歴史文化部会
お知らせまち協活動報告歴史資料館まち協の組織連絡先

 

[ホーム][まち協活動報告][歴史文化部会]

30.3.31

 一本田地区の歴史看板が一本田神社境内に完成しました。当区は平安時代から発展した地区であり、その地名は当時八条院の荘園「一品田」だったことからその名前がつけられた。一品田の中心地に位置していたため、「一品本田」と呼ばれ、後に、一本田と改名されたと考えられる。15世紀には、永平寺の僧が一本田の地に観音堂を建立し、この地に観音信仰が始まり、「千手観音像」をお祀りしたのが始まりです。現在でもその信仰が継続されています。また、豪農「山田家」や文豪「中野重治」 詩人「中野鈴子」の生まれた土地としても、名高い地区です。
  看板表は一本田千手観音の紹介、裏面は一本田の歴史文化の紹介

30.2.3

 今年度4回シリーズで、称念寺の歴史学習会がありました。4回目となる講座は節分の日に開催され、約30名の聴衆のもとで、称念寺住職の高尾察誠氏の流暢なお話を通して、白山開山僧泰澄大師が創建した称念寺と明治の廃仏毀釈により、勝山の平泉寺、加賀の白山寺、美濃の長瀧寺が神社と化し、白山信仰は神社が拠点となってしまった。元は平泉寺が白山信仰の中枢であった。明治の廃仏毀釈は仏像、仏具、祠まで撤去、寺はレベルの低い習俗・宗教として軽蔑視されて、白山信仰をささえてきた僧、聖たちも忘れ去られいしまった。しかしながら、昨年の白山開山1300年祭を期に再び泰澄大師の偉業が見直されている。

29.11.18

 恒例になったいる歴史文化講演会が、11月18日(土)午後1時30分から、たかむく古城ホールで開催しました。
今年のテーマは、「長崎遺跡と高椋地区の遺跡」で、約70名の聴衆が参加しました。昨今、この地に於ける、新幹線建設に係る発掘調査が終わったこともあり、その調査報告を県埋蔵文化財センターの技師の秋山綾子氏に御願いしました。
 4500年前の縄文中期からこの地には人々が住み着き、古刹称念寺をはじめ、奈良時代には西大寺莊園等古くから米作地帯として発展してきました。長崎遺跡は中世の遺跡で、当時の寺を中心とした交易や長崎城跡等の遺物や痕跡がうかがえる、貴重な文化遺産です。川の氾濫、水害の度に土砂が堆積し、集落が消滅したり、建物を建て替えたたりして、その跡が現在の地表面下1m〜50cmに確認できる等々の解説がありました。

 

H29.11.8

 第8回目となる西大寺お米おくりは、11月8日(水)実施しました。今回は40名が参加しました。奉納式典では全員が、5合枡に入ったコシヒカリを本堂の釈迦如来像の前に奉納し感激いっぱい!!昼食後、大茶盛りを体験し、かつて奈良時代後半に高柳・吉政周辺に西大寺荘園「赤江庄」があり、お米が西大寺に送られて、奈良の都人の生活を支えていました。この古事を後世に伝えることがこのお米おくり事業の目的です。帰りに浄瑠璃寺を見学して、深まりつつある大和路を満喫してきました。

29.8.28

29.5.13

 今年度の歴史学習会は称念寺にまつわる故事伝説を4回シリーズで行います。第1回目は5月13日(土)午後1時30分から、高椋コミセン会議室で、称念寺住職 高尾察誠氏を講師に、20名の受講者がありました。約1時間30分間にわたり、住職の流暢な講話を拝聴しました。1回目は創建時から、鎌倉後期までを取り上げて、近隣にない由緒ある古刹を紹介 養老5年(721)泰澄大師の創建で、白山信仰が元で、鎌倉時代には時宗の道場となり、他阿真教上人、新田義貞公の墓所となった背景等のお話がありました。

 

29.3.25

 北陸新幹線建設事業に伴い、平成28年9月1日から平成29年3月31日の間に、現在の長崎称念寺東側地籍の発掘調査がありました。たかむくのまち協歴史文化部会では学習会を計画し、この度福井県埋蔵文化財調査センターが3月25日(土)にその結果を一般公開しました。近隣の方々総勢100名程が、係員からの説明を真剣に聴き入っていました。
 長崎遺跡の規模は現在の長崎称念寺の周辺で、東西約1km 南北0.6kmに広がる楕円形に広がっていた。
(西方は十郷用水、北方は県道福井臨港 東方は笹和田地籍の本廟川 南方は丸岡スポーツランドに跨る楕円形の範囲) 平安時代、鎌倉時代から中世期に栄えた時宗の古刹の称念寺の佇まいであった。(下右図赤文字13036の範囲)
 今回の調査は下左図の赤印部(新幹線予定ルート)の北側調査区と南側調査区で調査面積2850uで行われた。
 ○南側調査区からは、区画溝、井戸、土抗炉跡が
   区画溝からは青磁椀、古銭、漆器椀 土抗炉跡からは焼けた石や墨がたくさん出土
 ○北側調査区からは区画溝、井戸、建物跡、建物の柱穴、土坑、土塁(屋敷を囲む盛土)が、出土
   井戸は底面で桶や曲物の設置が確認され、2基の井戸は北西−南東方向に約50cmずれているところから、福井震災等の影響と見られる。建物の柱穴が多くことから、複数回建て直したとも考えられる。木組の施設跡からかわらけ、陶磁器、古銭、鈴、銅鏡の破片、鉄製品が出土した。今回の調査区から約20m間隔に区画溝・土塁で区切られ空間をもつことが分かった。建物の火災や震災等で何度も建て直した様子がうかがえる。古図に見られる称念寺の堀も確認できた。出土品の
年代は13〜14世紀に集中しており、この期に堀の埋没から区画の形成が行われたと考えられる。出土品は、青磁椀・白磁椀や越前焼、かわらけ等の土器のほか、箸、漆器、古銭、秤の金具、耕作具の鉄製品等多岐にわたっており、当時の生活がうかがえる。
 井戸跡が何カ所か確認できた。地震や火事の度に井戸を掘り直したのではないかと推察される。

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

長崎称念寺とは 養老5年(721)に泰澄大師が創建した。
 ○正応3年(1290)他阿真教上人が称念寺を時宗の念仏の道場となり、伽藍が整備された。
 ○太平記には「長崎城」と南北朝時代には新田義貞の拠点の1つと記載されている。
  ○延元3年(1338)には新田義貞公の墓所となる。15世紀に入り朝倉時代までは城館や陣所として利用されていた。)
 ○弘治2年(1556)〜明智光秀一家が門前に居住  永禄6年(1563)お玉(細川ガラシャ)が誕生し、
  ○元禄2年(1689)8月8日 松尾芭蕉が奧の細道の道中に来寺し、句を詠んでいる。(つきさびよ 明智が妻の はなしせむ)

29.3.9

 まち協歴史文化部会が実施している地区歴史看板設置事業 今年度は猪爪地区の看板を制作し、3月9日に猪爪八幡神社境内に設置しました。表面は猪爪八幡神社と猪爪弁財天を写真で紹介、裏面は地区の歴史を文章化しました。歴史を遡れば、当地区は室町時代に、湧き水の豊富な「たいちん池」の周辺に人々が住みつき、集落を形成したのがはじまりです。八幡神社と水の神様「弁財天」をお祀りし、今日では人口1336人を数える大集落となり、発展しています。

img1.jpg

11.26

 恒例の11月講演会は26日(土)に午後1時30分から、たかむく古城ホールで開催しました。市内をはじめ県内各所から150余名の参加を得て、演題「丸岡城/お天守の魅力となぞ」 講師 福井工業大学教授 吉田純一氏 約1時間30分 国宝化を目指す丸岡城を建築工学的立場から謎解きをしていただきました。
市民の国宝化への意気込みが感じられた講演会でした。

7.23

 7月23日、第2回郷土歴史学習会か開催されました。今回は前回6月4日の続編「丸岡藩主有馬家」講師は大谷英仙氏、参加者は21名
 島原の乱以前の延岡時代、天草の一揆とその経過、乱以後の島原には、小豆島からの移民(そうめんが島原に伝えられた) 元禄4年に領民の逃散騒動で、糸魚川藩に転封され、元禄8年に、丸岡藩に拝領、以後8代(17代清純から24代道純まで)続いた。島原の乱の時に有馬直純と宮本武蔵と交流あり、書状が残されている。(東京大学史料編纂所所蔵) キリシタン大名が江戸時代を生き抜いた影には国姫の存在が大きく影響している。

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

6.4

 今年度の歴史学習会は「丸岡城を国宝へ」の目指す、市民運動の一環として、丸岡藩主の有馬家の変遷と題し、講師に 歴史家で、台雲寺住職の大谷英仙氏をお招きし、2回シリーズで実施されます。
 6月4日(土)午後1時半からの第1回目には20名が参加し、有馬家の遠祖 島原、延岡での生き様、徳川家との関係、国姫の存在等を再認識しました。次回の7月23日(土)は丸岡に入ってからの有馬家の様子と台雲寺が関係の学習となります。

img1.jpg

img1.jpg

28.3.28

  3月28日高柳八幡神社前に地区の歴史を紹介する看板を設置しました。弥生時代から近くの兵庫川沿いに発達した地域で、奈良時代には西大寺庄園、中世には興福寺や称念寺の領地となり、江戸時代には本多大膳の陣屋が置かれています。昭和後期からは国道八号線バイパスの開通に伴い、福井市のベッドタウンとなり、人口の増加が著しい地域です。

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

 

img1.jpg

 11.25

地区の歴史看板を設置する事業を進めています。今回「西里丸岡」地区の歴史看板が完成し、11月24日午前9時から、設置作業を行い、表面はカラ−写真、明治初年頃の古地図等を入れて、歴史年表様にレイアウト、裏面は「西里丸岡の由来」を文章化して、さらに現在も残る懐かしい呼び名と題し、古老から言い伝えられているものをまとめたものです。

img1.jpg

img1.jpg

 img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

11.2111.21

「丸岡城天守を国宝へ」 国宝化への準備委員会もでき、市民運動が盛り上がってきているなかで、たかむくのまちづくり協議会もその一役をと・・・、 歴史文化部会では11月21日(土)午後1時30分から、たかむく古城ホールで講演会を実施しました。約120名が宮本先生の厚き熱弁を拝聴しました。

  演題「丸岡城の魅力」 講師 宮本 久 先生「丸岡観光ボランティアガイド協会長」

 現存12天守の中で、最古の丸岡城天守 木造天守の品格と風格は訪問者を釘付け、野面積みの石垣、石瓦、阿吽の鬼瓦、中央の6本の太い柱、かつては掘っ立て柱であった。65度〜67度の急勾配の階段、望楼型、二重三階の独立式天守等 魅力満載の丸岡城天守
 
幸運に恵まれた天守 関ヶ原の戦い時に攻撃されなかった天守。江戸時代の丸岡の大火にも類焼しなかった天守。明治期に廃城から免れた天守。福井震災後倒壊した天守が重要文化財として再建修復された天守。(昭和9年に国宝になったものの、昭和25年の法律改正で、国宝が重要文化財となっている。) 
  
私たち宝、丸岡の宝、国の宝を世界の宝へ 町民の皆さんの力で、再び国宝へ 

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

27.6.6

 演題 「歴史的な観点からの時事問題研究」
 講師 四戸友也 氏 (元福井新聞編集本部長、論説委員長)

 私の好きな言葉は「歴史は繰り返す。」 現在の日本と米国の関係、過去の歴史的な関係の背景には、この「歴史は繰り返えす。」がある。この150年間の日本は米国に振り回されてきた。ぺーリ来航、日清戦争、日露戦争、そして第1次、第2次世界大戦、バブル崩壊、現在の集団的自衛権の背景には米国の圧力、威力があり、米国に操られている気がする。昨今の中国の動きが気がかりである。・・・
 たかむく古城ホールでの講演には、45名の参加があり、四戸氏の流暢な時事問題ニュース解説をお聞きした。

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

26.9.18

 この度高椋の歴史看板称念寺編が完成し、9/18に設置しました。称念寺東側駐車場と丸岡スポーツランド正面入り口の北側の2箇所にラミネート加工看板を設置しました。特に東側駐車場にはヒノキ材の丸太に瓦屋根を取り付け、通りの車からも称念寺の歴史が一目で解るように工夫しました。
スポーツランド入り口北側には、サッカー場に来られた方々の目にとまるように建物の壁面に固定しました。
 
     看板内容
 ○泰澄大師が養老5年(721)に創建
 ○正応3年(1290)他阿真教上人が称念寺を時宗の念仏の道場とした。
  ○延元3年(1338)には新田義貞公の墓所となる。
 ○弘治2年(1556)〜明智光秀一家が門前に居住 永禄6年(1563)お玉(細川ガラシャ)誕生し、
  ○元禄2年(1689)8月8日松尾芭蕉が奧の細道の道中に来寺し、句を詠んでいる。

26.9.4

 郷土歴史学習会第3回目が9月4日(木)午後7時30分〜9時、今回は称念寺の住職高尾察誠氏を招き「長崎称念寺の歴史その1」を開催しました。約25名の参加の下で、寺の歴史前編を拝聴しました。
 称念寺の縁起書によると養老5年(721)泰澄大師の創建で、近隣では大変古いお寺で、当時近くまで日本海が入り込んでいて、湖状であり、大師は舟で長崎に上陸し、阿弥陀堂を建てて、白山信仰を広めといわれています。正応3年(1290)には時宗の第2代目の他阿真教上人が長崎に来られて、時宗の拠点布教寺(念仏道場)となりました。以後、称念寺は財力に恵まれ、北陸で最も有力な念仏道場として発展していった。やがて、南北朝時代の新田義貞公の墓所となる。後半は次回へ

26.7.3

第2回目の歴史文化学習会は7/3(木)PM7.30〜高椋公民館3階務会議室で行われました。今回は坂井平野の歴史と農業水路をテーマに講師の大谷英仙先生の講話を拝聴しました。歴史史料に残る荘園の解説、三世一身法と墾田永年私財法の解説、用水をめぐる争い坂井郡内における条里プランの基準線等について学びました。 

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

26.5.1

   今年度の歴史文化部会の活動の一つに地域の歴史を学ぶ学習会を3回シリースで行う予定
今日はその1回目で、講師の台雲寺住職 大谷英仙氏を招いて、「荘園時代のたかむく地区」をテーマに講話を拝聴しました。 坂井平野の成り立ちから 米作地帯として発展しはじめた弥生時代 継体天皇の中央への進出の背景と農業の関係 奈良時代の東大寺荘園の成立 等々解説していただいた。゙

img1.jpg

img1.jpg

H25.11.30             

 11月30日(土)午後1時30分から、高椋公民館で、約80名の参加者を迎えて、十郷用水の歴史を学ぶ講演会が開催されました。講師は丸岡高校でも教鞭を執っておられた藤野立惠先生(常照寺住職 坂井市文化財保護審査委員)

 宝暦年間(1750〜 )に起きた鳴鹿大堰をめぐる五領島の地区と下流の高椋郷・磯部郷・十郷地区との水争いの経過とその終末について、資料に基づき、解説していただいた。争いは江戸出訴になり、幕府より検使が派遣されて舟寄宿場に宿泊しながら、その解決を図った。10年以上もかかり、結局は五領島側の勝利となった。十郷用水の改良にはこうした幾多の争いがあり、そのたびに改良を重ね現代に至っている。

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

 H25.6.6                   

  まちづくり協議会の歴史学習会が、6月6日(木)午後7時から高椋公民館和室で行われました。
今回は講師として 台雲寺住職 大谷英仙氏を招き、演題「和尚が語る郷土の偉人達」で、一本田観音院の創建と白毛和尚、石門和尚について、寛正2年(1461年)創建当時の様子について解説された。歴史文化部会員と学習健康部会員をはじめ会員等20名が参加しました。平成(2008年)8月のご開帳時に発見された古文書によって、これまでの1695年が創建とされていた観音院はさらに230年程前に創建されたことが判明された。当時室町幕府の末期の乱世で、各地で観音信仰が盛んになった。一本田集落の西方100m程の所に千手観音像(右下像)を本尊とする一本田観音院が創建された。詳細はimg1.jpgのなかの「一本田観音院」をご覧ください。

img1.jpg

img1.jpg

img1.jpg

            

[トップ ページ][お知らせ][まち協活動報告][歴史資料館][まち協の組織][連絡先]

Copyright(c) 2014  Morihiro Matsumoto. All rights reserved.