竹田に伝わる話
山伏塚(山口)
竹田コミュニティセンター南、道を隔てて50m程のところにある。
杉林の中、山口の堂様(お宮)の賽銭箱がたびたび荒らされ、時々やってくる山伏に疑いがかかり捕らわれた。
山伏は強く否定していわく、「わしを疑うなら、生き埋めにし、傍らに木を植えよ。若し、木の枝東に繁れば無実、西に繁れば罪あり」と。
後日木の枝東に繁った。
驚いた村人達は塚を建て、供養した。
今も石の墓がある。
吉谷の狐塚(吉谷)
清助という村人が猟に出た。その日に限って獲物がなく帰路についた。村近くの大杉の根っこに白い狐が潜んでいるのを見つけ弓矢を放った。左眼を射られた白狐は笹藪の中に消え去った。清助が家に戻り囲炉裏端でくつろいでいると火の粉が左眼に入り火傷をおった。その火傷が元で両目が腫れ塞がり盲目になった。祟りで盲目になってしまったと悲観する清助を見て、妻のおきよは夫の目を治してやりたいと不動様に祈願し始めた。二十一日目の夜、おきよは夫を背負って不動様の岩屋へよじ登ってきた。二人は祈り疲れてその場に眠り込んでしまった。うとうとしていると「おきよの貞節に免じて今一度汝の目を開いてとらせる」という不動明王のお告げがあった。眠りから目を覚ますとお告げのとおり清助の目は完全に治っていたのである。清助は不動様に感謝の生活を送るとともに狐を射た大杉の根元に祠を建立して、白狐の霊を祀り、懺悔の供養を怠らなかったという。吉谷道に今も狐塚の地名が残っている。
名医文山(山口)
火燈山で炭焼きをしていた文左は、息も絶え絶えに弱り果てた若者に出会った。なぜこの山の中に下りてきたのか訳を聞くと、長崎から医学を学び郷土に帰る途中天狗にさらわれ気がつくとここにいたというのだ。文左は我が家に連れて帰り親切にその若者の世話を続けた。するとすっかり元気を取り戻すことができた。無一文の若者はお礼に医学の手ほどきを文左に教え、病状、処置、処方を書き綴った医学書を与え、郷里に帰って行ったという。文左は医学書を隅から隅まで暗記した。三年後にはかなりの医事に熟達した。文左は文山と改名し医業に専念した。彼の名は知れ渡り、峠を越え文山の元に通うものは引きも切れぬほどであったという。文山が60歳を過ぎたころ、丸岡藩の殿様が熱病に冒されたが、どの御典医にも打つ術がなかったという。文山は一服の煎薬を殿様に飲ませたという。殿様の高熱はその煎薬の服用とともに下降し、見事快癒したいうのである。この竹田には、文左屋敷跡という地名が残っているという。
ねじ仏(上竹田)
往古、二神山(丈競山)に龍神棲む。
時々、竹田川の深淵に身を沈め、水浴したりと言う。
ある時、大いに怒りて暴れ狂う。
雷鳴轟き、雨、篠をつく。
川、忽ち水嵩増し溢れ、荒れに荒れて大洪水となる。
この様、七日七晩続き、山崩れ川堰かれて、湖となり杣人難渋する。
泰澄来たりて、日々、護摩を焚き、経を読み、祈願すれば、荒れし川治まり、湖の水引いて渇く、杣人喜ぶ。
水引きし川原に金色の石、杣人見つけ拾えば、石、捻じれ曲がれる様体なり。
これ龍神の化身と恐れおののき、傍らの洞窟に安置し、崇拝する。
ダム取付道路、山鹿橋詰めより100m上流に滝があり、滝の傍らに、祠がある。
現在地はダム工事で移転。
夫婦岩(山口)
吉谷道(山口白山神社の後ろ300m)に道の両側に大小二個の石が相対する。
往古、湖沼の頃の船付き場と伝わる。
吉谷伝説(吉谷)
吉谷千坊として栄えた吉谷地区には中世時の財宝の在り処を暗示する謎の言葉が伝わっている。
「立てば後ろ 座れば前」※坐像千手観音のふくらはぎの中にお金が埋められていたのが江戸時代に発見されたという。
「朝日射し 夕日陰らず 白椿」※未解読
「黄金の御席(みせき) 七御席(みせき) 漆千杯 朱千杯」※未解読
岩山谷の石仏(山竹田)
1574年(天正2)織田信長は越前を攻め、多くの寺を焼き払った。厳教寺住職道順はご本尊である弥陀三尊仏を自ら背負い、岩谷村(山竹田)の岩穴に安置し、暫くその地に留まり難を逃れた。260年余り後の江戸時代末期、第9代住職善学の「夢告」によって、岩穴で痛々しく変わり果てた「三尊仏」が発見された。現在も宝物として、本堂内陣に安置されている。その谷は「仏谷」と呼ばれ、現地には石仏が代わりに安置されている。
大王神宮【つるみやの神】(山竹田)
約400年前、松原家の祖先(念仏爺さんと呼ばれる)の夢の中に出雲の神様が現れ、「お前のところに行きたい」とのお告げがあった。その後、念仏爺さんはスゲの衣と笠を被った3人に出会いお土産に腹と目の薬をもらった。「代々家伝薬として大事にするように」と告げると姿が消え三体の木像(天照大神、八百万の神、土地神)が残った。それを持ち帰り山小屋に祀っていた。それが大王神宮(つるみやの神)である。現在も目薬を求めてくる人がいるそうである。毎年5月23日に御開帳する。
ジョウダン淵(上竹田)
竹田川の上流(奥山)にジョウダン淵というところがある。その昔、竹田の里に住む多くの人は炭焼きを生業としていた。その炭焼きの嫁が辛い仕事に嫌気がさし「この淵に向かって、いっそこの淵にはまって死んでしまった方がましや!」と云ったところ、仕事の帰り、本当に淵にはまって死んでしまった。本当に冗談も云えんというところから、ジョウダン淵と云われるようになった。
- ※これらの話は大川貞一編「竹田の略史年表」や「広報じょんころ」などを参考にしました。