元和元年(1615)大坂夏の陣で功のあった本多飛騨守成重が,寛永元年(1624)に丸岡藩46,300石の城主(初代丸岡藩主)となった。成重には5人の子供があった。長男の重能は正保2年(1645)に,父成重の後を継いで丸岡藩主になった。次男の重看(しげみつ)は16才の頃,府中(武生)領主本多富正の養子となった。大坂夏の陣に参加し,帰陣後富正に実子が生まれたため,父本多成重のもとに戻った。寛永3年(1626)9月に本多成重が三代将軍徳川家光の上洛するのに従い,参内の時騎馬にて供奉した。この年,重看は旗本に召出され,成重の所領46,300石の内,3,000石を分知されて旗本(注1)に取り立てられた。そして,高柳に陣屋(注2)を作り,8ヶ村(注3)を支配した。後に下野国都賀郡の内200石を与えられ,合計3,200石を領した。尚,下野国都賀郡の所領は元禄10年(1697)南条郡鋳物師村の内200石と交換された。 注1 旗本は将軍の直参として3,000石以上は小大名に準じた。本多家の場合,次男重看の他,成重の三男重良も元和3年(1617)に3,000石で旗本となり,重良の四男重勝も父の所領から500石を分知され,旗本に取り立てられている。この様に大名や旗本の子孫が旗本に取り立てられる例は江戸前期においてかなり多くみられたようである。大坂の陣後,幕府が軍事的拠点の警護や諸種の行政機構の拡大により旗本の増員が必要となり,それも幕府への財政の負担とならない様に本家である大名の領地の一部を与えるという形をとったからだと云われている。 注2 旗本・本多家は江戸に常駐していた為,高柳村に代官所(陣屋)を置いて領内を統治した。本多重看以降,幕末期の8代本多邦之輔まで歴代本多大膳家の代官所として存続した。代官は知行所の年貢徴収など地方支配の一切を任されていたようである。代官所跡は「高柳字宅地」とあるが,現在は畑地となっており,当時の面影は全くない。 注3 1 坂井郡6ケ村 2,671石5斗5升 高柳村(陣屋を置く)・寄永村・四ツ柳村(一部)・種山崎村・
一本田中村(一部) 荒井村(坂井町東荒井) 2 吉田郡1ヶ村 328石4斗5合:領家村 3 南条郡1ヶ村 200石:鋳物師村(一部)
高柳陣屋の代官であった蒔田凌雲の子、雁門は幼少のころから学を好み読書は広汎にわたった。良書が見つかると金銭を惜しまずに買求めて研究した。大阪の書店に依頼して中国の書物まで取寄せたという。音律の道にくわしく京都で有名な箏曲家の光崎検校を高柳に招いて、子女のために音曲を習わせた。光崎には箏曲について多くの名作があり、従来の三味線との合奏から独立し、純箏曲の作曲家として有名になった。たまたま蒔田父子と親交を重ねることになり、蒔田の深い学識によって啓発されることがあり、特に音律の学を通じて互いに共感するところがあった。箏曲史上不朽の名作とたたえられている「秋風の曲」はこうした親愛の情の中から生まれたものである。
(資料提供は 高柳区 高橋哲夫氏より)
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