(3) 明智光秀と薗阿(えんあ)上人 若い頃の明智光秀は美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市)の明智城を本拠としていた。弘治2年(1556)明智城は斉藤義龍の大軍(斉藤道三の子)に包囲され,猛烈に攻撃されたこれで最後と思い,甥の光春と共に城に火を放ち暗闇にまぎれて北へ逃れた。油坂峠を越え,大野の穴馬村まで逃れて潜伏していた。光秀は,北条流の軍学者で識見と抜群の腕の持ち主であり,詩歌管弦の道にも精通していた。光秀は以前から詩歌に堪能な称念寺の薗阿上人と懇意があり,何度か称念寺を訪ねていた。上人は穴馬村に潜伏していた光秀のことを聞き,ある夜、使いを出して光秀を長崎に連れ出した。そして,門前に一軒家を借り,家族で住んだのが1560年頃以降のことだった。約5年間寺子屋で付近の子どもや若者の教育に当たり,薗阿上人と花鳥風月を詠じたり,大坂堺へ鉄砲術や戦術修行の旅に出たりしていた。またある時は二人で北潟湖に舟を浮かべたり,ある時は山代温泉のお湯に入ったりして,光秀は明智家再興のために力を蓄えていたと云われている。 みち瀬の こしてや洗ふ あうがねの
土もあらわに 根上りの松
この歌は三国の雄島の雄島神社の神宮治部大輔の家に泊って,上人と3人で百韻の連歌を詠じた折,浜坂の汐越の松を詠じたものであり,当時の不遇な心境を表わす作品として伝えられている。光秀は朝倉氏に仕えようと仕官し、認められた永禄9年頃(1566)、福井市東大味に転居している。その後,永禄12年(1569)から織田信長に仕えるまで,長崎と東大味で妻子と一緒に暮らしていた。
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