福井市真栗町の伝承

清水南地区の名所や伝承の紹介

昭和61年8月、旧清水町が発行した「清水町のむかしばなし」の中に収録されている、「各区の伝承」をとりまとめた「しみずっペディア」から引用しています。

真栗町の伝承

春日神社(かすがじんじゃ)
 真栗(真栗町)には、祭神三柱(はしら)神社(天津郵便局の上)・三柱神社(旧真栗集会場の奥の山)と八幡神社(現在の春日神社)の三つのお宮があった。
 しかし明治四十年に神社廃合令によって、各村にあった氏神様を合併して、一村一神社にすることとなった。
 そこで真栗にあった上・中・下の三社を下の八幡神社に合併して、天津神社と神社名をつけた。ところが他の村から「天津」という神社名は、天津村(おおよそ今の清水南地区)の神様と混同されるとの異議が出されたので、春日神社と改めた。
旧八幡神社
 御祭神は、神功皇后(じんぐこうごう)・応神天皇(おうじんてんのう)をお祭りしてあり、昔は、お薬師さんと呼んでいて薬師如来の坐像が安置されている。この薬師如来像は、清涼寺式の仏像で、頭の螺髪(らはつ)が、三つあみにした仏像の髪を、ぐるぐる巻きにした清涼寺式という形で、珍しい仏像である。昔の氏子は、下組の三十戸であった。
旧祭神三柱(みはしら)神社
 中垣内の氏神様で、応永三十四年今から五百六十年ほど前の室町時代始め、上川去(越前町上川去)に別荘を持っていた飛鳥井中納言雅縁卿(あすかいちゅうなごんまさよりきょう)が、五十四歳の春、自分の荘園のあった越前田上川去へお出になった。
 その時天王の牛頭(ごず)天王宮に七日間参龍(さんろう)され、その時、真栗に三柱の神様をお祀りした。その後、豊臣秀吉公もお参りになり、社地一畝十歩を寄進された。
 昔の氏子は、中組の二十戸であった。
旧三柱神社
 上垣内の御所ヶ谷にあり、氏子三十五戸であった。
 この神社は、元正天皇の時代(一二四〇年ほど前)に、天皇の詔(みことのり)によって、全国に神様をお祀りするようになり、真栗(真栗町)に三柱神社が建てられた。
 応永三十四年に、飛鳥井雅縁卿(あすかいまさよりきょう)が天王(越前町天王)の牛頭(ごず)天王へお参りになられた時、真栗の三柱神社にも参詣された。この折余りにも有難かったので、和歌をおよみになり、「この神は都の花や恨むらん 遠く越路の山めぐりして」と、このような有難い神様は、京の都にはないと歌われ、ご自身の守り神となされた。
善蓮寺(ぜんれんじ)
 真栗(真栗町)の「たるみ」という所に、善蓮寺という浄土宗のお寺があった。このお寺は、坪谷(坪谷町)出身の奥村小作という人が、明治二十四年に建てたお寺である。
 この奥村という人は、子どもの時から賢くて学問も偉く、大きくなって近郷にない宮大工となり、神社や寺の建築を手がけた。そして多くの弟子を養成した。
 その後、僧侶となって垂海(たるみ)に、浄土宗の善蓮寺を創設し住職となった。そして病人には鍼・灸(はり・きゅう)などを施し、参詣する信者が多かった。遠くは四ヶ浦(越前町四ヶ浦)方面 からの信者が特に多かった。
 大正五年、五十歳の若さで亡くなった。門人たちは遺徳(いとく)をしのんで、高き一・八メートルの八角形の記念碑を、大きな岩の上に建てた。
 善蓮寺は、昭和二十五年に焼失したが、地都堂だけ残った。この地蔵堂には、丈六の大きな石地蔵を中心として、千体の石仏が安置されている。この石仏は信者の寄進したお地蔵さんで、それぞれ名前が書いてある。
御坊畷(ごぼうなわて)と御坊水
 真栗(真栗町)の沖田に三十五歩という所があった。このあたりは畦(くろ)という岡が続いていた。むかしこのあたりに人家があったが、飲み水がなかったので、真栗の中ほどにあった御坊水を汲みに来た。この道を御坊畷と呼んでいた。
 また御坊水を飲んでいる家が五、六軒あって、この近くに日鑑(にっかん)上人の生家西野金三郎家があった。またこの屋敷に、善道寺というお寺があったが、その後大野へ移った。その寺跡を今でも善道寺と呼んでいる。
岡の道
 江戸時代に岡島甚左ェ門家の祖先が、米商いをしていた。清水山(清水山町)の大池で伝馬船(てんません)という底の浅い船に積み、「よもぎ」の船付場で千石船に積み替え、三国湊へ送っていた。真栗(真栗町)から大池まで米を運ぶ道がつけられ、岡の道と呼んでいた。
サガ山・御所が谷・乙女谷
 真栗(真栗町)のサが山は、三岩山とも書き安山岩の岩山である。サガとは「さがしい」 けわしい)という意味で、この山は急な崖山である。この岩山の東側に石切場があり、このあたりから西の方一帯を「御所が谷」と呼んでいる。
 また、サガ山の西側は急な崖で、坪谷(坪谷町)地籍のサガ山に続いている。そして坪谷入口の谷窪(たにくぼ)に「乙女谷」という真栗の飛地がある。
 この乙女谷に次のような伝説が残っている。
 むかし、サガ山城主に使われていた娘が、城主の大切な抹茶の天目茶碗を割ってしまった。それで打首になるのを恐れて逃げたが、追手が乙女谷まで追っかけて来たころ、娘を見失ってしまった。この時、娘はこの谷の大きな岩に隠れていたので、見つからなかった。それでこの岩を「かかえ岩」と名づけたとのことである。
検見(けみ)道と馬原(うまばら)
 江戸時代に年貢を取り立てるため、稲の作柄を役人が検査をして回った。これを「検見(けみ)」といい、この道を検見道と呼んでいた。
 真栗(真栗町)の南診療所(現在は清水南醫院)付近に、検見役人の馬をつないで置いて、ここから清水山(清水山町)境の「ぎゃるが池」の道をカゴに乗り替えて見て回った。それでこの馬つなぎ場を「馬原(うまばら)」といい、作柄を見て回った道を「検見道」と呼んでいた。
 稲の作柄は、低い所から見ると稲の穂の下がったのが豊作に見え、高い所から見ると白穂が立って見え、悪作に見える。それで役人の乗るカゴの窓を、なるべく高くして置いたとのことである。