「戦没者忠霊塔」(広報紙no.37号/R6.1)
称念寺の境内の東側に二重の塔がある。この塔は昭和13年(1938)に、日清・日露戦争や支那事変での高椋地区の戦没者(祭神280柱余)の忠霊塔として建立されたが、昭和23年の福井震災で倒壊したため、同25年4月に修復再建された。また、すぐ近くの忠霊石碑は昭和16年秋に建立されたもので、当時の高椋村長 恩地政右ヱ門の碑文が刻まれている。毎年高椋地区遺族会が周囲の環境整備を行い、供養法要を営んでいる。詳細は別冊「たかむく玉手箱」116頁を参照してください。
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「天国宝剣」(広報紙no.36号/R5.7)
天国宝剣(あまくにほうけん) 鍔(つば)は鍍金(ときん)柄には四鈷(しこ)の先に各々爪があり、象蕨(ぞうがん)入りの鞘(さや)にも龍や雲の細工が施されている。大宝年間(01~704)、若しくは平安時代後期に活躍した大和在住の伝説の刀工「天国」の作と伝えられている。 古墳時代に継体天皇が東部の山中に埋めたという劔を、正保年間(1644~1648)に丸岡藩本多家の者が掘り出して、藩主の本多重昭公が國神神社に奉納したと云われる宝剣である。掘り出され山を劔ケ岳(けんがだけ:現あわら市清滝)と呼ぶようになったも云われている。
剣長36.8cm 鞘長24.5cm
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「白山参詣曼荼羅絵図」(広報紙no.35号/R5.3)
白山参詣曼荼羅絵図 (國神神社所蔵) 福井県指定文化財:平成26年3月26日指定
國神神社は、丸岡街内と西瓜屋や西里丸岡の氏神様である。この神社の秘宝の「白山参詣蔓奈羅絵図」が福井県指定文化財に登録されている。この絵図には九頭竜川畔から勝山平泉寺を経て.白山山頂へと至る道行きが描かれた室町時代の絹本箸色絵画(額装)である。白山修行者はまず馬場という拠点(平泉寺白山神社)に集合し、最初に神々に祈りを捧げ、白山登山支度を整えて越前禅定道から山頂せ目指していた。絵図の下半に中世の平泉寺の伽藍と、そこに神々の姿が描かれしいることから、神仏習合時代の白山信仰がみえてくる貴重な絵画である。
絵図のサイズ 縦152.8cm×幅78cm
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「新田公墓所」 他(広報紙no.34号/R4.12)
○新田義貞公墓所 (福井県指定史跡) 後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒した新田義貞は延元3年(1338)、灯明寺畷(現 福井市新田塚)で戦死し、称念寺に葬られた。徳川家は新田家の遠祖にあたることから、 称念寺は徳川家・松平家から特別な保護を受けた。元文2年(1737)の新田義貞公四〇〇回忌では、福井藩10代藩主松平宗矩は大変懇ろで、幕府からも白銀100枚を賜り盛大に挙行された。また、天保8年(1837)の500回忌では、福井藩15代藩主松平斉善は墓所の五輪塔を改修した。現在の墓所は、昭和23年(1948)の福井震災時に倒壊し、後に改修されたものです。
○浄土三部経 (福井県指定文化財) 浄土教の根本教典で、無量寿経上・下、観無量寿経、阿弥陀経の4巻に分かれている。 縦27cmの巻子本で、斐紙に銀泥堺線を引き墨書で書かれている。見返りには三尊迎光図等が描かれている。浄土三部経の古写経が全巻揃っているのは大変めずらしい。鎌倉時代の作です。
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「他阿真教上人」(広報紙no.33号/R4.7)
○他阿真教上人画像 (国指定重要文化財) 称念寺が所蔵する数多くの文化財の中で、最も責重なものです。 時宗の開祖である一遍上人の一番弟子であった他阿真教上人(1237~1319)は全国を遊行し1290年に称念寺を時宗道場として再興した。称念寺の他阿真教上人肖像画は、最古の絹本著色像である。この像の傍らに『南無阿弥陀仏』と『老いらくの あとをむなしと いふつく日 山のは ちかく 影ぞたかぶく』の上人自作の詠歌が金泥で書かれている。縦77.5cm 横41cm 鎌倉時代の作である。
○他阿真教上人座像 1290年に北陸を布教して、称念寺を時宗の道場にしました。称念寺が現在も真教上人の有力な寺院であることで、令和4年3月に時宗総本山の清浄寺(神奈川県藤沢市)から寄贈された木製寄木造りの仏像(座高90cm)です。
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「1万年前の高椋」(広報紙no.32号/R4.3)
海に隣接していた高椋
地球は約200万年前から氷河時代(海水面が低下し陸地化する陸進)と温暖化時代(海水面が上昇する海進)をくり返してきました。今から1万年前の高椋地区は大湖沼の多い内湾に面していました。縄文人たちは内湾に臨む丘陵地や台地に竪穴住居を建てて、採集・狩猟・漁猟等で生活をしていました。その頃の気温は、今より2~3度高く、海水面は4~6m高かったと云われています。 平成16年頃の九頭竜川下流域パイプライン化工事の際の舟寄遺跡発掘調査では,当時海や湖沼がすぐ近くまでせまっていたことの確かな証拠(現地表面よリ1~1.5m下から人々の生活の跡が発見されたました。)である縄文中期の遺跡(4500年前)が発見されました。 また、今は氷河期が終わり温暖化が時代です。降雨により土砂や岩石を下流に運ばれ堆積し、凸凹地をなだらかな平地にしている時代でもあります。逆に気温が低下する時代には、極地の氷量が増えて海水面が低下し、海が陸地化することになります。今後、地球の気温の高低で、海水面が上下し、また、縄文時代のような、海に面した高椋地区になるかも知れない。
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約1万年前の福井県地図 緑部は海であったと予想
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