雑文 2

このコーナーが始まって、
ずいぶん時代は変わったけれど、
一番変わったのは自分かな?
どうぞ飽きずに、おつきあいください。

125.ヤンキーとうつ2011-07-04

124.ふるさと今昔2011-07-01

123.抗ヒスタミン薬2011-06-17

122.予防医学2011-06-09

121.平和に至る道2011-05-04

120.祝福について2011-03-10

119.脳の限界2011-02-22

118.老学者と若い学者2011-02-22

117.生物と人間(2011-02-21)

116.遺伝病2011-02-17

115.日本気管食道科学会の今後に対する意見(2011-02-17)

114.太く短い生(2011-02-10)

113.事件(2011-02-10)

112.裁判官について2011-01-20

111.TPP加盟2011-01-18

110.スポーツドリンクの功罪2011-01-07

109.自己愛について2011-01-04

108.冬の日本列島改造論2010-12-27

107.前回の追加2010-12-20

106.女の一生2010-12-14

105.エキセントリック2010-12-06

104.心がわり2010-12-06

103.牛人間2010-11-30

102.公理2010-11-30

101.学会匆匆(そうそう)2010-11-29

100.2010-11-26

99.ゲーム論2010-11-25

98.人、国、世界2010-11-11

97.君は本能を区別できるか?2010-11-08

96.進路指導2010-11-05

95.鳥の寿命2010-11-05

94.拝官僚殿2010-10-29

93.五十肩と障害者2010-10-19

92.開業11周年2010-10-18

91.家出2010-10-16

90.寿命2010-9-13

89.意識(2010-8-30)

88.近頃思うこと(2010-6-21)

87.声の個性(2010-6-17)

86.進化(2010-6-11)

 





 

 

 

 

ヤンキーとうつ


 子供はいつ頃から,非行に走るのだろうと調べてみたら,だいたい中学生の1-2年らしい.きっかけは友達とのちょっとした諍い,軽犯罪,いじめ,いじめられ,から始まる.中学生になると,思考能力が急に上昇し,人間関係を気にするようになる.同時に自我が完成し,自己と他人の違いを強く意識できるようになる.この場合,自己中心的な性格が強い場合は,ヤンキーに変わり,そうでない場合,神経質な性格では,引きこもりになる.他人の目が気になりすぎて,自己を押し隠そうとする点は,共通している.どちらも初対面の人には愛想がよい.しかし,徐々に息苦しくなり,何か共通の話題,共通の人の悪口,共通の秘密があれば,相手を受け入れることが出来るが,そうじゃない場合は,自我を隠すため(自我をさらすことが怖くて出来ないため),相手への言葉や権威(家系が優れている,有力者の知り合いがいる,金持ちなど)で威嚇が行われる.ヤンキーを装うことで,精神的な避難所に逃げ込める.実際は自分の想像上の事なのに,敵と見なした人たちからの報復を恐れるため,人の噂を異常に気にする.それで精神的に不安定になり,不眠,または過眠,中途覚醒,易刺激性(すぐ切れる,音に敏感など),気分変調(感情の起伏が激しい),意欲低下などのうつ症状が現れる事もある.
 これを以前の日本の社会では交友関係,親の躾,本人の性格に帰していたが,中にはうつの治療で,社会的適合性が向上する例もあるだろう.私が知っている不良たちの中には気が弱くて,それを見破られないために,いきがっている人が多いように思う.それは,注射とか手術が必要だと伝えると,子供のように騒ぎ出す人がいるからである.将来について漠然と不安があるので,「とりあえず銭や」と,強く金銭に執着する性質も,うつ状態の特徴である.また,官能的なセックスや,酒,麻薬,異性に執着,依存している人も多い.うつ状態特有の意欲低下に対して,覚醒剤を使う人もいる.
 本人の現実逃避とかたづけるのは簡単である.ニート,引きこもり,ヤンキーに悩んでいる本人や家族にとって,うつの治療は,一つの解決策になるかもしれない.精神療法やカウンセリングなどを試してみると良い.最近の抗うつ薬や抗不安薬は典型的なうつ病には効くかもしれないが,軽症のうつにはあまり効果がないし,副作用も多い.おすすめの代替治療はアレビアチンである.うつはほとんどの人類が患う病気である.完治は難しいし,再発もする.しかし、放置や,あきらめ以外にも解決方法が有るかも知れない.




 

ふるさと今昔


 生まれてから約50年弱、福井市という所に住んでいるが、県庁所在地なのでそれなりに町並みは新しくなりつつある。ただ、あまりに変わりすぎてしまった旧市街地は、全く昔の面影はない。県庁の周りは確かに近代的で綺麗になったが、その分、いろいろな制限も多い。小学生の34年生くらいだっただろうか、釣りを覚え始めた時分で、釣具屋で買った一番安い150円の釣り竿を担いで、県庁のお堀へ出かけた。大きな鯉が黒い影を悠々と見せながら泳いでいる。しかし、一度も釣れた試しはない。よく考えたら、釣り上げてもどうしようも無いわけだから、そこでまたリリースすることになるだろう。代わりに水際には、小さなエビが潜んでいて、それを棒で突っついてからかっている閑(ひま)が多かった。現在、お堀端ではそんなのんびりしている風景は無くなり、昼間はゴーストタウンのようにひっそりしている。そして、朝夕は通勤で黙々と歩く人たちがあふれている。何年か前からお堀での釣りは禁止になった。
 大野という福井市の東に位置する人口3万人くらいの市がある。母の実家はそのはずれの坂戸(さかど、地元の人たちはさかんどと言う)という村である。学校の休みの度に、母に連れられて、そこへかなり長期間泊まるのが習慣になっていた。母は教員であったが、何故休みの度に大野へ行くのか話してくれなかったし、私も子供だったので、疑問に思ったことはなかった。しかし、今考えると、嫁ぎ先の福井はおもしろくないことがあったのだろうと思う。私にしたら、大野への小旅行は気が重かった。福井からバスに乗って、行くわけだが、足羽川の堤防の細い道が、昔の158号線である。しかし、舗装されているのは、最初の10kmくらいまでで、天神町からは砂利道に変わる。大きく上下に揺れて、おまけにカーブが深くて、必ず乗り物酔いをした。寒くても、窓をちょっとだけ開けていた記憶がある。現在より狭いトンネルを抜ける。すると、外は林になり、やがてちっちゃな木造の待合室がある坂戸のバス停に着くのである。そこからダラダラの坂を下りて10分ほど歩くと、賽光寺に着く。ここが母の実家である。今は、従兄弟が住職として後を継いでいる。寺の敷地は昔とそれほど変わらないが、子供頃の記憶では途方もなく広かったような気がした。実家の後ろには当時の国鉄の九頭竜線が走っていて、まだ蒸気機関車とディーゼル機関車が交互に走っていた。1時間に1本くらいの本数だった。それで、空いている時間に、線路に降りてみた。それは遠くの機関車の音が聞こえるか、線路に耳を当ててみるためだ。しかし、何も聞こえなかった事を覚えている。今の常識からすれば、大変危険なことだったと思う。それでも好奇心の方が強かったのであろう。九頭竜線の向こう側には実家が所有する山があり、先祖の墓もそこにあった。
 大野の夏は盆地で暑いけれども、山からの風はひんやりとして冷たい、また夜も冷えるので、胃腸の弱い私は、大抵体調を崩して、痩せるのである。しかし、一週間位すると、その気候に順応できた。体調が良くなってくると、そこでの生活が楽しくて仕方がなかったのである。他の楽しかったことは、次の機会があれば書こうと思う。
 町並みを新しくれば、住所は同じでも、ふるさとはそこには無い。街は新しいから住み心地がよいとは限らないなあと感じる。




 

抗ヒスタミン薬


 いままで安全だと思っていた薬に新しい副作用が見つかった.アレルギーの薬は他の薬に比べると副作用は少ない方で,眠気や口渇くらいであったが,どうやらヒスタミンを抑えると,てんかんを誘発するらしい.アレルギー反応では厄介者のヒスタミンも脳内では重要な役割があり,意識を覚醒させたり,抑制性の伝達物質のGABAを増加させる作用がある.おかげでこれを飲むと抑制がきかないために,怒りっぽくなったり,音や光に敏感になるのである.これ以外にもあまり知られていない副作用として視力の調節障害やうつ状態があり,私も服用していたときには,免許の更新では視力検査に苦労したり,内因的には漠然とした不安感があった.それで,薬をやめてみた.当日は全身のかゆみが強くなり,夜はあまり寝られなかった.2日目はかゆみは収まり,睡眠もとれるようになったが,うつ状態が良くなったら,今度は文章を書く気が失せてしまった.たくさん文章を書く人は,プラトン,ゲーテがそうであるが,幸福感を感じにくい人が多いのである.普通の人でも不安,失恋,挫折を味わうと文章を書きたくなる.楽しいこと事をつづった文より,闘病記や,つらいこと哀しいことを綴ったブログが多いのはそのせいかもしれない.私も文に行き詰まったら,また薬を始めるかもしれないが,プロじゃないから別に書かなくてもそれはそれでかまわないのである.それ以外には,視力の調節障害も無くなり,本が読みやすくなった.薬を飲んでいたときには,自分を盛り上げるように,努めて雰囲気の明るくなるような本、ロック音楽,趣味,お笑い,ミステリーなどを好んだが,やめてみたら,哀しいストーリーでも好んで読むことが出来るようになった.たぶん感情移入をしなかうなったせいかと思う.医薬品の作用については,これからもいろいろと報告されるだろうが,基本的に人間の体のことが分からないと,完全に解明されるのは無理である.今の医学の状況は,よく分からない人が,よく分からない薬を使って,よく分からない体を治そうとしている.




 

予防医学

 予防にまさる治療無しというが、まさにその通りである。しかし、現代医学はどうやら病人を減らさないで、製薬企業、政治家(献金めあて)は薬で利益を得ることに腐心しているように思える。新しく開発される薬はどんどん薬価が高くなり、医療費を圧迫している。経済的な理由で使用をためらう人もいるくらいである。予防が重要であることは、紀元前から言われているのに、高血圧や高脂血症や糖尿病の予防を見ていると、全く実践的ではなく、生活習慣を守れない人が続出である。つまり、医者も企業も含めて、予防医学には利益が生まれないので、熱心には成れないのである。食事療法で治るような生活習慣病を、診察時間が無いためか、十分に指導されていない患者が、他の病気で私の医院を訪れる。話を聞いていると、どうやらコレステロールの薬の副作用に思えた。見るに見かねて、薬を止めて、肉食から菜食に切り替えるように指導した。それによって、薬よりもコレステロールが降下したので、患者におどろかれてしまった。もちろん内科医が算定する指導料なんてものはいただいていない。ガイドラインも企業の紐付きが臭うので、私はあまり参考にしていない。アレルギー疾患についても、アレルギー体質を作り出すような環境や食事や生活を直すことから始めないと、薬はただ症状を抑えているだけだから、やめれば元に戻る。ガイドラインに従えば、訴訟については有利になるかも知れないが、画一的な治療、機械的な医者を増やすだけである。高血圧の治療も130以下に変更になったが、これは企業が更に薬を使ってもらう患者のすそ野を広げただけに過ぎない。将来認知症を予防できると勧めているが、薬の副作用による身体的損失や医療費の高騰については無視されている。定期的な運動だけでも20-30も血圧が下がり、おまけに自分の体に健康がみなぎるのが実感できる。
 私の医院へアレルギー疾患で訪れる患者の中に11才の女の子がいる。他院で抗アレルギー剤を処方され、それが効かないので、ステロイドの点鼻薬、更にステロイドの内服まで処方され、抗ヒスタミン薬も処方されていた。薬を飲んでいれば、症状は抑えられるが、やめればまた元へ戻ると訴えて、このまま永遠に治らないのかと、未来への不安があるようだった。そこで、ストレスの掛からない生活を心がけ、乳製品の禁止、肉、魚の摂取を減らして野菜を摂るように指導した。薬はほとんど副作用のない乳酸菌の処方だけ行った。効果については、以前の病院でもらっているステロイドよりは弱かったようだが、母親と本人とも満足している。確かに野菜だから大丈夫とは言えない世の中になってきた。野菜でも、知らない間に日本でも植物の遺伝子組み換えが行われている。除草剤のラウンドアップに耐性を持つように遺伝子を組み換えられた野菜やお米が出回っている。しかし、肉や魚に比べれば、有害物質の汚染度は少ないし、産地が分かる。産地偽装や農薬が心配なら自分で有機栽培も出来る。
 現代の医学は、寿命を延ばすことではなくて、健康に生きるための指針を示すことだ。華々しく高額な遺伝子治療や臓器移植は医学ではなくて、利潤追求の産業である。




 

平和へ至る道

 現代は大戦争が姿を消した変わりに,国家間の戦いはテロによる小規模な嫌がらせへと変貌している.201152日,アメリカの宿敵であるテロ集団,アルカイダの指導者であるビンラディン氏が,アメリカ軍に殺害された.この報道が知らされるとアメリカ国内ではお祭りのような騒ぎある.ニューヨークのタイムズ・スクエアやグラウンド・ゼロで,若者たちが誇らしげに,腕を高く振り上げているのが印象的だった.

 中世の絶対王政が築かれると,次は国同士が勢力を拡大し始める.現代では,ようやく戦争の愚かさ(効率の悪さ?)に気がついた国の指導者たちは,もっと陰湿な方法で自国の勢力を広げようとしている.その反作用がテロである.

 人間は放っておくと自己の権利の為に,他人の権利を奪う内戦状態に陥る.だが,他人と協定を結んで仲良くしたほうが,有利であると悟れば,内戦状態は収まるものである.そのためには,長年の試行錯誤が必要であり,法律が出来たから,ハイそうですかと言うことにはならない.そんな理由で国や民族の争いも長年にわたり続くと予想される.大金を国防予算に使い,福祉や教育などの予算が削られれば,国民の不満がたまる.それを躱(かわ)すために,帝国主義やいろんな場面で国の威信を世界に見せつけるのである.

 わが国の場合はどうだろう。一国だけ,すなわち日本だけが理想的な憲法を有しているが,隣の北朝鮮や中国は軍事費や政策で国民の不満が溜まり,それを補うために隣国を侵略しようとねらっている状況では,理想を貫くことは難しい.日本も最も無駄な軍事費に税金を使わざるを得ない.世界の平和は一国だけがリードしても,それ以外の国が,自国の利益だけを考えている場合,すなわちそこに住む国民が一時的な自国の利益が,自分たちのためになると考えているなら,訪れない.戦争やテロが起これば,大勢の死と経済的損失を伴う。合計して考えば,一時的な利益、第1次世界大戦後の日本の好景気は一時的であった、も吹っ飛んでしまうにもかかわらずである.戦争でいい目にあった国(指導者が勝手にそう思っているだけの場合が多いが)や、戦争やテロを知らない人たちや、忘れてしまった人たちが,争いを続けているように思う.

 人間の歴史は短いけれど,原始時代の隣人の戦いから,古代の家名を巡る戦い,現在では国や民族や宗教の戦いへと徐々にまとまりを大きくしながら、いまだに続いている.いずれはお互いの疲弊によって解決するだろう。しかし,平和が少しでも早く訪れるように努力することは必要である.




 

祝福について2011-03-10


 あなたが赤ん坊の時は覚えていないだろうが、生まれたときはそれはもう家中が大騒ぎである。その誕生は祝福から始まるのである。かつての日本であれば、貧困のため3歳まで成長できる子どもは少なかった。七五三はそのなごりである。若ければ若いほど、皆から祝福される機会が多い。誕生日や入学祝い、進学祝いである。最大の祝福は結婚式であるが、それ以降は、家族からでも祝福されない。誕生日が来るたびに古ぼけていくだけである。じじむさく、小言ばかり並べ、昔の自慢をしているようでは、還暦祝いをやってくれるか怪しいものである。それに比べると、子どもの頃は自分の名前が言えるだけで褒められる。歳をとれば、自分の名前が言えて当たり前で、思い出せないと介護保険の仲間入りである。
 結婚してから約50年間は、祝福を受けずに生きる覚悟が必要である。それには人からの祝福を当てにしない発想の切り替えが必要である。子どもの頃の気持ちで、いつも誰かに祝福されるとか、仕事が出来て褒められるのを待っているのでは行動がさもしくなる。第一子や長男は子どもの頃に多くの人から褒められるから、気をつけなくてはいけない。特に結婚後は、褒められる機会はほとんど無いだろう。
 家長への祝福の無理強いは、家族にしたら気を遣うだけで本心からではない。大人になり、祝福されないことが多くなると、祝福の代わりにお金や出世を求めるようになる。つまり、肩書きや金にうるさい人は、子どもから大人への心構えの転換が出来ていない。自分に科せられた仕事は代価としてお金を受け取るのであるが、仕事が思ったより上手くできたからお礼をよりたくさんもらおうと考えるのは幼稚である。もっと良くないのは、普通の出来なのに、上手くできたように見せかけてお礼をたくさん受け取る事である。大人になってから祝福がわりの権力やお金を集めても、幼少時代に受けた純真な祝福の代わりにはならない。




 

脳の限界2011-02-22


 コンピューターの計算速度は、今やパソコンでさえ、一秒間に10億回の計算が出来る。これは単純な加減乗除に限るが、人間に近い機能をシュミレーションした場合は、一秒間に10-100回であろう。人の頭脳の速さはどれくらいだろうか?脳神経のリフレッシュレートの関係上、一秒間に10回が限度であると言われている。つまり、一秒間に10回以上の音を聞き分けたり、図形を識別するのは困難である。脳のリフレッシュレートとは脳波になって現れるが、一般にはベータ波とかアルファ波と呼ばれている。アルファ波よりベータ波のほうが周波数がやや高いが、それでも一秒間に15回くらいである。コンピュータに比べると桁違いに遅いのであるが、平行して、いろいろな計算が出来るので、今のところ機械には見劣りしない。しかし、一秒間に10回を超える仕事をさせると、たちまちミスが増えてくる。甲状腺ホルモンなど人間の代謝を上げる薬もあるが、それを使っても、2倍に計算機能を上げることは不可能であるし、副作用も大きい。運動選手の脳波の研究は、たくさん行われているが、ほとんどは運動中のリラックスの度合いを計測して、バイオフィードバックで緊張を除くことに使っているようだ。反射神経を必要とする運動は脳波を測定し、ベータ波の周波数を上げる訓練をするべきである。反射神経が必要な運動競技として、フェンシング、卓球、バドミントン、野球の打撃、ゴールキーパーなどである。反射神経以外には、ボールの落下地点の予測能力や、姿勢の制御(小脳機能)や、心肺機能が重要になる。つまり感覚系を鍛えると同時に運動系も鍛えないと、プロの運動選手には成れない。ところで運動が出来るから、人間社会のためになるかと言われれば?である。でも、今の社会システムと大衆の興味が続くなら、スポーツ選手は異性の歓心を買ったり、金儲けをすることは出来るだろう。スポーツ自体は音楽などの娯楽と同じレベルで、崇高なことではない。




 

老学者と若い学者2011-02-22


 学者にとって歳をとるというのはどういう事か考えてみた。誰でも歳をとれば、経験が豊富になる。しかし、それは未来への予想が効かなくなる状態である。予想は経験とは異なり、コンピューターでたとえるならば、何も使っていないメモリーが必要である。そのメモリーに蓄えられた一時的なシュミレーションを繰り返し行い、何度も修正し、正確な結果を予想する。人間の場合なら、短期記憶できる容量が大きくなくてはならない。それもただ記憶を貯めるだけではなく記憶を使いこなす機能が必要になるのである(作動記憶とも言う)。ところが経験があると、この予想することよりも、脳が勝手に今までの事例から結果を導き出す。かくして、老練な学者は経験を重要視し、未来予想が苦手になってしまうのである。見かけ上は経験を元にして多少の修正を加えるので、素人から見れば、すばらしいひらめきだと誤解してしまうのである。TVや雑誌で老練な学者たちが、物知りを披露し衆目を驚かしているが、実際の学者の間での評判は低いものである。それは、経験でしか物事考えられなくなっているからである。学者としての寿命は短いものだと思う。医者の場合はどうだろう。臨床において、新しいことを行うのは、特に最近のご時世では怖くて出来ない。安全に使える能力は経験だから、老医者はやっていけるのである。




 

生物と人間2011-02-21


 古典的な化学生物学から、現代は分子生物学に劇的な変化が有り、これで生物の謎は解き明かされるであろうと、期待する人々は多いが、根本的に生物とは何であるか、いまだに分かっていない。原始生物が突然、無生物のスープである原始の海から生まれたと言われているが、なぜ生物が生まれ出る運命にあったのだろうか?生物と無生物の境界線は有るのだろうか?流行のロボットは、今後、更に進歩すれば、生物の仲間に入るのであろうか?子どもでさえ、生物か無生物かを簡単に識別できるが、それはどのような機序によるものであろうか?皆さんは触れただけで、この猫は生きているかどうか分かるはずであり、どんなに精巧に作られた造花やコンパニオンロボットであっても、それを生きていると考える人はいない。つまり、人は本能的に生物かどうかを見分けることが出来る。量子生物学(この名称はセント=ジェルジ・アルベルトによって付けられた)の領域の話になるが、以下は私の意見である。量子は波動を持って、不規則に存在するが、その波動が生命エネルギーとして生命に宿り、観察者からは、その生命の寿命や活力として目の当たりにすることが出来る。それは、医学的な検査には現れない。生命エネルギーは、個体の精神活動とは関係がないので、認知症だから寿命が短い訳ではないし、反対に精神活動が旺盛でも早死にする人もいる。ただ、生命エネルギーの波動が何であるかはいまだ解明されていないのであるが、他の生命からエネルギーは伝達されるように思う。その証拠として、蝶の羽のデザインが、鳥の天敵である蛇の目玉に似せているとか、スズメ蜂の擬態をしている昆虫とか、理性では他の生物のことなど理解できないと考えられる生物たちが、自然界で生きるために上手くだますのである。ダーウィンが生きていたなら、突然変異論を持ち出して、自然淘汰によるものだと得々と私に話して聞かせるだろうが、都合の良い突然変異が、たびたび起こるものであろうかという疑問が残る。他の生物の波動を何らかの方法で受け取り、それを自分の身体に写しだしたのではと考えられる。つまり、この地球上に生きている生物たちは、どんなに遠くに離れていても、お互いに影響を与えながら暮らしている。それは、人間が理解できる力や環境を介した影響ではないのである。科学的な発見や発明は同じ時期に成されることが多く、どちらが先かと言うことで紛争の種となることもある。考えられるもう一つの理由は、30億年前に始まった生物の時間がスケジュール通りに、発現しているのと考えられる。どんな生物でも時間的に共通して、他の生物の形態や思考を具現化する元(DNA以外の)を有している。その元になるのは量子の波動かも知れない。一つの種から芽を出した植物は、将来、どんな形になるのか誰も予想は出来ないが、遺伝子では決まっている。それ以外に、成長を続ける結晶のように、生物の中にもそれがあるに違いない。




 

遺伝病2011-02-17


 遺伝子異常による遺伝病が次々と発見され、アデノシンデアミナーゼ欠損症や嚢胞性線維症など、いくつかの疾患は既に遺伝子治療がされている。しかしである。遺伝病の定義が曖昧である。生活に不都合な遺伝子を駆逐するのが、この治療の目的であるなら、もし容貌に問題が山積みで、それが遺伝するならこの定義に含まれる。更に先祖代々の貧乏もよく考えてみたら、浪費家であったり賭け事に目がなかったり、犯罪を犯す遺伝子のせいかもしれない。それも治療の対象になるわけだ。またある人の貧乏な理由は、知能が低いことだったなら、頭を良くする遺伝子治療が必要になる。稀な遺伝病の研究をするよりも、それらの遺伝病を治療する研究のほうがよほど需要が多いように思うが、なぜか、だれもそれに異議を唱えない。顔が悪いのや貧乏は遺伝病とは思われていないのかもしれない。つまりそれくらいは我慢しろと暗黙の了解があるのか?しかし、生きていて、顔が良くて大富豪だったり、頭が良くてスタイル抜群ならどんなに楽しいだろうと考えない人はいない。人間はただ生きてさえいれば、幸せなわけではない。ただ、自分としては、人と比べたり、競うことで得られる幸せは本当の幸せじゃないと思うけどね。




 

日本気管食道科学会の今後に対する意見(2011-02-17)

 私は耳鼻咽喉科と気管食道科の専門医であるが、この人の病気が耳鼻咽喉科領域か、気管食道科の領域か、はてさて呼吸器内科領域かと、いちいち意識しながら診察はしていない。更に自分の技量から,耳鼻咽喉科領域は治療がほとんど可能だが,気管食道領域では一部の治療にとどまる.耳鼻咽喉科の患者が多いため,気管食道科専門医の出番は滅多にない。ちなみに気管食道科の検査として、喉頭のファイバーや甲状腺のエコーを行い,それでも異常がなければ食道透視も追加している.また必要に応じてや食道ファイバーも行っているが,近くの医院へ紹介することもある.
 ところで、医療の高度化に伴い、多くの種類の専門医が出現してくるのは致し方ないことである。けれども、専門医とそうでない者との差を付けるために、厚労省の指導のままに、狭き門を作ることにより、専門医という特権意識を植え付けるのは何か引っかかる.病気を治してもらいたい側に立てば,医師全員が専門医でもかまわないわけである.小泉内閣が始めた規制緩和のように、医師を囲い込み,医療技術を細分化し,それに従ったものには専門医としてのドクターフィーを追加しようと考えているのであろうが,医療の公平からは遠ざかっていく.そんなものはアメリカの金持ち相手の医療である。何度も繰り返し言われていることだが,誰が専門医であって,どの医師の腕が良いと言うことは、医者の知り合いも無く、パソコンもインターネットも使えない人には知りようがなく,弱者や老人切り捨てと言われても仕方がない状況を作り出している.それに加えてそれなりの良い医者に診てもらうとドクターフィーが必要となれば,やはり富者の立場に立った制度を目指していると言える.それよりも医師全体のレベルの引き上げや,施設の技術を超えるような症例を他の施設へ紹介する心構えを教育するべきである.今の貧しい医療環境では、経済的には自分の施設で診察を続けたい理由があるであろうし,心理的には自分の診療のあら探しを他の医者にされたくないとか、研鑽と称する初心者医師の練習もある.医者である前に人間であるから,このような心理も恥ずかしいことでは無く,人間らしい振る舞いである.それを医者あれば道徳的であると考えるのは,金メダルを取るような人物なら悪いことはしないとか、講演をすれば、すばらしい話が聞けるであろうと想像することと同じくらい浅はかなことである.医師であるかぎり患者に対する裏切りは重い罪になる(国民に対しては公務員,企業に対しては従業員が裏切ればそれは重罪と考えるように)が,それ以外の罪については他の職業と同じ重さにするべきである.具体的には診療報酬の水増しなどは,大衆の嫉妬から厳罰になる方向にあり,企業の脱税や公務員の横領などの場合は罪を犯した企業や人間が、大衆にとって直接的には無関係であるので、処分が甘くなりがちである.大衆の感覚も、せいぜい倫理的に許せないとか,あぶく銭に対しての嫉妬である.
 貴学会は医師全体のレベルアップに加えて,この学会に属する医師の利益保護を優先目標として,国に働きかける必要がある.国から、専門医が多すぎるとか、学会が多すぎるとか、医療経済の効率という一方的な理由で論破されることがないように政治的に働きかけることが出来るくらいの学会になってほしい.さもなければ,国の方針で学会の制度が左右され,会員の団結が衰え,会員数の減少ひいては空中分解を起こしてしまう.
 とかく人は人の悪口を言い,他の学会と差を付け,自分たちの学会の優位性や権威に寄りかかり、専門医としての特殊性ばかりを追求し,更に国の方針に追い風を受け,学会同士でも勝ち組、負け組を作り出すことになる.しかし全体の医療技術水準を平均をすれば,専門医制度が始まる前と変わらないというお粗末な状況になってしまう.挙げ句の果てには専門医が増えれば、その反動として、一般医を増やせ!という論も浮上してくる.専門性を高めて一部の医学が進歩して、絶対的な寿命が延長しても、人生の幸福は無いわけである。(寿命を510年延長することが人間らしく生きることにつながるかどうかを考えてみると良い)この社会から利潤を吸い取る人が(たいていは富は持っている)最先端の医療を受けて長生きし,人に与えるばかりで自分の財産を築けない人(たいていは貧しい)が必要な医療を受けずに苦しむのは,心が痛む.
 職業集団であり,医師の権利を維持する大きな力を持つ日本医師会に比べると,小さな集団である貴学会は個人に対する関心や密着度も強くなるはずであるが,その分強制力を高めようと,専門医になれることを報酬にして団結力を強めているが,専門医の人数を絞ると,漏れた医師は意欲が失せてしまう.厚生労働省の方針を見ると,専門医資格を保険点数に反映するようにし,それを餌に多くの学会に影響を強めようとする悪意と、国民へは医療技術の向上目的という欺瞞が見て取れる.数を絞った専門医制度にこだわれば,更なる医学の中央集権を認めることとなり,それを作りだした国家(国民のための国家ではなく,国家のための国家)から独立した診療は困難になる.学会で頂点にいる先生は学問に重きを置くため、医学については揺るぎない正と誤を判定できても,行政や人間が作り出した法や国家(何が国家を規定しているのかは不明だが,たいていは人種や宗教がその枠組みになるので,いまだに人間的な不確定な部分が多く紛争の原因になっている)についての対応は経験不足であることは言うまでもない.学会の運営については人間の生物的な構造よりも、心理的哲学的に人間を知り得た人が司るのが望ましいし,学会の権利を侵されると予想される場合は国会議員を介したロビー活動もあって良い.人間を相手にする限り、科学万能というガリレオやダーウィンたちだけで学会運営を乗り切るのは,行き先も分からない船に乗って乗客はそのことについてお互いに一言も話さない様なものである.まずは学会の行き先を会員に示し,その目的には利己的なものがあっても良いのである.倫理的な事柄を目的にすると偽善的になり,表面的には崇高な精神がただよい,穏やかな雰囲気の学会になるが,行動力のないひ弱な学会になるのは人と同じである.

(以上の文章は気管食道学会へ提出した小論文に、平易になるよう若干の変更を加えた)




 

太く短い生(2011-02-10)


 アメリカには長生きできるなら、いくらお金を払っても惜しくない人がいるそうだが、臓器移植の状況を見ていると、日本でもそんな考えの人が増えてきたかも知れない。老化が原因の病気ためにテロメアを延長する技術や、臓器不足を補うために幹細胞による再生医療が人気である。しかし、それでは老化は解決しないように思う。これらの研究は違う方向へ向かっている。
 人間の体細胞は古くなれば、やがて新しい細胞に置き換わるが、その時の細胞分裂で、DNAに必ず何パーセントかのコピーミスが生じる。減数分裂**のように、一度限りの細胞分裂ならそれはほとんど問題を起こすことは無いだろう。分裂可能限界の156回ほど分裂をすると、確率的にもそれは無視できないエラーとなる。それ以上分裂できないのはテロメアが短くなるためだと生物学者たち*は言うが、それは細胞として、エラーが許し難い程度まで、発生しているからである。その場合、細胞は自動的にアポトーシスのスイッチが入り、死滅することになるか、不十分な機能のまま生き残るかである。不十分な機能の細胞が多くなり、アポトーシスで減った細胞の数を埋めるために、更に機能の低下した細胞が分裂をすることになる(歳をとるとキズの治りが遅くなることを想像してほしい)。よって、老化とはこのようにコピーミスで出来上がったオンボロの細胞をやむなく使っている状態である。細胞分裂をしない心筋細胞や脳細胞はどうして老化するのかという質問には、こう答えよう。それ自体は老化はしないが、周りの支持細胞の老化の影響を受けるのだと考えられる。心筋細胞なら冠動脈の老化(動脈硬化がほとんどである)が、狭心症や心筋梗塞を引き起こすし、脳細胞であれば、脳動脈硬化に加えて、神経細胞の周りにある膠細胞(神経細胞に栄養を補給すると言われている)の老化が神経細胞の減数や機能障害を起こす。だからテロメアの延長をいくら望んでも、オンボロの細胞が増えるだけである。わかりやすく人間の例でたとえるなら、働けないけれど死ぬほどではない高齢者が増えるだけである。これはそのままテロメア延長で延命された人間社会に当てはまる状況である。どう考えても分裂でDNAのコピーミスは発生するわけだから、原本にはその人の持っている正確なDNAを使わなければいけない。幹細胞は分裂する能力が他の細胞よりも強いから使うらしいが、それで臓器を作っても、今までにたくさんの分裂を繰り返していたならば、コピーミスは更に多くなるわけだ。出来上がったばかりの湯気の立っていそうな新品でありながら、年老いた臓器では何の意味もない。クローン技術もこの部分が問題で、最近は話題にならないのである。クローンで生まれたときに80歳の臓器を持っている赤ん坊の寿命は短いに決まっている。細胞から臓器を作るのなら、生殖細胞から作らないと、赤ちゃんのような新品の臓器は作れないのである。しかし、いまだにセックス以外で生殖細胞が分裂を開始する方法は見つかっていないのである。(クローン技術における体細胞の分裂開始は電気刺激であったが)

*石川冬木博士、ブラックバーン博士ら。
**
母細胞から精子または卵子が作られる分裂。DNAの数が半分になるのでこの名称を使う。





 

事件(2011-02-10)
 
新聞を読まなくなってから2年、テレビのニュースを見なくなってから1年。マスコミの偏向と独りよがりが激しくて見ちゃいられない。ネットで事件を知ることが多いが、その傾向として気がついたことがあるのでここで述べる。事件を起こす人たちは、隣人と揉めても離れる事が出来ない持ち家がある人、もしくは年齢的なしばり、仕事でこの場所から離れられない自営業者など。追い詰められて、事件を起こすことが多い。人が集まるからグループ(一番小さなものは町内会だろう)を作って、決めごとを作り、半団体生活を強いられる。それだけならまだしも、グループの中で優劣が作られ、下のものは上のものに遠慮をするようにと暗黙のルール(道徳と呼ばれることもある)が出来上がる。人間が農耕を行うようになってから、村が出来上がり、更にそこで牛や馬や農機具の売買を仲介する商人も現れる。更に工業化が進んで技術者たちも住むようになり、町へと進化する。そうなると長年、培(つちか)った商売上の関係や、自分の私有地があると他の土地へ移り住むことは、結構難しい。自分の子どもたち以外は生まれ育った土地を離れることは出来なくなるのである。しかし、故郷を離れ、流動的で革新的な考えを持つ子どもたちでさえも、長年、彼の地で暮らしているならば、いずれその場所に固執するようになるだろう。
 普段おとなしくまじめな人が事件を起こす場合、背景にはストレスがあることは疑う余地のない事実である。都市にはストレスの解消のための歓楽街や飲食店、娯楽設備が用意されている。そのお陰で、健康を害している人たちと、ストレス解消にお金を使いすぎて貧困に陥る人であふれている。準備されている麻薬的なストレス解消装置を上手く使いこなせないと、いつかは自分や他人にその掃け口が向かうこととなる。東南アジアでは日本の物価の1/3から1/5である。ある程度資産のある人しか行けないが、1千万円の貯金があれば、五千万円の価値があるわけだから、あちらで暮らすのも悪くは無い。しかし、人生に失敗した一文無しが暮らせる所かどうかはその人次第である。いわゆる死ぬ気でやればなんとかである。実際に試さなくても、駄目なら新天地でやり直すと言うことを心の片隅に置いておけば、ストレスも解消されるだろう。仏教ではこれを執着しない心として、涅槃へ至る修行とされているし、昔から(もちろん人間の言い伝えや文字を残せる関係からせいぜい4,5000年前程度だが)同じことが繰り返されてきたのだろう。更に昔の人間たちがどのように暮らしていたのか、想像することも出来ないが、人口の少なさから考察すれば、他の部族に出会うことはめったに無かったであろうから、食べ物、住処(すみか)、女を巡って部族間の争いは無かったに違いない。そうなると仕事の協力のために人が集まることもなく、序列化や権力闘争は全く無かったと想像できる。
 今更、大昔の暮らしに戻るのはナンセンスである。しかし、このまま自然が人間に寛大であるならば、順繰りに世界中が先進国化する。やがて全人口は減少に転じ、人間は滅ぶのかも知れない。絶滅はしなくても、地球上で他の動物におびえながら、細々と暮らして行くに違いない。しかし、その頃なら誰に気兼ねなくどこへでも行って暮らすことが出来る。飛行機や車は無いから、歩くしかないが。




 

裁判官について2011-01-20


 私は医療訴訟のことしか分からないが,最近の判例を見ているとトンデモ判決が見られる.例えば,風邪薬を処方されたときに,医者から薬剤情報という紙も一緒に渡されると思うが,それに,自動車の運転はしないようにと書かれていてる.しかし,医者がその紙を渡したが,口頭で直接に患者へ伝えなかったというので,たまたま居眠り運転で事故を起した患者が訴えて,処方した医者が有罪になった.一つの判例できあがると,それに今度からは従わなくてはいけない.それは不公正な実例が世の中にたくさんあることより悪い.この判例のどこが悪いか分からない人も多いと思うけれども,裁判官は法を解釈する人であるが,それは法を細かく適用して民衆に一つ一つ守らせることではない.常識で分かるようなことを説明不足として訴えるのは,争いのための訴訟である.このような訴訟は,裁判官は取り上げる必要がないのである.無理な解釈で医者の注意義務違反として有罪にするのは,法律による拷問である.この判例が適用されるなら,今後は患者の前で長々と書かれた副作用(薬によっては5ページもある)を読み上げる必要がある.副作用の多さに恐れをなして,きっとその患者は薬を飲まないだろう.裁判官が,法の罠を仕掛けて,弁護士と一緒になり裁判所を賑わせていたら,その国は滅びてしまう.裁判官は事例に関しては厳しくなることが必要であるが,人間に対しては慈悲を持つべきだ.時局に乗ろうと,目立つ判例を下している裁判官がいることは嘆かわしいことである.特にしゃべりすぎる裁判官は要注意である.皆さんも裁判官の国民審査の時には,出来ればネットで調べて,どんな判例を下したか調べてください.目立ちたがりで,頭の回転の速さを誇ったり,短気な人は裁判官には向いていません.やる気がなくてボンヤリしている人も裁判官には向きません.その裁判官は書記官が作った調書をそのまま鵜呑みにして,自分で調べることなしに書類だけで判決を下すからです.公正な書記官の調書なら大丈夫かも知れません。でも、不平等な考えを持つ書記官なら,その調書はきっと偏っているでしょう.
 裁判所の中が他の役所のように腐敗しないことも重要です.そして相手につけいる巧妙な弁護士や,陰の力や,原告の激しい怒りに左右されない平等な裁判官こそ望ましい人です.




 

TPP加盟2011-01-18


 TPPについては、私の説明で物足らなければネットで調べてください。でも、簡単に言うと農作物の輸入自由化です。関税無。ところが、日本の食糧自給率が下がるから自民党が、大農家の利益を守るために共産党が反対している。しかし、農業をしていない人々には、食料品が値下がりするし、輸出相手国の関税が無くなり、良いことが多いような。更に農作物を出荷していない零細農家にとっては、TPP加盟で野菜の値段が下がっても関係がない。第一、自民党や一部の知識人が言っている食糧自給率なんて、残飯として捨てられている食料がどれだけあると思っているのだろう。それらがすべて誰かの口にはいると考えて、計算しているから自給率は低くなって、当たり前。更に外国の自給率との算出方法とも違うから、わざと自給率を低く算出して、危機感を煽っている。日本人は糖尿病や高脂血症が多く、カロリーを摂りすぎていることを考えれば、一人あたりのカロリーはもっと低く設定できると思う。そうすれば、計算上、自給率は上がります。もっと言えば、食用の家畜は、輸入穀物や使用する石油エネルギーや使用薬品の環境汚染や、糞尿から出る温暖化ガスのメタンの排出などを考えると、非常に効率が悪くて環境負荷が多い。高級肉牛一頭でヒト何人分の食料を消費しているのか考えてほしい。もし天候不順で食糧難になり食料が高騰すると一番困るのは、お金のない大衆と、農作物を出荷していない零細農家である。商業化した大規模農家や酪農家や金持ちは、高くても食料を買えるし、国や組合の保証があるから困らないのである。
 TPP加盟こそが食料の民主化だと思うのであります。たぶんスーパーに並んでいる食料品は安くなるし、価格も安定します。




 

スポーツドリンクの功罪2011-01-07


 功,これは言うまでもなく,脱水症の減少です.これまでに小児の脱水症について大きな貢献があったのは間違いありません.手の入りやすさと,CM効果です.スポーツドリンクの中でアクアライト(和光堂)という薬局でしか手に入らないスポーツドリンクがあります.OS-1(大塚製薬)とかアクアサーナ(森永)と言う名前かもしれません.厚生労働省認定の小児用脱水症治療薬です.一般に売られているスポーツドリンクに比べると,塩味が強く,甘みが足りません.そのせいで,一般にはあまり人気がないようです.これが高価だという人は,自分で作る方法もあります.水100mlに塩3g,砂糖を30g加えてみてください.ほぼアクアライトと同じ構成になるはずです.とくに乳幼児の場合,普通のスポーツドリンクでは,塩分不足から水中毒になるので,味は劣りますが,上記のドリンクがよいようです.
 次にカロリーを考えてみましょう.スポーツドリンクのラベルを見ると,エネルギーとして何キロカロリーと表示されていますが,これは100mlあたりのカロリーですから,500mlのボトルなら5倍,1000mlなら10倍になります.代表的なポカリスエットのカロリーは100ml当たり27kcalと表示されています.これを1リットル飲むと,カロリーは270kcalを摂取したことになるのです.これはごはん1.5杯に相当します.気をつけておきたいのはこの頃の健康ブームで飲料メーカーもカロリーオフ,ダイエット,ライトと言う名前をつけて低カロリーをアピールしています.しかし,これは健康増進法に基づく表記で,100ml当たり20kcal以下であれば,この表示を行って良いことになっています.更にカロリーゼロ,ノンカロリーは100ml5kcal未満なら表示して良いことになっています.その場合,カロリーは0(ゼロ)とラベルには書いてあります.食品でも砂糖不使用と書いてあっても,加工段階で砂糖を使っていないだけで,後の味付けには砂糖を使っていることがあります.缶コーヒーでは表示が清涼飲料水と異なり,100mlあたり砂糖2.5g以下なら微糖と表示してよく,0.5g未満なら無糖と表示して良いのです.砂糖1gあたり4kcalなので,微糖でも200mlの缶コーヒーなら20kcalあります.まあ,これくらいなら5分くらいウォーキングすれば解消できますが.
 ペットボトル症候群という病気をご存じでしょうか?一般にスポーツドリンクは炭酸飲料よりも糖分が多量に含まれているので,これを日常生活で水がわりに飲んでいると,急性の糖尿病や脚気になることがあります.
 それから,ゴルフ好きのお父さんへ一言.昼食にアルコールを摂られる人がいますが,脱水気味のところへ,利尿作用のあるアルコールを飲んだのでは,脱水症になってしまいますよ.午後も元気にラウンドしたいなら,アルコールは控えましょう.

おまけ
カロリーの話ばかりでしたので,塩分の気になる人へ.
食塩の表記には昔と違っていろいろな表記法があり,それの換算方法を書いておきます.
パーセント表記は液体の食品や飲料水に使われています.
塩分0.2%で100ml摂取したら,
100
×0.2÷1000.2
この場合,食塩0.2gです.

ナトリウム表記(mg)なら
500mg
のナトリウムは
500
÷1000×2.54(食塩の分子量/ナトリウムの分子量)=約1.27gの食塩になります

ナトリウムイオンNa+(mEq/L)という表記
もしNa+50mEq/L500ml摂取したら,
摂取したナトリウムは25mgなので
25
÷1000×58.5(食塩の分子量)=1.5gの食塩になります.
難しいので,計算式だけ覚えても良いです.




 

自己愛について2011-01-04

 人間である限り,自己愛を持たない人はいないと思うが,それは自分が属する組織や社会の利益と天秤にかけなくてはいけない.自己愛が強すぎるとどうなるだろうか?新聞などでお目に掛かるのは汚職や横領である.組織が会社であれば潰れてしまうことがあるかもしれない.それに対して,国だから大丈夫だと,せっせと小銭を貯める公務員もいるかもしれない.そこまでしなくてもサボタージュやサービスの悪さは国全体としては,国に対する国民の信頼感の低下,国が決めたことが下部組織に徹底されない事による国益の損失につながる.病気で言えば,癌みたいなものである.癌細胞自身は自己の保存を目標とする.栄養補給のために血管を作り,抗ガン剤を分解する酵素を作り出し,増殖し続ける.けれども宿主もろとも滅んでしまう.人間自身が癌細胞だけで構成されているなら問題は無いが,いままでそんな人にあったことはない.
 人間の話に戻ると,上司が出した命令を自分の都合のよいように手直しして,上司の命令より部下の命令の方が優先されるなら,やがて歪んだ国や会社の方針は重大な結果を招くことになる.更に問題は,そのような部下は上司の受けが良いことである.そして,少しだけ欲深い人間じゃない場合,外部から指摘されることは少なく,世間に知られることも無いだろう.なぜなら,そんな小利口な人は人の事を良く見ている.だから,上に立つ人は顔色を読まれないように気をつけなくてはいけない.顔を面と向かって話さないとか,文章で意志を伝えることが望ましいのである.彼らの仕事ぶりは,一定ではない.玄関が立派でも,ひとたび中に踏み入れば,空っぽの家にたとえられる.何かきっかけになる事があれば,仕事もしくは汚職,横領を行い,気持ちが収まれば,一休みという案配である.きっかけとはふとしたことで家のローンが気になるとか,偶々やってみた投資やギャンブルが失敗したときである.もしくは平凡な日常に耐えられず、酒,漁色(ぎょしょく)で解消しようとすればお金がかかる.仕事が一定に出来ない人,つまり他人の目のないところや,目があっても自分に影響のない人の前では,手を抜く人は自己愛が強いと思う.

「賢者は足下を見て歩く、愚者は抜け道を探して歩く。」




 

冬の日本列島改造論2010-12-27


 冬になると、自然と裏日本だなぁと痛感する。こちらは雪で困っているが、表日本は天気が良くて、乾燥注意報が出ている。なんだか同じ日本なのにとても不公平な気がする。今住んでいる場所の、ちょうど東側に八幡山という低い山がある(標高139m)。それくらいの山でも、医院の辺りとは1-2度気温が低く、雪が多いのだ。同じ島国でもイギリスは高い山が少なく、丘陵地帯が多いので雪は少ない。北陸の雪の原因は、日本アルプスだ。これを少しでも削ると、裏日本の雪はぐっと減ると思う。しかし、霊山であるとか、自然保護とか言う人たちがいるから、なかなか実現は難しいだろう。削る方法だが、削岩機でちまちまやっても大変だから、ビル解体で活躍している専門家に協力してもらって一気に吹き飛ばすのがいいな。高山で作業が難しいなら、自衛隊を使って爆弾を落とすとか、使わないで期限切れになったミサイルを撃ち込んでもらっても良いね。それくらいやってもらわないと、表日本は裏日本のお米や電気や労力で成り立っているのだから。特に福井では関西の人たちのためにたくさん発電している。しかし、親分の高速増殖炉が試運転でいきなり事故や故障しているし(H225月と8月)、もういろんな原発の部品の寿命が尽きているに違いないから、新しく建て替えをしないとだめだ。でも、それは近くに住んでいる人間としては心配なことである。




 

前回の追加2010-12-20


 前回の「女の一生」を見た女の人からバッシングが有りそうなので、追加しておきます。一般的には伴侶にふさわしい人がパートナーに望ましいと書きました。でも、相手があなたに一生懸命恋愛をしていると、とても平静ではいられないのです。恋愛をしていなければ賢い相手も、あなたの前ではミスだらけです。おまけに、恋愛は女を綺麗にすると言いますが、度が過ぎれば、寝不足、自分の美容にも手が回らず、やつれていくと思います。結局、有能で望ましい伴侶とはあなたにぞっこんではなく、好きだけどそれ程ではない状態なのです。どちらが良いかはあなた次第ですが、付き合っている相手が失敗ばかりしているとか、最初の頃よりやつれているからと言って、責めたり、落ち込んだりしないでください。きっとその人はあなたに夢中だと思います。恋愛をしていなければ、スマートに何でもこなす人かも知れません。




 

女の一生2010-12-14


 結婚は男女にとって非常に大きな人生のイベントだと思う。できちゃった婚は性的な男女のつながりを重視している人たちだと思う。そのようなカップルは、ルックスや富や健康をバロメーターにして相手を選んでいる。お互いに若いばあいは、精神的な成熟度が脆弱で、親の薦め、友達の薦め、あるいは流行に応じて相手を選択することになる。同じような職業同志で結婚する場合は、主に芸能人でよく見られるが、見栄やプライドが高いし、交際範囲が狭い。つまり同じ職業イコール価値観が同じと言うことで選んでいるわけでもない。同じことが弁護士、医師など職業的に地位が比較的高い場合にも言える。
 特に職業にこだわらなくても、中年期は伴侶としての役割が重要になる。そして老年期は介護人としての資質が問われるときである。セックスアピールがあなたより優れた相手だと、結婚後一緒に並んで歩いてくれるとは限らないのである。もしあなたが政治家なら、相手は伴侶としての資質が問われるが、良い介護人になってくれるかどうかわからない。
 青年期、中年期、老年期を通して好ましい結婚相手見つかればいいけれど、若い人にそれを見通す力を求めるのは無理な話である。しかし、結婚式での宣誓は台詞(せりふ)ではないのである。「その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」と、このように契約されるのである。でも、あんまり深刻に探すと、一生独身だ。人生はやっぱり賭(かけ)である。




 

エキセントリック2010-12-06


 あなたは自分をエキセントリックと思ったことは無いだろうか?私はある。ある人がエキセントリックだからと言って、精神病院や刑務所に入れられないのは、他人に迷惑をかけていないからである。その場合、エキセントリックな人はそれ以外の人にとって、どのように映るであろうか?たぶん自分の身内なら、真剣に精神病院や刑務所に入れられないか心配をするであろうし、あるいは将来自活していけるか心配になるかもしれない。他人なら、そんな風には考えない。変人は一般的におもしろいのである。些細なことをムキになっている人や、空気を読めない人が、その場にそぐわないことを言うのはエキセントリックであり、笑いを誘う。反対に狡猾や小利口は笑いを誘うことはない。
 社会的にはエキセントリックな人は益にも損にもならないが、確かに本人以外に笑いを提供する。それを知った上でエキセントリックを装って、現代の言葉ではキャラが立つと言うらしいが、民衆の笑いをとることは芸人に多い。しかし、エキセントリックを売りにする場合、長期間にわたって人気を保つことは難しいみたいだ。お客も自分自身もそれに飽きてしまうように見える。エキセントリックな人は時間が経過すると、装う人とは異なりエキセントリックな変化を遂げる。装う人はいつまでも演技であるから、作られたエキセントリックはいつまでも同じである。それはいずれ飽きられてしまう。
 エキセントリックな人にとって、社会的に正常な人と上手くやっていくことは、なかなか難しい。しかし、芸人ならやっていけると思うのである。本人が何で人から笑われるのか、分からないままなら悲惨だが、理解するなら、コメディアンとして大成するに違いない。




 

心がわり2010-12-06


 若いときには楽しみにしていたテレビの恋愛ドラマが、だんだん熱中して見ることが無くなった。また、小説も「若きウェルテルの悩み」や「罪と罰」の後半など、かつて一生懸命に先へ先へと読み進んだ気持ちが無くなってしまったような気がする。子どもや青年の頃には興味有ることに対して、繰り返し読んだり見たりしていたように思う。それが時間の浪費になるとか、繰り返しの無駄を考えることには繋がらなかったようだ。今は繰り返すことを避けると言うより、論理的に物事を運ぶことが出来るようになったようだ。経験が増えることで、頭の中を整理して、隙間を空けないと記憶したいことが頭の中に入らないような気がする。小説の場合、その時代の常識や風俗が分からないと、細やかな人の心の機微が理解できないし、価値観が違うと主人公に感情移入できなくて、第3者的な立場にとるため、悲劇でありながら、喜劇に思えてしまうこともある。例えば、主人公が愛し合うフィアンセと離ればなれになりながら、ある偶然がきっかけで、再会を果たして結ばれるというストーリーでさえ、そんな都合良いことがあるはずがないと考えてしまうわけである。都合がよいことや悪いことが日常からかけ離れ過ぎていると、冷めてしまうのはたぶん経験の深さや論理的な思考がそうさせるのである。日本の風習や考え方からかけ離れた海外の小説になると、感情移入しやすい人もいる。ハリウッド映画が日本で人気なのは日常からかけ離れているせいだろう。これならひねた大人でもストーリーよりも目新しさで楽しめるのである。また韓国ブームは儒教の考えが残っている人たちの間の現象である。大河ドラマも、感情移入が出来なければ、贔屓(ひいき)俳優の鑑賞会に成り下がる。ドラマを見ている年寄りの会話を聞いていると、演技が下手だとか、男前であるとか、この女優も老けたねとか、この人は敵か味方か?腰が痛いがどうしたらいい?とかストーリーを楽しむことよりも他の事に興味があるのがよくわかる。ドラマや小説とは、本来は若者が熱中する娯楽であろう。ただ感情移入が出来るかどうかは本人の責任だけでもなく、小説やドラマを作る側にもある。何を視聴者が求めているかわからない制作者が多い。わからないから、原作を人気コミックに求めたり、地デジにして画面の綺麗さや便利さでごまかそうとしているように思う。決して私が地デジのテレビを持っていないから、地デジをけなしているのではないです。ちなみにドラマの内容や問題提示ならヨーロッパ>>アメリカ=日本、制作費ならアメリカ>ヨーロッパ>日本かな。以上、個人的な意見も混じっています。




 

牛人間2010-11-30


 現代は遺伝子操作して大腸菌にいろいろな薬を製造させるのが流行(はやり)である。化学的に合成しても同じだと思うけれど、なぜか薬価が高い。それでどの企業も力を入れている。薬の後ろにシブが付いているので見分けられる。大腸菌は原核細胞であるから、自分のまわりにあるゴミでもエサだと思うらしく、何でも身体の中に取り入れてしまう。当然その中にはDNAの破片も含まれる。それを役に立つかどうかは分からないが、自分のDNAに取り込んでしまう。しかし、何度も細胞分裂を繰り返すうちに、長く成りすぎたDNAは邪魔なので切り捨ててしまう。抗生剤の耐性の特性をもったDNAならば有用なのでそのまま保持されるが、いずれ必要が無くなれば、それを捨てる。多細胞生物の場合は、特に人間の場合、たくさんのDNAが含まれる食物を摂取するにもかかわらず、牛人間やお米人間にならないのは、真核細胞でDNAがしっかりと核の中で守られているからである。それでも、人間のDNAに余剰な遺伝子がかなりあるのはウイルス感染による追加が行われているからかも知れない。おまけに多細胞のお陰で遺伝子の複製ミスがあってもその個体は生き残ることがあるので、いろいろな体質を持った遺伝子が子孫へと受け継がれるのである。それはミュータントとか突然変異と言われている。DNAを子孫への情報伝達だと考えるなら、異常な遺伝子をもつミュータントは、雑音成分に当たるはずである。しかし、生物が余計な雑音を持ったまま複製を避けるのなら、交配を介して増やすことよりも、クローン生殖で完全に親に一致した子どもを残すはずである。実際そのような方法で子孫を作る蟻や蜂、一部の両生類、魚類は存在する。ただし自然は環境変化をもたらす。そのような生殖方法で子孫を増やせば、環境の変化に対応できなくて全滅する可能性がある。交配も突然変異も原核細胞が行うDNA取り込みも、様々な環境に対応するための生物の知恵だと考えられる。気候が温暖で食料も豊富で住みやすくなれば、今の人間社会がその住みやすい状態に近いけれど、今後、遺伝子操作でその環境に最も適合した個体を作ろうとするのは、当然のことだと思う。だたし、未来の環境に変化がないことが条件になる。更に遺伝子工学が進化して、体質から病気を治すと称して、遺伝子操作の治療を行えるようになると、現在の環境に特別に適応した遺伝子マップに収束する。そして、食糧難や温暖化、寒冷化、疾病などの影響で、一気に人口が減るかも知れない。遺伝子操作を行わなくても、遺伝子を調べることでどの病気にかかりやすいかなど、今の医学レベルでも可能なことがある。配偶者選びに遺伝子検査が係われば、遺伝子操作と同じ結果をもたらす。DNAとは知らぬが仏であるが、知ってしまった以上は、更に遺伝子工学が進化しないと、中途半端な目先だけの有用性だけで使用していると、大量絶滅に行き当たるかも知れない。たとえば、糖尿病体質の人は食料の少なかった時代には、とても有利だったはずだが、現代では逆転している。同じように塩分を身体に貯めやすい人は古代では塩が貴重であったから有利だったはずである。しかし、今では高血圧症として病人に分類されてしまうのである。





 

公理2010-11-30


 久しぶりに数学と物理学の事を考えてみよう。数学において証明を必要としない理論を公理と言い、それから派生する理論を定理と言う。幾何の公理とは一つである。平行する直線は無限に延ばしても交わらないと言うことである。これはユークリッド幾何学では認められているが、実際にこれを証明することは不可能である。閉じられた宇宙で、無限に伸びる直線が空間でどのようになるのかは誰も予想できないからである。もし、平面がゆがんでいる場合、平行な直線は交差するだろう。簡単には、風船に平行な直線を書こうとしても無理なことから理解できる。私たちが使っているユークリッド幾何学とニュートン力学は、非常に狭い範囲でしか通用しない数学と物理学である。同じように私たちが見ることができる光の波長は非常に狭いし、また私たちが裸眼で観察できる時間の単位も狭いのである。ちょっと速く物体が動いたり、反対に植物のように非常に遅く動くものに対しては、その動きが見えない。霊長類と自画自賛しているのは、思考能力が卓越しているからで、感覚器については他の動植物に比べるとたいしたことはない。
 人間にはたいてい通用する賄賂も動物たちには通じない。猿やイノシシにこれ以上畑を荒らさないでくれと、お金を渡してもやめない事を見れば明らかである。人間世界のある特定の状況でしか通用しないものは、あまり大事ではないと考えられる。食料品を考えてみれば、私の場合あまり高いものを食べたことがないので自信がないが、ウニやマグロや松阪牛や越前ガニは高価な食品だと思うが、必需品ではない。反対にお米や小麦やキャベツや牛乳や卵などは安いと思う。この世の中を見てみると必需品は高くはない。他の動物や植物も必要とするものは安いのである。人間だけが好む食べ物は高価だと思う。ユークリッド幾何学のように人間が感じ求めているものもよく考えないと、狭い状況でしか通用しないものかも知れないし、不要なものかもしれない。




 

学会匆匆(そうそう) (2010-11-29


 このところ学会がほぼ毎週である。診療時間が仕事時間と考えている医者や医者以外がいるけれど、実際は学会や研究会、講習会、自修も仕事時間ではないかと思う。大量の知識と経験の大海の表面に、診察と治療が結晶する。そのことに気がつかない人たちもいるように思う。自院では待ち時間が少ないからわからないが、一時間も待ったのに5分間しか診てくれなかったと文句を垂れる人もいるらしい。診察時間が長いから良い医者とは限らない。世間話や愚痴を聞くのも診察時間に含まれている。決められた時間で、たくさんの患者を診ればそれなりの時間しか取れないのだろう。時間をかけて話をすれば、人間的には満足感は深まると思うが。
 短い時間で間違いのない診断を下すのは、剣豪の真剣勝負と似ている。めったに負けることはないと思うが、まれに強者がやってくる。敗北、即ち誤診は職業的な破滅をもたらすこともあるから気が抜けない。自分はそんなに気力が続かないから、長年は医者をやれそうにないと思う。老医者がたまにテレビで話題になるが、不思議である。
 学会の質について話そう。医学部の大学教授だから、人に教えるのが上手いかと言えば、ピンからキリまで有る。誰でも知っているようなことを、のんびりと聞き取りにくい声で話されてもつまらない。かと思えば、ご自分の専門の事を早口で話されるのも、最先端の話と言うことは理解できるが、全体的にはちんぷんかんぷんである。有料の講師であるからには、もう少し興味が持てるような話し方を心がけて、退屈しないようにしてほしいものである。この間の日本耳鼻咽喉科専門医講習会も、出席者が2千人と言いながら、会場はまばらである。旅費を使い、結構高額な講習会費を払っているが、魅力のない講習が行われている。学会に観光目的で来ている人もいるから、その人達を振り向かせるくらいの優れた講習会にしてほしいのである。
 学会中そんなことを考えていたら、なんだか腹が立ってきたので、会場にあったアンケート用紙に、苦言を書いた。今後、講習会が改まるかどうかは分からない。魅力があろうが無かろうが、講習を受けなくてはいけないのなら、ネットを使って設問を設けるなりして、講習の理解度を計るようにしてくれたらと思う。そうすれば、遠い場所まで診療を休んで行かなくても良いわけである。質問や討論については、ライブ中継をすれば事足りるかなと思っています。




 

2010-11-26


 自然界には、個々に生活する生物と群れて生活する生物が見られるが、これはその生物を観察した時期によって異なるのではないだろうか?良く引き合いに出される一匹狼とは、青年期でまだペアを持たない状態、もしくは何らかの事情ではぐれてしまった個体を示す。通常、狼種は血縁関係で群れを作り行動する。
 エサが豊富で生きていくのにそれ程困らなくなれば、生物はバラバラに行動する。これは原始的な粘菌から人間まで同じである。開発途上国では大家族が多いし、経済的に恵まれた西側諸国では、核家族化、シングルマザー、一人暮らしが多くなる。日本もその最先端になると思われるが、個々に生活能力が十分あれば、核家族もしくは一人で暮らしていく傾向がある。反対に家族全員がそれぞれの役割を分担して労働しないと成り立たない家族は、それが見られるのは都市化が進んでいなくて大きな産業は農業である地方が多いと思うが、血縁関係を基盤に集団を作ることになる。わが国の少子化を抑制するなら、生物学的な本能に訴えるのが一番効果的である。つまり、一人では生きていけない環境である。工業や商業から、農業などの第1次産業中心の国に戻ればよい。更に道路も整備せずに、地方で生活が完結できる状況が必要になるがこれは明治時代に遡ることになる。つまり、日本では一人で生きていける環境がそろっているので、子どもを産むことで労働力の増大や血縁関係の大家族を目指す人は現れないのである。自由経済は、すべての人に平等な安心感を与えてはいない。生活できない不安がある家族は、本能的に多産になるかもしれない。
 究極の飢餓状態では共食いや、食物を巡って争いが始まると言うけれど、まずはお互いに力を合わせて一人一人はみんなのために働くのでは無いだろうか?つまり人間の中にある原始的な秩序の一部は、道徳と呼んでも良いかもしれない。原始的な単細胞である粘菌は、危機の時には、お互いに引きつけ合って、生き延びる新たな多細胞生物に変化する。その引きつけ合う原動力になるのはc-AMP(環状アデノシン一リン酸)である。人間の中にも危機状態になるとお互いに引きつけ合うホルモンがあるかも知れないし、粘菌と同じようにc-AMPが同じ役割を果たすのかも知れない。それが解明されれば、頭で仲良くすべき道理が理解されなくても、戦争は無くなるのじゃないかと思っています。




 

ゲーム論2010-11-25


 息抜きにビデオゲームをする人が多いが,ゲームの息抜きに仕事や家事をしている人もいる.隣の家族は,朝起きてから寝るまで,ゲームにのめり込んでいるようだ.いつだったか,挨拶を交わしたときに「子供がうるさくして済みません。」と言われたことがある.しかし,夜遅くだったり,子供がいないはずのお昼もゲーム音楽が聞こえてくる.ご主人は,仕事の合間だろうか,突然帰ってきたかと思うと,ゲームの音楽が聞こえてくる.これは,ゲームの方が優先された生活といえる.私も以前はパソコンの息抜きのつもりのゲームに夢中になってしまったことがあるから,その経験からお話ししよう.まずはRPGの場合,弱い敵をやっつけてお金を儲けて,食料を買ったり武器を買い集めたりする繰り返しである.それ以外に,目新しいイベントがあるが,ほとんどは同じ事の繰り返しである.アクションゲームやシューティングゲームは徐々に強敵が出てきて,最後にはボスキャラというかなり強い敵が出現する.そいつを撃退すれば次の面に進むことが出来る.失敗すれば,最初から始めなくてはいけない.敵をやっつける行為というのは人間の日常から言えば,仕事である.仕事に行き,他人を相手にして,お金儲けをして,それで食料や日常品を購入するのはゲームの中でやっている事と同じである.ボスキャラは会社や学校の昇進試験や受験と同じであり,失敗すれば,やり直しの運命が待っている.それを繰り返して徐々に昇進する人は,ゲームを楽しめるが,何度も失敗する人は,やがてゲームをプレイすることをあきらめ,挫折感を味わうことになる.ゲーム自体をすっかりやめてしまう人もいるだろう.その状態は,まるで引きこもりかニートの状態と同じである.何もすることが無く,挫折感だけがつきまとう.
 人生と同じ事をしているのがゲームであり,人生のミニチュア版ではないだろうか?人は元々ミニチュア化することが好きである.おままごとから始まり,小説,劇,テレビドラマも人生の縮図であり,それを好むのが人間である.ゲームも人間の日常生活を上手に抽出して縮小するストーリーが人気があるように思う.いきなりとんでもない成功や,いつまで経っても平社員や足軽では,おもしろくないのである.ただし、どちらが主なのか考えないと,時間の浪費になるかもよ.




 

人、国、世界2010-11-11

 スピノザは言った.人間一人では何も出来ないし,生活すらも出来ないと.だから国家が必要である。人は多くの人と協力して大きな力を発揮する.しかし、せっかくまとまって国になっても、今の世界の状況は残念である。たとえば、手っ取り早く統一国家になろうと、国民よりも政府を優先させている専制的な国もあるし,いち早く統一された国もあるが、どちらも自国の権力や支配領域を増そうと,依然としてまわりといがみ合っている.人間が一対一で揉めるより,国同士は大きな力の戦いである.戦争になれば、双方に大きな損害がでる.せっかく作り上げた国が,大きな戦いを引き起こすのでは何の甲斐もない.これからは人種,言語,宗教,経済にとらわれた集団の覇権争いはやめて,大きな集団として機能しながら,目的は人間一人一人の幸福を求めるべきである.しかし、すべての枠を超えて一つにまとまるには,世界中の人間が協力し合わねばならない。今の状況を見ていると、世界の団結が必要になる天変地異,宇宙人の侵略でも起こらない限り,協力し合わないだろう.なぜなら,何事もなければ,人間は個人的な権力を広げることに夢中だからである.宗教も最後の審判など末法的な未来を予言し,信者たちの結束を高めようとしている.キリスト教,ユダヤ教,イスラム教、仏教など布教を目的とする宗教は同じ理論を使っているように思う.他者との争いは、人間が動物よりも思考能力が高度なため,本能で区切られている領域を超えて,奸計や謀略で相手の権利を奪おうとすることが原因である.それは,動物とは異なる「人間の本能」といえるものだから,抑制することは不可能である.人が大きな社会としてまとまるには外界からの脅迫が必要である。脅迫とは環境的なものになる可能性が高い。




 

君は本能を区別できるか?2010-11-08


 道を挟んだ向側に新しそうな小さな家がある。去年の冬、車の出入りのため、道路に溜まった雪をその家側の道路へと除けた。すると次の日には、張り紙がその家の壁に貼られていた。「こちら側へ雪を寄せるべからず」と書いてある。家人の出入り口がそこにあるわけではないし、敷地内へ除けたわけでもないが、気に入らなかったらしい。いつも周りを見ているのだろうか?ある日、近所の飼い猫が家出したので、飼い主が自宅の周りを何度もぐるぐる歩いて探していたそうだ。今まで、隣の家とは地境に仕切りは無かったそうだが、それ以来、ロープが張られるようになった。以上の2つの話を考えてみよう。どちらも自分の縄張りに入り込んでくる敵を見張っている動物に似ているように思う。
 子どもから大人になって社会に慣れる課程には、大人の複雑化した本能を理解する必要がある。何かをしてもらったら、必ずお返しをしなさいとか、人に会ったら挨拶をすることも本能的な振る舞いになるだろう。ある人がその人を助けたいと思ってする行為はお礼を期待しているわけではない。さもないと歳末の募金は記名式になり、募金をもらった人は借金を負わされることになる。挨拶も本来の目的はあなたに対して敵意がないですよと言うサインである。人間全員が仲が良いなら挨拶はいらない。
 人間の行動には本能と理性と徳があることを理解し、それを意識して区別するべきだが、世の中、本能的に行動する人が多くて困る。例えば、芸能人が容貌が優れて、スタイルも良いと人気が集まるのは、カップリング本能である。格闘技では、強いと人気が出るが、それは腕力が強い人の元に集まる防衛本能である。元々、格闘技自体が闘争本能の表れである。権力者や金持ちをちやほやするのも何かおこぼれに預かりたい人間の奴隷本能である。戦争の原因も突き詰めれば、人間の闘争本能である。
 子どもに比べると大人の本能は複雑である。複雑すぎて、大人自身も本能と意識できず、よく考えないで道徳、公共の福祉、常識とか言う言葉に置き換えられている。その動機には本能が含まれているが、他の人も同じ本能があるため、全会一致する。だから、正しいと言う結論になる。
 本能をすべて否定しては、人間社会ではやっていけない。私も全く理性的な人ではないが、この世は本能で行動している人が優勢だ。本能的な宣伝や商品を企画する会社ほど儲けている。脂肪と糖分だけの食物や若者を悩殺する芸能人に人気が集まる。理性的な人は少ないから、変わっている、青臭い、世間知らず、などと悪口を言われている。これから人間社会も成熟して、少しずつ理性的な人も増えてくるだろうが、それまでは本能的な人への対応も重要である。まずは、自分から。自己の行動や感性について、本能か理性か徳かを判断することが必要である。本能と理解して本能的に行動するのと、本能と知らないで本能的に行動するのとは全く異なるからである。




 

進路指導2010-11-05


 将来どんな道を進むのか?


 子どもの進路については、親なら誰でも悩むことだと思うが、私には経験がないのではっきりは知らない。もし、幼少の時から動物が好きで動物の世話や観察ばかりしていたら、その方面については動物園の職員よりも豊富な知識と経験が備わるかもしれない。またテレビゲームに熱中して、攻略方法やそのゲームの世界の中の知識が増え、更に好奇心のある子どもなら、性能の良い他機種のゲームにも興味を持ち、更にインターネットからも知識を吸収しようとするかもしれない。でも、自分の興味の赴くままに、熱中することをずっと続けていけば、その方面はいっぱしのものになる。しかし、学校もろくに行かないとか、学校へ行っても学ばないなら、社会的には一人前とは言えない。特に現代は読み書きができれば十分という時代ではないし、インターネットもまんべんなく網羅した知識ではなく、半分は根拠のないうわさ話とデマであるから、それを見分ける能力のない人は閲覧しない方がよいと思う。
 ある生徒は幾何や微分積分を学んで、将来役に立つのかと聞くだろう。答えはたぶん役には立たない。しかし、数学とは論理的に考える方法を学ぶ学問である。物理も同じである。古文はどうだろう。日本独自の感性を知る学問である。学校とは実務を教える所ではない。人として生まれたからには、人らしく考えることを学ぶ場所である。私は詰め込み教育には賛成だが、文科省は「考え方を学ぶ」という本来の学校教育の目的を見失っているようにも思う。
 義務教育は、100年以上試行錯誤を重ねて成り立った教育である。社会科で教える歴史については賛否両論あるが、大多数の人が義務教育の利益を受けているのは事実である。更に、現代では高校教育を受けていないと、広く深い常識が足らないので、社会に出てから、幅広い交流において不利になる。義務教育後、社会に出てから教養を身につけようと努力する人は少ない。特に日本では働きながら学校に入り直すのは難しい。そうなると付き合う友達は同年代、同環境に限られそうな気がする。
 教育をあまり受けていない人の代表として、スポーツ選手、芸能人、ニート、ミュージシャン、芸術家などである。我が才能が発現しているときは、社会的に通用するが、やがて才能も容姿も年齢と共にくたびれてくる。それに気がついて実業家に転向したり、他の仕事を始めても、ほとんど失敗しているように思える。
 常識はテレビや新聞の3面記事を読みあさっても、身につかない。せいぜい身につくのは下世話な感覚とスノッブ(俗物)が出来上がるだけだ。時間をかけて、計画的に教育を受けないと、それも若いうちに教育を受けないと身につかない。
 私も40を過ぎてから哲学、宗教を勉強したが、記憶力が弱くなっているのを感じる。内容は覚えていても、どの本に書いてあったかが思い出せない。そんな時には心配になって、昨日の夕食の献立を思い出してみたり、今日は何日か確認してみる。思い出すまで、ハンサムな哲学者のように考え込んでしまうこともある。





 

鳥の寿命2010-11-05


 昔、幼なじみの家に文鳥が飼われていたことを思い出し、鳥の寿命をネットで調べてみた。その前に、私が今までに飼った生き物をここに紹介する。始まりは、6,7歳頃だと思うが、無断で地所の離れ小屋で子犬を飼っていた。けれども、23度エサをやるのを忘れたら、いつの間にか居なくなっていた。その後は親から生き物は飼っちゃだめだときつく言われたので、飼わなかった。たぶん、家人の中に動物が嫌いな人がいたのではないかと思うが、それが誰だったのかはよく知らない。大学院生の時に生理学という研究をしていた。そこで実験に使って、失敗した動物が年に何匹か出る。通常は安楽死させられるわけであるが、かわいそうなので、もらってきて家で飼うことにした。大きさ10cmの白いメスのハツカネズミである。名前は当初から特に思い入れも無かったのでネズミと呼んでいた。しかし最後まで名前を付けることは無かったように思う。生理学の実験では脳幹へガラス電極を使って、色素を電気泳動で注入するのだが、詳しいことは忘れてしまったが、上手く注入できなかったので、失敗と言うことになった。一度、頭の中を開けられているし、消毒もそれ程きちんとしていないのに、とても元気なネズミであった。約2年ほど生きて、ある朝、死んだ。その1週間前から、元気がなくて、じっとしていることが多かったように覚えている。更に詳しく言えば、1ヶ月前から、食事の量が減り、毛並みも悪くなってきたようだった。2年というのは、ハツカネズミの雌では長生きした類で、普通は1年くらいが寿命だそうだ。そう思うと少し気が楽になったように覚えている。社会人になってからは、生き物を飼ってもそれほど小言は言われなくなったが、このハツカネズミは実際には嫌われていたようである。特に祖母は、夜中にカサカサ音がするとぞっとすると言っていた。昔の家には天井にネズミが多かったらしく、その名残(なごり)だと思った。
 さて、鳥の話に戻ろう。ほ乳類では、一般に身体が小さい動物ほど寿命が短く、身体の大きい象などは6070歳も生きるらしい。心臓の拍動回数が決まっているとか、生殖可能年齢の5倍だとかいろいろな説がまことしやかに言われているが、鳥の寿命には当てはまらない。それどころか、鳥の一番の死亡原因は事故死らしい。
 野生動物の死因を調べる学者がいるらしいが、かなり難しいと思う。死んでそのままの死体が残るでもなく、他の動物の腹の中に入ってしまったり、ペットのように墓場があるなら良いけど、どこで死のうと自由勝手で、見つからないのではと思う。少ない例数とは思うが、報告では激突死、離陸時の骨折で飛べなくなり他の動物に襲われるなどである。小さなハチドリでも6-7年、文鳥でさえも15年は生きるそうである。カモメは70年、アホウドリは100年生きるそうだ。それも死ぬ間際まで、繁殖能力があるのだから、これからはマムシドリンクじゃなくて、鳥を食べる人が増えそうである。爬虫類の動きが遅いのは、変温動物だから体温が低いので、素早い動きが出来ないと学校では習ったが、エサを捕まえる一瞬の動きはとても素早い。だから、体温が低いから動きが遅いとは言えない。本人じゃなくて本ワニから聞けると一番良いが、実は爬虫類はとても疲れやすいらしく、一度でも激しい運動をしてしまうと12日、じっとして疲労回復するいう説もある。じっとしている時間の方が長いので、それを見た人間が爬虫類は動作がのろいと言う印象を持つのかも知れない。上司の前だけきびきびと働く世渡り上手の部下が、上司から働き者だという印象を持たれるのと同じである。私はそれが上手くできなくて、上司からは働き者とは思われず左遷された。




 

拝官僚殿2010-10-29


 こんにちは,私は地方の一開業医です.それほどあなたたちのように実践に関する知識も権力もありません.大学の法学部は今では医学部よりも上で,一番権威のある学部と言われていますが,昔は法律は実務に関することなので,かなり下部の学問と見なされていました.司法試験もようやくロースクールを卒業することが受験の条件になりましたが,それまでは誰でも弁護士や検事に成ることが出来たのです.ただ,法律が民衆に対して,権力を持っているから,それに携わる人たちは権力を持てるのです.だから勘違いしないでほしいのは,法律は民衆のためにあるのであり,あなたたちの権力や利権を集めるためにあるのではないのです.かつては,一人の王様がこの国を支配していましたが,やがて,官僚制度ができあがると,少数の高級官僚貴族が国を支配するようになり,民衆は立法については無知なので,あなたたちが作る法律については,十分に吟味しないで,立法化してきました.最悪なのは明治時代から昭和の初期です.自分たちは何も危険にさらされることなく,名誉や勇気や利権のために戦争を仕掛けて,たくさんの民衆を犠牲にしました.しかし,その張本人は東京裁判まで,裁かれることはありませんでした.隣国の驚異に備えて,一部の人たちは軍拡を進める気運を高めようとしていますが,軍備のバランスを取るのは難しく,ほんの少しのきっかけで崩れて戦争へと突入します.それは歴史を見れば明らかです.
 先に行動ありきと考える軽はずみな官僚が,もし結果が悪ければ,いろんな言い訳をしてそれを合目的化しようとします.あの場合は仕方がなかったとか,相手の国が予想外の行動だったという取り繕いは聞きたくありません.更に,自分の責任を否定して,部下にそれをなすりつけたり,世論がそうさせたというような言い訳も聞きたくありません.言い訳するならまだしも,まったく責任を取らなくて良いのが,官僚なのです.そして一番陰湿なのが,自分たちが都合悪いと思った階級や人々に対して,マスコミを使って民衆と不仲にさせて,自分たちは民衆たちの味方になり援助するように見せかけて,敵対者をつぶすやり方です.たくさんの政治家がこの手順でつぶされました.たしか医療で国がつぶれると国民をけしかけたのも同じやり方でしたね.
 社会が成熟していればこんなやり方でだまされる民衆はいないのですが,残念ながら我が国はまだそれほど成熟した社会ではありません.したがって,このような不正に気がつかれること無しに,また一部の民衆に気がつかれたとしても,強大な権力者は.それに臆することなく,権力の座に居座るのです.そして得るのは政治的な名誉であり,権力なのです.道徳的なことではないのですし,国民のためでもないのです.
 ところでこの言葉はご存じでしょうか「正義は為されよ,たとえ悪が滅びるにしても.」国が違えば,考え方が違うわけで,勇敢に他国との紛争で戦っても,それが,一方的な考えの押しつけである場合には,永遠に問題は解決しないでしょう.本当の悪なら自己矛盾を抱えているでしょうから,いずれ滅びるのです.国民に対して怜悧なあなたたちも,外国に対しては意気地がないので,それについては安心していますが.
 あななたちが行っている事をわかりやすく公表することが,国民の幸福につながりますので、高慢な自己判断でやられては良い行政とは言えないと思います.
 言葉が足らずお気を悪くされたならば、お許しください。では、健康には人一倍、気をつけられていると思いますが、お元気で。




 

五十肩と障害者2010-10-19


 最近,左手が上がらないと思ったら,五十肩だったので,なんでこんな病気になるのか考えてみた.まずは大きな理由は老化である.その次は運動不足である.若いときには運動不足でも,五十肩に成らないのは,筋や靱帯が柔軟だからである.どちらも引き延ばされることで柔軟性を保っている。(この点では輪ゴムと同じで、ずっと放っておくとカチカチだ。).かといっていきなり強い力で引き延ばそうとしても,かえって筋肉や靱帯を痛めるだけで逆効果である.(この点でも輪ゴムと似て...やめよう).慣れない人は他動的に関節を動かそうとするが,筋肉内の出血や靱帯を痛めることになる.痛くなり始める手前でやめて,その状態で十秒間維持するのがよろしいようだ.根気よく,毎日少しずつ行うのが良く,弱い力で持続的に引っ張るのが望ましい.一般に筋肉が短くなるために起こる拘縮は,大きな関節に多く,靱帯の短縮による者は指などの小さな関節に多い.
 更に痛いからと筋肉を使わないと,一日あたり1−5%の廃用性萎縮が起こる.不思議なことに,片方の肩が痛いと,反対側の肩も使わなくなるようで,軽度の廃用性萎縮が起こる.更にその状態が持続すると骨にも廃用性萎縮が起こり,骨折しやすくなる.私の場合も利き腕じゃない方に障害が起こった.もし左手が完全に麻痺してしまったのなら,残っている機能を伸ばす,この場合は右手の機能や足を使い左手の代わりにすることを考えるのだが,今のところそれほどではない.五十肩くらい,いずれ治ると思っていると,回復しても以前のような機能を持った状態までに回復するとは限らないのである.時間が掛かれば掛かるほど,機能は低下する可能性がある.教科書では,三-十二ヶ月で何事もなかったように元に戻ると書いてあるが,関節の拘縮を残すこともあるようだ.
 障害を負った人は,つい健康だった頃と比較してしまいがちである.マイナス面のみクローズアップして,悲観的な考えから,やがてうつになることが多い.それよりも残っている機能を更に高めてやることが重要である.そのためには,既存の価値観を変える必要がある.五体満足とか人並みにと言う考えである.横並びの人間をめざすより,個性的な能力を磨くことが望ましい.残念ながら,日本のような農耕社会では,すべての人が一線に並んで労働をしてきたために,それからはずれる人たちを見下す傾向がある(特に地方では).自分の障害を正しく認識し,劣等感を持たず,人間としての価値が決してそれで低くなったのではないことを知らなくてはいけない.
 障害を持った場合,今後どうなるか予想することも,回復を助ける一因となる.先行きの分からない初めての障害の場合,まわりの素人から励ましを受けても,それほど力にはならない.それよりも,症例をたくさん診てきた専門家である医師から説明を受けることが,回復の力となる.たとえ治らない障害でも,精神的な立ち直りは,生きていく上で重要な力となる.通常,障害を克服できたかどうかは,日常生活上での復帰,特に定年前なら,仕事が出来るかどうかが分かれ道となる.完全に昔の仕事が出来るとは限らない.特に,手足を使う仕事の場合はなおさら復帰が難しい.もし可能なら,職場を変えることも良いかもしれない.それについての相談はやはり専門家と相談しながら,進めるのが望ましい.介護者も心配のあまり,何から何まで介助すると,その人の身体的な回復はもちろん,精神的な依存性をもたらすので,介助は慎重になされなくてはいけない.




 

開業11周年2010-10-18

 開業してからもう11年が過ぎようとしている.あと働ける時間は10年少々かなと思う.考えてみれば,開業医とは*隠者と似ている気がしないでもない.今でも大学に残っている同級生はすでに教授になっているし,病院に勤めている者は科長や副院長くらいにはなっている.会社で言えば,部長や重役クラスである.しかし、それからの出世は、なかなか大変である.運が良くないとそのままで終わってしまうこともあるし,上司との関係で悩み、開業する場合もあるだろう.開業医の仕事は毎日が同じ繰り返しで,気を張っていないと,目標が見えなくなりそうである.目的が業務の拡大なら,老健施設を建ててみたり,更に患者を集めたいなら,広告を増やしたり,日曜祭日にも診察を行えばよい.手術を売りにして集患を目論(もくろ)む診療所もあるが,年齢的にそれをこなせる期間は短いように思う.せいぜい10年くらいだと思うが、それ以降は体力というより精神的に堪(こた)える.年をとると集中力が続かず,知識が増えれば、医療以外の事に気をとられ、医療事故につながるからである.部下に若い医師がいれば話は別だが,手術から術後管理まですべてに気配りをするのはとても疲れる作業である.とかく目的を持って持続的に仕事を続けるのは,どの分野でも難しい.特にそれが毎日同じ仕事の繰り返しで,かつ,気を抜けない仕事ならなおさらである.
 ところで開業医といえば、ゴルフをする人が多いが,練習を含めれば,かなりの時間をそれに費やす.運動による健康維持の効果は認めるが,大いなる暇つぶしである.暇つぶしと言えば,テレビゲームも暇つぶしの代表である.人間であるからには生まれてから一度も暇つぶしをしたことがない人はいないと思うが,その節制は難しいものである.ゲーム業界,ゴルフ,野球,パチンコ業界等々,暇つぶしが一つの仕事として成り立つ事もあるが,プロまで行くとなんとなく悲壮感があってつまらない.
 自営業として開業医を見直すと,規模としては小さな事業所になるが,技術職であるので,利益率は他の業種より高いようだ.ただ国民の関心が高いせいで,世論によって制度がよく変更になり,高齢の医師にはついて行けなくなる.また,制度や利益を突き詰めてうまく経営しようと思うと,肝心の医療の技術がおろそかになるのは,いただけない.つまり,今の制度では,規模を大きくしてたくさんの人材を使い,新しい制度にも臨機応変に対応できる若い人を育てるか,出来るだけ規模を小さくして,可能なら院長一人で全部まかなえるくらいが良いと思う.その中間では,短期間ならうまく回っても,がんばれる期間が短いようだ.私の医院も開業当時は中程度の規模だったが,その後は入院をやめて,小規模に変更した.
 開業から時間が経つと,なじみの患者も増えてきた。とても返済できないと思えた借金も半分以上消化できた.しかし,我が身を振り返ってみれば,進歩したのは,年の功とも言える診断技術と,抜け目のない経営技術かもしれない.しかも,これらは医者をやめれば役に立たないのが欠点だ。


*俗世間から逃れて山奥などに隠れ住んでいる人。隠遁いんとん者。隠士


 

家出2010-10-16

 ある事情から、長年住み慣れた家を出ることになった。その理由はここで話しても、読んでくれた人が私の立場にならないと分からないし、理解もされないだろうから、話すほどではない。今、済んでいるアパートの大きさは2LDKである。転勤で病院の官舎やアパートに住んだことがあるが、所詮、仮住まいと考えていたので、身の回りのものしか置いていなかった。おかげで、それ程、部屋が狭いと感じたことは無かった。しかし、今度はすべてのものを持ち、引っ越した。今まで済んでいた屋敷に比べると10分の1くらいの広さである。アパートには庭は無いから、それも含めるなら、30分の1である。その代わり、家や庭の手入れに悩まされることは無くなった。また近所の細々としたもめ事やうわさ話に一喜一憂することも無くなった。引っ越した最初の頃は、お風呂場や脱衣所が狭くて、手をよくぶつけていたが、2,3ヶ月もすると器用に上手くぶつけずにすますことが出来るようになった。当初は寝返りする度に手や膝に青あざを作っていたが、それも少なくなったようである。
 そもそも親が子供に財産を残し、それを維持して、孫に残そうとするのは、よほど幸運なことが続かないと無理である。子孫のできが良く、働き者で、健康で、おまけに社会情勢も変化しないという条件が必要になる。昔住んでいた町内でさえ、家を捨てていなくなった人は数え切れないほどいるし、また後から住み始めた人も数え切れないほどである。そして、幸運にも昔から残っている人たちを観察すると、富を持っている家ほど、お金に執着しているように見える。それくらいじゃないと、財産は子孫に残せないと思っているらしい。手持ちの財産では心配らしく、土地活用にご執心である。残念ながら、実家もその集団の一員である。市街地で無理して田畑を作っているのも、食料に困ってのことではなく、税金逃れのためである。私も30歳代くらいまでは田植えや稲刈り、その他いろいろなことを手伝わされてきたが、40歳以降はその考えについて行けなくなり、手伝いを止めた。そもそも奴隷のように休みの日まで労働するのが、偉いことだとは思えなくなってきたのである。奴隷でも休みはあるだろう。
 引っ越し先が狭いのだから、いらないものは処分せざるを得なくなった。蔵書もたくさんあったけれども、既読した本は愛読書じゃない限り、2度と読むことはないので処分し、愛読書もなるべくかさばらないように文庫版が出ていればそれに買い換えた。雑誌類はスキャナーで取り込んだ。40年以上前の作っていないプラモデルのストックは思い出深いので、医院の倉庫に移動することにした。私がこの世からいなくなるときにはガラクタとして捨てられるとは思うけれど、それまでは手元に置いておきたい。




 

寿命2010-9-13

 昨年の4月から介護保険審査会の委員をお上から承っている.今まで、耳鼻科には関係の無いことだと思っていた介護保険が,おかげで理解できるようになったのは,不思議な天の巡り合わせである.たとえば、介護老人保健施設は、病状は安定しているもののすぐに在宅へ戻れない等のため要介護認定を受けている高齢者へ、介護やリハビリテーション等を提供する施設であり、介護療養型医療施設は、急性期を終え長期にわたり療養を必要とした患者のための医療施設である、なんてことも、ようやく理解した。

 最近になり,介護保険の給付を受ける人数が増えているように感じた.それは月に1回の介護審査会が,たまに月に2回になる.昭和20年代には人生50年だった寿命が、今では男79歳,女86歳である.寿命が延びた理由として、医学の関与は少ない(抗生剤くらい)。多くは栄養や衛生など,公衆衛生学上の進歩に依るものらしい.もしも出生率の低下と老齢人口の増加は、医学がもたらしたとすると,医学とは人間の種に対しては,何の貢献も、もたらさなかったようだ.人口の年齢分布を歪めて,全体的な老化をもたらしたとするなら,貢献どころか,悪化させたように思われる.

 70歳を古稀と言うが,昔は70年も人間が生きていると言うことは稀だったからだろう.70歳まで生きることは普通になったのは,ほんの最近になってからだ.50歳まではほとんどの人は医者に掛からなくても普通に生きていけるように人間の体は出来ているらしい.だから,それ以降になるとたちまち医者の世話になる.つまりお金が掛かる.

 アンチエイジングと言う言葉をよく聞く.老化に抵抗することが流行らしいが,どんなに若返っても,いずれは年を取るわけだから,切りが無いように思う.それよりも科学や医学の進歩が何をもたらすのか,そろそろみんなで考えてみる時期に差し掛かっている.どんなに健康な人も,いずれは彼岸の地に踏み入る。急死することを除いて,たいてい自分の寿命が尽きることを,やがて自覚せざるを得ない.それを忘れるためだろうか,ひたすら何かに打ち込んでいる人をたまに見かける.ところで,芸能人やスポーツ選手は年を取ると表舞台に出なくなる人が多い.反対に政治家やどこかの国の王様は年を取っても結構目に付くことが多い.芸能界に比べると,政界や王様界は実力主義では無いのだろうと思う.年を取れば,容貌や判断力,論理的な会話力が低下するので,老醜をさらすことは避けるように思う.当然,老医もそれに当てはまるが.

 もし医学が全く進歩しなくても,たぶん人間という種は今まで続いていたであろうし,どんなに進歩しても,未来に何らかの天変地異で滅びることもあるのだ.科学の進歩がすばらしいことでは無くて,人間は進歩しなくてはいられない本能があるのではないかと思う.その証拠に便利なものが発売されると,経済的なことを考えないならば,当然のように古いものから乗り換えて行くではないか.この本能に惑わされることがないように,老狐は生きていくのがいいようだ.(私なら新車を次々と乗り換えるより,古い車をメンテナンスする方が楽しい)

 長生きする人が増えれば増えるほど,医療費がかさむのは小学生でも分かることであるが,高齢者が多い民主主義の時代では,誰もそれを面と向かって言えない.若いときの不摂生が高血圧や高脂血症,糖尿病をもたらし,やがて脳梗塞を起こして介護を必要とする.かつてはもっと節制しなさいと個人の生活まで国が指図をすることは出来なかった.ところが,今では健康のかなりのことまで国が関与するようになっている.表向きは国民の健康を心配してのことであるが,本音は医療費の削減のように思う.その証拠に,保険割合を下げて簡単に病院に掛からないようにしたり,後期高齢者は別の保険に加入されたりしている.後期高齢者医療制度は,負担を増やすのが容易である.それは良くないと民主党はすぐに撤廃すると言っておきながら,いまだに継続している.政権を取ると,本音を言えなくなるのがありありとわかっておもしろい.

 今は老化して苦しんでまで生きるのはいやだなと思いつつ,私が実際にその年代になったら,理性的に考える能力もなくなり,ただ日々の欲望と本能的に生きることだけを望んでいる人間に成り下がっているのかもしれない.せめて精神的な死は,生物学的な死よりも早く来てほしくないと思うのであります.頭がしっかりしていれば良いのかと言えば,うつ病に陥ることもあります。でもそれは人生の影なのかもしれない.




 

意識2010-8-30


人の意識はどこから現れるのか、最近の研究を調べてみると、1.能動的なプロセスの結果である。2.短期記憶が関係している。3.随意運動をコントロールする。以上が心理生理学者の意見である。神経生理学者が血眼になって、意識を司る神経細胞を探しても見つからないので、近年では意識に関しては研究することをやめてしまったように思う。4番目は私が考えたことであるが、感覚からのフィードバックが意識を作りだしているように思える。外からの感覚が全くない状態を考えてみると、それは睡眠時とよく似ている。睡眠時でも、血中の二酸化炭素の濃度や、血圧や、膀胱からの満水のお知らせなどたくさんのセンサーから情報が脳へ送られてくるので、完全に意識がないとは言えない。つまり、大きな声で呼びかけるとか、身体をつねったりする刺激によって、目は覚まさないまでも、寝返りをうったり、反応を見ることが出来る。これらがほとんど無いと考えられる脳死の人を想像してみると、強い刺激にも反応が無く、意識が無いと確信できる。つまり、感覚神経という外部センサーが働いていない状態が、意識が無いことだろうと想像される。SF的な発想で培養液に脳だけを浮かべて、脳を生かしておいた場合、意識はあるかどうかと質問を受けそうだが、脳だけを機能的に何の損傷も無く、生かしておくことが出来るか考えなくてはいけない。神経細胞は軸索が傷害されると、その神経もやがて消失することは生理学の研究で明らかになっている。そのせいで、脳神経が切断された場合は、それに関連する神経核が消失し、その神経核にシナプスを作っていた上位の神経核も萎縮、または消失すると思われる。よって、脳だけの状態なら、短期間なら意識を保つことは出来るが、やがて、意識は無くなると予想される。
 感覚とは5感だけではなく、運動系の脳神経からは筋肉の中にある筋紡錘からのセンサーがフィードバックしてくるはずなので、それも意識を保つ一因となるのである。




 

近頃思うこと(2010-6-21)


 私のホームページを見てくれる奇特な人がいるのを知ったのはつい最近だ。誰某(だれそれ)でも読めるネットに書いているから、その中の登場人物にはかなり気を遣う。私が考えつく平凡なやり方として、アルファベットで書くことである。しかし、それだと読者の思い入れで、これは自分のことを勝手に書いているなと疑われる機会が増える。それなら正々堂々と実名で出せば、被害は本人だけに収まるはずだが、今度は真実を書けなくなる。本人とって都合の良い真実を書けばいいが、そのことが良いかどうかは本人にしかわからない。それに真実が良いことばかりの人間を私は見たことがない。そう言うことで、名前を出すと、とても書きづらいのである。かといって彼とか女とか某氏にすると、いったいだれの事を書いていたのかわからなくなりそう。
 最初は自分の備忘録や日記のつもりで書き始めたが、いつの間にか随筆の習作のようになってしまった。最初の頃は人を笑わせるおもしろい話を書く練習をしていたが、後から読んでみるとふざけすぎていると感じることがある。ラカンによれば人間の中の想像界が、誰も読まない日記や、投函することのない手紙を人に書かせるらしい。それは自分の中の想像した自分のために書いているのである。ちょっと難しいのですが、自分の中の第3者、つまり神に近い自分、自分を客観的に見ることの出来る自分がいるわけです。完全に自分を客観的に見ることの出来る人はいないし、自分の中の神は自分に贔屓(ひいき)してくれる神に違いない。しかし、文字によって自分を含めてあらゆる物を抽象化することが、人の頭の中で行われている事は事実だ。手話は、難聴者のジャスチャーであり、話し言葉を単純に手の動作に置き換えただけと思っていたら間違いで、手話を覚えるには、子供が言葉を覚えるような時期に練習しないと、成人になってからでは、高度な文法!を使いこなすことが出来ない。難聴者だから言葉の抽象化能力が無いわけではなく、表現方法が異なるだけである。そう考えると小さい時期に、無理矢理に補聴器や人工内耳を付けて、将来的にもハンデを背負うような現在の難聴教育は、問題がありそうである。この状況は、親が健聴者である場合、話せないことで差別を受けると信じ込み、健常者のようにしゃべれることを望むためである。反対に両親が難聴者である場合は、幼少時から、日常的な手話の使用を受け入れやすい。
 抽象化する行為は同じだけど、書き言葉の文体は時代によってかなり変化している。平安時代は書き言葉と話し言葉の乖離(かいり)が甚(はなは)だしく、戦前までは漢文の訓読が書き言葉だから、訓読ハ見ルカラニ、固苦シク思ヒ候。然ルニ、自己ノ頭ノ未熟サヲ、文体ニ隠サントスレバ、致シ方ナキコトト信ジ候。こんな風に書かれると、まるで大正時代に遡(さかのぼ)ったみたいでしょ!!これなら歴史好きの彼女にラブレターを書けるかもです♪(平成風)





*読め無い漢字があると指摘を受けたので、今回からふりがなを付けるようにしました。

 

 

声の個性(2010-6-17)


 声の個人差は、その人の持つ声帯の厚さや声帯の長さに関係している。それがわかると、外見を見ただけで、どんな声の持ち主か予想できる。痩せている人の声は高くなり、反対に太っている人の声は低くなる。身長のある人は低い声になる。但し、外見に合わない声を出す歌手もいる。たぶん彼らは本来の声と違う声を出して、その意外性を売りにしていると思われる(平井さん、槇原さんなど)。体型以外の声に影響を与えるファクターとして、首の長さが上げられる。声帯から発した空気の波は狭い咽頭内ー鼻腔内を通って、口または鼻から開放されて音になる。これを一つのパイプと考えると、共鳴する周波数が存在する。人間の場合、声帯から歯列まで男の場合17cmあるので、これに共鳴する周波数を求めると、音の速さは空気中では毎秒340m34000cm/sなので、これを共鳴周波数の基本振動の17cmx4, 2倍振動の(17/2cm)x4,3倍振動の(17/3cm)x4...で割ると、500Hz1000Hz 2000Hz...に当てはまる。これがフォルマントと呼ばれる固有の声の質になる。コンピューターの音声識別はこのフォルマント周波数をあらかじめ登録しておき、言葉の読み取りを行うソフトである。だから、今のところコンピューターは初対面の人が何と言ったか、聞き取る能力は持っていない。但し、音声の個人識別は可能である。
 ある時、何も知らない宇宙人が地球にやってきたとしよう。人間たちを発見して、やかましい呼吸音で仲間たちと情報のやり取りをするのを見たならば、なんと特殊な能力だと感心するだろう。他の動物の簡単な合図に比べると人間の使う言語は、物事を抽象化する必要がある。その抽象化の方法は地球上の民族の間で、ほとんど差異が見あたらない。つまり、原始的な生活を営む未開の原住民であろうと、DVDを見たりインターネットをしている先進国の人間だろうと、言語の複雑さはほとんど変わらない。かえって英語などは簡単な文法である。言葉が話せるのは、人間にとって、フクロウが音源の三次元的な位置を正確に見つけたり、コウモリが小さな虫の速度や位置を正確に超音波で探知できるのと同じように神からの賜である。言語は先天的な能力なので、仕事が出来なくても、口が達者な人がいるのはこのせいだと思う。




 

進化(2010-6-11)


 文字が発明されてから、人類は他人の成果を自己の物として利用できるようになり、大変な進化を遂げたようである。つまり、文字が発明された約5000年前から、まるで一人の人間が経験を重ねて、現代まで進化を続けているようにも見える。インターネットの普及によって学問に関しては、更に進化のスピードは加速するだろうが、私も含めて、人間としての進化はほとんど無いように見える。相変わらず、進化した科学技術を使って、この世を支配しているのは、誇りや目の欲や肉の欲である。自負心の強いアメリカが世界中に民主化と近代化を進めても、そこには混乱しか残っていないため、安全に旅行が出来る国の数はどんどん減少している。
 暇に任せて、開業後、宗教書や哲学書を読むようになったが、哲学の進歩はギリシャ時代からあまり進化していないように感じられた。人間が進化しないから、哲学も宗教もいまだに同じ事を繰り返して述べているに留まっている。最近になって、哲学科のある大学は減少し、残っても名前を変えてしまっている。と言うことは、哲学という学問はほとんど発達を遂げていないことがわかる。178世紀までのエリートコースであった神学はとっくの昔に消えている。科学技術に比べると、哲学の進化は一般の人にはわかりにくい。しかし、哲学が無いと、新しい科学技術は、自己の欲に利用されるのは明らかである。中世まで宗教で原罪と称して、多くの人を罰してきたのはこのためであるが、今や神を信じる人は少数になってしまった。インテリを気取る人たちが自由意志は人間にあると言うものの、人間は生まれつき罪を犯すように強制されているので、自由は何の意味も持たない。
 神を信じなくなった現代は、為政者がその役割を果たし、そして支配される民衆には2通りある。一つは為政者や権力者に対して、人間の中身はともかく、地位と権力に対して尊敬を抱く人々と、地位などの外面的な事に加えて、その人に人格的な偉大さを一方的に抱いて、尊敬する人々である。言い方は悪いが、あまり物事を考えない民衆には後者が多いようである。「大人」な民衆はその外面と内面の違いがわかるので、敬意を抱くのはその人の地位や権力だけである。私の少ない経験からも、権力を持つ人が人格者であることは少ない様に思う。このように技術の進歩を目の当たりにしながら、この社会でうまく生きて行くには、昔ながらの慣習(外面と内面の使い分け)に従うしかないのである。
 これほど変わらないのなら、人間の本性は頭の中ではなく、遺伝子に刻み込まれているのだろう。それならば、今後の遺伝子工学で変わるかもしれない。昔の精神医学が催眠術や心理療法や隔離療法に頼ったのに対して、現代は脳の化学伝達物質の制御が中心になっているように。




 

 


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