光秀と称念寺
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@「称念寺と光秀公の魅力

   光秀28歳頃(1556年頃)、美濃で齋藤道三に仕えていたが、道三の嫡男の義龍と父道三との間の長良川の戦いに、道三が敗れ、光秀は逃亡へ、称念寺に逃れてきた。寺の支援を受けながら、貧しい中でも、妻子とともに過ごすこと約10年間、武者修行キャリアアップ 近くの舟寄館(朝倉氏の出城)の黒坂備中守景久に仕え、一乗谷朝倉氏に仕えようと願い出ていた。1565年5月19日に起きた13代足利将軍の義輝の暗殺事件後、次期将軍候補に足利義輝の弟(覚慶)を擁立し、光秀は東奔西走し、朝倉義景に支援を求めて、覚慶(後に義昭と改名)を一乗谷に保護することになった。覚慶を次期将軍に京の朝廷に願い出る(上洛)際、その保証人となって、義景に同伴を願うものの、当時一向一揆の動乱や義景の嫡男(阿君丸)の毒殺事件もあり、また、義景は上洛を断ってしまう。1568年、光秀は義景を断念し、越前を去り、岐阜の織田信長へ走り、信長の支援を受けて、信長と上洛し、足利義昭は第15代将軍となった。光秀はあの群雄割拠の戦国時代に一流の武将となるための礎(教養、技能、人間性)を身につけたのは、正しく、称念寺在住の10年間の浪人時代であった。

A 明智光秀公の年表 
     (NHK大河ドラマ「麒麟がくる」番組ガイドブック参照)

 

B称念寺概要

 泰澄大師が養老5年(721)に
 阿弥陀堂として創建

  新田義貞公墓所
  (福井県指定史跡)

 明智光秀公ゆかりの寺
 16世紀中頃10年間居住

  (丸岡町長崎19-17 TEL0776-66-3675 または68-0756)

 称念寺は、2021年で1300年目の古刹、太平記に出てくる古刹で,この寺には南北朝時代の延元3年(1338)に福井市灯明寺畷で戦死した新田義貞公の墓所があります。また,当寺は弘治2年(1556)から約10年間明智光秀一家が避難していた所でもあり,永禄6年(1563)に光秀の子のお玉(後の細川ガラシャ)が生まれた所でもあります。元禄(2年(1689)8月8日松尾芭蕉が奧の細道の途中に立ち寄った寺でもあり,芭蕉は称念寺での明智家の様子を「月さびよ明智が妻のはなしせむ」と詠み,現在境内にその句碑があります。2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映で,全国から観光客が訪れる一躍有名古刹となりました。

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CNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、放映された
  称念寺での光秀一家の1コマ (TV画面より転写) 

                                  

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