- 村のおいたち
-
藩政時代の文書には「有田(ありだ)」と書かれているが、それがいつのまにか「在田(あいだ)」の字を使用するようになったと伝えられている。
また福井藩の主要用水に、「七郷用水有田」とあることから、いかに田地が多く有ったかが想像できる。一方、山が非常に高く、城の台の中腹に土壙墓が発見されていることから、古墳時代以前の弥生時代に、すでに古代人が住んでいたと言われている。
ところが、古墳時代後期になって、人々は山を下り、山の麓に住むようになった。このことは、熊野神社の山裾や明厳寺(みょうごんじ)裏手の山裾に、横穴式古墳が多く発見されていることからわかる
- 馬の足跡
-
在田山(乙坂山)に、大滝・小滝という二つの滝がある。この大滝の岩肌に、馬のひづめの形をしたくぼみが残っていて、昔から村人は「馬の足跡」と呼んで来た。
南北朝時代に、畑時能(はたときよし)という武将が、在田山のてっぺんに城を築き、斯波高経(しばたかつね)軍と戦った。その時、時能は家来に命じて、毎日ふもとの大滝まで水を汲みにやらせたので「馬の足跡」はこの時に出来たひづめの跡であるという。この戦いで城は高経軍の手に渡ったが、その後脇屋(わきや)義助が一時城を取りもどした。しかし高経軍は軍勢を立て直して義助軍を敗走させた。
- 芝摺山(しばずり)とほんご岩
-
畑時能がたてこもったと伝えられる芝摺山城は、乙坂山の頂上に東西に土塁が築いてあり、在田(在田町)の者は「城のおろくじ」と呼んでいた。この南の端に前方後円墳が一基あって、江戸時代に盗掘して、錆びた刀が出たとの言い伝えが残っている。
この城あとから甑谷(甑谷町)の方へ下る山道五十メートル位の所に、大きな岩が横たわっている。道をはさんで米俵二俵分ぐらいの大小八個の岩が散在していて、在田の者は「ほんご岩」と呼んでいる。
この岩については、昔神様の宿られた岩座(いわくら)(磐座(いわざ))ではないかと言われている。古代の神様は、山や川、石、木などの自然物に宿られる。この場合、自然石のままでも岩座と呼び、また特定の場所へ岩を列べて、神様をお迎えすることも行われていた。
この岩を、神籠岩(こうごいわ)(神様のお籠りになった岩)とも言い、「ほうご岩」と訛ったのではないかの説がある。
このほうご岩から下った山の中腹に、清水の湧き出る広い台地がある。このあたりに古代の村があったものと考えられ、昔の家の礎石(そせき)や石だたみの道が残っている。
そしてこの付近の急な斜面を段々に開墾して、畠にした所が続いていることから、この三味谷(さんまいだに)から城の台にかけて、古代人が住んでいて、在田の発祥の地ではないかと推測される。
- 大縄地(おおなわち)
-
在田(在田町)の南の山の中に、大縄地という地名があり、村絵図にも記されている。丹生郡内には、織田の南に大縄境という地名があり、町内(清水地区内)の平尾清水畑(平尾町、清水畑町)の村絵図にも、大縄と書いた地点が三か所ある。
これは 慶長三年太閤検地の時の、縄入れ起点ではないかと言われている。検地には、現今の三角点のように、村端の突端や、川岸、山の頂上などに幾つかの起点を設け、この起点と起点を見通して角度を計り、面積を出した。今日行われている三角測量の方法によって、長い縄を使って角度を計ったり、距離を計って面積を出した。
この検地縄には、大縄(六十問)と小縄(三十間)とがあって、大縄はゆるみが大きいので、歩畝(ぶせい)があまかったと言われている。
慶長三年八月に豊臣秀吉が亡くなったので、検地も中止され、大縄地へ縄を埋めたと言われている。
- 落合の渡し(おっちゃのわたし)
-
天王川と日野川の合流点に、在田(在田町)の枝村(えだむら)の落合という村があった。乙坂(越前町乙坂)境の上落合に六戸と、渡し場の下落合に二戸あって、運送業をしていた。
この落合の渡しには、大舟(長き七間巾九尺)と小舟の二艘が用意されていて、大勢の時は大舟を、小人数の時は小舟を出していた。
この渡し場は、鯖江・武生方面への極めて重要な交通の要所で、船をつくるのに平尾(平尾町)・清水畑(清水畑町)・白滝(白滝町)の遠方の村や、商人にまで奉加金(ほうがきん)が割り当てられた。
明治時代になって天王川に橋がかけられてから、この渡し場もさびれて、落合村もなくなってしまった。
- 大岩主一
- 法満寺住職大岩主一は、僧侶の傍ら医学を修め、越前においてオランダ医学の先覚者(せんかくしゃ)として、種痘(しゅとう)の移入に覧献し、福井藩の名君松平春嶽公に召され、侍医(じい)として江戸の霊岸島(れいがんじま)のお屋敷に住んでいた。 文化二年法満寺住職円証の四男として生れ、子どもの時から向学心に燃え、初め西尾藩天王陣屋の医師松山松庵について漢学を学び、二十歳の時大聖寺の蘭学医生駒玄龍(いこまげんりゅう)に入門し二か年間修業し、その後京都に行って日野鼎哉(ひのていや)に就いて蘭学の奥儀を究めた。 当時越前に於して最初に西洋医学を修めた人である。 二十五歳で帰国し、半井仲庵(なからいちゅうあん)や笠原白翁(かさはらはくおう)などと研究会を開いて蘭学が漢法(かんぽう)医学よりすぐれていることを力説した。其後福井で開業したが、西洋医者は始めてで、患者は一人も来なかったと言われている。しかし、だんだん患者も多くなり、財をなしたとのことで、足羽河畔に大きな邸宅を構えるようになった。そして、福井へ種痘を初めて移入する時、笠原白翁に協力し種痘の輸送法を練って、嘉永二年無事福井へ始めて痘苗(とうびょう)を運ぶことができた。しかし大岩主一は気性の強い人で、医師会と意見が合わず不和となった。 その後、法満寺に明厳寺の円(まどか)を養子に迎え住職をゆずり、医業に専念することにした。なお主一の四男大岩貫一郎は、福井藩校教師グリフィスに学び、後福井中学校の二代目校長心得になった。 大岩主一は、文久二年江戸の藩邸でコレラにかかり亡くなった。
- 在田1号墳、在田2号墳
-
在田(あいだ)1号墳・2号墳とは、古墳時代後期に造られた古墳です。
1.在田1号墳
平野部との比高差二十米の丘陵先端部に所在する。墳形は円墳で、規模は直径十五米、高さ四米を測る。埋葬施設は一九七九年に実施された試掘調査の結果、南西に開口する片袖式の横穴式石室で、全長八米と推定されている。造営時期は須恵器の破片から六世紀末ないし七世紀初頭と考えられている。
被葬者は在田地区の有力家族と考えられる。
2.在田2号墳
平野部との比高差二十五米の丘陵頂部に所在する。墳形は円墳で、規模は復元径十米、高さ二米を測る。埋葬施設は一九八○年に実施された発掘調査の結果、南東に開口する左袖式の横穴式石室で全長四・九米、玄室幅一・七米、同長さ三・四米を測る。
副葬品は石室の天井石が失われていたものの、直刀三・刀子四・鉄鏃三十一・管玉九・紡錘車一・須恵器高杯一・台付壺一・短頸壺二・杯蓋七・杯身十・堤瓶三・土師器聾一と豊富な副葬品が検出されている。この副葬品の出土状況から埋葬は少なくとも二回行われたと考えられる。
造営時期は須恵器から六世紀末から七世紀初頭にかけて埋葬がおこなわれたと考えられる。被葬者は一号墳と同じく在田地区の有力家族であろう。
3.交通アクセス
本古墳へは、 京福バス清水グリーンライン(西田中行き)「在田」停留所を下車、又は西田中宿堂線「在田 」を下車、徒歩約10分。
なお、本古墳は私有地に立地しています。
- 周辺
- 甑谷町、鯖江市三尾野出作町、鯖江市西番町、越前町乙坂 乙坂山 市指定文化財(史跡)