昭和61年8月、旧清水町が発行した「清水町のむかしばなし」の中に収録されている、「各区の伝承」をとりまとめた「しみずっペディア」から引用しています。
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地名といわれ
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朝日町天王(越前町天王)の八坂神社の応神寺にお灯明(とうみょう)を奉納したことから、御油(ごゆ)の地名が生れたといわれ、一説によれば、太閤秀吉に種油(たねゆ)を献上したともいわれ、また隣村の島寺(島寺町)にあった「四万寺」のお灯明油をつくった村であったとの言い伝えもある。
むかし、油をしぼったときの重り石だといわれている米俵型の大きな石が、公民館の横に一つ残っている。
御油区(御油町)は日野川沿岸の肥沃な平野がひらけ、西は標高一〇〇メートル余りの山を背に、その東山麓一帯に住居が散在している。区の南に広がる麻畠(あさばたけ)という地籍一帯から須恵器の破片や石斧(せきふ)が発見されている。五百五十年前に、天王川の水をかんがい用水として使う「水番制度」があったと伝えられている。
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白山神社
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明治末期までは、南宮谷と北宮谷にそれぞれ神社があったが、明治三十九年神社廃合令で北宮谷の白山神社に合併された。
この神社には笏谷石(しゃくだにいし)でつくった小さい狛犬が百個ばかりあるが、願ごとが成就するように奉納されたものと思われる。
また、数十本の角力(すもう)の大関御幣(ごへい)が残されている。これは、明治・大正・昭和のはじめにかけて、夏祭りに村の若い衆が他村の夜角力で大関に勝って意気揚よう持って帰った栄誉の印で、一本一本に勝った力士の名前が書いてある。
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正願寺
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文正元年八月三日蓮如の弟子空珍(くうちん)がたてたものであると伝えられている。
太閤検地で「除地(じょち)」(年貢や夫役をかけない土地)になった古文書は対照十五年の大火のときに焼失してしまった。
天和元年大谷派本願寺百ヶ寺が西本願寺へ転派するという大騒動(百ヶ寺大騒動)があって、この時正願寺は東本願寺から西本願寺へ転派した。
正願寺の創建は五百年程まえであり、現住職で三十代にあたる。
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天王川用水と水害
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五百数十年前にすでに、天王川用水の水番制度があって、約六キロメートルの水路を通して、御油(御油町)三百石の水を引いた。
御油は、七郷用水組合の一番北にあたり、戸数の小さい村で、一番長い水路を管理する苦労は大変なものであった。
早ばつ(かんばつ)には、水源も細く、ろう水、盗水(とうすい)になやまされ、桑畑にカヤをつって、寝ないで水番をしたり、洪水が伝えられると、村では一本太鼓をたたいて急をつげて、村中で古畳や古俵を持って水止めにつとめた。
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火災と災害
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天保飢饉のときには五年間も苦しい生活が続き、墓地をみると死者が多かったことがわかる。
明治三年の島寺(島寺町)、御油(御油町)の大火事、明治十八年六月三十日から七月二日までの大暴風雨の水害、明治二十年一月の大雪、大正十五年四月二十日御油の南端から出火した火は、御油、島寺計九十二戸を全焼した。
その上、二名の焼死者、三十九名の負傷者を出した。悲惨さがしのばれる。
御油では毎年四月二十日を大火記念日として、村中総出で防災、消防の演習訓練を行なっている。
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竹内宇市
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明治十二年七月六日生まれで、十四歳で坪谷(坪谷町)の大工奥村小作に弟子入りした。
二十五歳で福井市緑川町にある浄土宗中本山安養寺の本堂を新築した。のちには真栗(真栗町)善蓮寺本堂、御油(御油町)正願寺本堂、南条郡堺村宇津尾(うつお)のお寺を新築した。
彼は神社、仏閣の建築に精魂を傾けた。その技術は卓越して、その優秀さは万人が認めたが、昭和十一年十月二十七日五十八歳で死去した。
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竜渓(たつたに)玄義
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明治十七年三月十一日、正願寺住職竜渓行恩の長男として生れ、第二十九世住職になった。
福井第二仏教中学、東京国学院大学予科を卒業、明治四十一年三月、京都本山立清国開教練習所を卒業と同時に教師になったが、同年に開教師に任ぜられ、清国開教師漢口駐在を命ぜられた。
四十三年九月には、上海に転勤、大正元年八月には、ウラジオストックへ転勤、きらに大正二年八月、ハワイへ転勤、大正十三年まで十一年間ハワイ布教に尽力した。
帰国後、昭和四十八年十月四日、九十歳の天寿を全うするまで剛毅寛容をかね備えた人徳と、卓越した識見は世人の信望をあつめた。
また自費を投じて、託児所・日曜学校を聞いて幼児少年の育成、仏教婦人会を創設して社会教育に努力するなど常人にはできない業績を数多くのこした。