高椋豆知識
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 これまでにまち協広報紙に掲載された「たかむく豆知識」を掲載しています。下枠内の①~㊲は、まち協広報紙の発行号数を示します。番号横の項目をマウスクリックすると、詳細を閲覧できます。
たかむくのまちづくり協議会をクリックすると、トップページに飛びます。

高柳の救世観世音菩薩像

一本田千手観音像

戦没者忠霊塔

天国宝剣

白山参詣曼荼羅絵図

新田公墓所他

他阿真教上人

1万年前の高椋

赤江の由来

西瓜屋の由来

一本田の由来

西里丸岡の由来

吉政の由来

笹和田 本廟

芭蕉句碑

光秀と称念寺

高柳遺跡

麒麟がくる

山田家梨園

一本田中お堂

縄文中期遺跡

たかぼこの由来

バスセンター歴史

他阿真教上人

邨野良郷

蒔田雁門

松尾芭蕉

新田義貞

金崎栄次郎

坪川家恒

吉田 彰

細川ガラシャ

中野鈴子

柳原三郎

北 甚之助

小林季太郎

中野重治

山田 劔

石墨慶一郎

 

高柳の救世観世音菩薩像
  
(広報紙no.39号/R6.7)

 高柳八幡神社境内の御堂の中に、寄木造りで煌びやかな像高約111cm、幅約77cm、奥行約67cmの「救世観世音菩薩座像」が祀られている。この像は、その昔付近の川から流れ着いたとの言い伝えがある。近くを流れる兵庫川から流れ着いたのか、兵庫川の川舟で運ばれて来たのか定かではない。像の横に置かれた木簡には、「奉再建救世観音菩薩寶蔵 文化12年4月5日 蒔田半左衛門平忠貞」の文字が書かれていることから、1815年に当時の高柳代官所の代官であった蒔田半左衛門平忠貞が寶蔵(観音堂)を再建したことが推測される。再建の文字から像はそれ以前から高柳にあったと考えられる。 像の作者や年代は不詳

 救世観世音菩薩(一般には「救世観音」と称す)とは、世の苦しみ、人の苦しみを救ってくださる観音様です。観音信仰は、平安時代の法華経(お釈迦様が晩年8年間で説いた教え)信仰から広まったと言われ、お釈迦様の予言に基づく仏教思想が基にあります。

一本田千手観世音菩薩像と涅槃だんご」
  
(広報紙no.38号/R6.3)

一本田集落の西方約100mに旧一本田観音院跡がある。明治当初まで、この場所に観音院が建っていた。現在は神明社境内の観音堂に移されている。この観音堂には千手観世音菩薩像が祀られている。一本田山田家の古文書では寛正2年(1461)頃、永平寺の僧(石門和尚)が集落の西に小庵を建てて千手観音信仰を始めた。丸岡町史では、元禄8年(1695)に観音院を建立し、寛政4年(1792)には千手観世音菩薩像(三十三年毎に御開帳する秘仏)とともに西国三十三箇所の観音像も安置し有名霊場となったとある。 そして現在もその観音信仰が伝承されている。地区民は毎年8月10日に観音祭、3月15日に涅槃会を行っている。特に涅槃会は四色の団子を観音様にお供えし、無病息災の御利益を祈願し、そのお下がりの団子は観音堂で参詣者に蒔いたり、地区民に配ったりしている。像高57.4cm、光背高67.7cm、台座高31.7cm   寄木造で厚い漆箔の上に金箔を貼っている。

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戦没者忠霊塔(広報紙no.37号/R6.1)


 
称念寺の境内の東側に二重の塔がある。この塔は昭和13年(1938)に、日清・日露戦争や支那事変での高椋地区の戦没者(祭神280柱余)の忠霊塔として建立されたが、昭和23年の福井震災で倒壊したため、同25年4月に修復再建された。また、すぐ近くの忠霊石碑は昭和16年秋に建立されたもので、当時の高椋村長 恩地政右ヱ門の碑文が刻まれている。毎年高椋地区遺族会が周囲の環境整備を行い、供養法要を営んでいる。詳細は別冊「たかむく玉手箱」116頁を参照してください。

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天国宝剣(広報紙no.36号/R5.7)

天国宝剣(あまくにほうけん)
 鍔(つば)は鍍金(ときん)柄には四鈷(しこ)の先に各々爪があり、象蕨(ぞうがん)入りの鞘(さや)にも龍や雲の細工が施されている。大宝年間(01~704)、若しくは平安時代後期に活躍した大和在住の伝説の刀工「天国」の作と伝えられている。
 古墳時代に継体天皇が東部の山中に埋めたという劔を、正保年間(1644~1648)に丸岡藩本多家の者が掘り出して、藩主の本多重昭公が國神神社に奉納したと云われる宝剣である。掘り出され山を劔ケ岳(けんがだけ:現あわら市清滝)と呼ぶようになったも云われている。      剣長36.8cm     鞘長24.5cm

 

白山参詣曼荼羅絵図(広報紙no.35号/R5.3)

白山参詣曼荼羅絵図  (國神神社所蔵)    福井県指定文化財:平成26年3月26日指定

 國神神社は、丸岡街内と西瓜屋や西里丸岡の氏神様である。この神社の秘宝の「白山参詣蔓奈羅絵図」が福井県指定文化財に登録されている。この絵図には九頭竜川畔から勝山平泉寺を経て.白山山頂へと至る道行きが描かれた室町時代の絹本箸色絵画(額装)である。白山修行者はまず馬場という拠点(平泉寺白山神社)に集合し、最初に神々に祈りを捧げ、白山登山支度を整えて越前禅定道から山頂せ目指していた。絵図の下半に中世の平泉寺の伽藍と、そこに神々の姿が描かれしいることから、神仏習合時代の白山信仰がみえてくる貴重な絵画である。  絵図のサイズ   縦152.8cm×幅78cm

 

 

「新田公墓所」 他(広報紙no.34号/R4.12)

○新田義貞公墓所 (福井県指定史跡)
 後醍醐天皇の命を受けて鎌倉幕府を倒した新田義貞は延元3年(1338)、灯明寺畷(現 福井市新田塚)で戦死し、称念寺に葬られた。徳川家は新田家の遠祖にあたることから、 称念寺は徳川家・松平家から特別な保護を受けた。元文2年(1737)の新田義貞公四〇〇回忌では、福井藩10代藩主松平宗矩は大変懇ろで、幕府からも白銀100枚を賜り盛大に挙行された。また、天保8年(1837)の500回忌では、福井藩15代藩主松平斉善は墓所の五輪塔を改修した。現在の墓所は、昭和23年(1948)の福井震災時に倒壊し、後に改修されたものです。

○浄土三部経 (福井県指定文化財)
 浄土教の根本教典で、無量寿経上・下、観無量寿経、阿弥陀経の4巻に分かれている。 縦27cmの巻子本で、斐紙に銀泥堺線を引き墨書で書かれている。見返りには三尊迎光図等が描かれている。浄土三部経の古写経が全巻揃っているのは大変めずらしい。鎌倉時代の作です。

 

「他阿真教上人」(広報紙no.33号/R4.7)

○他阿真教上人画像 (国指定重要文化財)
 称念寺が所蔵する数多くの文化財の中で、最も責重なものです。
時宗の開祖である一遍上人の一番弟子であった他阿真教上人(1237~1319)は全国を遊行し1290年に称念寺を時宗道場として再興した。称念寺の他阿真教上人肖像画は、最古の絹本著色像である。この像の傍らに『南無阿弥陀仏』と『老いらくの あとをむなしと いふつく日 山のは ちかく 影ぞたかぶく』の上人自作の詠歌が金泥で書かれている。縦77.5cm 横41cm  鎌倉時代の作である。

○他阿真教上人座像
1290年に北陸を布教して、称念寺を時宗の道場にしました。称念寺が現在も真教上人の有力な寺院であることで、令和4年3月に時宗総本山の清浄寺(神奈川県藤沢市)から寄贈された木製寄木造りの仏像(座高90cm)です。

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「1万年前の高椋」広報紙no.32号/R4.3)   海に隣接していた高椋

  地球は約200万年前から氷河時代(海水面が低下し陸地化する陸進)と温暖化時代(海水面が上昇する海進)をくり返してきました。今から1万年前の高椋地区は大湖沼の多い内湾に面していました。縄文人たちは内湾に臨む丘陵地や台地に竪穴住居を建てて、採集・狩猟・漁猟等で生活をしていました。その頃の気温は、今より2~3度高く、海水面は4~6m高かったと云われています。
 平成16年頃の九頭竜川下流域パイプライン化工事の際の舟寄遺跡発掘調査では,当時海や湖沼がすぐ近くまでせまっていたことの確かな証拠(現地表面よリ1~1.5m下から人々の生活の跡が発見されたました。)である縄文中期の遺跡(4500年前)が発見されました。
 また、今は氷河期が終わり温暖化が時代です。降雨により土砂や岩石を下流に運ばれ堆積し、凸凹地をなだらかな平地にしている時代でもあります。逆に気温が低下する時代には、極地の氷量が増えて海水面が低下し、海が陸地化することになります。今後、地球の気温の高低で、海水面が上下し、また、縄文時代のような、海に面した高椋地区になるかも知れない。    

 

約1万年前の福井県地図
緑部は海であったと予想

赤江(赤江橋)の由来」  (広報紙no.31号/R3.11)  

  私たちの地域には、奈良時代後半に奈良西大寺の莊園(赤江庄)がありました。当時の赤江庄は、南は福井市上野本町から丸岡町南部の高柳・吉政一帯、北は丸岡町坪江にまたがる約168町歩に広がっていました。赤江庄から西大寺にお米を奉納した証拠となる「木簡:荷札」が、平成18年(2006)に西大寺食堂院古井戸から発掘されました。その木簡には「西大寺赤江南庄黒米5の斗吉万呂 延暦2年6月15日(写真)」「赤江北庄延暦11年地子」等が確認されています。延暦2年とは西暦783年です。
 現在、高柳地籍に小字赤江橋、吉政地籍に小字赤井橋(江が井に転訛)があり、福井市森田栗森地籍に小字赤江田があり、旧国道八号線吉政出村から高柳の区境の兵庫川に架かる橋を「赤江橋」と言います。これら赤江の地名の由来が、平成22年(2010)頃、奈良女子大学舘野和巳教授の研究から明らかになりました

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赤江橋とその銘盤

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西瓜屋」の地名の由来  (広報紙no.30号/R3.7) 

 「西瓜屋」は「スイカ」を連想します。あの美味しいスイカと関係があるのですかとよく聞かれます。西瓜屋の地名は、明治以降の新興住宅地の地名です。丸岡城の築城時、城下町を作る時に、城下の西側の境界線を流れる川を西裏川と名づけられました。西裏川の東側に城下町ができました。西裏川は、現在の丸岡中学校の東側(元の永平寺線の電車の「西瓜屋駅」付近)がその源流でした。北へ流れ八幡町の東魚店の横から駅前通りの駅見橋下を流れ、法栄寺の裏で田島川に合流しています。明治以降人口の増加に従い西裏川の西側にも家屋が建ち並び、「西裏屋」とも呼ばれていました。明治中頃から北陸本線や丸岡軽便鉄道さらに京福電鉄の開通に伴い、西裏屋が丸岡の表玄関化して、西裏屋の裏が不適当と、名前を変えようと住民が考えたのが「瓜」でした。「裏」は「り」と読むことにも関係して「西瓜屋」となったのではないか?現在の西瓜屋地籍が細長いのはこの西裏川沿いにできた地域のためです。 従って西瓜屋は「スイカ」とは無関係なのです。

 

丸岡駅前の駅見橋から見る
西裏川 (南北に流れている
右側(西方)が西瓜屋地籍img1.jpg

一本田」の地名の由来 (広報紙no29号/R3.3)

 一本田が史上に最初に出てくるのは、平安末期の「承安3年(1173) 八条院御領一品田(いっぽんだん)勅旨田加納事」(越前国司庁宣)です。
 当時は一品田44町歩程の広大な八条院の荘園でした。現在の一本田から一本田福所一帯に比定されます。現在の一本田集落は、この一品田の中心地の「一品田本田」
(いっぽんでんほんでん)から「一本田」と改称されたと考えられます。江戸時代になると、一品田領地は一本田中、一本田福所、西里丸岡と枝村化し、明治後期には西瓜屋、昭和後期に入り一本田新へと新興住宅地に発展していった。またこの地域は、元々田島川と本廟川領域の低湿地帯で、太古から川の蛇行や逆流が多い地域であった。中洲(又は中央部)にできたのが一本田中で、割と水害の少ない米がよく穫れる所が一本田福所と呼ばれるようになった。

※八条院御領とは 鳥羽天皇(在位1107~1156)の 暲子(あきこ)内親王(1137~1211)に朝廷より与えられた田地
※品田(ほんでん)とは 親王や内親王に品(ほん)によって与えられた土地で品位田(ほんいでん)ともいった。品位は1品から4品まであり、無位の者は無品と呼んだ。

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昭和5年(1930) の
 国土地理院 の測量図を加工

西里丸岡の地名の由来
       
(広報紙no.28号/R2.9)

 西里丸岡の元は丸岡村でした。丸岡村は現在の国神神社の境内付近にありました。村人たちは、丸岡城の建っている岡に、神明宮を建て、継体天皇の皇子の椀子皇子(まるこのおうじ)を守り神としてお祀りしていました。ところが、天正4年(1576)柴田勝豊が豊原城を丸岡(現在の丸岡城の場所)に移すことになり、丸岡村は城下町づくりのために、城外の東と西にそれぞれ400石の土地をあてがわれ、集団移住させられて、西里丸岡村と東里丸岡村となりました。その頃の西里丸岡村は、現在の丸岡総合支所の南側(字古屋敷)付近でした。ところが文化5年(1808)頃の度重なる水害と耕作の利便性から、現在の地(字高畑)に2度目の集団移住して、今に至っています。


吉政」の地名の由来(広報紙no27号/R2.3)

 「吉政」は今から約400年前までは「牛の島」という地名でした。隣村の「牛ヶ島」と間違いやすいため、当時の藩主(本多成重)が「吉政」と改名した。古墳時代、高島(現 滋賀県高島市安曇川)に住んでいた応神天皇の玄孫(やしやご)の彦(ひこ)主人(うしの)王(おう)が、高田(現 丸岡町高田)の豪族の娘「振媛」を妻にしょうと、兵庫川の船着き場に降りた所を(ひこうしのうしから)牛ヶ島(南側)、牛の島(北側)と名付けました。
 現在、安曇川には彦主人王御陵があり、すぐ横に田中城跡があります。この城主の田中氏は信長・秀吉・家康(1548~1609)に仕え、信長から長をもらい「
長政」に、更に秀吉から吉をもらい「吉政」と改名し、「田中吉政」は最初7石の足軽から32万5千石の西国大名(筑後柳川城)にまで昇りつめた名将であった。本多成重はこの名将にちなんで村の発展を願い「吉政」と改名したのではと考えられます。

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滋賀県安曇川の田中城跡

笹和田と本廟 (広報紙no26号/R1.12)

 笹和田区内を南北に流れる川を「本廟川」と呼びます。笹和田区は古来から通称「本廟」とも呼ばれてきました。平成28~29年度に北陸新幹線敷設工事のため、称念寺東側の遺跡発掘調査が行われた際に、「長崎・本廟遺跡発掘調査」と名付けられています。
 「本廟」とは通称「墓所」と解されますが、なぜこの地区が本廟と呼ばれてきたのか。この地区の「本廟」について、解説します。
  ここでの「本廟」とは称念寺にある新田義貞公の墓所のことです。古来の称念寺の敷地は現在の10倍もあり、長崎地籍の東端の川から、西側は現在の旧北陸街道までの広大な敷地であった。長崎地籍の東部に源流のある川が「本廟川」と名付けられ、この川が笹和田地籍内を流れ、舟寄出村の北方で田島川に合流しています。いつしか「笹和田」が「本廟」と呼ばれるようになったのです。

明智光秀と称念寺 2(広報紙no25号/R1.7)

光秀公ゆかりの称念寺の根拠 その2
 
松尾芭蕉翁が「奥の細道」の道中、1689年旧暦の8月8日に称念寺で休憩した際に、当時の住職から称念寺門前で約10年間居住していた頃の光秀公の家族の事を聞きました。そして、その頃のことを俳句として愛弟子に贈りました。「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」 はせを  ※「はせを」とは芭蕉の歴史的仮名づかいです。:ペンネーム
 この俳句は、芭蕉が、奧の細道を岐阜の大垣で終えてすぐ、伊勢神宮の遷宮式に参拝に出かけて、伊勢の弟子の島崎又玄(ゆうげん)宅に宿泊した際、又玄の妻が夫を支えている姿を見て、「先日、称念寺で聞いた光秀の妻(煕子さん)のようですね。今夜は、称念寺住職から聞いた、「光秀夫婦が称念寺門前に居住していた頃の煕子さんの話でもしましようか」と、又玄さんにプレゼントした旬とされています。

明智光秀と称念寺 1(広報紙no24号/H31.3)

光秀公ゆかりの称念寺の根拠 その1
 
光秀公が織田信長を伐ったことから「反逆者」 「無法者」として、歴史上から抹殺され、光秀公に絡む文献が大変少ないと云われています。
 さらに、越前と光秀公に関わる確かな古文書は、2点しか発見されていません。(ほとんどが明智軍記などの物語の類です)その1点が『遊行31祖京畿御修行記』※と云われる同念上人の日記です。この中に「光秀公は、牢人中に長崎称念寺門前に約10年間家族で生活していた。そして朝倉氏に仕えようとしていた。」と記載されています。
 そして坂本城主になっていた光秀公は、称念寺住職への恩義から、近畿地方の布教活動を援助しました。この事実も、別の奈良のお坊さんの日記から確かめられるのです。
 ※時宗の31代目の教主の同念上人が、天正8年7月から1年8ヶ月かけて東海から近畿地方を布教して歩いた業務日誌 (日鑑)です。本能寺の変の数年前の修行日記のため、大変信憑性が高いものです。 

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高柳・下安田遺跡で銅鐸の破片が出土」(広報紙no23号/H30.11)
                  

 
平成16年の高柳地区のパイプライン敷設工事の際に、弥生遺跡が発見されました。その遺跡は、高柳から下安田にまたがっていました。両集落間の水田用の農道部分を中心に、南北にわたり弥生時代末期(西暦200年前後頃)の河道があり、その両側から竪穴住居2棟と弥生式土器・玉つくり関連遺跡(※1)が出土しました。竪穴住居は多角形の平面形で、直径10~11mの大型のものであり、そのうちの1棟の床面から銅鐸(※2)が三片出土しました。西側からは竪穴住居跡が6棟、溝、井戸の可能性のある土坑3基等が見つかりました。うち1棟は多角形の平面形で、拡張して作り直されていました。また、西側と南側にも遺跡があり、住居があると考えられ、かなり大きな弥生時代の集落であったと推定できます。   
※1…玉つくり関連遺跡とは、弥生~古墳時代の管玉、玉等の製作遺跡の事
※2…銅鐸は、弥生時代の祭祀に用いられた青銅器

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遺跡発掘現場と出土した銅鐸の破片

明智光秀が大河ドラマに」 (広報紙no22号/H30.7)

 2020年のNHK大河ドラマは、戦国武将「明智光秀(1528~1582)が主人公の「麒麟がくる」と、発表されました。光秀は、弘治2年(1556)明智城が落城し、美濃の国(現在の岐阜県可児市)から、妻子とともに逃れてきたのが、ここ丸岡町長崎の称念寺でした。そして織田信長に仕えるために、越前を去るまでの約10年間を、称念寺を拠点として再起をうかがっていました。永禄6年(1563)には、お玉(後の細川ガラシャ)もこの地で生まれました。(この浪人時代の様子は遊行31祖京畿御修行記という同念上人の旅日記に明記されています。この長崎には、光秀の妻の煕子が髪を売って夫の仕官の為に金を用意した、という黒髪伝説が伝承されています。
 称念寺境内には、松尾芭蕉の句碑『月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ』の句碑が、その昔を偲ばせています。元禄2年(1689)8月8日(旧暦)には、松尾芭蕉が『奥の細道』の道中、称念寺に立ち寄った時に、当時の称念寺の住職から明智光秀の夫婦愛の話を聞き、感激して詠んだ旬です。
 称念寺は光秀ゆかりの寺であり、この秋の「福井しあわせ元気国体・障スポ大会」を控え、ますますクローズアップされることを期待します。

山田家と梨園」一本田の豪農(広報紙no21号/H30.3)

 一本田の県道川西線沿いに、梨園があります。この梨園は元々山田家が所有していました。江戸時代から昭和前期にかけて、豪農として名を馳せた、一本田の山田家に生まれた山田劔(1865~1941)は、明治30年(1897)に県会議員となるや農業振興に力を注ぎ、坂井都農事試験場を設置したのをはじめ、現在のJAの先駆けでもある興農信用組合を設立し、その後に帝国農会や中央農政でも活躍し、大正7年(1918)には貴族院議員となりました。昭和10年(1918)には帝国農会副会長となり、その後に農会長として、農政家の最高位まで上り詰めた方でした。また劔氏は一本田の自宅後方に晩成園を開き、りんご、梨、ぶどう等の栽培を行っていました。それは現在の伊藤梨園の約4倍の面積を有していました。


 当時の梨園の入り口

一本田中の不動明王」 開かずの秘仏(広報紙no20号/H29.10)

 一本田中の八幡神社の中に石瓦葺きのお堂があります。桧材で堅牢なお堂は、福井震災の時には倒壊を免れました。お堂の中には立派な.「御厨子」に納められた不動明王が安置されていると言い伝えられています。重量約80kgとか。しかし古来より、拝観が禁じられいるので定かではありません。延宝2年(1647)、旧鳴鹿村の下久米田(現在の坂井市丸岡町下久米田)の田んぼの中から掘り出された不動明王が、元禄10年(1697)7月に霊夢で丸岡城主の有馬左衛門佐清純公によって一本田中村に移されるという記録があり、これが一本田中の不動明王であろうと考えられます。

「石瓦葺きのお堂(左)と御厨子」

縄文中期からのつながり」 (広報紙no19号/H38.7)

 
平成15年(2003)九頭龍川下流パイプライン工事の際、舟寄集落の西部水田地帯から発見された「舟寄遺跡」は、今から4500年前の縄文中期の住居跡でした。稲作が始まる前の狩猟時代に、人々は海に面していた場所に住居を構えるのが常でした。従って当時、日本海がこの舟寄地区まで迫っていたというこれまでの仮説が、この遺跡発見により実証された責重な発見でした。「舟寄」や、近くに存在する「長崎」「福島」 「田島」 「磯部」 「沖布目」等の地名の由来も、こうした古来の海進(海が近くまで入りこんでいた)を物語る地名だと考えられます。

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なぜ「たかぼこ」と言うようなったのか(広報紙no18号/H38.12)

 まち協の名前にもなっている「高椋」「たかむく」の名前の由来について、はっきりした定説はありません。古来から言葉の訛り説と、発音の訛り説、公文書での変化説があったようです。次のような漢字と読みが変化したものと解釈し、紹介します。
 高椋の古来の地名は「高向」(たかむく)と呼ばれる地域でした。これは多加牟久(たかむく)とも書かれていました。多加牟久は「たかぼうく」と読む、「牟」は(ほこ)を連想させるため、いつしか「たかほこ」と訛り、さらに「たかぼこ」と訛ったと言う説があります。
「椋」の漢字は、古来から高向地区の山々(現在の高椋東部地区)には、椋(むく)の木が多く繁っていました。椋の木が多い地域から、高向(たかむく)が「高椋」(たかむく)の漢字に変化したという説があります。


まち協創立10周年記念植樹「椋の木:一本田公園」 


「椋の木の実」

西瓜屋のバスセンター」 バスセンターの歴史(広報紙no.17)
 明治30年(1897)北陸本線が開通しました。当初丸岡の街内を通ると予定されていましたが、地元の反対もあり坂井町新庄に「新庄駅」 (現在のJR丸岡駅)ができました。同36年に山形県に新庄駅ができたので、駅名の変更が求められました。丸岡の住民の間ではせめて駅名だけでも丸岡にしようとの運動がおこり、「丸岡駅」と改名されました。また 大正3年(1914))6月に「一本田」・「舟寄」・「新福島」を通って「丸岡駅」に至る4.2kmの丸岡軽便鉄道が開通しました。「岡蒸気」と呼ばれ、日本で2番目のドイツ製の蒸気機関車でした。丸岡の駅名は「新丸岡駅」(現在のパスセンタ-)となり、昭和4年(1929))には、金津・新丸岡・東古市間に電車が開通し、「新丸岡駅」は「本丸岡駅」と改称されました。丸岡軽便鉄道も昭和5年に電化されました。しかし昭和43年~44年の間に全線廃線となりました。一時は本丸岡駅前には映画館・本屋・食堂などがあり、丸岡の玄関口として賑わっていました。その後はバスターミルと姿を変えて、更に令和2年4月には、大幅にリニューアルし、丸岡バスターミナル交流センターとなりました。

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他阿真教上人絵像」 称念寺の重文 (広報紙no.16)
 
長崎称念寺にある数多くの所蔵品の中で「他阿真教上人絵像」は大変貴重なもので、国の重要文化財に指定されています。真教上人とは、鎌倉時代後期に一遍上人が開いた時宗の2代目を継いだお坊さんです。時宗とは旅をしながら、お念仏を勧める宗教です。真教上人は正応3年(1290)に称念寺を念仏の道場としました。この絵像は縦77.5cm・横41cmで法衣の上に衾(ふすま:草で編んだ防寒衣)を着て、合掌の手に念珠を持ち、上畳に素足で立つ姿を彩色で描いています。「南無阿弥陀仏」と「老らくの あとをむなしと ゆうつく日 やまのはちかく 影ぞかたふく」の自作の詠歌が金泥で書かれています。真教上人は豊後の国(大分県)の生まれで、京都で修行した後、一遍上人の一番弟子になり、時宗教団を実質的に作り、全国を布教して歩き、当麻(神奈川県)で亡くなられました。

「近代教育の先駆者 邨野良郷先生」(広報紙no.15)

 邨野(むらの) 良郷(りようきよう)  (1816~1885) 
 良郷は文化13年(1816)福井藩士邨野幾右衛門の次男として福井で生まれた。青年の頃から師を求め各地を巡って勉学に励んだ。九州長崎で医術を研究し,同時に易占・礼法・生花まで学んだ。30歳頃に以前通った北陸道の舟寄村に心ひかれて,ここを永住の地と決めて居住することになった。そして医業をはじめた。
 持ち前の温厚高潔な人柄はたちまちのうちに人々尊敬の的となり,手すきの時間ができると,村内の子どもたちの教育に大変熱心にあたり,年中一日の休みも取らなかったと云われて,子どもたちも心から慕って邨野塾で学んだ。
 明治18年(1885)70歳で亡くなった。その後の供養も出来なくなった。邨野門士の先輩であった小林季太郎は大変残念に思い,旧門弟たちと協議して顕彰碑を建てることになった。碑文は柳原縫之助が書き,そして明治41年(1908)5月に舟寄の墓地入口に建立された。現在も邨野先生之碑はその篤行を後世に伝えている。舟寄では邨野塾がもとで,明治8年(1875)に知津小学校を設立し近代教育に切り替わった。

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蒔田雁門」箏曲「秋風の曲の作詩者」(広報紙no.14)

 高柳の旗本本多氏は江戸詰めが多く,代官が本多大善領の行政に携わっていた。高柳陣屋の代官の一人であった蒔田雁門は,文化人でもあり,筝曲「秋風の曲」※の作詞者としても有名である。現在の高柳墓地に一際大きい墓があり,代官蒔田家先祖代々の墓であろう。

 雁門とは雅号で,名は貞,字は元茂と云われ,上述の「蒔田半左衛門平忠貞」は雁門本人と思える。     ※天保8年(1837)箏曲秘譜発刊

松尾芭蕉と称念寺(広報紙no.13)

「松尾芭蕉」奧の細道と称念寺
    称念寺本堂正面向かって左手の大きな立木の根元に新旧2つの石碑がひっそりと建っている。「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」 はせを と刻まれている。
 この石碑は芭蕉の句碑である。
 芭蕉は奧の細道の道中、元禄2年(1689)8月7は大聖寺全昌寺で宿泊し、8日には吉崎から越前に入り、旧北陸街道を進み、お昼頃に称念寺で一服している。そして、当時の住職(園阿上人)から光秀親子が1556~1565年の約10年間程、称念寺門前で生活していた様子を聞き,感激して詠んだ句である。
  光秀は故郷明智城(現在の岐阜県可児市)を追われ、逃亡生活の身であった。住職の計らいで門前の寺子屋で、身を潜めて貧しい生活していた。妻(煕子)は生活の足しにしようと、自分の黒髪を切り売りして、家計を支えていた(黒髪伝説)という。永禄6年(1563)にお玉(後の細川ガラシャ)が生まれている。 

「称念寺と新田義貞(広報紙no.12)

 義貞公は正安3年(1301)に、上野国(こうづけのくに)新田の荘(現在の群馬県太田市)で生まれた。鎌倉幕府の衰退期に天皇親政の建武の中興を掲げた後醍醐天皇の呼びかけに応え、少ない兵力で1333年に鎌倉幕府を倒した名将である。 しかし、反旗を翻した足利尊氏(北朝)と対立し、南北朝の戦いに発展していった。義貞公は暦応元年/延元3年(1338)に、越前藤島(福井市新田塚灯明寺畷)で守護の斯波高経(しばたかつね)・平泉寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇し戦死した。義貞公の遺体は長崎の称念寺に運ばれ、境内に墓所が造られた。現在は称念寺の義貞墓所は、福井県の史跡になっている。※これらの戦いの経緯などは『太平記』に記されている。義貞公は源氏の遠縁であり、至誠の武将として以後の将軍家や天皇家から手厚く保護を受けた。

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義貞公木造像
(称念寺蔵)

「反戦と平和 金崎栄次郎:歌人」(広報紙no.11) 

 金崎栄次郎は大正15年(1926)高椋村一本田に生まれた。17歳で海軍甲種飛行予科練習生に志願し,終戦末期には特功隊として戦争の悲惨を身をもって体験した。終戦後帰郷して,昭和30年(1955)丸岡町議会議員を1期務めた後,山代温泉,山中温泉でホテル業に,また昭和46年(1971)から地元でレストラン業に携わった。一方で同郷の中野重治,鈴子らの文学活動に共感し,昭和37年(1962)頃中野重治・佐多稲子らと知り合い短歌を作り始め,昭和53年(1978)頃から本格的に短歌の創作活動に取り組み、全国の各種短歌大会で優秀な成績を収めた。栄次郎の作品には特功隊としての戦争体験や反戦と平和主義が読み取れる。また職を幾つか変えながら人生の苦労を体全体で受け止め,力強く生きた生き様がうかがえる。そして郷里である福井・丸岡・高椋のローカル色が織りなす作風も大変印象的で,現代人を共感させるものが多い。

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「観測機開発 坪川家恒(広報紙no.10)
  
地球物理学者 坪川家恒 (1918~1994)
  坪川家恒は高椋村舟寄の赤金に生まれた。福井中学・第一高等学校・東京大学と進み,その後地理調査所・国土地理院・東京大学地震研究所・文部省緯度観測所・国立天文台・日本測量協会に勤務し,地球物理学者として日本国土測量事業と測地学の発展に貢献した。特に,観測機器開発においてはGSI型磁気儀・プロトン磁力計・ETD子午儀・自動レベルなどを次々と考案し,大きな足跡を残している。これらの装置は日本の測量技術の向上に重要な役割を果たした。他にも,天文経緯度観測を自動で行う全自動アストロラーブや重力加速度の絶対値を測定する絶対重力計など,独創的な装置開発も行った。
 また,日本測地学会の創立に参画し,長年に渡って日本測地学会の会長を務め,測地学の研究と測量事業の推進を計った。これらの功績により,1983年には紫綬褒章を授与された。
資料や写真は岩手県奥州市在住のご子息に当たる坪川恒也氏より提供

「地方自治 司法に貢献  吉田 彰(広報紙no.9)

 吉田彰は、明治40年(1907) 高椋村西里丸岡の吉田由之助の長男として生まれた。武生中学校・第三高等学校を経て、東北帝国大学法科と進み、昭和6年に司法官試験に合格し裁判官となった。その後終戦まで台北地方裁判所に勤務し、戦後は金沢地方裁判所・福井地方裁判所武生支所・福井地方裁判所民事部の判事を経て、名古屋高等裁判所判事となった。昭和40年(1965)に退官するまで、地方や中央の司法一筋に携わり、その業績により、従三位に叙し、勲二等瑞宝章を授与された。

細川ガラシャと称念寺」(広報紙no.8)

 明智光秀が越前に逃れてきたのが1556年頃で、称念寺の薗阿上人の招きで、門前の寺子屋で妻子と共に約10年間生活していた。そして1563年にお玉が誕生した。お玉が3歳頃に光秀は当時勢力を伸ばしていた朝倉氏に仕官が許され福井市東大味に移り住んだとも云われ、1568年頃まで越前で生活していた。その後、光秀は織田信長に仕えるために越前を去って近江坂本城に移る。そしてお玉は細川忠興(東軍派)に嫁ぐ。光秀は本能寺の変(1582年)を起こし、お玉は天下の無法者として、過酷な人生の中で、1587年にキリスト洗礼(ガラシャ名)を受けた。やがて、関ヶ原の戦いの直前(1600年)西軍(石田三成)の人質を嫌い、自害するという悲運の女性として後世に伝えられている。

長岡京市勝竜寺城の忠興とガラシャ像

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「プロレタリア詩人 中野鈴子(広報紙no.7)
 
中野鈴子は高椋村一本田に生まれ、兄の中野重治とともに、小さい頃から詩歌に強く興味を抱いていた。昭和4年に上京しその後、室生犀星を師と仰ぎ、師弟関係は鈴子の死まで続いた。そして、当時のプロレタリア文化運動の担い手の一人に、成長していったのである。郷土の想いがにじむ「一田アキ」の筆名で、文学活動に精力的に励み、雑誌『働く婦人』の編集と発行にも携わっていった。 
 昭和11年、一本田の実家に帰郷後も詩を書き続け、昭和20年12月にはかつての仲間たちと、「新日本文学会」を作った。しかし昭和29年以降、病苦と闘う鈴子の詩は切なく厳しいものとなっていき、昭和30年には、詩集『花もわたしを知らない』を出版した。昭和32年に手術を受けるため再上京した際には 「友よ、友だちよ」の詩を書いた。昭和32年12月19日、4回目の手術を受ける3時間前には、最後の詩となる「竹の皮の飴包み」を書き、翌33年1月5日永眠した。

柳原三郎高椋小学校の柳原賞創設 (広報紙no.6)

 柳原権治郎と柳原三郎 一世紀近く母校へ寄進

    柳原権治郎(須賀磯八)は舟寄村に生まれた。安政元年(1854)19歳の春に上京して、丁稚奉公で商売精神を学んだ後、明治28年(1895)に大阪道修町でアルカリ製造の会社を創業した。権治郎氏は日頃から故郷を想い,特に母校の高椋小学校の子どもたちのための教育環境の充実を願って,高椋小学校への寄進を続けていた。2代目の三郎氏も先代の意志を継ぎ,大正10年(1921)頃から「柳原賞(柳原奨学基金)」を設立。毎年,学校備品や卒業生へはアルバム寄贈を続けてきた。以後3代目4代目もその意志を受け継ぎ今日に至っている。現在,高椋小学校の校庭にある大型遊具,そして校内のグランドピアノ,冷暖房設備等多くの学校備品に柳原氏の厚い想いが息づいおり,高椋っ子を勇気づけている。現在は丸善薬品産業株式会社で,4代目社長の柳原良一氏が継承している。  丸善薬品産業KK    大阪市中央区道修町2-4-7


権治郎氏


三郎氏

北甚之助」 繊維の町 丸岡に貢献 (広報紙no.5)
  
北寅吉は慶応元年(1865)に西里丸岡の北家に生まれた。初代の甚之助が明治25年(1892)に機業を創業し、そのあとを継いだ寅吉が甚之助(2代目)と改名したのが、明治30年(1897)頃であった。明治39年(1906)には、有志数名と共に丸岡絹織物合資会社を設立し、工場を現在の平章小学校の北側に4間半×24間の工場2棟を建てた。生産された絹織物製品は遠く米国に輸出し、会社は軌道に乗って、力織機800台、職工は男女合わせて約1000人の規模であった。その後甚之助は、共同経営から個人経営の「北甚」に変わった。甚之助は、明治42年頃独自に力織機を考案し、西瓜屋の橋脇木工の手助けを受け「橋脇式織機」を開発し、更にその頃から電動機の導入もあって、この橋脇式織機は大いに活躍し機業成長していった。大正3年(1914)10月に丸岡織物信用購買販売組合を設立し、甚之助は組合長に就任した。大正4年(1915)の第一次世界大戦、大正9年(1920)の世界恐慌等、絹織物から人絹織物の転変と激しい大正期の機業界であったが、甚之助は丸岡機業の生き残り策に大きな役割を果たし、丸岡機業の礎をつくった。その後人絹織物も取り入れ、昭和11年(1936)度の工場規模は織機104台、撚糸機300機、使用人約80名(北勇一家文書)であった。昭和18年(1943)に甚之助は、丸岡織物信用購買販売組合長辞任をするまで、30年間にわたり丸岡機業の発展に尽力した。

小林季太郎」福井銀行と仁愛高校の創設者(広報紙no.4)
 
小林季太郎(すえたろう)は、安政6年(1859)舟寄の『米屋』と呼ばれた地主の家に生まれた。明治22年(1889)初代高椋村村長に選ばれ、明治26年(1892)には県議会議員となった。明治30年(1897)北陸線開通により、絹織物が急速に発展した。地方産業の育成進展を図るため、明治32年(1899)銀行営業認可を申請した。創立総会で季太郎は頭取に選出され、翌年福井銀行の開業となつた。 県議時代、農業立県の福井県に農学校設立の必要性を強調して予算成立に尽力し、明治28年(1895)4月に福井市日ノ出下町に簡易農業学校が開校した。更に明治31年(1898)4月には福井市毛矢町木田に禿すみを校長とする仁愛学園設立の理事となり、同年11月には宝永町に学校を移し、明治38年(1905)4月には仁愛女学校と改称した。以後仁愛女学校経営に尽力していた。現在の仁愛学園の創立の功労者である。
 田島川流域は毎年水害に悩まされていた。盛土による耕地整理以外には改良の方法はなかつた。季太郎の尽力で、田島川流域の耕地整理を県の事業として実施することになった。明治35年(1902)から舟寄地籍65町8段歩の大整理事業を大正5年(1916)に完成させた。その後長崎一本田中でも耕地整理が実施された。季太郎は農業治水、耕地整理事業に先見の明を発揮し、農村近代化に偉大な貢献をなした。

中野重治」プロレタリア作家、丸岡中と竜北中の校歌を作曲
       
(広報紙no.3)平成21年7月 プロレタリア文学 中野重治 (1902~1979)
  
明治35年、坂井郡高椋村一本田の中野家に生まれた。福井中学、金沢の第四高等学校文科、東京大学独逸文学科へと進み学生時代から文学雑誌に「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」などの代表的なプロレタリア詩を発表した。次第に左翼運動、共産主義運動に関わっていき、東大を卒業後の翌年(昭和3年)3・15事件で検挙された。その後、日本のプロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍するが、作品が警察によって押収され発売禁止となったり、治安維持法違反容疑で逮捕されたりして、波乱の執筆人生を送った。
   戦後、一本田に帰ってからも執筆活動を続け、昭和22年4月には参議院選挙全国区で見事当選した。昭和32年、彼の代表作の一つである幼年時代を描いた自伝小説「梨の花」が『新潮』に連載された。重治はふるさと、そこに育つ子どもたちに限りない思いを込めて作詞したのが竜北中学校と丸岡中学校の校歌である。その歌は今日も丸岡中学校の学窓、そして私たちの心窓に響き渡っている。                 (丸岡図書館HP 丸岡偉人伝参照)

img1.jpg一本田の生家跡

山田  」日本の農政に貢献 (広報紙no.2) 平成21年3月
 慶応元年(1865)~昭和16年(1941) 

 山田  斂(おさむ) 翁は、坂井郡高椋村(現 坂井市丸岡町一本田)の裕福な農家に生まれました。明治法律学校(現 明治大学)を卒業後、政治家であった父の後を継いで、1897年福井県議会議員になり、1910年に帝国農会を設立し、農業問題に取り組みました。 翁が特に注目したのが米価問題(当時は米の価格に基準がなく、農家も消費者も生活が不安定)でした。翁は政府による米価調節の必要性を訴えて、1914年国内初の米価調節に関する法律(政府が農家から米を困らない値段で買い取り、消費者が買いやすい値段で売る)ができました。
 1918年には貴族院の国会議員となり、1922年国会で農会法改正案を成立させたのは最大の業績でした。 翁は全国の農民や米の消費者が安定した生活ができるよう尽力しました。
 また、一本田の自邸裏には1町歩の晩成果樹園(現 平成期までは伊藤梨園)を開いて、紅魁や紅玉や晩成子等のりんごを栽培し、明治42年頃、福井県の「特産りんご」として、その名を全国に広めました。
 なお、翁の功績を讃え、現在、県庁前の福井県農業会館には、山田斂翁銅像が建立されています。

石墨慶一郎博士」 コシヒカリの父(広報紙no.1)
  平成20年8月創刊号
 (丸岡町舟寄に出身 1921~2001)

 日本一の米「コシヒカリ」の起源は、昭和19年に農林22号を母、農林1号を父として新潟県で交配された品種「越南17号」です。この米は美味しいが、倒伏しやすく栽培が容易でない欠点がありました。戦後の食糧増産の風潮の中では、味の良さよりも、多収穫と栽培のし易さが重視されていました。しかし、福井県農業試験場に勤務していた石墨慶一郎博士は、「将来必ず美味しい米の時代が来る」との信念のもと、昭和23年以降、この「越南17号」の品種改良を重ね、昭和31年ついに品種(登録名 農林100号)を固定することに成功しました。
 農林100号は、越の国に光り輝く「コシヒカリ」と命名され、その後今日まで作付け面積日本一の座を占めています。「コシヒカリ」はさらに多くの品種と掛け合わされ、「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」「キララ397」などが誕生しました。
 日本を代表する美味しい米を産んだ偉大な人物である、石墨博士は「コシヒカリの父」と呼ばれています。

              

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