優しくと言ってもできないように、気力は思い通りにならない。このように自分のものでありながら自分の思いどおりにならないものもこの世にはたくさんある。たとえば、自分の子供、自分の税金の行方、自分の落とし物、自分の給料などは勝手に天引きされている。こうなったら気力には頼れない。頼れるのは医者だ。医者になってはみたが、治らない病気が多すぎるということを知った。医学が進歩するにつれて新しい病気がどんどん発見されている。しかし、治る病気はそう簡単には増えないから、後になるほど医者になるのは大変である。明治の頃は病名を10個くらい漢字で書ければ国家試験にパスしたそうだ。それより昔は免許がなかった。ところで、目の前の医者が頼れるかどうかは、私は顔と話し方で決めている。目を見て話さないのは、診断に自信がないか、私に気があるかである。そんな医者は危険なので、受診を控えている。健康なときも受診を控えている。ただでさえ医者にかかるのは怖いから受診を控えている。診断や治療に失敗したとき「医者は神様じゃないんだから」という有名なせりふがある。患者も医者も使える便利な言葉だ。
やっぱり最後に頼れるのは自分の肉体だ。気力が弱い分、肉体に頼ることになる。だからといって女性を肉体で選んでいると思ったら、大間違いだ。誤解されると困るからこの際はっきり言っておくが財産で選んでいる。気は弱いならたとえ病気がちでも良い。病気に打ち勝つためには身体を痛いというほど鍛えなくてはいけない。何でも筋肉トレーニングとは筋肉を痛めつけて、回復すると以前より筋肉が増えているそうだ。ステーキを料理する前に金槌みたいなものでたたくのは肉の量を増やすためかもしれない。もう少し進んだら、電気刺激で牛肉が増やせる器械が通販で買えるかもしれない。それ以来、私の肉体を鍛えるようになってから久しい。特に体調の悪い時を選んで鍛えている。あと100年も鍛えれば、死なない身体になる予定だ。
表と裏について
ある人に山についてのべよと質問するとしたら、その人が登山家ならのぼってみないとわからないと答え、、トンネル工事をする人なら掘ってみないとわからないと答え、小学生なら地図をみないとわからないと答えるだろう。幸い私は見て判断するタイプだ。遠くの山を見つめていると、その裏側はどうなっているのか気になることがある。人を見てもこの人の心の裏はどうなっているのだろうかとか、化粧をしない顔が気になることがあるように。たいていの場合、山の裏側は山の表側とほぼ同じだと予想することができる。人の心の裏や化粧をしない顔は月の裏側と同じように表側と違うことが予想される。このように自然も人間も私にいいところしか見せないように気を遣っているのがわかる。山の次は川だ。合い言葉で決まっているのは、山のそばには川があるからだ。そんなにわかりやすい言葉は合い言葉には本来ならば使われないはずである。たぶん記憶力の落ちている老人にも使えるように昔の人も配慮したのだろう。
近くにある川でなじみの深い川は、九頭竜川だけど、日本人でこの川の名前を知っている人はたぶん国土交通省に勤めている人か、福井県の人しかいない。頭が9つある竜が、ゴジラ(ウルトラマンだったかもしれない)に負けてこの地で亡くなったのを知る人は今や全くいない。九頭竜川の形から想像すると、頭は山の方に向かって倒れたようだ。そのおかげで山の方では竜の骨が化石になって掘り出されている。これが、福井に伝わる伝説である。最近は雨が多くて、今まで気がつかなかった川も存在感が強くなっている。静かになったと思ったら、いつの間にかあふれている。まるでうちのお風呂みたいである。ちなみに入浴剤は濁ったのが好きだ。川も茶色く濁っているが、川で入浴している人を見たことは無い。
河原で石を集めるのが好きで、子供の頃にきれいな石を拾って帰った。今思い出してもほほえましい少年だったと思う。最近、同じように石を拾って帰ろうとしていた人が見かけたが、注意されていた。トラックで石を積んでいたのが良くなかったのかもしれない。量が違うとこんなにも対応が異なるのだ。甲子園の土も少しなら持って帰ってもいいけど、パワーショベルで持って帰ると注意されるはずだ。たとえ注意されなくても有料になると思う。
表の顔だと思っていたら、実は裏の顔だったということもよく聞く話で、家庭ではぐうたらしている夫が、会社では何でもこなすエリート社員であったり、家でごろごろしている夫が職場では、上品で男前の医者であるのはよくある話である。どちらが表でどちらが裏かと言うことは、見栄えがいい方が表で、悪いと思う方が裏である。しかし道徳的には見栄えと反対のことが多い。よく似ていると言われるブラッドピットやベッカムも表の顔は見栄えのいい方で、テレビや映画で見せる顔である。裏の顔はよく知らないが、たぶん私とそれほど変わらないだろう。ごろごろしている場所が、高級リゾート地か和風の家の違いである。少なくとも重力加速度や空気の質はそれほど変わらないはずである。唯一のちがいは妻ぐらいだ.
他人に対する影響についてー間接的な影響ー
たくさんの人と仕事をしていると、その人の気分がわかることがある。原因がわかる場合もあるがわからない場合もあるが、わからない場合が多いものだ。自分が原因になっているかどうかはわからなくても、気分の良いときは、他の人も楽しそうに見えるものである。精神的な感受性が強い場合(私が当てはまる)には、それが強く感じられる。感受性が強いと自分の健康の好不調に従い、気分も憂鬱や明朗を行き来する。感受性の強さは、人に対しても対応が不平等になりやすいようだ。すべての人間にこのような特性が当てはまるであろうが、その振れ幅が大きさが異なるのであろう。振れ幅の少ない人は、人に合わせられないとか何を考えているのかわからないとか陰で言われることが多い。振れ幅の大きい人はその影響が自分自身に現れ神経質であるとか虚弱体質につながりやすい。もしくは振れ幅の限界を超えたときの、非協調性として現れる。
生命保険に入れ!
仕事場でいつものように患者も無くのんびりしていると面会したい人がいるという。その人は女の人でとても美人だという。私も男の端くれだ。美人と聞いてこのまま返せないと思った。返せないと思ったのは、開業して銀行に借りた金額を知り,こんな大金を返せないと思ったとき以来である。まるで二枚目俳優が押しかけファンにしかたなく会う気持ちで出迎えた。営業の人は概して美人が多く、男もハンサムが多い。私も自分は営業の方が向いているのではと思う時がある。遠目には美人セールスレディと上品なセールスマンが話をしているように見えたにちがいない。予想通り話の内容は生命保険に入らないかということだった。一目見たときから忘れられないとか、実物の方が良いとか、サインをしてくれとは言われなかった。少しがっかりしたが、生命保険の勧誘の話から切り出して、実は大好きでつきあってほしいという話になることもあるので、しばらく話を聞いてみた。一年で病気になる人は何人か知っているかと聞かれたが、わからないと答えたかったがそれでも医者かと責められそうなので、適当に日本人の半分くらいだと言った。入院するほどの病気は1万人に100人くらいだという。その中で死ぬ人は何人くらいだと聞かれ、きっと医者かどうか確かめているに違いないと思い、ちょっと考えさせてくれと言ったが、その余裕を与えず、1万人に20人が亡くなるという。教師に質問攻めをされている小学生のような気分になったが、記憶にないと政治家の答弁のように答えた。もっと考える時間をくれれば良い答えができたのにと悔やんでいると、美人セールスレディは生命保険に加入すると保険料が貯金や年金にもなるし、安心して病気にもなれるという。安心して死ねるのなら、人生の一番の悩みが無くなって良いことだ。政府ももっと生命保険にはいるように宣伝してほしいが、日本は自由主義社会だから無理強いしないのかもしれない。しかし税金は無理矢理に取っている。続けて話を聞くとこのままだと私の寿命は40年ぐらいらしい。少なくても100年以内には必ず死ぬと言う。おまえは占い師か?といいたかったが、紳士らしく、最後は立派に死んでみせると言ってみせた。我ながら男らしい態度だと思ったが、相手はそれに気がつかず、生命保険の計画書を見せてくれた。驚いたことに私の名前や性別まで知られている。年齢はもう少し若くしてほしかったが、どうやら見かけの年齢ではないらしい。月々10万円払えば死亡時の保険金が一億円になるという。この保険料でこの金額はお得だという。こんなに熱心に勧めてくれるのは保険金を2人で山分けしようと思っているのだろう。そうはさせるか。せめて7:3で私の取り分を多くしてくれたら考えても良い。それでは、考えておいてください。また来ますと意味深な言葉を残して彼女は帰っていった。慎み深くて最後まで自分の気持ちを打ち明けられなかったようだ。そんな控えめな女性に好かれやすいことを後悔した。
生命保険の計画書をみてわかったことは,彼女ともう一度会ったら,毎月10万円が必要と言うことだ。
心配性について
うまれてから50年近くになると、物事の大概のことはわかり、その原因も結果も知って自他共に認める落ち着いた人間になっているはずだ。しかし、ヨン様はいつまでほほえんでいられるのか、巨人の監督はどうなるのか、今日の夕食の献立とか考えればいろんなことが心配になるのは、私が若返っているのからかもしれない。有史以来、人間はずっと心配性だった。心配性じゃないという人も、1万円札を道に置いて、後ろを向いて目をつぶれば、心配症になるはずだ。それが私の目の前に置いたならもっと心配性になるはずだ。猫の前なら大丈夫だけど、ヤギの前なら心配だ。このようにどんな人でも心配性になるものだ。
明日が試験といえば心配性の人もそうでない人も緊張はピークを迎える。特に音楽の試験では人の前で演奏するのだ。音楽の教師だけではなく、口の悪い同級生も顔の悪い同級生もいる。ただ実力を出し切るのみと思いながら、毎回、実力が出せずに、現在に至っている。自慢じゃないがどんな試験も試験前日には実力を出す自信がある。
明日、東京に地震が起きるとか、病人や老人は明日死ぬんじゃないかと思い悩んでいるかと思えば、毎日をいつもと同じように暮らしているのは、人間の鈍感さだと思う。それが証拠に年をとると、動きも遅くなるし、目も耳も敏感では無くなる。でも、若い人の言葉遣いには敏感になるようだ。
熟睡できる方法
睡眠はなぜ必要なのであろうか?眠らなくてもいいのなら,もっと余暇が増えてのんびり出来る.余った時間で昼寝やうたた寝なんかも出来るようになる.人にとっての一番の贅沢は自分の時間を持つことであるが,睡眠はこの自分の時間には入らないのであろうか?睡眠は休息に含められるが寝てしまうと自分の時間でないような気がする.意識がないからその時間が本当に存在したのか,枕元の目覚まし時計を信用するしかない.毎日夜死んで朝生き返るとか,宇宙人にさらわれた言うくらいの人もいる.
試験の前日などは覚えることが多くて寝られない.そんなときに寝ながら(寝っ転がってではない)暗記が出来ないか真剣に考えたものだ.考えるだけではなく試したものだ.それでわかったことは潜在意識のどこかに暗記されているはずだが,それが試験中にはど忘れしてしまうということだ.試しに眠らないで暗記してみたがやはり思い出せなかった.傍目には結果が同じなら寝た方が良いと思いがちだが,親の目や世間体を考えると明かりだけでもつけて寝た方がよい.
眠らないとどうなるかアメリカの学者が試したそうだが,警察の取り調べからヒントを得たのだろう.睡眠不足の初期は気分の高揚が観察されるが,その後,疲労感や思考力の低下,筋力の低下,判断力の低下が見られる.最終的には傾眠状態に陥り,無理に覚醒させると,寝起きの悪い人は,幻覚を見,寝起きのいい人でも寝起きが悪くなるそうである.
音に敏感な人は聞こえた音をいろんな状況に結びつけてしまう傾向にある.低い音が何かが大きな動物が暴れているとか,高い音なら悲鳴などである.こうした条件付けは遺伝的に身に付きやすいと言うこともあるが,幼少時のストレスや大きな音と一緒に不快な出来事を体験したことに影響される.動物は一般に浅い眠りで,音は自分に対する危険を知らせる重要なサインであるため音に対して非常に敏感である.また急に起こされても機嫌が悪くなることは無く,寝ぼけることもない.たぶん動物は夢をほとんど見ないと予想される.フロイトはお昼に起きた嫌なことや葛藤に対してそれを自分の精神の中でつなぎ合わせるために夢を見ると言うが,人間の物事に対する強い感受性が夢を見させると考えても良いだろう.そのため熟睡するには音の遮断が必要であり,自分の身の安全が保証されるならば耳栓をするのは熟睡を保証する手段となりうる.
睡眠薬を使って深い眠りにつけばやはり熟眠感が得られる.夢を見る時間を少なくすれば良いわけだが,夢の役割とは起きようとする新皮質を辺縁系によって夢を見させることで覚醒しているとだましているわけである.だまされた眠りが爽快なわけは無いのである.それなら頭でもぶたれて意識を失った方が,良い眠りと良い目覚めが期待できる(起きたときの頭痛を除けば).
枕は概して低く柔かいのがよいと思うが,高くないと寝られない人は肥満症か背骨が曲がっている可能性が高い.寝る体勢については人間の場合,仰向けが自然である.うつぶせで寝るのが好きなら人間に似た動物である可能性がある.寝相が悪いのは健康な証拠と昔は言われたが,昔は寝床が堅いので寝返りを打たないと床ずれになるからで,現代では堅い寝床のために寝返りを打つことはないから,寝返りの原因は眠ることで体の調節機能が低下し,身体の異常が表に出て,じっとしていられないからである.
寿命について
生存本能は人間でも強く、人間の寿命が長くなればなるほど今後よりいっそう奇怪に変化した社会と人間自身の精神と身体の形に表れるであろう。植物、特に一年草は寿命が短いが、子孫はその形態や特性を変えることがない。人間以外の動植物も、その寿命に従って生きている限り、その社会構造や形態が変わることは無い。人間の寿命が一定であった頃には社会が一定である時期が何万年も続いていた。
今日の社会変化は寿命の延長に関係していると思われる。多少は戦争や疫病で変化するにしてもだ。その理由は多くの人は自分の生きている時間についてしか、十分に考えることができない。過去についても、生きている人から聞き伝えられる時間についてしかさかのぼれない。つまり人間の寿命である100年である。それ以上昔のことについては、文字でしか知ることができない。昔の人間でも平均寿命は短くても、長生きする人は現代と変わらないはずであり、現代医学がどんなに進歩しても、身体の弱い人の寿命が延びるだけで、人間の最長寿命が延びるわけでは無い。昔から今日まで、100年内の歴史から、未来を予想し、計画を立ててきた。それ以上さかのぼり教訓として未来に生かすことができないため、歴史は繰り返されるのだ。たとえ10年でも平均寿命が伸びれば、言い伝えられる歴史は変貌し、それを伝えられた人々を変化させる。
趣味について
だれでも自分が興味を持っていることや、趣味に対してお金を使うことにはそれほど抵抗がないと思う。そして困難を超えてやっとそれにふさわしい物(音楽を趣味とする人なら高級楽器を購入し、コンクールでの入賞、ゴルフを趣味にしている人なら大会優勝、釣りが趣味なら釣り竿や船に乗って釣りに出ること、旅行が趣味なら長期間の外国旅行など)を得たとき一時的に達成感と幸福を得ることができるが、すぐに次の目標へと向かい、次の目標達成までのつらい不幸な時間が始まる。すなわち、いつまで経っても幸せになることはなく、ついでに言うなら、徐々にハードルが高くなるため、不幸な時間が増えるのは当然のことである。余暇ができると退屈に我慢できなくて、趣味を始め、それが自分の満足をゴールにするなら幸せを感じられる。趣味の中でも自分の精神的な能力を使うことなら、いくら突き進めても幸せが続くであろうが、大会やコンテストや達成点が決められている場合はその趣味はその人を不幸にする。まして趣味が高じて、仕事になるなら尚更である。段階がある趣味は、ある段階にとどまることができないようにできている。つまり、もしある地点にとどまるならば、退屈を呼び起こし、その趣味から離れてしまう特性を持っている。ほとんどの趣味はそれに分類されるであろう。
例えばパソコンが趣味であるひとは、新型が出るたびに買い換えることを繰り返し、そのたびにソフトが動かなくなり、動くまで時間を浪費し、ソフトも買い換えてお金を浪費する。しかし、パソコンがうまく動くようになるとまたそれを繰り返すという。人生のたとえに楽あれば苦ありと言うが、苦が続いて、苦のない状態を幸福であると勘違いしているにすぎない。結果、趣味を外に求めると苦が多く、自分に求めると、楽になる。ー自分に求めるとは芸術を意味している。自分の作り出した芸術が世間に認められるかどうかは別にして、芸術とは自分の個性であり、自分の世界を、自分の中から取りだし表したものだから。個性を大事にしないで、没個性の大向こうに受ける物ばかりを追いかけていると、趣味も総じて他人の受けを気にするようになる。
趣味が悪い
趣味が悪いとは学生の頃にはよく言われたが、不思議なことに医者になってからは言われない。医者は趣味が悪いのか、それとも趣味が悪いと面と向かって言えないかのどちらかである。そういえば服の趣味が悪いと言われたのは、大学生の時にジーンズにジャケットを組み合わせたときだったけれど、今はそれがふつうのファッショになっているし、むしろ進んでいると思われるのにの関わらずだ。さらにスカートにジーンズと組み合わせることもあるのだ。できることなら、そう言った同級生にその服装で今、会って感想を聞きたいものだ。ついでに、昔、貸したお金も返してもらおう。
進みすぎたファッションセンスが、ださいと言われ続けた原因だろう。私は自分の優れた才能を呪った。小学生の時には長袖のシャツの上に半袖のシャツを重ね着して、近所の同級生たちの注目を一身に集め、変な服装だと言われた。自分で言うのも自画自賛しているようで本意ではないが、たぶん20年は進んでいる。100年進んでいたら、その後、流行しているかどうか確認できないところだった。
医者になってからは着るものは白い色に決めている。毎日、ウェディングドレスを着ているようなものだ。毎日何を着ようか考えなくても良いように決められているのかもしれないが、センスのある人には宝の持ち腐れである。一度、青い白衣を着てみたことがあるが、散髪屋か?とか目が痛い!とか色物と一緒に洗ったのか?とか羨望の気持ちから悪口しか言えない奴らばかりであった。
母が買ってくる父の普段着はヨモギ色かカラシ色であった。趣味が悪いのは、遺伝かもしれない。
車がほしい
「車の買い時はいつ?」
1.免許を取ったとき。(免許を取ると、どうしても運転してみたくなる。友人も父親も「傷つけないからちょっとだけ車を貸してほしい.」と言われたくない(お金のない人に使わないからちょっとだけお金を貸してと言われるようなものだ)。レンタカーという手もあるが車が所有欲が満たされない)2.彼女ができたとき。3.乗っている車が壊れたとき。(ただしこの場合は修理すればいいのだが、本心はただ新車がほしいのである。理由は後付だ)4.車が古くなったとき(これも本心は3.と同じ)5.景気回復のため。6.親戚が自動車会社に勤めている。 以下略
車が壊れていない場合、家族を説得させるには、サービスと交渉が必要である。まるで、自動車のセールスマンの代わりをしているようなものである。説得の理由は以下の通りである。
1.車の馬力が50馬力増えた。馬力があると何が良いのと聞かれれば、坂道を速く上ることができる。目的地に早く着く。
2.前より燃費が良い。もし燃費が悪ければ近所は自転車に乗ることにすると言えばよい。
3.運転していてさまになる。この場合、運転手付きの車の運転手に間違えられないように服装は派手にした方がよい。
これでも説得できない場合は、後から地獄が待っているが、次の条件を言ってみるのも仕方がない。
4.買い物の送り迎えができる。
5.外で食事の時に送り迎えができる。
6.学校や塾の送り迎えができる。
仕事の内容はアルバイトの運転手のようだが、給料がもらえないので違いがわかるはずである。車を手に入れるためならこれも仕方がない。嫁をもらってから自分の力でもらえたと実感できるものは車くらいである。その他の得られた物は運だったり、人の世話にならなくてはいけない。自分の力だけで得られない場合、そのあとのお礼(報酬や賄賂ともいう)が大変だったり、運が良くて期待していない幸運が突然やってきても(トヨタの社長になれとか、首相にしてやるとか)気持ちの準備がないのでうれしくないものだ。たとえばお年玉でも期待しているからうれしいのである。
中には車より家がほしい人もあるだろう。家を現金で衝動買いできる人(私を含まない)は少ない。それに家族と相談しなくてはいけない。家族に相談して意見をまとめて方針を決め、話し込みすぎて食事を作る時間が無くなり外食に連れて行くのはサービスのいい不動産業者ぐらいの苦労がある。それにローンの途中で飽きても買い換えることができない。家というのはまず古い家を壊してから建てることになっている。もし車を買い換えるときに古い車はスクラップにしないといけない法律ができたら、買い換えにくいものである。いろんな理由はあるけれど、手に入れたい車がある。
時間と物質
ショーペンハウアーによれば,時間とは物質は分けて考えるべきで,物体の変化を時間と考えているが,物体が変化するのはその物体自身の理由であって,時間はその変化に何ら影響をしていない.このことから,物体の変化は,その物体の生まれたときからどのような運命をたどるのかは決まっているに違いない.例えばここに石があり,普通であれば,時間とともに風や水や日光にさらされ浸食されていくのだろうが,もし風も日光も水も無いところであれば,それは永久に変化することが無い.変化がないと言うことはその物体だけからは時間変化を知ることが出来ないわけである.手元にいかに優れた時計であっても,動かない時計なら,時間は計ることが出来ない.天体の動きで時間がわかると思う人もいるだろうが,天体の見えないところでは時間は知ることが出来ない.つまり時間と物質が分かれて存在するのである.このことから,物質の運命は決まっており,その中でも時間の役割は,その変化の起きる物差しでしかない.時間で変化することがないので,過去に起きたことも未来に起きることも同じ価値を持ち,それは時間に関係なく存在する.人間の場合を考えてみよう.ある人が生まれそして亡くなったと言うことは,歴史上には残っているが,現在においては存在しないと考えがちだが,現在,過去,未来が同等に存在しているので,すでに未来は決定されていると考えられる.人はその中で未来に対する希望をもって,現在をよくしようと勤めている.それは悪いことではないし,人間ならそうすることでもって生きる希望をが持てることになる.
休日の有効な使い方
いろんな祝日が組み合わされて3連休になって久しい.しかし,毎日体力の限界まで酷使されているサラリーマンにとっては,一日くらいでは疲れはとれない.休みの一日目は家族の白い目を気にしながらテレビの前で寝て過ごし,2日目の午後から,少し動けるまで回復する.それを見ていた家族はどこかへ連れて行けと言う.どこかと言うからにはどこでも良いのかと聞けば,ディズニーランドやユニバーサルスタジオだと言う.何でそんな混んでいるところへ行くのか?と聞けば,混んでいないところはつまらないところだ.混んでいてもそれを乗り切ってこそ楽しみがあるという.苦あれば楽ありだ.そんな楽しい会話が飛び交う家族団らんを日本中に広げたいものだ.
孤独になりたくない独身の男も多いだろうが,孤独になりたい妻帯者も多い.そんな孤独になりたい妻帯者も若い頃は昔は彼女がほしくて,一人で休日を過ごすことは寂しく感じていたにもかかわらず.長年の年月が彼を変えたのか,それとも多くの経験で一人の方が楽だと言うことに気がついたのだろう.しかし,気がついたときにはもう手遅れであり,病気がわかったときにも手遅れであり,不良に囲まれていると気がついたときにも手遅れであり,警官が手を振ったときには違反している.このよう気づいたときには人生で起きることは手遅れになっている.
それでも一人でいると寂しいと思う人は,本当に自分が孤独か考えてみるがいい.自分のおなかの中には大腸菌が数十億個も勝手に住んでいるし,皮膚にもブドウ球菌が住んでいる.これを常在菌と言って体に良いらしいが,目に見えないから許せるが,目に見えたら承知しないからな.たとえ一人で家にいてもNHKの集金人や町内会費の集金や押し売りや税金の取り立てが押し寄せてくる.さいわい私はテレビを見ないし税金を払うのも嫌いな方だ.そのほかのについてはなるべく家にいないように心がけている.事情はどうあれ,日本に住んでいる限り,孤独に休日をのんびり過ごすことは出来ない.どこか太平洋の孤島に漂流してみたいと思う気持ちはロビンソンクルーソーでも助けられてしばらくしたら同感できるだろう.
完璧主義について
人が成長し他人を意識するようになると、よく思われたいという動機から、自分をそつ無く振る舞うように第三者の目から見たような状況に自分を置き、自分に命令する状態が完璧主義である。それを実行に移すのが思秋期と重なるために、男の場合は異性獲得のための準備に当たる。女性場合は身体の変化が著明なため、少女時代が申し分ないと自負していた人たちには、拒食症に陥る。しかし動機もわからず、思秋期以降も完璧主義を続けるのは、無能たちのすることである。もしくは、精神的な疾患があるのかもしれない。完璧主義には必ず他人の評価が必要であり、それがかなわないときには、神からの査定を求め、半ば思いこみのように来世での幸福な暮らしの約束を求める。幼少時から他人を押しのける競争を行いながら、他人の評価を気にする社会はばかげている。芸能界がその最たるものであり、その次は政治である。もし自己の中に点数を付ける基準があり、たとえ十のうち一つしかできなくても満点であると判断するのなら十分幸せになることができる。ただし、貧困や困窮の著しい場合には、少ない点数では生存することができないこともあるだろうから、その場合は除外される。すなわち最低限の生活が保証されない限りは人間は動物的にならざるを得ない。
生活の豊かな時代ほど、完璧を求める人々が横行する。所有する富や地位が高くなればなるほど、よりたくさんそれを追求し、少しの損害も不評も許されない。金持ちほど完璧を求めるであろうし、完璧を求めない場合はすぐにお金は使い果たしてしまうだろうから。富を持つ人が増えれば、国も富むことが予想される。そして、富を求めて、悪者どもがやってくるので、防犯治安活動は優勢になるかわりに、国民が身動きできないほど、監視される社会になるのは言うまでもない。
科学の発達について
18世紀から始まった実験と検証によって、科学は急速に発達してきた。それに加えて現代は富や権力を集めるための(富も権力も決して作り出すのではなくて、人から集めるものである)手段になり、さらにその速度を増している。医学の発達を見ても、新しい治療法が見つかるとその副作用も見つかり、今後どんなことが起こるかわからない不安を作り出す。結果が見えない場合、それはギャンブルである。科学の発展は、結果が見えないギャンブルの繰り返しである。取り返しのつかないことが起こる場合も多い(原子力発電所事故など)人間は賭け事をするとき、良い結果しか考えないし、そう言う人が賭け事つまり科学の発達を望むのである。その時代の大衆の代表は科学者であるとオルテガが言っているように、大衆がもっとも求めるものを科学者は研究している。言い換えれば、その時代にもっとも有名になれる課題を研究している。大衆の考えを超えた研究はなされないのである。科学の目指す効率化の果てにあるものは?
一人になりたい場合
生まれてから,今までに一人になりたいと思わない人はたぶんいないであろう.(人間関係に悩んだとき,家庭がうるさいとき,犯罪者になったとき,宝くじが当たったときなど)特に私のようにみんなに頼りにされているとなおさらである.しかし,一人になって何をするか考えてみると,仕事以外に飽きずに出来ることは思いつかない.何かをしていないと一人で過ごせないというのは,ダイエットしたいの人がダイエット食品を食べていないとダイエットできないのと同じである.何もしないで過ごすというのは,普通の人には難しいことである.長い休暇があれば旅行に行くことを思いつくだろうが,実際にリゾート地に行ってみると,仕事より忙しいスケジュールと多くの人間がそこにあふれている.もし家族と行くなら家族への気遣いやチップの金額や初めて食べる食事など一家の主人としての仕事がある.(一家の召使いの仕事とも言える.ただし給料は出ない).そんなに苦労をして得られる物は,家族の簡単なお礼と思い出だけである.ただし家族からのお礼は忘れられてしまうことが多い.旅行先でも主人の服装には無関心だが,主人の買い物には敏感である.
私の住んでいる福井ではショッピングセンターへ行くのが,普通の連休の過ごし方になっている.そこでは買い物欲と食欲を満たすようにしている.またある人は美術館や博物館へ行って知識欲を満たしている.恋人たちはドライブや旅行に出かけて,子孫繁栄欲をできれば満たせればいいなと思っている.家で瞑想している人はいるのかと聞かれれば,出会うことがないので実態はわからない.同じように連休中に病気になっている人も出会うことがないので,その病状は知ることが出来ない.
私の勤めている医院も連休中は休みである.その休みでも気がつかなくて医院に来たという患者がいるのは,毎日の同じ行動によって自我を作り上げているのであろう.そういう人は高齢者が多く,だからといってボケとして片づけるのは簡単すぎる.毎日決められて行動をすることによって,一日が始まり一日が終わり,自分らしさを確認できる.このことは学校や職場で指定された行動を義務づけられることと同じである.突然,病気でもないのに学校や職場に行かなくても良いと言われれば,自我の確立には考えることが必要になる.「考える故に我あり」とは昔は仕事をしなくても食べていける人(王様,貴族など)が多かったので,受け入れやすかったのであろう.今の日本では,忙しく働いて金持ちになりやっと自分の時間をもてるようになったが,そういう人は暇な時間をもてあましやすく,一人になるのは,その忙しさから逃れるためで,一人になったからと言って人生を考えることはしない.部下や家族に頼りにされることによって,自分の価値を見つけることであり,一人では生き方がわからなくなる.こういう場合,部下や家族が反抗すると,おまえたちのために一生懸命働いているのに...という枕詞を聞ける.そして普段は威張っている.
こうして考えてみると本当に一人になって考えたい人はほとんどいないみたいだ.
移動手段の歴史について
動物だったら常に動いていないと健康に悪いと言われて5億年が経過している.植物だったら動くと珍しいと言われて30億年である.ついでに私も50年くらい体を動かし続けているが,年々健康状態が悪くなっている.体を動かしすぎかもしれない.ところで,体に悪いと言いながら,乗り物に頼るのは人間くらいだろう.昔は馬に乗り,一部の地方では熊に乗り熊に食べられた人もいた.その後,改良を重ね,馬車に乗り,道が舗装されるようになってからは,機械にも乗れるようになった.それまでは道が凸凹だとおしりが痛かった.またより快適に乗れるように低反発枕が発明された.船に乗るようになると,船酔いする人や,暇をもてあます人が多くなり,劇場や映画館や保健室やプールや野球場も乗せなくてはいけなくなった.それでも退屈な人は,途中下船して,飛行機に乗り換えたものである.
私を除く庶民にとって身近な乗り物は車であるが,都会では移動手段ではなくファッションになっている.というのは車の渋滞が至るところで発生し,ところによっては歩く速さと同じになっている.もしくは,とても細長い駐車場と言っても過言ではない(言わなくてもよい).その割に大きな車が売れているらしい.車のことはよくわからないが,よく見かける車は小型車と呼ぶらしく,大きな車は普通車と呼ぶらしい.普通の人が普通車に乗るのは普通のことだと思ったらそうでも無いようだ.どうせ速く移動することが出来ないのなら,大きな部屋でのんびりしたいと思うのは,人情である.それも快適に過ごせたら申し分ないわけで,カタログにはDVD再生,エアコン装備,テレビ付き,冷蔵庫付き,一戸建て,見晴らしよしと書いてある.それからパワーシートというのはどうやら車の中で体を鍛える装備らしい.速く遠くまでという機能から,最近は近くでもゆっくりと言うように車の機能は変化している.
なぜ人間は移動しなくてはいけないかと言うことを考えてみる必要がある.学生のときは車に乗れなくても特に不便と感じたことは無かった.ただ彼女彼氏と2人きりになるために必要であっただけである.卒業後は移動の主な理由は通勤であるが,就職が決まってから住む場所を探すから遠くなるわけで,住んでみたい場所を決めてから,就職を探すとそんなに遠くなることもないだろう.もし90歳まで働くことを考えなら歩いて15分までの仕事場を探すべきである.途中に病院やトイレもある方がよい.
しかし庶民ならたまには旅行もしてみたい.私みたいにハワイ経由で町内の職場まで通勤しているとたまには近所の足羽山に上ってみたくなる感覚と同じだ.そんなときには,普段と全く違う乗り物に乗るのがよい.だからといって籠に乗ってはそんなに遠くに行けない.童心に返って乳母車も良いかもしれない.ただし,ファッションをそれなりにしないと,ただの変態と思われてしまう.
乳母車に乗ることに抵抗が無くなったら,若返っている証拠である.その次には押してくれる人を探さなくてはいけない.「童心に返ったので押してくれる?」と自分の母親に頼むのは,理解がない場合そのまま病院に送られてしまうかもしれない.そんな時には通りがかりの小学生よりも,気だてが良くて素直な20歳くらいの美人に押してもらいたい.
家でキリンを飼う方法
まず家の高さが5メートル以上必要であるが、それより低くても天井に穴を開けるか、外でつないでおく方法もある。夜だけ家に入れるいいのではと思ったが、キリンは立って寝るらしいから、それは不可能だ。もともとキリンは屋外で生活しているから大丈夫である。一番の問題は餌であるが、高いところのものしか食べ慣れていないので、餌をあげるときには高さ5メートル以上の脚立かクレーンか身長が必要である。地面に餌を置くと、人間でもそうだが、首が疲れて、肩こりの原因になる。肩をマッサージするのも大変だから首は疲れないようにしたほうが良い。生まれがアフリカなので、暑さには強いと思うが、日本の夏には負けるかもしれない。だが、それは郷に入っては郷に従えと言うとおり、また郷ひろみの家では郷ひろみに従えと言うとおり、慣れてもらわなくてはいけない。2,3年で慣れるか、実家(アフリカ)に帰りたいというかのどちらかである。この点は人間の嫁と同じである。次に寒さについては、毛が短いというのは寒さに弱いと言うことだ。人間も同じように毛が生えていないから、服を着ているように(中には服を着なくても大丈夫そうな人もいるが)冬にはキリンにも服を着せる必要がある。服の好みはたぶん身体の色を見てわかるように派手好きだと思われる。黄色を中心にしてアクセントに、茶色を使うととても喜ばれる。タートルネックのセーターなどが好まれそうだが、たぶん特注になるだろう。下半身も寒さ対策が必要である。同じアフリカの動物と言うことでラクダのももひきなんかはファッション性と機能性を兼ねそろえたいいアイテムだと思われる。最後にどこでキリンを手に入れるかと言うことだが、通信販売は行われていないみたいだ。たぶん、大きすぎるからだと思われる。現地に行って捕まえるのが一番確実であるが、ライオンなど猛獣もいるので、こちらが食べられる場合もあり、おすすめできない。近くの動物園なら銀行で無断で金庫を開けるより簡単に手に入れられる。
次回はナマケモノの楽な飼い方について。
ナマケモノの楽な飼い方について
前回までのあらすじ
突然、アフリカから遠い日本の北陸につれてこられたキリンは、自分の故郷を思い、ホームシックになり、そのストレスから太ってしまった。飼育方法に疑問を持ったタイスケは真実の飼育方法がかかれた教典を求めて、チベットのシャングリラを目指して苦難と冒険の旅に出発した。福井にはタイスケの帰りを待つ、太ったキリンが首を長くして待っていた。残された時間は365日だ。
ナマケモノとは人間社会では主に孤立して生活しているようだ。特徴としては、働かない、やる気がない、しかし食事は一日3回以上必要である。しかし、動かないからと言って、ナマケモノであるとは限らない。植物も目に見えないが、一日に1センチメートルくらいは伸びている(近くの雑草を観察した場合)。食べるものは好みがあるので、庭に生えている草や、拾ってきた木の実をそのまま与えても食べない。しかし、拾ってきたお金は喜ぶようだ。散歩は嫌いなので、部屋の中で自由にさせた方がよい。たとえ外へ逃げ出したと持っても、食事の時間には帰ってくるから大丈夫だ。好きな場所は暗くて、一人で落ち着けるところなら、ハワイのホテルでも、ヒマラヤの頂上でもいい。暑がりなので、温度の管理は重要である。このように、犬やワニやパンダに比べるととても飼いやすい。欠点は飼い主がナマケモノを飼っていても喜びを感じられないということだ。飼育はとても簡単で、教えなくても、トイレもできるにもかかわらず、他人には家でナマケモノを飼っていることは秘密にされているという仕打ちを受けている。
ちなみにナマケモノという言葉は、人を元気づけようとか、働かせようと思ってナマケモノ!と言うこともあるが、単に悪口になることもある。安心して使えるのは、自分より腕力が弱いか立場の弱い人である。体力に自信がないときには、相手が小学生か幼稚園児であることを確認した方がいい。
続く
次回はライオンに食べられないで飼育する方法について
ライオンに食べられないで飼育する方法について
前回までのあらすじ
キリンとナマケモノをつれて、天竺に重要な動物の飼い方の教典を見つけに行くことになったタイスケは、困難に立ち向かいながら、上品さを身につけ、ハンサムな紳士になって無事にたどり着いた。
ライオンは猫科の動物である。猫を飼ったことのある人には飼うのは簡単に思えるかもしれないが、大きさが10倍違うので、注意が必要である。もし身長が160cmの人なら、16cmのゴキブリが猫の近くにいたら、猫も人も逃げ出すだろう。16cmの高級ハムなら、取り合いになるだろう。
ライオンは百獣の王と呼ばれて久しい。たぶんジャングル大帝がテレビで放送されてからだと思われる。動物園で見ると王様であるにもかかわらず、いつも裸で寝ている。もしかしたら、悪い商人にだまされて、裸の王様にされている。正直な私の目には、服を着ているように見えたが、嘘つきな他の人たちには見えないようだった。本当のことを言うと迫害されそうなので黙っていることにした。いつの時代でも賢人(ソクラテスやキリストなど)は迫害されるものである。
もし家でライオンを飼う場合、まずお母さんの許しをもらわなくてはいけない(他人の家で飼うときはいらない)。ライオンの飼育にあきると、お母さんがライオンの世話をしなくてはいけなくなるからだ。お母さんに気に入ってもらえるために、番犬の代わりになるよとか、いろんな芸(火の輪くぐりなど)を覚えるよとか言ってみなさい。しかられるから...
お母さんの許しが出たら、もう大丈夫です。
ところで、お母さんとライオンはどちらが強いかという質問は難しいところですが、実際に戦うにはルールが必要ですから、たぶん悪口ではお母さんの勝ちでしょう。食欲ではライオンが勝つと思いがちですが、納豆やおまんじゅうはお母さんの方がたくさん食べるでしょう。
バカの壁
バカは死ななきゃ治らない.とかバカに付ける薬はないとか昔からバカに対する偏見は厳しい.いつバカの仲間にならないか私も含めて心配だと思う.中国の言い伝えでは馬と鹿の見分けがつかない人を馬鹿と呼んだらしいが,それくらいでバカ呼ばわりされるのなら,馬と鹿を実際に見たことのない人は大勢いるだろうし,馬と鹿を同時に見た人はほとんどいない.しかし,食べた人は多いのでは無いだろうか?それで馬肉と鹿肉の違いがわかれば更に高いバカの壁を越えたと言っても良い(言わなくても良い)
世の中には多くのことに気がつかないいわゆる愚鈍なバカといろんなことに気がつき過ぎてつい欲望の虜になり道を踏み外す人もバカと呼ばれている.アリストテレスは中庸を人の徳と言ったそうだが,世の中のことに敏感になりすぎるのは良くない.特に知能だけ高い人は要注意である.判断力がない場合は悪の道へ入りやすく,頭が良いぶん幹部になりやすい.そしてボスや組長とか姐さん呼ばれるようになると足を洗いにくい.どの道を行っても目的は欲望の充足であるが,迷惑のかけ方は知能犯の方が大きい.人間だけが隣のやつが弱いかバカとわかると,とことんむしり取らないと気が済まない.日々の生活には困らないにもかかわらず,むしり取られた被害者が生活に困るまでやっつけてしまう.どこまでやったら許されるかが判断できないバカな人は,犯罪者にはならない方がよい.
私も含めてほとんどの人は愚鈍なグループに含まれるが,自分では判断が出来ないから,世間を注意深く見て,また新聞や週刊誌やテレビで知ったことをまねする.世間並みとか,世間体を強調すればするほど私は何も考えられないバカですよ宣伝していることになる.バカを説得するのはその人がその概念を持ち合わせていない場合,どういう風に説明しても理解することは困難であり,その場合,国や暴力団であれば強制執行や暴力や脅迫で,バカであるがお人好しの大衆に言うことを聞かせようとする.
バカをバカにしたのは養老猛司教授であるが,バカの味方はこの私である.大衆をバカにして自分を偉く見せようとするのは,偉大な人のすることではない.自分のことを一番理解してくれるのは自分自身であるから,他人にわかってもらえないからと言って他人はバカであると言うのは矛盾している.
あきっぽい
念のため言い添えておくが、紅葉を見たり、歩いている人が長袖になったり、食べるものが妙においしいあのあきっぽいという意味ではない。ちなみに秋とは太っている人はもっと太り、やせている人は変わらないという季節でもある。
私は親からよくあきっぽいといわれつづけて、育ってきた。そう言われ続けてきたから、あきっぽくなったのかもしれない。確かに好きなカレーライスも3日連続で食べ続けたが、4日目は飽きた。人生では夢中になっていたのは中学生時代は車のプラモデル、高校生の時は車のラジコン、大学生は本物の車、卒業したらF1レーサーになるはずだったが、入った大学の関係上、医者にしか成れなかった。本人の思いと現実では違うために、端から見ているとあきっぽいと誤解される。今後は最年長のWRC(世界ラリー選手権)を目指しているが、どこの専門学校に入学すればいいのかわからないし、テレビを見ている限り、腰が痛くなりそうである。何しろ3メートルくらいの高さまでジャンプをしているのだ。教習所ではカーブでは十分にスピードを落とすことと言われ、車の近くに人がいるときには水しぶきや土を飛ばさないように徐行しなさいということが全く守られていない。そう言うことから察すると、運転免許は必要ないのかもしれない。もしかしたら、選手たちはすでに免許取り消しでやけになって運転しているのだろう。そうじゃなきゃあんな乱暴な運転はしないはずである。紳士的な私には運転技術はあっても、周りの人に迷惑をかける運転はできないものだ。レーサーには暴走族上がりの人が多いのも納得できる。
日記をつけるぞと決意したのは、今まで数え切れないほどだ。何度目の決意も、その決意は固く、誠実さがにじみでるようで周りの人も心が洗われるようだと口には出さないが心で思っていた。最初は毎日、そのうち1日おきとなり、土曜日になり、何か気がついたことがあればつけるように合理的な考えで、順調に書きつづられていた。ある時日記をつけなくてはと思い、日記帳を探していたら、前の日記帳を見つけて、さすがに2年前の字は下手だなと言うことを知った。そこで自分で日記をつけるのはあきらめ、人の日記で私についてのところを聞くか、もしくは、私の観察日記をつけてもらうことである。これなら忘れるても、責任感の強い私は自分を責めすぎることもないし、何よりも客観的に自分を知ることができる。客観的に見たらもっといい男だったということも、あり得る話である。
やせ形の人はあきっぽいとクレッチマーという学者が言っていたが、クレッチマーのやせ型の彼女が心変わりをしてほかの男の元へ行ってしまったせいかもしれない。筋肉質の人は粘着気質だが、クレッチマーは筋肉質の女にストーカーされたのかもしれない。ちなみに私は体型的にはやせ形だが、ハリウッド映画界では、標準である。
人とのつきあい方
最初につきあうことになる人は両親であろうが,最初の頃は自らの一方的な要求ばかりで,人付き合いにはほど遠い状態である.親の顔色をうかがうようになるのは,自我ができあがる3歳頃であろう.このころから他人の自我とのぶつかり合いがあり,そこでの敗北は自我の存在の否定に結びつき,他人への服従,もしくは自我の防衛のために他人と接触を避けるようになる.しかし,自我は再び力を蓄えることによって,他人との競争社会に現れることになる.しかし,なぜこのように自我を傷つけるような社会に自ら接触を求めるようになるのだろうか?人間は社会的な動物で自分一人では生きていけないからというのがよく言われる理由だが,他人との交流を意識しなくても,生活していくことのできる現代社会では,自我が発達しすぎて「引きこもり」やある特別な物事にこだわる「おたく」の間でのみお互いに自我に入り込まないかもしくは入り込んでも共通の話題を軸として同じ自我と認めて安全な交流が築き上げられる.
長年,社交界で生きてきた西洋人なら当然感じているだろうが,社交とは人同士の少しだけの傷つけ合いに過ぎない.相手が自己でない限りは100%満足できるはずは無いからである.冗談も近況の尋ね合いも多少であるが相手を傷つけ,相手の警戒心をあおる.つまりこういう社交方法が暗黙のルールとして行われている限りは,その話題はその場にいない人の不幸や中傷や悪口が多くなる.典型的な例がニュースの報道であり,誰も傷つけることのない勝利や幸福なニュースを見たことがあるか考えてみると良い.新聞の3面記事で幸せそうな記事を探してみると良い.幸せなことが少ないのではなく,それらが記事にならないからであることがわかるであろう.つまり人の不幸を喜ぶ人がいかに多いことかわかる.全員でないにしても,他人の不幸を自分の幸福と感じる人との社交は,本音と建て前を際だたせ,偽善者になることを強いる.一方的に自我を抑制して社交する人は相手から利益を引き出そうとする可能性が高い.しかし,ほとんどの場合,自我とは自分をひとかどのものやいっぱしのものとみんなに認めさせることであるから,それがなされたときは相手を傷つけ,なされないときには自分が傷つくのである.以上のことを知った上での社交は知らない場合よりも,社交を重要だとは思わないであろうし,もし人付き合いをやむ終えず持たなくてはいけないときにも,心構えとして知っておけば,苦しむことは少なくなる.
|