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高椋地区の文化遺産・文化施設・文化財一覧 するとその解説がご覧になれます。

舟寄遺跡

クリの大木

舟寄福島通遺跡

高柳・下安田遺跡

牛ヶ島石棺

高柳救世観音像

高柳陣屋跡

八ツ口二本松

猪爪弁財天

法栄寺裏河戸跡

一本田中不動明

一本田千手観音像

一本田涅槃団子

一本田の庚申堂

蓮如上人の楓

中野重治生家跡

山田家晩成園

舟寄分校跡地

長崎城跡

称念寺文化財一覧

舟寄城跡 舟寄踊

西大寺赤江庄

景久の位牌

閻浮檀金像

日東シンコースタジアム丸岡

   縄文中期の遺跡

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 舟寄遺跡は、丸岡町舟寄集落の西側の水田地帯に所在していた。水田面から2m下位の所から検出した主な遺構からは、竪穴住居・堀立柱建物、土坑 柱穴 埋甕 捨て場などが発掘された。 竪穴住居は18棟検出した。直径4〜6m、・ 深さ40〜60cmで平面が円形や楕円形をなし、中央部には、人頭大の川原石を方形に並べた石囲炉(いろり)を設置しているものが大半を占めていた。住居内部から完全な形に土器や石器などとともに、土器の材料となる粘土が焼けた焼成粘土なども出土された。
  掘立柱建物は5棟程600基以上の柱穴が検出し、おおむね4本柱で、1間×1間の正方形または長方形であった。土坑は20基程検出し、直径1m前後で平面が円形または楕円形となるものが主であった。柱穴直径30〜50cm 深さ40〜60cm程度のものが主であった。埋甕は4基検出した。内部からは遺物は出土しなかった。捨て場は1箇所検出し、縄文時代の土器や石器が多く出土した。
   調査面積が少ないものの、竪穴住居などの遺構に伴い縄文時代中期の土器や石器が多量に出土し。そのほか、2cm程度の川原石を磨いて孔をあけた石製装飾品(首飾りの刃が2点出土している。自然遺物で炭化したクルミや大形動物の骨片なども小量見つかった。
  舟寄遺跡は、縄文時代中期中葉〜後葉にかけての比較的短時期の集落遺跡であることが判明した。また、竪穴住居などの生活遺構が多数密集していることから、調査区は集落の中心部にあたると考えられる。試堀調査の結果から、調査区の南北両方向ともに、自然河川ないし湿地と想定できるため東西方向にのびる細長い自然堤防ないし微高地上に集落が立地していたものと判断できる。検出した多数の遺構や遺物は縄文時代遺跡の発掘調査例が少ない福井県内において、その具体像を解明していく上でも貴重な資料となった。特に、標高の低い坂井平野において、多数の竪穴住居を明確に検出したのは初例となり、今後の整理作業により、さらに資料的価値が高まるものと考えられる。

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所 在 地:坂井市丸岡町舟寄

調査原因:国営九頭竜川下流域土地改良事業調査期間:平成15年8月2日〜平成18年3月27日

調査主体:福井県教育庁埋蔵文化財調査センター調査担当:山本孝一

調査面積:1,400平方メートル

時  代:縄文時代中期

 (資料提供 県教育庁埋蔵文化財調査センター )

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 クリ大木

 舟寄遺跡の発掘調査の際に,深さ5〜6mの地下層の砂礫層からクリの木の丸太が出土した。専門家による放射性炭素年代測定を行ったところ縄文中期の物と判明した。(2008年2月測定 このクリの木の炭素14年代測定で4430±35BP 測定者 株式会社関組名古屋支店,パレオ・ラボ) その丸太の一部が現在舟寄白山神社境内に展示保管されている。幹廻りからその直径は約50cmと想像される。その当時の舟寄縄文人たちはクリの実を食糧として用いていたと考えられる。

 

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 縄文後期、弥生期の遺跡

   舟寄から坂井町の福島に通じる旧道(舟寄ー福島道)付近に所在する遺跡、舟寄集落と兵庫川・十郷用水を挟んだ西側の水田地帯に広がる遺跡である。
 上層に古墳時代(西暦200〜300年頃)と下層に縄文晩期(約2500年前)の遺構である。縄文時代の遺構は土坑やピット(柱穴)等とともに、深鉢形の土器を地中に埋められた「甕棺」(お墓?)10基発見された。そして、縄文時代の祭祀に使われたとみられる土製や石製の特殊な遺物が多数出土した。さらに4.5m四方の淺くて不明瞭な遺構では多量の焼土が検出された。ここは火を焚く大規模な場所と考えられ、周辺で鍛冶に関連する羽口が一点出土したことから、多分古墳時代に鉄を加工した場所である可能性が高いと考えられる。これらの遺跡発見により、この周辺は 3000年近く前から、縄文人たちが生活していた場所であることがわかった。

 

 

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舟寄福島通遺跡
所 在 地 :坂井市丸岡町舟寄
調査原因:九頭竜川下流域土地改良事業 (パイプライン敷設)・工事
調査期間:平成17年5月14日〜3月27日
調査主体:福井県教育庁埋蔵文化財調査センター
調査担当者:赤澤徳明
調査面積:約2,400平方メートル
時   代:縄文時代晩期・弥生時代中期・後期
      古墳時代前期・中期
 (県教育庁埋蔵文化財調査センター 提供)
                         

 銅鐸の破片出土

 高柳地区のパイプライン敷設工事の際に発見された遺跡で、高柳集落から下安田集落にまたがっている。両集落間の水田用の農道部分を中心にL字状に調査したところ、中央に南北にわたり河道があり、その両側から竪穴住居と弥生式土器・玉作関連遺物(※1)が出土した。調査は東側と西側の2つに分けて行われ、その東側からは竪穴住居2棟、布堀りの堀立柱建物2棟、2間×3間の堀立柱建物1棟、平地式住居1棟と若干の土坑・ピット(柱穴等)が見つかった。竪穴住居は多角形の平面形で、直径10〜11mの大型のものであり、2棟とも拡張されていた。そのうちの1棟の床面から銅鐸(※2)の破片が3片出土した。
   西側からは竪穴住居跡6棟、溝、または溝状の細長い土坑や井戸の可能性のある土坑3基が見つかった。うち1棟は多角形の平面形で、拡張して造り直されていた。まだ西側と南側にも住居があると考えられ、かなり大きな弥生時代の集落であったと思われる。
※1 玉作関連遺物とは弥生時代から古墳時代にお墓の副葬品となる管玉、玉
※2 銅鐸は弥生時代の祭祀に用いられた代表的な青銅器である。  
 今回出土した銅鐸の破片は、金属利器として再利用された可能性が高いもので、弥生時代末期(西暦200年前後)の土器が  出土していることから、銅鐸の廃棄の時期が特定できる非常にめずらしいものです。

所在地:
坂井市丸岡町高柳

調査原因:九頭竜川下流域土地改良事業
            (パイプライン敷設工事

調査期間:平成16年5月8日〜10月11日
調査主体:
福井県教育庁埋蔵文化財調査センター
調査担当者
    :赤澤徳明・櫛部正典
調査面積:3750平方メートル
時  代:弥生時代
   (県教育庁埋蔵文化財調査センター 提供)          
                             

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銅鐸片A
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 振媛一族の墓

   牛ヶ島石棺は、昭和初年に牛ヶ島地区の東側にある御野山古墳の西側から出土した。高向の地(丸岡町高田地区の辺り)に住んでいた振媛の一族の石棺ではないかと云われている。
  笏谷石製で前後左右には縄かけ突起があり、大きさは長さ2.1m 巾76cm 高さ30cm 内寸長さ1.7m 巾28〜44cm 深さ14cmで、県内では最も古い時期(4世紀中頃)の舟形石棺(割竹形石棺)です。現在は丸岡城公園に設置されている。 
                 坂井市指定文化財            (福井県史 通史1より)

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赤江庄と献上米       
  平成18年(2006)に平城京右京一条三坊八坪(現奈良市西大寺本町)の発掘調査で奈良時代後半頃の越前国に関わる木簡「西大赤江南庄黒米五斗吉万呂 延暦十一年六月十五日」他が西大寺食堂院跡の古井戸から発掘された。これは792年,西大寺領赤江庄という荘園から黒米五斗が貢進物として献上されたことを示す荷札である。当時西大寺領荘園の赤江庄は赤江南庄と赤江北庄の二つに分かれて経営され,福井市上野本町から丸岡南部の高柳や吉政一帯に広がっていたと考えられる。木簡には赤江郷戸主に秦赤麻呂の名前もあり,現在の高柳に小字赤江橋,吉政に小字赤井橋(赤江の転訛)があり,また兵庫川に架かる橋を通称「赤江橋」と呼ばれていることから,「赤江」は遠く奈良時代の西大寺領越前国赤江庄や秦赤麻呂に由来すると考えられる。  「たかむく玉手箱」より   

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   平成18年に発掘された赤江庄の木簡拝見  
           奈良文化財研究所 H22.9.1

   奈良西大寺の資財流帳の中に記載されている
 「赤江庄」越前には9巻の荘園図があった。

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                          赤江庄等の木簡

 左から2番目 穴太加比万呂黒米五斗
     3番目 西大赤江南庄黒米五斗吉万呂
右から3番目  □万呂黒米五斗西大寺

   赤江庄の木簡が出土した西大寺食堂院跡の古井戸
井戸の井籠組は内法約2.3m 深さ約2.8m 10世紀末には廃絶したと考えられる。食堂院のゴミによって埋め立てられたようである。
 (2006年5月〜8月にかけて発掘調査された。)

  高柳神社観音堂

   高柳八幡神社境内の御堂に高さ約111cm、幅約77cm、奥行67cmの大きな「観音菩薩座像」が祀られている。
 言い伝えによるとその昔、付近の川から流れ着いたと云われているが・・・。定かではない。    
  観音菩薩の側に置いてある木簡には「奉再建救世観音菩薩寶蔵 文化12年4月5日蒔田半左衛門平忠貞」の文字が書かれていることから、文化12年(1815)当時の代官蒔田半左衛門平忠貞により寶蔵(観音堂)が再建されたと推測される。
    (資料提供は 高柳区 高橋哲夫氏より) 
                        

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現在の八幡神社の観音堂

 陣屋跡

  元和元年(1615)大坂夏の陣で功のあった本多飛騨守成重が,寛永元年(1624)に丸岡藩46,300石の城主(初代丸岡藩主)となった。成重には5人の子供があった。長男の重能は正保2年(1645)に,父成重の後を継いで丸岡藩主になった。次男の重看(しげみつ)は16才の頃,府中(武生)領主本多富正の養子となった。大坂夏の陣に参加し,帰陣後富正に実子が生まれたため,父本多成重のもとに戻った。寛永3年(1626)9月に本多成重が三代将軍徳川家光の上洛するのに従い,参内の時騎馬にて供奉した。この年,重看は旗本に召出され,成重の所領46,300石の内,3,000石を分知されて旗本(注1)に取り立てられた。そして,高柳に陣屋(注2)を作り,8ヶ村(注3)を支配した。後に下野国都賀郡の内200石を与えられ,合計3,200石を領した。尚,下野国都賀郡の所領は元禄10年(1697)南条郡鋳物師村の内200石と交換された。
注1
旗本は将軍の直参として3,000石以上は小大名に準じた。本多家の場合,次男重看の他,成重の三男重良も元和3年(1617)に3,000石で旗本となり,重良の四男重勝も父の所領から500石を分知され,旗本に取り立てられている。この様に大名や旗本の子孫が旗本に取り立てられる例は江戸前期においてかなり多くみられたようである。大坂の陣後,幕府が軍事的拠点の警護や諸種の行政機構の拡大により旗本の増員が必要となり,それも幕府への財政の負担とならない様に本家である大名の領地の一部を与えるという形をとったからだと云われている。
注2
旗本・本多家は江戸に常駐していた為,高柳村に代官所(陣屋)を置いて領内を統治した。本多重看以降,幕末期の8代本多邦之輔まで歴代本多大膳家の代官所として存続した。代官は知行所の年貢徴収など地方支配の一切を任されていたようである。代官所跡は「高柳字宅地」とあるが,現在は畑地となっており,当時の面影は全くない。
注3
1 坂井郡6ケ村 2,671石5斗5升
  高柳村(陣屋を置く)・寄永村・四ツ柳村(一部)・種山崎村・ 一本田中村(一部) 荒井村(坂井町東荒井)
2 吉田郡1ヶ村 328石4斗5合:領家村
3 南条郡1ヶ村 200石:鋳物師村(一部)        

 高柳陣屋の代官であった蒔田凌雲の子、雁門は幼少のころから学を好み読書は広汎にわたった。良書が見つかると金銭を惜しまずに買求めて研究した。大阪の書店に依頼して中国の書物まで取寄せたという。音律の道にくわしく京都で有名な箏曲家の光崎検校を高柳に招いて、子女のために音曲を習わせた。光崎には箏曲について多くの名作があり、従来の三味線との合奏から独立し、純箏曲の作曲家として有名になった。たまたま蒔田父子と親交を重ねることになり、蒔田の深い学識によって啓発されることがあり、特に音律の学を通じて互いに共感するところがあった。箏曲史上不朽の名作とたたえられている「秋風の曲」はこうした親愛の情の中から生まれたものである。
                                                                               (資料提供は 高柳区 高橋哲夫氏より) 

長恨歌和訳と秋風の曲
  雁門は唐詩の中の名作とたたえられている白楽天の「長恨歌」を和訳した。
もとむれどえがたきは色になんありけり
さりとては楊家の女こそ妙なるものぞかし 
雲のびんつら花の顔 実にかいどふのねぶりとや大君のはなれもやらで 眺めあかしぬ
みどりの花のゆきつもどりつ 
いかにせんけふ 九重にひきかへて
旅寝の空の秋風
霓裳羽衣の仙薬も 馬嵬のタに蹄の塵を
吹く風の音のみ残る悲しさ
西の宮 南の園は秋草の露しげく
落る木の葉の階に積れど誰か払はん
鴛鴦のかはらは霜の花 にほふらじ 
ひすいの衾ひとり来てなどか夢を結ばむ

○光崎 検校(みつざき けんぎょう、生年不詳 - 1853年頃) は、19世紀前半に 京都で活躍した盲人音楽家(地唄三味線、箏演奏家、作曲家)。
○秋風の曲 作詞・高向山人/作曲・光崎検校
▼ 作詞:高向山人(越前坂井郡高椋村の人)は蒔田雁門である。

 参考
▼彼の芸術性を高く評価した越前国の代官、蒔田雁門がパトロンとなり、作曲や譜本の出版も後押しした。楽譜の出版には熱心で、精密な三味線楽譜集である「絃曲大榛抄」や、自作曲『秋風の曲』の楽譜である「箏曲秘譜」を発刊した

 引用資料はwww2u.biglobe.ne.jp/~houmei/kasi/akikaze.htm


高柳地区の墓地に現存する
雁門の墓
(通称:殿様の墓)

   この歌詞に深く心をひかれた光崎は、何とかしてこれを作曲したいと決意した。しかし事は容易でない。神の冥護に頼るより外はないと考えて、琵琶湖の竹生島に首夜の参籠をなした。こうして満額にいたり、天女の御告げを得て大成したのが、一代の名曲 「秋風の曲」である。  (秋風の曲と蒔田一家 雨田光平)
曲は前奏と歌詞の二部からなっている。前奏には玄宗皇帝と揚貴妃の悲劇を暗示するような悲壮な雰囲気が表現されており、歌詞は伴奏の琴に、吹く風や馬のひずめの音が描写されて、特に秋風調子と呼ばれている。
 光崎はこれを被曲として後世にのこさない意向であったが、この大作曲の完全に深く感激した雁門父子は名曲の散逸することをおそれ、ぜひともこれを刊行するようにすすめ、天保8年(1837)2月に「箏曲被譜」の出版となった。雁門は「高向山人」の名で序文を書き、両者の交渉経過と作曲の由来を明らかにして同好者に領布したので、後世に伝えることができた。
  雁門は晩年には福井へ出て専門の経史と韻学を教えた。嘉永3年(1850)6月26日に死亡し、福井の田原町光明寺に葬った。法名は瑞華院雁門覚大居士。            (資料提供は 高柳区 高橋哲夫氏より)                                     

 青年学校

 寅国と八ツロの地境に、途中から大きく枝別れした大きな松の木が1本生えている。その下に祠があり、何故かしら、二宮金次郎の石像がものさびしく立っている。明治時代までは丸岡街道から永平寺への道が分岐していた。地元の人の話では、昔(明治時代頃)、この場所に青年学校があったとか、その名残りで近くにあった昔の学校(今福にあった高椋小学校?)の金次郎の像を移築したとか、この場所に学校があったことを後世に伝えるためであろうか。 この二本松の由緒がわかる方、情報を提供してください。

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 猪爪八幡神社敷地内

  猪爪は1580年頃の記録では「井のつめ」と呼ばれ,湧き水の豊かな土地であった。北に「たいちん池」,東に「弁天清水」の湧水池(丸岡城のお堀に流れる)があった。「福井県の地名」辞典ではこれらの池は八幡町にある河濯神社の別当寺の真言宗修験泰長院によって管理されていたと云われている。元禄7年(1694)2月19日泰長院は,猪爪村の東方にある池の近くに弁天堂を建てて,石板に神霊の弁財尊天像を刻み,石の祠に納めて祀り,祠に「泰開眼弁財天守護祈所」と刻銘したとある。また,後に弁財天本像様(現在台雲寺に安置されている)も祀ったものと考えられる。
 しかし,神仏分離令で明治4年(1871)に泰長院は廃止され,この本像様は台雲寺に預けられて,現在の猪爪弁天堂には弁財天の石像のみが祀られている。先人たちは池の水を飲料水や潅漑に用いていたが,昭和50年(1975)に弁天清水は埋め立てられ,現在は池の一部を残して芝生公園になっている。 
                                                     

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猪爪弁財天本像

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 猪爪弁財天お堂

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弁天清水池の一部

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弁財天石像

 本町法栄寺河戸(船着場)

  江戸時代 丸岡藩の米蔵は現在霞2-29 西村の機屋の東にあった。この蔵へは1俵4斗2升(63kg)で納めたが,三国出村長屋の蔵に納める「津出米」は4斗6升(69kg)で納めた,百姓は朝早く馬に2俵,馬方が1俵を背負い三国出村まで運んだ。不合格となれば役人は米俵に墨を塗り,持ち帰らされて,再納入となった。三国出村には丸岡藩の津出米の蔵が九頭竜川に沿ってたくさん並んでいた。この三国出村とは竹田川,田島川を通って,丸岡と川船で往来していた。
 丸岡町谷町の法栄寺裏が船着き場(河戸と呼ばれていた。)の一つで,当時の水深は1.5mあった。この場所から米を川船で三国まで運び,帰りは海産物や塩等の生活物資を丸岡まで運んでいた。この川船は丸岡に鉄道が敷かれるようになった昭和の初め頃まで利用されていた。河戸は他に谷町河戸,室町河戸があった。川船は法栄寺裏に3艘,谷町河戸には2艘あり,近くに船頭がいた。                              

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  一本田中八幡神社内の不動明王お堂 

   一本田中の八幡神社に石瓦葺きのお堂がある。延宝2年(1674)旧鳴鹿村の下久米田(現在の丸岡町下久米田)の田んぼの中から掘り出された不動明王は,当時の丸岡城主本多飛騨守重昭公によって,近くの君久山に不動院を建立して安置された。その後,霊夢により丸岡神明神社に移され,更に元禄10年(1697)7月に霊夢で丸岡城主の有馬左衛門佐清純公によって一本田中村に移築再興された。その時の藩の寺社奉行は上伐五郎兵衛・大工の棟梁が甲斐友三左エ門・不動院の住持は阿奢梨寂元であったことを示す棟札木簡が堂内に残っている。この不動堂は,屋根が1.2尺×3尺の石瓦(笏谷石)60枚でふきあげられて,桧材で堅牢に造られているため福井震災の時は倒壊を免れた。中のご神体は立派な「御厨子」の中に納められて重量約80kg?とか。しかし,古来から拝観が禁じられているので定かではない。
 明治初年にこの禁則を破ってご開帳したところ,近郷近在から多くの参詣者があって賑わったが,主催者となった青年が盲人となり,家財を失ってしまうという事件があったと伝えられている。
 一方,下久米田の守寺もその後火事にあい,現在は享保3年(1718)中興の僧寂元が建立した宝鏡塔が一基残っているだけである。 境内には文政7年(1824)8月丸岡奉納飯塚氏と刻まれた灯籠石が散在している。                資料提供、一本田中の西田英夫氏                                 

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元禄10年(1697)に移築された
    不動明王が安置されているお堂

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不動明王が納められた
     「御逗子」

   一本田神明社境内の観音堂 

  一本田集落の西方約100mの所(14字庚申堂)に通称「古堂様」という観音院跡がある。
  一本田区山田家に残る古文書(文化2年 西暦1805記載)には室町幕府の末期の寛正2年(1461)永平寺の僧無参石門和尚は政情不安の乱世を住民から救済しようと、一本田の地に小庵を建てて、観音信仰の布教に力を注いだとある。
  また、丸岡町史には元禄8年(1695)の丸岡藩税租の中に、一本田観音院の引高物とあり、千手観世音菩薩を本尊として集落西方に建立したともある。明和元年(1764)丸岡谷町に津田家の寄進により一本田観音庵が復興し、永平寺修行僧の厭音白毛和尚(美濃国出身)が庵主となった。白毛和尚は安永2年(1773)より西国33ケ所の御札所を巡拝し、各寺の観音様を一体ずつ拝授し、御本尊の千手観世音菩薩の両脇に御奉置した。また、境内の一隅に白毛塔を建てて、33体の石観音を安置し、周りには各霊場より持ち帰った一握りの浄土を敷きつめたことから、お参りする人々が増えていった。
  天明7年(1787)7月に、永平寺直属の末庵として、正式に一本田観音院となり、寛政4年(1792)には初住職の石門和尚と2代目の鉄般和尚の330年忌大法要を営んだ。明治4年(1871)には神仏分離令で、観音院は一本田の神明社(13字8番)の横に移された。昭和8年(1933)伽藍が老朽化し、一本田の山田氏の寄進で、現在の地に再建された。昭和23年(1948)福井震災で倒壊し、昭和32年(1957)4月に観音堂が再建され、現在に至っている。
  一本田区ではこれまで33年毎に千手観世音菩薩の御開帳を行うとともに、毎年8月10日に「観音祭」を営んで、約550年も続く、観音信仰を懇ろに伝承している。 

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千手観音菩薩像

 一本田涅槃団子
  
一本田観音院の涅槃(ねはん)団子(だんご)
 曹洞宗の寺院では,三佛忌と云われるお釈迦様の誕生会(4月8日)成道会(12月8日),涅槃会(2月15日または3月15日)が行われている。涅槃とは,お釈迦様が亡くなった日を云う。
 曹洞宗永平寺の分院であった一本田観音院では,毎年3月 15日に涅槃会が行われる。3月に入ると当番に当たる班員の方々が中心となり,団子に用いる米を地区内から集めて,それを4色の団子(※1)にして千手観音様にお供えしている。そのお下がりの団子は観音堂にて団子撒きをしたり,地区住民に配られたりしている。古くから,この団子を食べると無病息災の御利益があると言い伝えられ,現在もこの伝統行事が伝承されている。                                                                  
 ※1 涅槃団子 お釈迦さまの骨が五色に輝いたという伝説(五光の信仰)に基 づいている。五色とは,世界の構成要素の五大(地・水・火・風・空)を表す 赤・白・黄・青・黒の五色を言い,一般には黒を除く四色の団子を作って, お供えするのが習わしである。

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一本田の庚申堂(こうしんどう)
   一本田集落の西方の田んぼの中に立つ庚申堂は笏谷石で造られた庚申像が祀られている。全面の日月の透かし彫りから見ると,舟形光背に青面金剛立像(一面四臂)を中肉彫りした姿が認められ,一部石膏で接合補修している。この堂は昭和49年(1974)に改修再建された。この場所は旧観音院跡地で,昔からこの堂がこの場所にあった。
  舟形光背(ふながたこうはい):仏像の背景が舟の形をなっていること。
  青面金剛(せいめんこんごう):中国の道教思想に由来し,日本の民間信仰のなかで独自に発展した尊像である。庚申講の本尊として知られ,三尸(さんし)を押さえる神とされる。道教では,人間の体内には三尸という3種類の悪い虫が棲み,人の睡眠中にその人の悪事をすべて天帝に報告に行くという。そのため,三尸が活動するとされる庚申(かのえさる)の日(60日に一度)の夜は,眠ってはならないとされ,庚申の日の夜は人々が集まって,徹夜で過ごすという「庚申待ち」の風習があった。庚申待ちは平安貴族の間に始まり,近世に入っては,近隣の庚申講の人々が集まって夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった。青面金剛は庚申様・道祖神と一体となって信仰されている神で,道祖神というのは村外れにあって,村に外界から邪悪なものが侵入してくるのを防ぐ役目をしている神様である。                                    
※一面四臂(いちめんしひ):顔が1面,腕が4本のこと。
 参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』と「越前石像美術」 著者 山本昭治氏  

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集落の西部にある旧観音堂跡地

 

 

お手植え楓

蓮如上人お手植えの楓(かえで)(枯巨木)

  蓮如上人が北陸布教のために北陸道を通られた時に長崎の齋藤隆夫家でお休みになられた。齋藤家は現在も4月下旬からの蓮如忌にはその御影像の御休所となっている。この,藤家には樹齢500年を超えるカエデの枯巨木が立木のまま屋根付きの防護室の中で大切に保存されている。根元の幹周りは3.5mもある。この木は蓮如上人お手植えカエデと伝えられ,毎年新芽を出していたが,昭和48年(1973)に枯れてしまった。枯れたとは言えこれほどのカエデの大木は大変貴重で,しかも蓮如上人ゆかりの大木を後世に伝えたいと,平成元年(1989)丸岡町制100周年記念に選定された「ふるさと百選」に選ばれた。 

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 一本田  中野家屋敷

中野重治生家跡
   中野重治(1902〜1979)

  坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた。小説家、詩人、評論家であるが、昭和22年参議院選挙全国区に当選し議員も務めた。 昭和32年には代表作「梨の花」を発表している。また、私たちの身近な竜北中学校や丸岡中学校の校歌を作詞している。
 1980年彼の遺志により生家跡が丸岡町に寄贈され、東京都世田谷からは書斎が移築された。各種の健康ウオークや散策会のコースに組み入れられて、彼の遺徳を讃えている。
 また毎年8月に開催される『くちなし忌』には全国から文学者中野重治のファンが集まり重治を偲んでいる。                            

平成20年5月18日実施 
      「てくてく歩こう高椋のみち」
   重治生家跡で説明を受ける参加者

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丸岡図書館内の中野重治記念文庫

 現在の「伊藤梨園」

山田翁と晩成果樹園
    慶応元年(1865)〜昭和16年(1941)

  一本田の豪農
(3000)山田家の長男として生まれた。東京の明治法律学校に学び、卒業後は父 穣(第2代の県会議長、第1回貴族院議員)の後を継いで政界を志し、明治30年に県会議員となった。明治33年には農事試験場を創設し、稲作栽培の試験を始め、新しい品種作りや土壌肥料の分析など近代農業の振興に尽力した。同時に郡農事試験場を設置し、明治42年には興農信用組合を設立し、農村金融と貯蓄の奨励に努めた。翌43年、帝国農会の設置では創立委員、その後は評議員に選ばれ中央農政に活躍することになった。
 大正7年には貴族院議員となり、不安定な米価問題に取り組んだ。農政懇談会に加え、衆議院の農政議員とも提携して、大正11年の国会で農会法改正案を成立させたのは最大業績であった。昭和10年に帝国農会副会長、次いで会長に推された。地方の農会長から選抜されたのは山田翁が最初であった。農政家としての実績が最高地位の農会長に登りつめた。また、一本田の自邸裏には1町歩の晩成果樹園(現在は伊藤梨園)を開いて、紅魁や紅玉や晩成子等のりんごを栽培し、明治42年頃、福井県の「特産りんご」として、その名を全国に広めた。
 なお、山田翁の功績を讃え、現在、県庁前の福井県農業会館の一階正面に、山田斂翁銅像が建立されている。                         

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県農業会館正面玄関の翁銅像

 

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当時の晩成果樹園

 分校

昭和54年(1979)7月31日 舟寄分校閉校式典

  明治8年(1874)智津小学校として、舟寄白山神社内に開校して以来、105年間の歴史に幕を閉じた舟寄地区の学校現在は舟寄分校の跡地には、高椋西部公民館(西部コミセン)が建てられましたが、令和2年西部コミセンは、老朽化のため、舟寄地区集落内に建て替えられ、8月に新築オープンしました。

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 閉校記念式典日当日撮影

 とっても狭かった舟寄分校校庭

舟寄分校南側から(昭和51年11月撮影)

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 涙でいっぱいのお別れ音楽会

 さよなら閉校式典

 職員室               

舟寄分校閉校記念アルバムより(高椋小学校より)

 丸岡町長崎の長林山称念寺

長 崎 城 跡    
   南北朝時代〜朝倉時代にかけて称念寺は、戦いの陣所となり、よく戦乱に巻き込まれた。
 「大平記」には建武4年(1337)「細屋右馬助を大将として、その勢力3000余騎越前国へ攻め入り 長崎・河合・川口3箇城を構えて漸々に府へぞ責寄ける」とあり、南北朝時代には城が存在し、南朝方の重要な拠点であった。その縁で新田義貞公の墓所となった。「大乗院寺社雑事記」によれば、斯波義良・甲斐八郎が越前侵入して、文明5年(1473)には称念寺は朝倉氏の守備城となった。称念寺は金津の東山へ寺ごと避難移転している。文明12年(1480)7月には長崎城、金津城、兵庫城、新庄城等を攻め落とされている。その反撃に転じた朝倉勢は翌年13年9月に「長崎之道場」に出陣して大勝利を収め、斯波・甲斐方を越前から追放している。天正2年(1574)朝倉氏滅亡後、一向一揆が起こり、長崎城はその戦場となった。
  この頃の地籍図では、現在の称念寺の境内を含めたその北側の「字願成寺」あたりに、その規模東西約110m×南北約140m 南に突出した五角形をしていた。堀跡は西側を除き三方に幅約10mの水田となって残り、南側には土塁跡が幅6〜7mの藪となってL字状に残っている。また、北と西に「字西門」「字北門」の字名が残っている。南側には「字古屋鋪」がある。                                                     日本城郭大系より
             

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天正年間頃の地籍図複製 

大正末期頃の撮影 称念寺全景(南側) 

平成20年9月撮影 称念寺全景(南側)

新田義貞(1301〜1338)
  義貞は正安3年に上野(こうづけの)国新田の荘(現在の群馬県太田市)で生まれた。鎌倉幕府の衰退期に建武の中興を掲げる後醍醐天皇の呼びかけに応え、少ない兵力で、1333年に鎌倉幕府を討伐した名将です。しかし、反旗を翻した足利尊氏(北朝)と対立する南北朝の戦いに発展していった。義貞は歴応元年/延元3年(1338)に越前藤島で守護斯波高経(しばたかつね)・平泉寺衆徒の軍と合戦中、伏兵に遭遇、戦死した。義貞の遺体は、坂井市丸岡町長崎の称念寺に運ばれ、現在、境内に墓所があります。これらの戦いの経緯などは「太平記」に記されています。義貞は源氏の遠縁であり、至誠の武将として、以後の将軍家や天皇家から手厚く保護を受けました。

 称念寺所蔵の文化財

 712年に泰澄太師が創建したと伝えられ、南北朝時代の新田義貞公の墓所 特に江戸幕府をはじめ各時代の将軍に保護されて、文化財が多く現存している。

他阿真教上人像

七重の義貞公墓石

阿弥陀三尊来迎仏

紙本墨書称念寺縁起

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   他阿真教上人は一遍上人が開いた時宗の2代目の上人で,正応3年(1290)に称念寺を念仏道場とした。 称念寺本は現存する最古の他阿真教上人像である。 絹本著色 鎌倉時代の作
                  
 国指定重要文化財
【他阿真教】(1237~1319)一遍上人の一番弟子朝倉系図

   唐門の奥に木立に囲まれて義貞の廟所が現存している。墓は高さ2.6m余りの大きな五輪石塔で、天保8年(1837)、義貞の500回忌にあたり、福井藩主松平宗矩(むねかね)が義貞の古い墓石を埋めてその上に建立したものという。

               
県指定の史跡

   阿弥陀如来,観音菩薩,勢至菩薩の立像の三尊仏である。木造で鎌倉時代末期のものと推定され,称念寺縁起によると,豊原寺から移されたものである。
 
       
坂井市の指定文化財

 

   長禄3年(1459)1月 第17代遊行上人が制作したものである。称念寺は泰澄太師が創建し,時宗の念仏道場となり,
新田義貞公の墓所であることが料紙17枚に書かれている。

          
坂井市の指定文化財
 

天皇宸翰(てんのうしんかん)

浄土三部経

九重の石塔

朝倉系図

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   天皇の勅願寺であった称念寺には,寛正6年(1465)の後花園天皇の綸旨が残っている。 また,後奈良天皇,霊元天皇の綸旨や戦国大名の古文書等も大切に保管されている。           
 
坂井市の指定文化財

 
(綸旨:天皇の命を下に伝達する文)

   浄土教の根本経典は無量寿経上・下・観無量寿経・阿弥陀経の4巻に分かれている。いずれも斐紙に銀泥堺線を引き,墨書で書かれており,見返りには三尊迎光図が描かれている。鎌倉時代の作
   
               福井県指定文化財

 

   寛永16年(1644)建立 当時新田義貞公300回忌に当たり福井藩主から寄進状や禁制を受けているので,この石塔も福井藩主の松平氏の寄進と思える。

           
坂井市の指定文化財

 
 

  越前の戦国大名朝倉氏の系図で,縦15.5cm 横23.5cm の冊子本である。内容「続群書類従本」と同じである。この系図の見返墨書によると,慶長19年(1614)とあり,現在発見されている朝倉系図の中では最も古いものとして貴重である。
      
坂井市の指定文化財

 

寄進状や禁制

遊行上人縁起絵巻断簡模写

松尾芭蕉句碑

 義貞公の正一位顕彰碑

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   朝倉敏景,織田信長,柴田勝家,羽柴秀吉等の大名からの寄進状や禁制等が多数残されている。左の写真は天正元年(1573)織田信長が朝倉攻めに際し,称念寺に与えた強奪,暴行,放火等を禁じる禁制である。

   正応3年(1290 )他阿真教上人の越前布教の様子が描かれている絵巻の断簡の一部である。 永徳元年(1381)頃 阿弥陀三尊来迎仏像と交換に,この絵巻を称念寺から豊原寺へ納めた。
 

             あけち    
月さびよ  明智が妻の
                   
はなし
         咄せむ

   元禄2年(1689)8月 松尾芭蕉が称念寺に立ち寄り,明智光秀の夫婦愛の話を聞き,感激して詠んだ句である。

  明治天皇が義貞公に正一位を授けた。この碑はその顕彰碑である。大正13年に建立されたが、福井震災で碑の上部が折れたままになっている。

 

                                                                              
  日東シンコーKK 敷地内

舟寄館跡       坂井市指定史跡                             

    文明13年(1481)頃、越前を支配していた朝倉氏は舟寄にその守備城を築いた。城主は家臣の黒坂備中守景久と伝えられている。天文21年(1552)一向一揆を攻撃するために宗滴を総大将として加賀に討ち入った時、堀江中務丞景忠麾下に黒坂解由左衛門尉景久の名が見え、その戦いぶりの詳述が文献に出ている。元亀元年(1570)越前に侵入してきた織田信長軍を迎え撃つために、黒坂景久は朝倉勢の一支隊として竹田風谷方面の警護に進発している。景久は翌年2年7月に戦死し、3人の息子があとを継いだ。朝倉氏滅亡後信長に従ったが、天正2年(1574)河北の一向一揆に攻められ、3兄弟とも討死した。
  舟寄館跡は現在日東シンコー(株)の会社敷地内にある。明治9年(1876)頃の地籍図によると「字舘」に東西約110m×南北約80mの畑地の東と南に幅約10mの土塁跡が残り、堀跡らしき水田がまわりを囲んでいる。舘の西側に「舘ノ前」東側に「舘ノ後」があるので、舘は西に向いていたと考える。舘は500m西を通る旧北陸道に面していたであろう。舘の南東には「東古町」「西古町」「法華坊」などの字名が残っている。。           日本城郭大系より

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 明治9年頃の地籍図複製

館跡を示す石碑

舘跡に残る石塔

 県指定無形文化財

   舟寄踊りの由来          県指定無形文化財

  元亀元年(1570)、今から440年前 当時越前守護職であった朝倉義景の家臣で黒坂備中守景久という武将が舟寄に館を構えていた。その頃、北陸地方では本願寺門徒の集団が武器をとって立ち上がり、世はまさに戦乱(一向一揆)の巷となっていた。
  景久は、北陸地方の平定のために進撃して来た織田信長を迎え撃つため、主君の朝倉義景とともに23000の兵を引き連れて出陣することになった。この戦いが有名な姉川の戦いである。
  その出陣の前夜酒宴が開かれ、舟寄の集落の人たちが景久の武運長久を祈り士気を鼓舞するために踊ったのが、舟寄踊の始まりだと云われている。
  舟寄は、昔北陸街道沿いに宿場町として大変栄え、徳川時代には加賀百万石の前田公をはじめ、参勤交代の大名たちが江戸への上り下りに必ずこの宿場で泊まった宿場であった。道中の慰安にこの踊りを見て、つい武士も駕篭かきも馬人足までもが、土地の農民と一緒になって楽しく踊り明かしたと云われている。そのため、この踊りを黒坂踊りとか雲助踊りと云われたこともあったが、現在は地名をとって「舟寄踊り」となっている。毎年旧盆の8月15日には、旧北陸街道を通行止めにして、近在近郷の老若男女が一つのやぐらを囲み「舟寄踊りはその昔、黒坂殿様始とし……」と独特の音頭に合わせて踊り楽しんでいる。(舟寄踊りの由来より)
                        

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明智光秀が黒坂備中の守景久に仕えていた頃、光秀の古里の踊り(郡上おどり)を参考に、伝えられたとも云われています。

  黒坂備中の守景久の位牌

昭和39年(1964)頃黒坂氏の位牌が坂井郡春江町江留上緑区の黒坂庄五郎氏宅で見つかった。発見者は当時丸岡町教育長の西田幸一氏(一本田中)で,黒坂氏は約440年前に実在した豪族であり,伝わる舟寄踊からも農民の敬慕を集めていたことがわかった。この位牌は磯部村横地の黒坂一族が保管していたものを,春江町の黒坂庄五郎氏が預かり保管していたことがわかった。一本田中の高倉家一族も家系図からみると,明治初年頃までは黒坂備中の守の流れをくむ黒坂姓を名乗っていた。高さ約30cm 幅10cmの木製の漆塗り表には「浄生院殿東一房大居士」裏に「祖黒坂備中守,元亀二年 辛永七月廿五日薨ス」と記されている。家紋は丸に神酒徳利を2本組み合わせるのが特徴であり,舟寄や北横地地区にもこの家紋を伝承している家があると云われている。 (春江町史より引用)

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舟寄七曲

    城下町や宿場町の道は進入する外敵を防ぐために、集落内の街道は何度も曲げて造られた。舟寄集落は、戦国時代に舟寄城を、また近くの長崎には長崎城を有し、外敵に対する自衛防御から「舟寄七曲」が造られたものと考えられる。
  織田信長が天正10年(1582)に全国の街道を整備した。北陸街道も1里塚の設置をはじめ、道路が整備されて、人々の往来が多かった。ちなみにこの旧北陸街道は、明治13年(1880)に丸岡町の北横地と石川県加賀大聖寺間の国道8号線の開通までは、北陸を旅する人々にとって唯一の幹線道路であった。当時、舟寄は200戸以上の大集落であり、北陸街道でも一際大きな宿場街となっていた。「舟寄七曲」沿いに旅籠、商店等が軒を並べて、密集し、大いに繁栄していた。七曲は宿場としての街の役目を果たしていた。
  ところが、この密集した家並のために、江戸時代に大きな火事が2回(文政9年、弘化3年)もあった。
  現在、集落内の旧北陸街道には昔を忍ぶ左加賀道の石標と七曲のカーブが4箇所確認できる。

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 国神神社の閻浮檀金

国神神社の閻浮檀金(くにがみじんじゃのえんぶだこん)千手観音

   この閻浮檀金千手観音は,貞観4年(862)に摂津国真如法師が唐から持ち帰ったもので,平景清の守り本尊であったと云われている。丸岡城主の本多家の守護観音として国神神社に納められた。観音様の光背は八剣輪宝で指輪が7個ついている。環の台は金銀赤銅で,赤や青や白の玉が埋めてあり,観音身丈は約6cmで環の台下から光背までの高さは約16cmである。
 昭和23年(1948)の福井震災で神社は倒壊し全焼したが,氏子の力で持ち出された貴重なものの一つとなっている。
 なお,国神神社の神紋は八剣輪宝である。

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 公式サッカー場

  丸岡町はサッカーが盛んな町です。昭和57年(1982)サッカースポーツ少年団が初の全国大会出場、その後何度か全国大会に出場している。丸岡中学校では全国中学校大会に常時出場、丸岡高校でも全国大会、インターハイ、国体等その強さは全国トップレベルです。 平成4年(1992)4月には、町内長崎に丸岡サッカースポーツランドが完成し、県内初の専用サッカー場がオープンした。令和2年10月1日からネーミングライツ事業により愛称が「日東シンコースタジアム丸岡」となりました。

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