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    高椋の特徴ある史実です。下線部をクリックするとそれらの解説ページが開きます

 ◎ 縄文中期(約4500年前)舟寄遺跡(平野部にある縄文遺跡) 全国でも珍しい。
 
◎ 高柳・下安田遺跡から銅鐸の破片が出土した。 郷土の古代人たちは金属技術を持っていた。 
 
◎ 彦主人王(ひこうしのおう)が振媛を迎えに、兵庫川 の川船から降りた所が牛ノ島(吉政)であった。   
      
彦主人王とは継体天皇の父    
 
◎ 高柳や吉政近辺は奈良時代に奈良西大寺の荘園 (赤江庄)であった。
 
◎ 泰澄大師が創建した称念寺は新田義貞公菩提所
     また
明智光秀、松尾芭蕉ゆかりの寺でもあり
 細川ガラシャが生まれた所でもある。
 
◎ 一本田、高柳、西里丸岡には観音像が大切に保管伝承されている。
 
◎ 現在の福井市内の私立高校(北陸高校、仁愛高校) 創設者は高椋の偉人であった。 
 

称念寺(新田義貞公墓所)
 丸岡町長崎19-17

黒坂備中守館跡
   (舟寄城跡)

 日東シンコ―KK敷地内

舟寄踊 
  舟寄区内 踊り広場

北陸街道
「吉崎道」道しるべ
              舟寄踊りの広場

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  新田義貞は南北朝の戦乱期の延元3年(1338)藤島庄灯明寺畷(ふじしましょうとうみょうじなわて)で戦死した武将である。その遺骸は長崎往生院(長崎称念寺)の白道上人によって手厚く葬られたと「太平記」に記されている。   県の指定史跡

  朝倉義景の家臣の黒坂備中守景久は加賀の一向一揆に対するため,舟寄に館(舟寄城)を構え,坂井市東部一帯を治めていた。舟寄館跡は現在の日東シンコー(株)の会社敷地内にあり,南北75m,東西84mほどの規模であった。   坂井市指定文化財

  今から400年ほど前、越前領主朝倉義景の重臣、黒坂備中守景久が、姉川の戦いに出陣する武士に酒宴を開いた時に踊られたのが始まりと云われている。 旧北陸街道の宿場として栄え、区内の広場では8月15日には「舟寄踊」が行われる。
  
県の無形民俗文化財

   江戸時代の舟寄集落は200戸を超す大集落で、北陸街道の宿場街として発展していた。踊り場に加賀への道しるべが残っている。吉崎詣りの旅人の道しるべでもあった。

 

一本田
 観音院千手観音菩薩像

    
丸岡町一本田神明社

高柳救世観世音菩薩像
 
丸岡町高柳4-1-1

中野重治生家跡
  丸岡町一本田

一本田中不動明王(お堂)
 一本田中八幡神社境内

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   寛正2年(1462)、永平寺の僧無参石門和尚が集落の西部に観音庵を建てたのが始まりで,元禄8年(1695)頃には,千手観音を本尊とするお堂が建った。観音堂内には西国33ヵ所の観音が祀られ,周囲には33ヵ所の霊場の土が盛られていたことから,大勢の人々がお参りするようになった。当観音像は33年毎にご開帳する秘仏として崇められ、今日に継承されている。平成のご開帳は平成20年8月9〜10日でした。
 

  八幡神社には付近の川から流れてきたと云われている菩薩像がある。 
  この像に付属する木簡には「奉再建救世観音菩薩實蔵」文化12年(1815)蒔田半左衛門平忠貞と書かれているので,神社再建時に代官の蒔田氏が観音堂を寄進したと見られる。




 

   明治35年、一本田に生まれた。 「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」など代表的プロレタリア詩を発表。プロレタリア文学の指導的役割を果たし活躍した。戦後昭和22年4月参議院選挙全国区で見事当選した。彼の代表作の一つで、幼年時代を描いた自伝小説「梨の花」や竜北中学校校歌を作詞。昭和39年3月「丸岡中学校の校歌の作詞は、ふるさととそこに育つ子どもたちに限りない思いを込めて作った。

   延宝2年(1674)旧鳴鹿村の下久米田(現在の坂井市丸岡町下久米田)の田んぼの中から掘り出された不動明王が更に元禄10年(1697)7月に霊夢で丸岡城主の有馬左衛門佐清純公によって一本田中村に移された。この不動堂は石瓦(笏谷石)60枚でふきあげられて、桧材で堅牢に造られているため福井震災の時は倒壊を免れた。中のご神体は立派な「御厨子」の中に納められて重量約80kg?とか、しかし古来から拝観が禁じられいるので定かではない。

 高柳陣屋と
     代官蒔田雁門の墓

 
高柳地区の墓地

 猪爪弁財天
 
猪爪東部第3公園内

 山田晩成園跡(伊藤梨園)
 丸岡町一本田22-48

丸岡スポーツランド
 
丸岡町長崎6−69

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  高柳には旗本の本多氏の陣屋があった。本多大膳重看が寛永3年(1626)に初代旗本となり,以後幕末まで5代続いた。本多氏は江戸詰めが多く,留守を預かる代官が地方の行政に携わっていた。現在,高柳墓地に代官の蒔田雁門(箏曲:秋風の曲の作詞者)の墓(通称:殿様の墓)がある。

  「たいちん池」「弁天清水」の湧水池があり,元禄12年(1699)以来,弁天堂を建てて弁財天を祀っている。御本像は現在台雲寺に安置されている。
 先人たちは池の水を飲料水や潅漑に用いていたが,昭和50年に埋め立てられ,現在は池の一部を残して芝生公園になっている。 
   

  本田の豪農山田家の長男として生まれ、父の後を継いで政界に乗り出し、全国農委会長である農政の第一人者となった。明治33年、県農事試験場を創設し、稲作栽培の試験を始め、新しい品種作りや土壌肥料の分析など近代農業の振興指針とした。同時に郡農事試験場を設置したり、自邸後方には果樹園(現在は伊東農園)も開いた。

  丸岡町はサッカーが盛んな町である。昭和57年(1982)サッカースポーツ少年団が初の全国大会出場、その後何度か全国大会に出場している。丸岡中学校では全国中学校大会に常時出場、丸岡高校でも全国大会、インターハイ、国体等その強さは全国トップレベルである。 平成4年(1992)4月には、町内長崎に丸岡サッカースポーツランドが完成し、県内初の専用サッカー場がオープンした。

 

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