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 下欄の高椋偉人伝一覧の名前をするとその解説がご覧になれます。

泰澄 大師

新田 義貞

明智 光秀

細川ガラシャ

秀道と順教

高尾 察玄

石門と白毛

蒔田 雁門

蓑笠庵梨一

野 良郷

合屋 文仲

日種 宗淵

小林季太郎

山田 斂

北 甚之助

大森 禅戒

小原宗太郎

恩地政右エ門

柳原 三郎

中野 秀孝

中野 重治

西田 単像

武川 庄吉

中野 鈴子

伊東 尚一

吉田 彰

中林 隆信

坪川 家恒

石墨慶一郎

金崎栄次郎

高 健

 

  1 称念寺にまつわる人々

(1)泰澄大師(682〜767)
  他阿眞教上人(1237~1319)と称念坊兄弟
 泰澄は,福井市の麻生津三十八社に生まれた。14歳の時から越知山に修行に入って以来,日野山・文殊山・白山等に登峰され修行し、諸国を巡錫された。越知山から北東の方角に紫雲がたなびいてい所を見つけ,大宝2年(702)に豊原寺(丸岡町豊原)を創建し,更に元正天皇の勅願を受けて,養老5年(721)長崎に阿弥陀堂を建てた。
 その後,寺は一遍上人が開いた時宗に転宗した。称念房・道性房・仏眼房の三兄弟によって伽藍が整備され,兄の称念房の名前をとって寺号とし称念寺がきた。
 正応3年(1290)に2代目の他阿上人が越前布教で長崎に道場を開いたとき,兄の念房が称念寺住職となり,弟通性房が光明院を建てた。古くから「称念寺並に光明院」としてその名を知られていた。    ※【他阿真教上人】一遍上人の一番弟子

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 (2) 新田義貞(1301〜1338)
 義貞公は正安3年(1301)に上野(こうづけの)国新田の荘(現在の群馬県太田市)で生まれた。鎌倉幕府の衰退期に天皇親政の建武の中興を掲げた後醍醐天皇の呼びかけに応え,少ない兵力で1,333年に鎌倉幕府を討伐した名将である。しかし,反旗を翻した足利尊氏(北朝)と対立し南北朝の戦いに発展していった。義貞公は暦応元年/延元3年(1338)に越前藤島で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇し灯明寺畷で戦死した。義貞公の遺体は長崎称念寺に運ばれ,境内に墓所が造られた。現在は,その墓石は県の史跡になっている。また福井市新田塚の灯明寺畷には,義貞公の戦没伝説地(国の史跡)があり,新田塚公園となっている。これらの戦いの経緯などは「太平記」に記されている。義貞公は源氏の遠縁であり、至誠の武将として以後の将軍家や天皇家から手厚く保護を受けた。

 

称念寺と明智光秀

(3) 明智光秀と薗阿(えんあ)上人
 若い頃の明智光秀は美濃国可児郡(現在の岐阜県可児市)の明智城を本拠としていた。弘治2年(1556)明智城は斉藤義龍の大軍(斉藤道三の子)に包囲され,猛烈に攻撃されたこれで最後と思い,甥の光春と共に城に火を放ち暗闇にまぎれて北へ逃れた。油坂峠を越え,大野の穴馬村まで逃れて潜伏していた。光秀は,北条流の軍学者で識見と抜群の腕の持ち主であり,詩歌管弦の道にも精通していた。光秀は以前から詩歌に堪能な称念寺の薗阿上人と懇意があり,何度か称念寺を訪ねていた。上人は穴馬村に潜伏していた光秀のことを聞き,ある夜、使いを出して光秀を長崎に連れ出した。そして,門前に一軒家を借り,家族で住んだのが1560年頃以降のことだった。約5年間寺子屋で付近の子どもや若者の教育に当たり,薗阿上人と花鳥風月を詠じたり,大坂堺へ鉄砲術や戦術修行の旅に出たりしていた。またある時は二人で北潟湖に舟を浮かべたり,ある時は山代温泉のお湯に入ったりして,光秀は明智家再興のために力を蓄えていたと云われている。
    みち瀬の こしてや洗ふ あうがねの   土もあらわに 根上りの松

  この歌は三国の雄島の雄島神社の神宮治部大輔の家に泊って,上人と3人で百韻の連歌を詠じた折,浜坂の汐越の松を詠じたものであり,当時の不遇な心境を表わす作品として伝えられている。光秀は朝倉氏に仕えようと仕官し、認められた永禄9年頃(1566)、福井市東大味に転居している。その後,永禄12年(1569)から織田信長に仕えるまで,長崎と東大味で妻子と一緒に暮らしていた。

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        明智光秀公

 称念寺境内の芭蕉句碑
 この長崎は,光秀の妻煕子が髪を売って夫のために金を用意したという有名な逸話が残る場所でもある。元禄2年(1689)8月8日,松尾芭蕉が奥の細道の道中、称念寺に立ち寄った時に,当時の住職から明智秀の夫婦愛の話を聞き,感激して詠んだ句がある。 (奥の細道を終えて,伊勢の俳人島崎又玄宅で詠んだと云われている。) 
  
月さびよ 明智の妻の 咄(はなし)せむ 
      この句碑は現在,称念寺境内にある。

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(4)玉または珠(細川ガラシャ)  (1563〜1600) ガラシャの誕生地は称念寺門前

 光秀が長崎に身を潜めて,再起をねらっていた永禄6年(1563)に妻の煕子との間に三女(次女説,四女説もある)玉が生まれた。玉は永禄9年(1566)に東大味(現在の福井市東大味)に移居したと考えられる。玉はこの長崎地区と福井市東大味で幼少期を過ごした その後滋賀県坂本城で過ごし,15歳の時織田信長のすすめで細川忠興に嫁ぐ,天正10年(1582)父の光秀が本能寺で主君の信長を討った(本能寺の変)ことから,玉は「逆臣の娘」とり,約2年間丹後の味土野に隔離幽閉していたが,羽柴秀吉の取り計らいで,細川家の大坂屋敷に戻された。その頃からカトリックの教えに心ひかれ,やがて,ガラシャの洗礼名を受けた。関ヶ原の戦い直前の慶長5年(1600)7月16日,西軍の石田三成は細川家にいたガラシャを人質に取ろうとした。ガシャは拒絶したが,次の日三成の兵に囲まれ,ガラシャは自分の家老に槍で部屋の外から胸を貫かせて自害した。享年38歳だった。
 ガラシャが人質に取られていたら、細川家が石田光成に寝返り、石田光成が勝利していたかもしれない。
 このガラシャの死をモデルとした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)が,神聖ロー帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日の祝いとして1698年7月31日にエスズ会の劇場でオペラとして発表され,ガラシャの名前が世界に発信された。                    出典:フリー百科辞典ウィキペディアより

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 ガラシャの遠縁にあたる細川護熙元総理大臣(旧熊本藩主細川家18代の末裔にあたる。)は1994年4月の辞任の際,ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の花の花なれ 人も人なれ」を引用したことでも知られている。

カトリック大阪大司教区教座聖堂 聖マリア大聖堂前の細川ガラシャ像

(5) 称念寺中興の秀道と順教住職
 称念寺の全盛を支えたのは称念寺26代住職秀道と28代の住職順教である。新田家は徳川家の遠祖にあたることから,徳川家は称念寺に往生院の号を公称し,称寺を手厚く保護した。新田義貞公の400年忌が近づいた元文元年(1736)頃から当時の住職の秀道は,400年忌に向け,全身をかたむけて寺内の整理に没頭した。江戸幕府の支援を受け,元文2年(1737)に400年忌法要を盛大に挙行し,中興称念寺の全盛時を迎えた。称念寺の繁栄により遠近よりの参詣者が多くなった。
 28代の住職順教は,堂宇の建立を続け,寺の環境整備に生涯を捧げた。安永4年(1775)の記録によると,壮大な規模が解る。御像堂は5間半に6間,仏殿は10間に13間,堂.経堂 総門・山門があり,墓所は7間四方で,正面27間奥行34間の総囲いをなし拝殿と水屋があった。また,13間に9間の大方丈の外に,小方丈・庫裏・食堂・開山・鐘楼・浴室があり,その他に光明院・単信院・西教院・竜灯院をはじめ,弁天堂・染堂・十王堂・東寮・西寮が立ち並んで,境内三千余坪を埋めていた。境内の四隅に大神官・白山社・西宮・天満宮の鎮守社を祀っていた。

(6)大正期の再興と高尾察玄住職   (1880〜1945)
 明治に入り,称念寺は福井藩からの保護がなくなり,しかも檀家がほとんない状態で,寺の経営はたちまち行きつ詰まった。そして明治18年(1885)にはついに無住職の寺となった。
 明治39年(1906)頃から福井市の藤島神社奉賛会,福井県知事並木郡長,地元の有志が発起人となり,再興のための動きが始まった。そして,大正3年(1914)に広島県尾道市海徳寺の高尾察玄氏(広島県まれ)を住職として迎えることができた。察玄住職は,早速新田公菩提寺再興会を結成し,寺再興のために全国各地を遊説し,中央政界の井上馨や大隈重信,三井,三菱等の篤志家に浄財を懇請したことから,宮内省からも御下賜金を賜り,その結果御像堂・本堂・位牌堂・山門・休息所等の工事が進られた。大正13年(1924)4月に落慶法要が盛大に行われた。察玄住職はさらに新田公600年忌法要のために,各地を廻って浄財をつくり,新たに寺坊を増築し昭和12年(1937)4月24日〜3日間の600年忌大法要を盛大に挙行することができた。僧侶20余名による大読経・大名行列・稚児行列・高椋小学校児童の礼賛舞もあり,数万人の参拝者で賑わった。当時羽生福井県知事が奉賛会会長,恩地県議会議長が奉賛会副会長であった。 察玄は昭和13年(1924)の称念寺再建等の功績足下位(次期の時宗官長候補)に転進し,高尾察良に称念寺住職を譲り,昭和19年(1944)甲府市一蓮寺住職となった。昭和20年(1945の甲府市の空襲で本堂が全焼し,消火作業で亡くなった。

 2  江戸時代の郷土の偉人たち

(1)一本田観音院の石門と白毛(はくもう)和尚
 寛正2年(1461)永平寺の僧無参石門和尚が一本田音院の前身である観音庵を創建し,地域に観音信仰を布教した。白毛和尚は享保16年(1731)頃に美濃国羽栗三宅村の生まれで,永平寺で修行時の明和元年(1764)に一本田観音庵の庵主となった。白毛和尚は丸岡谷町津田氏の絶大な協力を得て,庵の復興に力を注いだ。安永2年(1773)より西国33ケ所の御札所を巡拝し,各寺から観音様を一体ずつ拝授し,33霊場の浄土を一握ずつ持ち帰り,33体の観音菩薩は御本尊の千手観世音薩の両脇に御奉置した。また,境内の一隅に白毛塔を建てて,33体の石観音を安置し,周りに各霊場の浄土を敷きつめた。和尚は霊場巡拝できない世人のために,十数年かけてついに一本田観音庵を復興させた。 天明7年(1787)7月28日に,永平寺直属の末庵としての免状を給わり,正式に一本田観音院となり,開闢(かいびゃく)の石門和尚,2代目鉄般和尚の330年忌大法要を営んだ。

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(2)高柳の蒔田雁(まきたがもん)    ( ?〜1850)
 
高柳陣屋の代官 筝曲の作詞者
 高柳墓地に「殿様の墓」と呼ばれている一際大きい墓石がある。江戸後期の代官「蒔田雁門」の墓碑である。雁門は少年の頃より勉学に励み,大坂の書店に依頼して中国の書物まで取寄せたという。書物には金銭を惜しまず買い求めて研究した。また,箏曲に優れ,漢詩で有名な「長恨歌」を和訳した。雁門は箏曲の第一人者である京都の光崎検校と親しく,光崎の作曲した名曲「秋風の曲」を後世伝えたいと,天保8年(1837)2月に「箏曲秘譜」を刊行し,「高向山人」として序文にその由来を述べている。  
 
高柳墓地の蒔田雁門の墓
 高柳陣屋の代官であった蒔田凌雲の子,雁門は音律の道に詳しく,京都で有名な箏家の光崎検校を高柳に招いて,子女のために音曲を習わせた。光崎には箏曲について多くの名作があり,従来の三味線との合奏から独立し,純箏曲の作曲家として有名になった。たまたま蒔田父子と親交を重ねることになり,蒔田の深い学識によって啓発されことがあり,特に音律の学を通じて互いに共感するところがあった。箏曲史上不朽の作と讃えられている「秋風の曲」は、こうした親愛の情の中から生まれたものである。
  この歌詞に深く心をひかれた光崎は,何とかしてこれを作曲したいと決意したが,事は容易でなかった。そこで神の冥護に頼るより外はないと考え,琵琶湖の竹生島に白夜の参籠をなした。こうして満願にいたり,天女の御告げを得て大成したのが,一代の曲「秋風の曲」であった。      (「秋風の曲と蒔田一家」雨田光平より)
 曲は前奏と歌詞の二部からなっている。前奏には玄宗皇帝と揚貴妃の悲劇を暗示すような悲壮な雰囲気が表現されており,歌詞は伴奏の琴に,吹く風や馬のひづめの音描写されて,特に秋風調子と呼ばれている。光崎はこれを箏曲として後世に残さない意向であったが,この作曲に深く感激した雁門父子は是非ともこれを刊行するように薦め、天保8年(1837)2月に「箏曲被譜」が出版された。雁門は「高向山人」の名で序文書き,両者の交渉経過と作曲の由来を明らかにして同好者に配布したので,後世に伝ることができた。雁門は晩年には福井へ出て専門の経史と韻学を教えた。嘉永3年(1850)6月26に死亡し,福井の田原町光明寺に葬った。法名は瑞華院雁門覚大居士。                (資料提供は高柳区 高橋哲夫氏)

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高柳の墓地にある
蒔田雁門の墓

(3)俳人 蓑笠庵(さりゆうあん)梨一(りいち)(高橋梨一)(1714〜1783)
 正徳3年(1714),梨一は関久和の二男として,現在の埼玉県に生まれた。小さいときから学問に励み,古典や算数が得意だった。その中でも,俳句をつくるのが得意であった。梨一が50歳のとき,丸岡藩の招きで家を石城戸に移住し,52歳で大和めぐりに出て,句集「大和めぐり」を出した。この後,梨一は,藩士に学問を教えるようになった。梨一の学識と人格の高さを知っている人が集り,漢学習字や俳句を学ぶようになり,この塾を蓑笠庵と呼んだ。丸岡藩の教育が盛んになり,梨一の学問の研究心も高まっていった。梨一が松尾芭蕉の研究に生涯を捧げた・集大成として「奥細道菅菰抄」という書物を著した。
 天明3年(1783),梨一は病にたおれ,4月18日に70歳で亡くなった。弟子たちの手によって台雲寺の墓地に葬られ,梨一を讃えた碑文を刻んだお墓が建てられた。丸岡壇蓑笠社は代々の師匠を中心にし,梨一の俳句のつくり方を受け継いでいた。今日で丸岡俳句会は毎年4月の梨一が亡くなった日に,台雲寺で句会を開いている。また,丸岡町では「俳句のあるまちづくり事業」として,俳句を募集し「梨一賞」をつくり表している。台雲寺には梨一の墓がある。

 

(4)近代教育の先駆者 邨野(むらの) 良郷(りようきよう)  (1816〜1885) 
 良郷は文化13年(1816)福井藩士邨野幾右衛門の次男として福井で生まれた。青年の頃から師を求め各地を巡って勉学に励んだ。九州長崎で医術を研究し,同時に易占・礼法・生花まで学んだ。30歳頃に以前通った北陸道の舟寄村に心ひかれて,ここを永住の地と決めて居住することになった。そして医業をはじめた。
 持ち前の温厚高潔な人柄はたちまちのうちに人々尊敬の的となり,手すきの時間ができると,村内の子どもたちの教育に大変熱心にあたり,年中一日の休みも取らなかったと云われて,子どもたちも心から慕って邨野塾で学んだ。
 明治18年(1885)70歳で亡くなった。妻も品位がよくて村民から親しまれ,婦人を対象に礼儀作法や生花を教えていた。良郷の息子も勉強を大変好んでいたが,母子も相次いで亡くなり,一家が絶えてその後の供養も出来なくなった。邨野門士の先輩であった小林季太郎は大変残念に思い,旧門弟たちと協議して顕彰碑を建てることになった。碑文は柳原縫之助が書き,そして明治41年(1908)5月に舟寄の墓地入口に建立された。現在も邨野先生之碑はその篤行を後世に伝えている。
 舟寄では邨野塾がもとで,明治8年(1875)に知津小学校を設立し近代教育に切り替わった。

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舟寄墓地の良卿の墓

(5)幕末の藩医 合屋(ごうや) 文仲(ぶんちゆう)  (1832〜1905)
 石城戸の合屋家に生まれ,30歳で父の後を継ぎ丸岡藩医となった発明した「イバラキ膏薬」は当時の丸岡名産として全国に名を知れ,薬を求めて患者が後を絶たなかった。その後坂井郡東部医務締,衛生会頭となった。文仲は少年期より漢学にも秀でていて,宅に成美堂という塾を開き,多くの青年たちの指導にあたっていた また,極めて正義感がつよく,社会奉仕の事業に対して心から敬し,功労のあった人の偉業を讃え,多くの碑文を書いている。
(竹田川平岩堀割工事の浅海渡の功労碑文,長田四郎作の新道功碑文,竹田新道開発の渡辺茂十郎功績碑文等)台雲寺には墓がある。 

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3 明治以降の郷土偉人

(1)羽水教学(現在の北陸高校の前身)創設時の功労者
  高椋地区最初の儀間小学校創設 
日種(ひぐさ) 宗淵(しゆうえん)  (1850〜1900)日種宗淵は嘉永3年(1850)に儀間の蓮長寺に生まれた。明治初頃から寺内で飛雲舎を開き,延べ200人の青年の教育にあたった。明治5年(1872)の学制公布と同時に蓮長寺の本堂を教場とした 儀間小学校を開校させて,近隣の子どもたちの教育にあたった。これが高椋地区で最初の小学校となった。明治7年(1874)3月より思問小学校と改称している。同年宗淵住職は自らも25歳で小学校師範科に入学し,新しい教育の基礎教養を学び,明治8年(1875)2月には第1回の卒業生となった。そして小学校教育に本格的取り組み,高椋から磯部にかけた広い範囲から子どもたちが集ったので,明治12年(1879)には本堂を再建し教場拡張するばかりでなく,牛ヶ島の西照寺や高瀬の中谷家をも仮校場に当てた。明治13年(1880)には福井別院内に僧侶のための羽水教校を開き,寺院や信徒の子弟の宗教教育にあたるとともに,副監となって学校運営に当たった。羽水教校は明治43年(1912)には北陸中学校(現在の北陸高等学校の前身と改称されている。明治20年(1887)には福井県議会議員に選し県政にも携わった。明治33年(1900)に享年51歳で一生を終えている。
 現在,境内に一際大きな顕彰碑が建っている。この碑は大2年(1913)に門徒によって建立された宗淵師遺徳の碑である。  

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 (2)明治期の福井県の政財界の基礎確立
       
小林(こばやし) 季太郎(すえたろう) (1859〜1911)
   福井銀行設立ばやしに尽力
 小林季太郎は安政6年(1859)『米屋』と呼ばれた舟寄の大地主の長男として生まれた。明治22年(1889),初代高椋村村長選ばれ,その後郡会議員に選出され,明治26年(1892)には県議会議員となった。明治30年(1897)の北陸線開通により,絹織物が急速に発展した。地方産業の育成進展を図るため,明治32(1899)銀行営業認可を申請した。創立総会で季太郎は頭取に選出され,翌年(1900)福井銀行の開業となった。
   仁愛学園設立に尽力
   明治26年(1892)に県議会議員となり,農業立県の福井県に農学校設立の必要性を強調して予算成立に尽力し,明治28(1895)4月に福井市日ノ出下町に簡易農業学校が開校した。
 更に明治31年(1898)4月には福井市毛矢町木田に禿すみを長とする仁愛学園設立して、理事となった。同年11月には宝永町に学校を移し,明治38(1905)4月には仁愛女学校と改称した。以後仁愛女学校経営に尽力していた。現在の仁愛学園の創立の功労者である。 
 西部土地改良に尽力
  田島川流域の低湿地帯は毎年水害に悩まされ,収穫皆無の時もあった。盛土による耕地整理以外には改良の方法はなかった。そこで県農会副会長の一本田の山田斂と熟談上,県の事業として耕地整理を実施することになった。明治35年(1902)から舟寄地籍65町8段歩の大整理事業を大正5年(1916)に完成させた。その後長崎・一本田中でも耕地整理が実施された。季太郎は農業治水,耕地整理事業に先見の明で発揮し,農村近代に偉大な貢献を残した。

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(3) 福井県農民の父 山田 斂(おさむ) (1865〜1941)
  山田斂は一本田の豪農山田家の長男として慶応元年(1865)に生まれた。 父は第2代福井県議会議長(明治15年),第1回貴族院議員(明治23年)であった。
 上京して明治法律学校に学び,卒業後は父の後を継いで政界に乗り出し,明治30(1897)県会議員となった。明治33年(1900)に農事試験場を創設し,稲作栽培の試験をはじめ,新しい品種作りや土壌肥料の分析などを行い,坂井郡農事試験場を設置した。また自邸後方には晩成園果樹園(現在伊藤農園)も開いた。明治42年(1909)は興農信用組合を設立し,農村金融と貯蓄の奨励に努めた。翌43年(1910),帝国農会の設立の際は創立委員に,その後評議員に選ばれ中央農政に活躍するこになった。大正7年(1918)貴族院議員なり,不安定な米価問題に取り組んだ農政懇談会に加え,衆議院の農政議員も提携して,大正11年(1922)の国会で農会法改正案を成立させたのは最大業績であった。
 昭和10年(1935)に帝国農会副会長,次いで会長に推された。地方の農会長から選されたのは山田斂が最初であった。農政家としての実績が,最高地位の農会長の座に上りつめさせた。

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晩成果樹園入口

(4)丸岡機業発展の礎を築く 北 甚之助  (1865〜1949)
 北寅吉は慶応元年(1865)に西里丸岡の北家に生まれた。初代甚之助が明治25年(1892)に機業を創業し,そのあとを継いだ寅吉が甚之助(2代目)と改名したのが明治30年頃であった。明治3年(1906)には有志数名と共に丸岡絹織物合資会社を設立し,工場を現在の平章小学校の北側に4間半×24間の工場2棟を建て,石油発動機で糸繰機を動かして,生産された絹織物製品は遠く米国に輸出し,会社は軌道に乗って,力織機800台,職工は男女合せて約1000人の規模であった。
 その後甚之助は共同経営から個経営の「北甚」に変わった。甚之助は明治42年頃独自に力織機考案し,西瓜屋の橋脇木工の手助けを受け「橋脇式織機」を開し,更にその頃から電動機の導入もあって,この橋脇式織機は大いに活躍し機業成長していった。大正3年(1914)10月に丸岡織物信用購買販売組合(丸岡織物組合)を設立し,甚之助は組合長に就任した。大正4年(1915)の第1次世界大戦,大正9年(1920)の世界恐慌等,絹織物から人絹織物の転変と激し大正期の機業界であったが,甚之助は丸岡機業の生き残り策に大きな役割を果たし,丸岡機業の礎をつくった。甚之助は大正4年〜8年,大正12年6月〜昭和2年6月2期福井県織物同業者組合の評議員を務めている。昭和6年(1931)北甚機業は火災に遭うがその後人絹織物も取り入れ,昭和11年度(1936)の工場規模は織機104台,撚糸機300機使用人約80名(北勇一家文書)であった。昭和18年(1943)に甚之助は丸岡織物組合長任するまで,30年間にわたり,丸岡機業の発展に尽力した。

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(5)70世永平寺貫首   大森 禅戒 (1871〜1947 )
  禅戒は明治4年(1871)丸岡猪爪2号11番地の八木家の三男して生まれた。台雲寺で小僧となり,その後出家し,明治18年(1885)禅戒の名をもらって仏道修行に専念することになった。東京の曹宗大学に進み修行に励むこと7ヶ年間,抜群の成績で卒業した。その後まだ29歳の若さで母校の曹洞宗大学教授となった。
 米国,英国,ドイツの大学で7年間,主として宗教制度と比較教学および宗教哲学を専攻し,インドやヨーロッパ,中国,満韓における社会事業を調査した。昭和4年(1929)にも曹洞宗管長代理して,ハワイから北米方面で慰問布教するなど禅戒は海外生活10ヶ年間東奔西走し曹洞宗における第一人者となった。
 昭和9年(1934)には駒沢大学の学長に迎えられ,その後4ヶ年にわたり駒沢大学の備拡充のために心血を注いだ。昭和15年(1926)9月,禅戒は推されて曹洞宗管長に任し,翌年7月には曹洞宗の宗制に従って大本山永平寺第70世の貫首になった。71歳であった。曹洞宗最高の栄誉をになったのである。ところが,入山式後、直ちに引退を声明して,一切の世事から遠ざかって,昭和22年(1947)2月4日,脳出血のため77歳で亡くなった。

 

(6)丸岡軽便鉄道の創設者   小原 宗太郎  (1873〜1955)
 小原宗太郎は明治6年(1873)石城戸の旧家で米問屋を営む小原家の長男として生れた。道路について人一倍の関心をもっていた。40歳のとき,田町と西瓜屋で道路の交通量を調査した。そこで交通量の多さが分かり,交通機関を誘致することが町の発展にながると確信し,丸岡から一本田,舟寄を通って新庄の停車場に至る4.2qに鉄道線をつくることを考えた。これが丸岡鉄道株式会社の誕生であった。小原氏は線路を敷くための土地を買い,難題を解決し,大正3年(1914)6月に丸岡軽便鉄道を開通させた。駅の名前は北陸本線に「丸岡駅」(坂井町新庄)があたため,本丸岡駅となった。
 日本で2番目のドイツ製薪の蒸気機関車を走らせ『軽便鉄道』と呼ばれた。『軽便鉄道』は活躍し,丸岡町の発展につながったのである。昭和5年(1930)5月には丸岡軽便が電化され,電車が走るようになった。本丸岡駅は今でも丸岡町の玄関となっている。

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(7)第33代福井県議会議長    恩地政右エ門 (1883〜1949)
 恩地政右エ門は明治16年(1882)大野郡荒土村に生まれた。14〜15歳の頃舟寄の恩地家に養子となった。大正6年(1917)に信用合創設の発起人となり,舟寄に信用組合を開設した。昭和の初めには付近の集落も加入し,高椋中央部の本丸岡駅の南に事務所をくり,高椋村の金融界の草分けとなった。現在のJAの前身であた高椋農業協同組合へ引き渡すなど,近代農業の活性化と農村生の向上に努めた。
この間,同村役場の書記も勤め,助役を経て昭和年(1930)に高椋村の村長となり,以降村長を5期務めた。その後議会議員にも4回当選し,昭和10年(1935)10月21日には第33福井県議会議長に推され,県町村長会長,坂井郡町村会会長を兼務するなどし,昭和13年(1938)12月6日まで県政の運営と県の農業振興にその重責を全うした。

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(8)一世紀近く母校へ寄進 高椋小学校の柳原賞創設 
     柳原 権治郎(1835〜1934)と
柳原 三郎(   〜1947)
  柳原権治郎(須賀磯八)は舟寄村に生まれた。安政元年(1854)19歳の春に上京し,丁稚奉公で商売精神を学んだ後,明治28年(1895)に大阪の道修町でアルカリ製造の会社を創業した。権治郎は日頃から故郷を想い,舟寄区への寄進をはじめ、特に母校の高椋小学校の子どもたちのための教育環境の充実を願って,高椋小学校への寄進を続ていた。2代目の三郎氏も先代の意志を継ぎ,大正10年(1921)頃から「柳原賞(柳原奨学基金)」を設立した。毎年,学校備品や卒業生へはアルム寄贈を続けてきた。以後3代目4代目もその志を受け継ぎ今日に至っている。
 現在,高椋小学校の校庭にある大型遊具,グランドピアノ,冷暖房設備等多くの学備品に柳原氏の厚い想いが息づいており,高椋っ子を勇気づけている。
 現在は丸善薬品産業KK(大阪市中央区道修町2-4-7)で,4代目社長の柳原良一氏が継承している。

img1.jpg柳原 権治郎氏

柳原 三郎氏

(9)初代町長は名誉町民第一号 中野 秀孝(1894〜1972)
 中野秀孝は明治27年(1894)に一本田福所に生まれた。大正5(1916)京都医専卒業後,大正8年(1919)に一本田福所で医院を開院する。一方で,大正11年(1922)高椋村会議員を振り出しに地方自に精励する中で,昭和3年(1928)に京都医大研究科で外科を専攻し医学博士の学位を受けた。昭和11年(1936)に室町(現在の本町2-2に中野病院(外科と産婦人科)を開設した。昭和22年(1947)4月の1回県議会議員に当選し,福井震災後の罹災者の救助措置,町の市計画事業や丸岡高校の復興等に尽力した。昭和28年(1953)より1年間にわたり,丸岡信用金庫理事長の職につき,金融と町政に深く影響力をもたらした。昭和30年(1955)4月より8年間,丸岡町代長として合併後の町民感情の融和とし財政の立て直しに力を注いだ。
 中野秀孝は病院長として55年間も地域医療や福祉に献身的に活躍した。これらの績に対して,昭和47年(1972)名誉丸岡町民第1号に推薦されたが,晴れの授章式をに急に亡くなってしまった。いつでも庶民の味方で,弱いものを守り続けたことは名町民にふさわしいものであった。同年11月に勲5等瑞宝章を受章している。

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(10)プロレタリア文学 中野 重治 (1902〜1979)
 中野重治は明治35年(1902)坂井郡高椋村一本田に生まれた。家族には,両親のほかに祖父母・兄の耕一と鈴子(プロレタリア詩人・はまを・美代子の3人の妹がいた。福井中学・金沢の第四高等校文科・東京帝国大学独逸文学科へと進む。大学在学中,堀辰雄と同人誌『驢馬』を創刊,後に「中野重治詩集」(1935)に収めれる「夜明け前のさよなら」「歌」「機関車」などの優れた詩を発表し,左翼運動,共産主義運動に関わっていった。その後,プロレリア文学運動の指導的役割を果たしたが,昭和9年(1934)に検挙され,転向。出獄後昭和10年代,戦時下を通じて行った豊かな批評活動は,この時代を告発し続けた。
 敗戦後も旺盛な執筆活動を続けながら,昭和22年(1947)4月参議院選挙全国区で選した。昭和34年(1959)『新潮』に彼の代表作の一つで,幼年時代を描いた自伝小「梨の花」を刊行し,昭和32年(1957)に龍北中学校校歌を,昭和39年(1964)3月に丸岡中学校校歌を作詞した。これらの校歌は丸岡の人々の心に共鳴し,歌い継がれている。重治は昭和54年(1979)8月24日,胆嚢癌のために77歳の生涯を閉じた。
 翌昭和55年,重治の遺志によって一本田の生家跡屋敷が丸岡町に寄贈され,その敷跡には世田谷から移築された書斎と家屋跡の敷石が設置された。毎年8月には『くちなし忌』が開かれ,全国各地から中野治文学ファンが集い,重治の遺徳を偲んでいる。
 また丸岡図書館には,『中野重治記念文庫』があり,蔵書数1万3千冊とともに,高田博厚作の重治の胸像や原稿,愛用のなどの遺品が展示されている。

 

(11) 県メリヤス工業組合初代理事長    西田 単像(1903〜1989)

 明治36年(1903)に金津町下金屋に生まれた。昭和2年(1927)に本田中32-30に社屋を置いて繊維業を始めた。昭和25年(1950)福井県メリヤス工業組合を設立し,初代理事長を務め,戦後のメリヤス業界の発展に貢献すると共に福井県織物構造改善組合の理事を長期に渡り務め,福井県の繊維織物業界の発展の大きな原動力となった。 昭和52年(1977)勲5等瑞宝章の叙勲を受けた。

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(12)日本繊維雑品工業界の最高顧問      武川 庄吉(1904〜1993)
  明治37年(1904)坪江村里竹田に生まれた。昭和2年(1927)に里竹で武川織マーク機業所を創業。以後織マークの製品開発に取り組み昭和30年(1955)に工場を一本田中32-32に移している。昭和41(1966)には武川織マーク株式会社と法人化している。
 武川氏は丸岡の織マーク業界の組織作りに貢献し,昭和35(1960)に丸岡細巾織物協同組合(現代の丸岡ファインテックス協同組合)第2代理事長,昭和40年(1965)に県雑品工業組合理事長に就任をはじめ,更には昭和37年(1962)に全国雑品工業組合連合会理事に就任し,昭和48年(1973)から8年間その理事長を務めた。中でも 設備登録制と共同廃棄事業に尽力した。退任後も全国雑工連の最高顧問として卓越した腕で業界の発展に努めた。
 昭和44年(1969)に春黄綬褒章,昭和55年(1980)に勲4等瑞宝章を受章した。

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(13)プロレタリア詩人「一田アキ」 中野 鈴子 (1906〜1958)
 中野鈴子は坂井郡高椋村一本田に生まれた。鈴子は兄の重治ととに,小さい時から詩歌に強く興味を抱いていた。16歳のとき室生犀星の詩を読み,激しく心をゆさぶられた。上京し翌年昭和5年(1930)に,一人で犀星を訪ねている。その後犀星を師と仰ぎ,交誼は鈴子の死まで続いた。見よう見真似で当時のプロレタリア文化運動の担い手の一人に成長していった。郷土の想いがにじむ「一田アキ」の筆名でその文学活動はめざましいものがあった。特に,雑誌『働く婦人』編集と発行に精力的に取り組んだ時もあった。昭和11年(1936)一本田の実家に帰郷後も詩を書き続けて,かっての仲間たちと「新日本学会」をつくった。鈴子は昭和20年(1945)1月の創立と同時に福井県からただ一人参加した。昭和29(1954)以降,病苦と闘う鈴子の詩は切なく厳しいものとなていった。昭和30年(1955)には,詩集『花もわたしを知らない』を出版した。昭和31年に2回目の手術をし,32年には3回目の手術を受けるため,上京にあたって遺書を書き,「友よ友だちよ」の詩を託した。術後体力は徐々に回復するが,再4回目の手術を32年12月19日に受けた。その手術の3時間前に最後の詩となる「竹の皮の飴包み」を書いた。翌33年(1958)1月5日永眠した。                                   
                                                                

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(14)郷土史 第一人者 伊東 尚一   (1905〜1997)
  伊東尚一は明治38年(1905)に一本田福所に生まれた。大正14年(1923)福井師範学校を卒業後,郡内の尋常高等小学校,国民学校の教員となって,幾多の教え子を輩出した。戦後昭和21年(1946)から兵庫小学校校長,鳴鹿小学校校長を経て,昭和33年(1958)に金津小校校長を最後に勇退した,その後、昭和37年(1962)に丸岡町教育長就任等坂井郡内の教育界の発展に尽力貢献した。
 昭和41年(1966)から福井県史編纂に取り組み、10年を費やし完成刊させた。更に福井県議会史,鳴鹿村史,金津町史,丸岡町史編し発刊をはじめ「丸岡の人脈」や「白山豊原寺の由来」等の郷土本の執筆も行っている。昭和52年(1977)春これらの教育界での功績より勲5等瑞宝叙勲の栄に輝いた。

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(15)名古屋高等裁判所判事 吉田 彰 (1907〜1969)

  吉田  彰は明治40年(1907) 高椋村西里丸岡の吉田由之助長男として生まれた。武生中学校・第三高等学校を経て,東北帝国大学法科と進み,昭和8年に司法官試験に合格し裁判官なった。その後終戦まで台北地方裁判所に勤務し,戦後は金沢地方裁判所・福井地方裁判所武生支所・福井地方裁判所民事の判事を経て,名古屋高等裁判所判事となった。
 昭和40年(1965)に退官するまで,地方や中央の司法一筋にわり,その業績により,従三位に叙し,勲2等瑞宝章を授与れた。

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(16)名物英語教師 中林 隆信(1911〜1987)
 明治44年(1911)坂井郡高椋村長崎に生まれた。福井中学から東京高等師範学校を経て,昭和12年(1937)から11年間,福井中学英語教師を務めた後,昭和23年(1948)丸岡高等学校に異動し,後昭和47年(1972)に退職するまで,途中高志高等学校での勤務年を除き,通算23年間を丸岡高等学校に勤務した。定年後は福井大学,仁愛女子高校の講師を務めた。
 生涯を高校英語の一教師として教育に情熱を注ぎ,愛情溢れる指道で多くの教え子から「チュウリン」の愛称で慕われ,その差別を憎人間尊重と個性重視の教育姿勢により,幾多の優れた人材を輩出した。また文学を好み図書館の建設や図書の充実化に尽力すると共に,生徒向けに文学の手引書「高校生にすめたい本」を編纂するなど,教育・文学両面に渡り大きな功績を残した。著作とし「命なりけり」「夜の記録」等があるほか,「中野鈴子全詩集」を編纂,中野重治の研等にも晩年まで熱心に取り組み成果を上げた。

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(17)地球物理学者 坪川 家恒 (1918〜1994)
 坪川家恒は高椋村舟寄の赤金に生まれた。福井中学・第一高等学校・東京帝国大学進み,その後地理調査所・国土地理院・東京大学地震研究所・文部省緯度観測所・国天文台・日本測量協会に勤務し,地球物理学者として日本国土測事業と測地学の発展に貢献した。特に,観測機器開発においてはGS型磁気儀・プロトン磁力計・ETD子午儀・自動レベルなどを次々考案し,大きな足跡を残している。これらの装置は日本の測量技の向上に重要な役割を果たした。他にも,天文経緯度観測を自動行う全自動アストロラーブや重力加速度の絶対値を測定する絶対力計など,独創的な装置開発も行った。また南極観測委員会の委を務め,ご子息の坪川恒也氏は第34次南極観測隊員となった。
 家恒は日本測地学会の創立に参画し,長年に渡って日本測地学の会長を務め,測地学の研究と測量事業の推進を計った。これら功績により,1983年には紫綬褒章を授与された。     資料や写真は岩手県奥州市在住の坪川恒也氏より提供

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(18) コシヒカリの父       石墨 慶一郎   (1921〜2001)
 石墨慶一郎は大正10年(1921)舟寄に生まれた。慶一郎は日本を表する美味しい米を産んだ偉大な博士「コシヒカリの父」と呼ばている。
 米「コシヒカリ」の起源は,昭和19年(1944)に農林22号を母農林1号を父として新潟県で交配された品種「越南17号」である。この米は美味しいが,倒伏しやすく栽培が容易でない欠点があった。戦後の食糧増産の風潮の中では,味の良さよりも,多収穫と栽培し易さが重視されていた。しかし,昭和21年(1946)から福井県業試験場(当時は農事試験場)に勤務していた石墨慶一郎博士は「将来必ず美味しい米の時代が来る」との信念のもと,昭和23年(1948)以降,この「南17号」の品種改良を重ね,昭和31年(1956)ついに品種(登録名 農林100号)を固定することに成功した。
 農林100号は,越の国に光り輝く「コシヒカリ」と命名され,その後今日まで作付面積日本一の座を占めている。「コシヒカリ」はさらに多くの品種と掛け合わされ,「きたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」「キララ397」などが誕生した。
 石墨慶一郎博士はその後,福井農事改良実験所長・育種課長・場長などを歴任し,和52年(1977)退職し,平成13年(2001)5月6日永眠した。
 平成25年(2013)5月6日 石墨博士顕彰委員会が博士の全身銅像を建立し、除幕式が行われた。銅像の前にはミニ水田も設けられ、コシヒカリの両親の稲が栽培されている。石墨博士の偉業を末永く讃えてていきたい。

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img1.jpg博士像完成記念DVD(36分)
トップメニュー画面より 
貸出しは 舟寄総区・顕彰委員会ま

 

(19) 反戦と平和主義の歌人 金崎 栄次郎  (1926〜1995)  
 金崎栄次郎は大正15年(1926)高椋村一本田に生まれた。高椋小学校,福井商業学校を卒業後,17歳で海軍甲種飛行予科練習生に志願し,終戦末期には特功隊(山口県光回天基地にて)として戦争悲惨を身をもって体験した。終戦後帰郷して,「反戦・反核・平和育」の諸活動に参加しながら,菓子商や飲食業に携わる。昭和30(1955)丸岡町議会議員を1期務めた後,山代温泉,山中温泉でホル業,昭和46年(1971)から地元でレストラン業に携わった。
 一方で同郷の中野重治,鈴子らの文学活動に共感し,昭和37(1962)頃中野重治・佐多稲子らと知り合い短歌を作り始め,昭和5年(1978)頃から本格的に短歌の創作活動に取り組んで,各種の大会で優秀な賞をとっている。
  栄次郎の作品には特功隊としての戦争体験や反戦と平和主義が読み取れる。また職を幾つか変えながら人生の苦労を体全体で受け止め,力強く生きた生き様がうかがえる。そして郷里である福井・丸岡・高椋のローカル色が織りなす作風も大変印象的で,現人を共感させるものが多い。還暦を機に,昭和62年(1987)8月 処女作 歌集「冬野」を発刊した。
  平成6年(1994)3月に著した「福井空港拡張計画」,その後の「続福井の空港問題を考える」では,当時福井空港の拡張整備工事をめぐって,坂井町の地元と福井県側の対立の中で,栄次郎は丸岡の東側丘陵地を福井空港に整備する壮大な福井空港建設を出して話題になった。 平成7年(1995)膵臓ガンのため死去しした。                             資料と写真提供 一本田区 金崎昭雄氏

 

(20)芥川賞を受賞した行動作家  開高 健  (1930〜1989)
  開高健の祖父母が丸岡町一本田福所の出身で,丸岡町ゆかりの文学者として,開高健文学顕彰会ができ、平成6年(1994)10月にふるさと一田福所に文学顕彰碑が建てられた。開高健は,28歳の時『裸の王様」で,第38回芥川賞を受賞した。また世界各地を釣り紀行した紀行文が菊池寛賞を受賞するなど,今まで日本の文学のわくを超えた行動派作家だった。丸岡成人大学の講師して,丸岡町で講演をしたこともあった。『珠玉』最後に,平成元年(1989)12月9日にこの世を去った。人間と社会のありかたに目を向け続けたエネルギッシュな作家であった。 平成21年(2009)には開高健記念会福井が設立された。                                       参考文献 丸岡図書館HP「丸岡偉人物語」

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   その他   (紙面の都合や資料不足等で概略のみ記載させていただきます。) 

 氏  名

出身地区

業 績    経 歴 等

山田 穣

一本田

明治6年敦賀県大区長,明治13年石川県県会議員
明治13〜22年福井県会議員,明治23年貴族院議員

柳原縫之助

舟寄

明治22〜30年2期と明治44年1期の計3期高椋村村長
高椋小学校長,称念寺震災復興に尽力

恩地五右エ門

舟寄

明治30年1期 高椋村村長

鰐淵精太郎
(高椋精太郎)

野中山王

明治32〜明治44年3期と大正15〜昭和5年1期の計4期
高椋村村長,明治44年と大正4年の2期福井県議会議員

長侶 栄

吉政

大正4〜14年3期 高椋村村長

津田亀之助

舟寄

大正15年1期 高椋村村長

西岡 鹿夫

八ツ口

昭和22年1期 高椋村村長, 震災復興に尽力

柳 九平

末政

昭和24年1期 高椋村村長

藤島 英一

西瓜屋

昭和28年1期 高椋村村長, 福井県教育委員

渡辺 捨吉

高柳

昭和22年県議会議員,昭和23年1期県議会副議長

久保田 広

八幡町

昭和30年県議会議員

戸田末太郎

猪爪

昭和38〜46年2期 丸岡町長

小杉正一郎

一本田

昭和46年1期 丸岡町長

藤山體

西瓜屋

昭和31〜38年 丸岡町議会議 社会福祉事業に貢献,地域医療に尽力

荒木庄吉

西瓜屋

消防行政の功労者,昭和32年日本消防協会長賞,昭和34年に国家消防本部功労賞, 昭和55年に勲6等単光旭日章受章

森 正信

高瀬

高椋小学校校長,教育分野で震災復興に尽力,城東中学校長

大西末吉

儀間

明治〜昭和期に軍人青年団活動,国勢調査委員・高椋用水議員等で善意篤行に励んだ。昭和12年地域住民は儀間八幡神社前に大西末吉篤行碑を建立

       

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