- 村のおいたち
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村の西側に山が連なって、その片側に村があるので「片山」と呼ぶようになったのである。
この後の山を「牛山」と書いてある文書もあるが、小谷山と呼ばれる山から流れる湧水や、出水を溜池にためて、この水で田んぼを養ってきた。そして、村前を流れる日野川の洪水のため、山の谷あいの高い所に住んでいた。それで谷ごとに小さい村ができて、椿井(つばい)、牛房谷(ごぼたん)・大谷・小谷・鳥越(とりごえ)・新光寺などの垣内(かいち)が散在(いずれも現在は片山町の一部)しているわけである。
そして、濯概用の溜池として、三ツ谷の大溜をはじめとして、小谷溜、名ノ谷溜、奥ヶ谷溜などがある。 - 蔵王神社(ざおうじんじゃ)・雄剣神社(おつるぎじんじゃ)・白山神社
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片山(片山町)には、白山・蔵王・八幡・雄剣・姫剣(めつるぎ)の五神社が建っている。明治三十九年の神社廃合令の時、合併しなかった訳である。
その中で蔵王神社は、白山信仰に関係する山岳仏教「修験道」の神様の、蔵王権現が祀られている。
また、雄剣神社には、越知三所(おちさんしょ)大権現の十一面観音・阿弥陀如来(あみだにょらい)・聖観音(しょうかんのん)の三体の仏像が祀られている。
白山神社には、珍しい立派な御神像が祀られている。この神様には、元徳元年十月廿日という銘(めい)が書いてある。今から六百六十年ほど昔の、後醍醐天皇の時代につくられた神像で、清水町内(清水地区内)の銘入りでは、最も古い木像である。 - 東大寺荘園椿原庄(とうだいじしょうえんつばきはらのしょう)
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片山新光寺(片山町の一部)の西側一帯は、奈良・平安時代に、東大寺の荘園であった。この荘園を「椿原庄」と呼んでいた。
東大寺正倉院文書に「東大寺諸国庄々文書並絵図等目録」という文書があり、越前国丹生郡椿原村に東大寺の荘園があったことが記されてある。
この椿原庄は、その頃の条里制によって、十八条一里、二里、十九条一里、二里の位置で、面積は十七町歩余りである。
片山(片山町)には、椿井という垣内があり、椿原のお寄りという祭りがある。また各所に大きな椿の木が生えていたので、椿原庄は、新光寺付近に間違いないことがわかった。そして南の方は新保付近、西の方は 島寺(島寺町)、風巻(風巻町)付近、北の方は杉谷(杉谷清水町)、三留(三留町)付近にまたがっていたものと、推定される。 - 西光寺の板碑(いたび)
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墓地の入口に、高さ一・八メートルの大きな板碑が一対立てられてある。そして梵字(ぼんじ)の報身真言(ほうしんしんごん)が薬研彫(やけんぼ)りで彫られてある。左の隅に永正七年と彫ってあることから、室町時代の中頃、一向一揆の争いに犠牲となられた方々の、供養碑であるとの言い伝えと一致する。
この板碑は、もと新保(清水山町の一部)と片山(片山町)の村境の谷窪(たにくぼ)に建てられていて、四方に境界石が立っていた。これは永正三年(今から四百八十年前)森田(森田地区)付近で、九頭竜 川をはさんで一向一揆方と朝倉勢とが戦った。この時一揆方が敗れて、多くの人が捕えられ処刑された。
朝倉方の家臣増井氏の館が、新光寺(片山町の一部)にあったので、捕りょの処刑を命ぜられたのではないかと、推測される。その後、永正七年に増井氏や土地の有力者によって、追善供養の板碑を処刊場跡に建てたという、言い伝えが残っている。
当時このような碑を建てるには、相当の費用がかかったものと思われる。
終戦後、耕地整理の時、この板碑は西光寺墓地へ、四隅に立っていた堅石(たていし)は、寺の門前に移された。 - 八幡神社の古式鳥居
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この鳥居は、慶長十八年、今から三百七十年ほど前に建てられた、古い笏谷石(しゃくだんいし)の鳥居である。
鳥居の柱に、年号と石大工千助という名前が彫ってある。江戸時代以前の鳥居を古式鳥居と呼び、荒けずりの素朴な美しさがある。
江戸時代になって鳥居の木割(きわり)法ができて、柱、貫(ぬき)笠などの大ききの規格がきめられ、均衡のとれた形となるが、画一的で、笠木などの反りが不自然になりやすい。
この点、新光寺八幡神社の古式鳥居は、不格好であるが、昔の人の素朴さがにじみ出ている。 - 虎御膳(とらごぜん)の五輪塔
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片山随道(片山トンネル)の北側近くの水田の中に、大きな五輪塔が建っている。この小谷山の裏側は、朝宮(朝宮町)から鯖江、府中(武生)へ通ずる昔の街道で、この道路脇に五輪脇が建っていた。
この塔は、蘇我十郎の恋人、虎御前が曽我兄弟の追善供養(ついぜんくよう)のために建てたと伝えられている。
虎御前の生母は、福井市種池(種池町)の者で、種池にも供養の五輪塔があり、この他各地に「虎御前の石」「曽我兄弟の墓」「虎ご石」「虎御前の墓」などが建っている。
片山(片山町)の五輪塔は、鎌倉時代の石造建造物の特色を備えていて、形も美しい。
- 石造五輪塔
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石造五輪塔は、凝灰岩の組み合わせ式五輪塔で、総高114.5cm。造られた時代は、五輪塔の様式から室町時代の15~16世紀と考えられています。
1.概要
片山(片山町)の栃谷側通称「おべらこ谷」の水田の中に、大きな五輪塔が建っている。
この塔の前通りは昔の府中(現越前市)へ通ずる街道筋として重要な道路であった。
この道路脇に建てられた五輪塔は、土地の言い伝えによると虎御前(とらごぜん)の建てた供養塔であるとか、木曽義仲の妾、巴御前(ともごぜん)の供養碑であるとかいわれている。
ともあれこの五輪塔は、町内に残っている数多い塔の中でもっとも大型で、欠損も少なく中世の代表的石造建造物として、貴重な五輪塔である。
五輪は、地、水、火、風、空という天地万物を象徴された塔で密教(みっきょう)(真言宗、天台宗がその心境を説いた教え)思想から出ている。五輪の一番下は方形(地)となっていて、次は球(水)・三角(火)・半球(風)・宝珠(空)という順に建てられている。珠体正面に阿弥陀如未座像、右に観音菩薩(サ)左に勢至菩薩(サク)の梵字による三尊仏が彫られてある。この形は平安末期頃から鎌倉時代に完成された形となり、鎌倉時代から室町時代には各地に建てられるようになり、いわゆる五輪造立の最盛期となった。
2.その他
方錐形の笠の火輪、宝珠形と半円形を組み合わせた空・風輪には何も刻まれていません。作られた時代は五輪塔の様式から室町時代十四世紀頃のものと考えられます。
片山(片山町)の五輪塔の建てられた意味は、曽我兄弟の仇討ちに登場する遊女虎御前の供養塔という伝承もあるそうです。しかし、地輪の下に骨壺を収めるための刳抜きがあったので、墓として作られたことが確かであると思います。
ところで、片山の五輪塔が建てられた室町時代の十四世紀頃、片山に真新光寺という真言宗の寺院がありました。この寺は今はありませんが、清水地区の歴史の中で最も大きな寺院であったことが遺跡の規模や京都の東寺の記録などからわかっています。このことから考えれば、片山の五輪塔は真光寺に関わる人々の墓であったとみることが自然な理解であると思います。
3.交通アクセス
本城跡へは、京福バス清水グリーンライン「栃谷」停留所を下車、又は西田中宿堂線「栃谷」停留所を下車徒歩約10分。 - 周辺
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市指定文化財(史跡) 方山真光寺跡塔址
市指定文化財(建造物) 石造八幡神社古式鳥居、