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  ふるさと部会は、旧歴史文化部会の活動を引き続き継続して活動をしています。令和2年度までの活動報告(抜粋版)を下段にて、掲載してあります。


 

 泰澄大師ゆかりの地を訪ねる研修会 令和3年度は泰澄大師が称念寺を創建して、満1300年目にあたります。大師ゆかりの地を訪ねる目的で、6月18日(金)、平泉寺白山神社、歴史探遊館「まほろば」、泰澄寺を訪ねました。参加者21名がコロナ感染予防対策をしながら、有意義な研修を行いました。

3.4.3

活動報告  2018年10月~2021年3月                       

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の放映が決まり、ゆかりの称念寺を盛り上げようと、歴史文化部会が中心となり実行委員会を組織して、2019年12月からガイド活動を進めてきました。2020年に入り新型コロナ感染症拡大で、予約キャンセルで、当初予定通りには客足が進まないなかでも、延べ約1万人の方々がここ称念寺にご来寺くださいました。感謝感激でございます。有り難うございました。令和3年3月末日で、実行委員会は解散となりましたが、今後は歴史文化研究メンバーの有志で、おもてなしガイドも継続していく予定です。ガイド予約については直接称念寺(0776-66-3675)又はDMOさかい観光局(0776-82-1555)まで

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 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」越前編の放映がはじまり、称念寺への観光客も増えてきています。特に土日祝日には、光秀公の足跡を訪ねて、200人以上の皆さんがご来寺いただいております。今後観光バスでのお客様も増えることもあり、連日ボランティアガイド、おもてなし実行委員の皆さんも大忙し。 光秀公の足跡 A2版1枚(103×73cm)に集約したものを、本堂内に設置しました。コンパクトにまとめたものです。内容は

光秀公ゆかりの寺パネル版の内容 

○1556年美濃国から称念寺に逃亡してきた、その大きな理由は新田義貞の墓所があったこと。・・・・・
○称念寺で10年の生活 妻煕子の献身的な支え 黒髪伝説  称念寺で 武士としてのキャリアアップし
○一乗谷朝倉氏に仕官するも、本採用にはなれず、約10年を過ぎ

○1565年5月19日に第13代足利義輝殺害事件後、次の将軍に殺された弟の覚慶(後の足利義昭)を擁立のために、覚慶の救出と保護そして 朝倉館に保護する(動座)ための交渉役、義昭を将軍にするために、朝倉義景に上洛を求めるが、上洛を拒んだため、義景を諦めて、織田信長に走り、信長と上洛に成功し、義昭は第15代足利将軍に擁立することができた。それ以後、光秀は信長の家臣NO.1として、公的な歴史文献に登場してくる。

○称念寺の沿革 721年泰澄大師創建 新田義貞公菩提寺、墓所 芭蕉が立ち寄った寺
○越前を去ってから また再び越前へ 一乗谷城の戦い(朝倉氏滅亡)と越前一向一揆の戦いに参戦(豊原寺滅亡)
○光秀は豊原城、丸岡城築城に関わる。○「麒麟がくる」の麒麟とは 中国の神話
○光秀が本能寺の変を起こした理由は謎 しかし 信長の「唐入り政策が原因」 等々

 

 大河ドラマ「麒麟がくる」で、称念寺が話題になっています。光秀の魅力的な人間像や、称念寺との関係等を子どもたちにも理解してほしいと、称念寺観光おもてなし実行委員会が編集した「黒髪伝説」漫画本 25pを、8月21日に高椋小、丸岡中、丸岡南中を訪問し、全児童生徒に贈呈しました。

1.11.24

 11/24(日) 午後1時30分から たかむく古城ホールで開催しました。約80名の参加者のもと、4時までの催しでした。第一部の講演会は、朝倉氏遺跡資料館学芸員石川美咲氏を招き、「越前での光秀公の活躍」と題して、ご講演を拝聴しました。10年居住した称念寺での様子、薗阿上人のおもてなしのもとで、武士として様々な力を身につけていく、特に医術では他の武将にはない能力を発揮していった。その根拠となる文献の紹介は、大変興味深いものがあった。第2部は、福井あすわ歴史道場会長の松下敬一氏の司会のもとで、石川美咲氏と称念寺住職高尾誠氏による約1時間のトークショウでした。

第1部 石川美咲氏の講演

第2部 トークショウ

称念寺の書籍販売

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1.11.13

 11/13 第10回西大寺お米おくり 今回は地域住民、まち協委員等35名が参加しました。西大寺では釈迦如来本尊の前に、コシヒカリ3俵を奉納しました。参加者一同、10年継続に驚きと感激で一杯でした。来年の「麒麟がくる」の大河ドラマの放映も間近に迫り、光秀公ゆかりの長岡京市の勝龍寺城に立ち寄り、称念寺を大いにPRしてきました。勝龍寺城は、細川藤孝や細川ガラシャの居城で、光秀が山崎の戦いの際に本陣を構えた城、光秀と藤孝は一番の朋友でしたが、・・・

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1.7.28

 今年度は高柳集落の歴史に関する座談会を7月28日午後1時30分から、高柳集落センターで開催しました。地区の方30名を超えるお集まりをいただきました。ご当地は縄文後期には人々が住み着き、高柳・下安田遺跡の発掘では、住居跡や銅鐸の一部も発見されています。兵庫川の恵みによって、稲作も盛んで、奈良時代後半には、奈良の西大寺の荘園(赤江の庄)もあり、奈良の人々の生活を支えてもいた。江戸時代には、丸岡藩主本多成重の次男重看は3000石の旗本となり、高柳に高柳陣屋を構え、代官所が置かれた。等々 髙橋哲夫氏の江戸時代の歴史講話の他、西大寺赤江庄と高柳の繋がり等約2時間の座談会であった。

r1.6.30

 本年度の歴史文化部会の事業として、光秀公ゆかりの地を訪ねて、その地の方々との交流会を企画しました。6月30日  31名の研修参加者は、一路福知山へ 光秀公を祀る御霊神社に参拝 、福知山のまちづくりに貢献した光秀公に対する御恩は、決して忘れることなく、今後も後世に承継していきたいと語る宮司さんの厚い思いに感動して、当地のボランティアガイドの城案内や、交流会で、懇親を深めました。当日の研修の様子は、福井新聞と両丹日日新聞に大きなスペースで全国に発信されました。

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7月1日付け両丹日日新聞のトップページを飾った「たかむくのまちづくり協議会の福知山研修の記事」

 

  1.5.30

 明智光秀ゆかりの地を旅してみませんか。まち協では、6月30日(日)京都府福知山の丹波の明智光秀公ゆかりの地を訪問し、現地の明智光秀公研究会と交流会を開催します。一般の方20名にも参加して頂き(先着順、定員に成り次第しめきり)ます。下のコミセンだよりをご覧いただき、希望される方は℡【0776-68-0843】に申し込みください。

1.518

 5月18日 福井藩を支えた女性のお話を拝聴しました。講師はふくい歴女の会会長 後藤ひろみ氏で、31名が約1時間30分程、映像を見ながら学習しました。福井藩初代結城秀康は家康の2男という、徳川家直系、2代目から松平家を名乗り、幕末の福井藩18代松平茂昭まで続く。その影には、福井藩の大奥である女性の活躍があった。浅姫(松栄院)は第11代将軍の11女、13代将軍の伯母である浜尾(本立院)、14代福井藩主治好の5女の謹姫(寬恭院)、幕末の16歳で春嶽公に嫁いだ勇姫、芳野菅子(八十瀬)、勇姫を支えた歌島、磯岡、山沢 松平婦志等福井藩を支えた女性がいました。

 

30.11.24

 今年度の歴史講演会きは、11月24日(土)午後1時30分~ たかむく古城ホールで開催しました。
2020年度NHK大河ドラマが明智光秀公主人公の「麒麟が来る」に決まり、光秀公ゆかりの称念寺のPRを兼ねて、光秀公の菩提寺でもある大津市阪本の西教寺の社会部長の蜂谷眞勝氏(越前市法徳寺住職)を講師に「智将光秀公 越前から近江へ」と題してご講演を拝聴しました。100名を越える皆さんの参加を得て、光秀公の人柄の紹介、西教寺がなぜ菩提寺になったのか、地域住民にとっては光秀公は智将であった等について約1時間30分の貴重なお話をお聞きしました。前日に日刊県民福井にも広報されて、多くの方々が光秀を再考することができました。

30.11.07

 11月7日(水) 今年で9回目となる西大寺お米おくりを実施しました。天気にも恵まれ、総勢37名が、西大寺の本尊釈迦如来立像の前にコシヒカリ3俵を奉納してきました。平成22年3月に発表された舘野教授(奈良女子大教授)の論文がもとで、奈良時代後半に高柳吉政から森田の上野本町周辺一帯に西大寺の莊園(赤江の庄)が存在し、この莊園から送られたお米の荷札(木簡)が発見されたという ビックニュースに基づき、西大寺お米おくりがはじまりました。
 お米おくりの後、今年は明智光秀公の菩提寺である西教寺(滋賀県坂本)を訪問し、光秀公一族の墓にお参りして、広大な寺内と境内を見学してきました。光秀公と称念寺・西教寺の関係を学んできました。

西大寺大茶盛を体験してきました。

西教寺の表山門 正面

明智光秀公一族のお墓

 30.10.9

町協主催の「髙椋小学校での出前授業」が10月9日(火)に実施しました。コシヒカリの父石墨慶一郎博士と「コシヒカリ」と「いちほまれ」について、学びました。お米の食べ比べもありました。今回の講師は大霜徹夫氏が担当しました。

30.10.6

2020年のNHK大河が『明智光秀』が主人公の「麒麟がくる」に決まり、称念寺と明智光秀の関係がドラマに登場することが期待されています。今回称念寺住職の高尾誠氏を講師に招き、称念寺と明智公の関係を解説して頂きました。

30.7.8

 7月8日(日)の午後、今年度初の試み 集落歴史座談会を一本田集落センターで実施しました。集落側から8名、まち協側から4名、オブザーバーとして、大谷英仙氏を招いて、約2時間の座談会でした。
 内容は ①集落名の由来  ②一本田観音院の由来について  ③郷土の偉人(山田穣・斂 中野重治・鈴子)平成時代の初めから集落として成立した。八条院の荘園、一品田本田、一本田観音院の成立と伝承、偉人の多い一本田等後世に伝えたい村の歴史をみんなで語り合った。

H30.6.12

  新企画:歴史文化出前授業が行われました。高椋小学校5年生全員対象に、「高椋の宝物 お米」と題して、講師はまち協の松本会長、パワーポイント画像を見ながら学習しました。今から2000年前頃から、高椋地区の米作が盛んになったその理由、高椋のお米が、都に運ばれて、多くの人々の生きる糧となった。まち協では、現在奈良西大寺へお米おくりを行っている。コシヒカリの父である舟寄の石墨慶一郎博士のこと等。また、「なぜ高椋(たかぼこ)と呼ぶようになったのか」の解説がありました。子どもたちは真剣な目差しで学習していました。

 

30.5.19

 5月19日 本年度第1回の歴史学習会を開催しました。演題「越前国における一揆衆の歴史」と題し、講師 大谷英仙氏(台雲寺住職)のお話を拝聴しました。最初に1995年に丸岡ビデオ映像クラブ制作のDVD「越前一向一揆 円陵之朝露」30分を視聴し、その後大谷氏の解説があり、参加者35名、真剣なまなざしで学習が出来ました。室町時代約100年続いた宗教戦争の有り様、時代背景、農民の葛藤、織田信長の越前侵攻の背景等を理解することが出来ました。

30.3.31

 一本田地区の歴史看板が一本田神社境内に完成しました。当区は平安時代から発展した地区であり、その地名は当時八条院の荘園「一品田」だったことからその名前がつけられた。一品田の中心地に位置していたため、「一品本田」と呼ばれ、後に、一本田と改名されたと考えられる。15世紀には、永平寺の僧が一本田の地に観音堂を建立し、この地に観音信仰が始まり、「千手観音像」をお祀りしたのが始まりです。現在でもその信仰が継承されています。また、豪農「山田家」や文豪「中野重治」 詩人「中野鈴子」の生まれた土地としても、名高い地区です。
  看板表は一本田千手観音の紹介、裏面は一本田の歴史文化の紹介

30.2.3

 今年度4回シリーズで、称念寺の歴史学習会がありました。4回目となる講座は節分の日に開催され、約30名の聴衆のもとで、称念寺住職の高尾察誠氏の流暢なお話を通して、白山開山僧泰澄大師が創建した称念寺と明治の廃仏毀釈により、勝山の平泉寺、加賀の白山寺、美濃の長瀧寺が神社と化し、白山信仰は神社が拠点となってしまった。元は平泉寺が白山信仰の中枢であった。明治の廃仏毀釈は仏像、仏具、祠まで撤去、寺はレベルの低い習俗・宗教として軽蔑視されて、白山信仰をささえてきた僧、聖たちも忘れ去られていしまった。しかしながら、昨年の白山開山1300年祭を期に再び泰澄大師の偉業が見直されている。

29.11.18

 恒例になっている歴史文化講演会が、11月18日(土)午後1時30分から、たかむく古城ホールで開催しました。
今年のテーマは、「長崎遺跡と高椋地区の遺跡」で、約70名の聴衆が参加しました。昨今、この地に於ける、新幹線建設に係る発掘調査が終わったこともあり、その調査報告を県埋蔵文化財センターの技師の秋山綾子氏に御願いしました。
 4500年前の縄文中期からこの地には人々が住み着き、古刹称念寺をはじめ、奈良時代には西大寺莊園等古くから米作地帯として発展してきました。長崎遺跡は中世の遺跡で、当時の寺を中心とした交易や長崎城跡等の遺物や痕跡がうかがえる、貴重な文化遺産です。川の氾濫、水害の度に土砂が堆積し、集落が消滅したり、建物を建て替えたりして、その跡が現在の地表面下1m~50cmに確認できる等々の解説がありました。

 H29.11.8

 第8回目となる西大寺お米おくりは、11月8日(水)実施しました。今回は40名が参加しました。奉納式典では全員が、5合枡に入ったコシヒカリを本堂の釈迦如来像の前に奉納し感激いっぱい!!昼食後、大茶盛りを体験し、かつて奈良時代後半に高柳・吉政周辺に西大寺荘園「赤江庄」があり、お米が西大寺に送られて、奈良の都人の生活を支えていました。この古事を後世に伝えることがこのお米おくり事業の目的です。帰りに浄瑠璃寺を見学して、深まりつつある大和路を満喫してきました。

29.8.28

29.3.25

 北陸新幹線建設事業に伴い、平成28年9月1日から平成29年3月31日の間に、現在の長崎称念寺東側地籍の発掘調査がありました。たかむくのまち協歴史文化部会では学習会を計画し、この度福井県埋蔵文化財調査センターが3月25日(土)にその結果を一般公開しました。近隣の方々総勢100名程が、係員からの説明を真剣に聴き入っていました。
 長崎遺跡の規模は現在の長崎称念寺の周辺で、東西約1km 南北0.6kmに広がる楕円形に広がっていた。
(西方は十郷用水、北方は県道福井臨港 東方は笹和田地籍の本廟川 南方は丸岡スポーツランドに跨る楕円形の範囲) 平安時代、鎌倉時代から中世期に栄えた時宗の古刹の称念寺の佇まいであった。(下右図赤文字13036の範囲)
 今回の調査は下左図の赤印部(新幹線予定ルート)の北側調査区と南側調査区で調査面積2850㎡で行われた。
 ○南側調査区からは、区画溝、井戸、土抗炉跡が
   区画溝からは青磁椀、古銭、漆器椀 土抗炉跡からは焼けた石や墨がたくさん出土
 ○北側調査区からは区画溝、井戸、建物跡、建物の柱穴、土坑、土塁(屋敷を囲む盛土)が、出土
   井戸は底面で桶や曲物の設置が確認され、2基の井戸は北西-南東方向に約50cmずれているところから、福井震災等の影響と見られる。建物の柱穴が多くことから、複数回建て直したとも考えられる。木組の施設跡からかわらけ、陶磁器、古銭、鈴、銅鏡の破片、鉄製品が出土した。今回の調査区から約20m間隔に区画溝・土塁で区切られ空間をもつことが分かった。建物の火災や震災等で何度も建て直した様子がうかがえる。古図に見られる称念寺の堀も確認できた。出土品の
年代は13~14世紀に集中しており、この期に堀の埋没から区画の形成が行われたと考えられる。出土品は、青磁椀・白磁椀や越前焼、かわらけ等の土器のほか、箸、漆器、古銭、秤の金具、耕作具の鉄製品等多岐にわたっており、当時の生活がうかがえる。
 井戸跡が何カ所か確認できた。地震や火事の度に井戸を掘り直したのではないかと推察される。

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長崎称念寺とは 養老5年(721)に泰澄大師が創建した。
 ○正応3年(1290)他阿真教上人が称念寺を時宗の念仏の道場となり、伽藍が整備された。
 ○太平記には「長崎城」と南北朝時代には新田義貞の拠点の1つと記載されている。
  ○延元3年(1338)には新田義貞公の墓所となる。15世紀に入り朝倉時代までは城館や陣所として利用されていた。)
 ○弘治2年(1556)~明智光秀一家が門前に居住  永禄6年(1563)お玉(細川ガラシャ)が誕生し、
  ○元禄2年(1689)8月8日 松尾芭蕉が奧の細道の道中に来寺し、句を詠んでいる。(つきさびよ 明智が妻の はなしせむ)

29.3.9

  まち協歴史文化部会が実施している地区歴史看板設置事業 今年度は猪爪地区の看板を制作し、3月9日に猪爪八幡神社境内に設置しました。表面は猪爪八幡神社と猪爪弁財天を写真で紹介、裏面は地区の歴史を文章化しました。歴史を遡れば、当地区は室町時代に、湧き水の豊富な「たいちん池」の周辺に人々が住みつき、集落を形成したのがはじまりです。八幡神社と水の神様「弁財天」をお祀りし、今日では人口1336人を数える大集落となり、発展しています。

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11.26

  恒例の11月講演会は26日(土)に午後1時30分から、たかむく古城ホールで開催しました。市内をはじめ県内各所から150余名の参加を得て、演題「丸岡城/お天守の魅力となぞ」 講師 福井工業大学教授 吉田純一氏 約1時間30分 国宝化を目指す丸岡城を建築工学的立場から謎解きをしていただきました。
市民の国宝化への意気込みが感じられた講演会でした。

7.23

  7月23日、第2回郷土歴史学習会か開催されました。今回は前回6月4日の続編「丸岡藩主有馬家」講師は大谷英仙氏、参加者は21名 島原の乱以前の延岡時代、天草の一揆とその経過、乱以後の島原には、小豆島からの移民(そうめんが島原に伝えられた) 元禄4年に領民の逃散騒動で、糸魚川藩に転封され、元禄8年に、丸岡藩に拝領、以後8代(17代清純から24代道純まで)続いた。島原の乱の時に有馬直純と宮本武蔵と交流あり、書状が残されている。(東京大学史料編纂所所蔵) キリシタン大名が江戸時代を生き抜いた影には国姫の存在が大きく影響している。

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6.4

  今年度の歴史学習会は「丸岡城を国宝へ」の目指す、市民運動の一環として、丸岡藩主の有馬家の変遷と題し、講師に 歴史家で、台雲寺住職の大谷英仙氏をお招きし、2回シリーズで実施されます。
 6月4日(土)午後1時半からの第1回目には20名が参加し、有馬家の遠祖 島原、延岡での生き様、徳川家との関係、国姫の存在等を再認識しました。次回の7月23日(土)は丸岡に入ってからの有馬家の様子と台雲寺が関係の学習となります。

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28.3.28

   3月28日高柳八幡神社前に地区の歴史を紹介する看板を設置しました。弥生時代から近くの兵庫川沿いに発達した地域で、奈良時代には西大寺庄園、中世には興福寺や称念寺の領地となり、江戸時代には本多大膳の陣屋が置かれています。昭和後期からは国道八号線バイパスの開通に伴い、福井市のベッドタウンとなり、人口の増加が著しい地域です。

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 11.25

   地区の歴史看板を設置する事業を進めています。今回「西里丸岡」地区の歴史看板が完成し、11月24日午前9時から、設置作業を行い、表面はカラ-写真、明治初年頃の古地図等を入れて、歴史年表様にレイアウト、裏面は「西里丸岡の由来」を文章化して、さらに現在も残る懐かしい呼び名と題し、古老から言い伝えられているものをまとめたものです。

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   「丸岡城天守を国宝へ」 国宝化への準備委員会もでき、市民運動が盛り上がってきているなかで、たかむくのまちづくり協議会もその一役をと・・・、 歴史文化部会では11月21日(土)午後1時30分から、たかむく古城ホールで講演会を実施しました。約120名が宮本先生の厚き熱弁を拝聴しました。

  演題「丸岡城の魅力」 講師 宮本 久 先生「丸岡観光ボランティアガイド協会長」

  現存12天守の中で、最古の丸岡城天守 木造天守の品格と風格は訪問者を釘付け、野面積みの石垣、石瓦、阿吽の鬼瓦、中央の6本の太い柱、かつては掘っ立て柱であった。65度~67度の急勾配の階段、望楼型、二重三階の独立式天守等 魅力満載の丸岡城天守
 
幸運に恵まれた天守 関ヶ原の戦い時に攻撃されなかった天守。江戸時代の丸岡の大火にも類焼しなかった天守。明治期に廃城から免れた天守。福井震災後倒壊した天守が重要文化財として再建修復された天守。(昭和9年に国宝になったものの、昭和25年の法律改正で、国宝が重要文化財となっている。) 
  
私たち宝、丸岡の宝、国の宝を世界の宝へ 町民の皆さんの力で、再び国宝へ 

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26.9.18

   この度高椋の歴史看板称念寺編が完成し、9/18に設置しました。称念寺東側駐車場と丸岡スポーツランド正面入り口の北側の2箇所にラミネート加工看板を設置しました。特に東側駐車場にはヒノキ材の丸太に瓦屋根を取り付け、通りの車からも称念寺の歴史が一目で解るように工夫しました。スポーツランド入り口北側には、サッカー場に来られた方々の目にとまるように建物の壁面に固定しました。
 
     看板内容
 ○泰澄大師が養老5年(721)に創建
 ○正応3年(1290)他阿真教上人が称念寺を時宗の念仏の道場とした。
  ○延元3年(1338)には新田義貞公の墓所となる。
 ○弘治2年(1556)~明智光秀一家が門前に居住 永禄6年(1563)お玉(細川ガラシャ)誕生し、
  ○元禄2年(1689)8月8日松尾芭蕉が奧の細道の道中に来寺し、句を詠んでいる。

26.9.4

 郷土歴史学習会第3回目が9月4日(木)午後7時30分~9時、今回は称念寺の住職高尾察誠氏を招き「長崎称念寺の歴史その1」を開催しました。約25名の参加の下で、寺の歴史前編を拝聴しました。
 称念寺の縁起書によると養老5年(721)泰澄大師の創建で、近隣では大変古いお寺で、当時近くまで日本海が入り込んでいて、湖状であり、大師は舟で長崎に上陸し、阿弥陀堂を建てて、白山信仰を広めといわれています。正応3年(1290)には時宗の第2代目の他阿真教上人が長崎に来られて、時宗の拠点布教寺(念仏道場)となりました。以後、称念寺は財力に恵まれ、北陸で最も有力な念仏道場として発展していった。やがて、南北朝時代の新田義貞公の墓所となる。後半は次回へ

26.7.3

   第2回目の歴史文化学習会は7/3(木)PM7.30~高椋公民館3階務会議室で行われました。今回は坂井平野の歴史と農業水路をテーマに講師の大谷英仙先生の講話を拝聴しました。歴史史料に残る荘園の解説、三世一身法と墾田永年私財法の解説、用水をめぐる争い坂井郡内における条里プランの基準線等について学びました。 

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26.5.1

   今年度の歴史文化部会の活動の一つに地域の歴史を学ぶ学習会を3回シリースで行う予定
今日はその1回目で、講師の台雲寺住職 大谷英仙氏を招いて、「荘園時代のたかむく地区」をテーマに講話を拝聴しました。 坂井平野の成り立ちから 米作地帯として発展しはじめた弥生時代 継体天皇の中央への進出の背景と農業の関係 奈良時代の東大寺荘園の成立 等々解説していただいた。゙

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H25.11.30             

 11月30日(土)午後1時30分から、高椋公民館で、約80名の参加者を迎えて、十郷用水の歴史を学ぶ講演会が開催されました。講師は丸岡高校でも教鞭を執っておられた藤野立惠先生(常照寺住職 坂井市文化財保護審査委員)

  宝暦年間(1750~ )に起きた鳴鹿大堰をめぐる五領島の地区と下流の高椋郷・磯部郷・十郷地区との水争いの経過とその終末について、資料に基づき、解説していただいた。争いは江戸出訴になり、幕府より検使が派遣されて舟寄宿場に宿泊しながら、その解決を図った。10年以上もかかり、結局は五領島側の勝利となった。十郷用水の改良にはこうした幾多の争いがあり、そのたびに改良を重ね現代に至っている。

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 H25.6.6                   

  まちづくり協議会の歴史学習会が、6月6日(木)午後7時から高椋公民館和室で行われました。
今回は講師として 台雲寺住職 大谷英仙氏を招き、演題「和尚が語る郷土の偉人達」で、一本田観音院の創建と白毛和尚、石門和尚について、寛正2年(1461年)創建当時の様子について解説された。歴史文化部会員と学習健康部会員をはじめ会員等20名が参加しました。平成(2008年)8月のご開帳時に発見された古文書によって、これまでの1695年が創建とされていた観音院はさらに230年程前に創建されたことが判明された。当時室町幕府の末期の乱世で、各地で観音信仰が盛んになった。一本田集落の西方100m程の所に千手観音像(右下像)を本尊とする一本田観音院が創建された。

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