福井市清水山町の伝承

清水南地区の名所や伝承の紹介

昭和61年8月、旧清水町が発行した「清水町のむかしばなし」の中に収録されている、「各区の伝承」をとりまとめた「しみずっペディア」から引用しています。

清水山町の伝承

村のおいたち
 清水山(清水山町)は、村の後に大きな山を持っていて、この象の形をした山は「水山」といわれ、所々に美しい清水が湧き出るので、大昔から人が住みつくようになった。しかし日野川・天王川の洪水のため、山の中腹の清水の出る場所として、奥の谷のあたり(専伝寺付近)に一番早く住みついたと思われる。
 そして、奥の谷や向山の頂上には、立派な古墳が尾根づたいにいくつもつくられてあり、このあたりの豪族の墳墓と思われる。
清水山新保(清水山町の一部)
 新保とは出村のことで、枝村とか開発(かいほつ)・出村・新保・出作(しゅっさく)・朶村(えだむら)などの呼び名がある。
 清水山(清水山町)には約千九百石の広い田畑があり、北の方の「だんご山」付近の田んぼの稲が盗まれたので、番小屋をつくって見張っていた。しかし清水山の家まで遠いので、作業小屋をつくって百姓をしていて、住みつくようになった。その後、戸数もだんだんふえて、江戸時代のおわり頃には、三十六軒にもなった。この頃は、新保にも庄屋、長百姓を置いて、或る程度の自治が行われていた。
清水山古墳
 白山神社の上に簡易水道のタンクを造った時、たくさんの土器が出た。これは古墳の場所であった。
 その後、清水町史をつくる時調査したところ、三基の円墳が見つかった。その時清水山下(清水山町)の池鯉鮒神社(ちりふじんじゃ)の尾根にも円墳が四基と、前方後円墳があることがわかった。前方後円墳は、神社の本殿の敷地造成の時こわされて、後円部だけが残っている。
白山神社と境内社
 泰澄大師(たいちょうだいし)の信仰なさった、越知三所大権現の神様が祀ってある。境内には明治三十九年の神社廃合令によって、ここに移された神社が建っている。境内の上段には八幡神社、中段には稲荷神社、下段には天満宮と氷川(ひかわ)神社が祀ってある。
 このほか清水山城祉には、太田氏の守護神毘沙門(しゅごしんびしゃもん)さまが祀ってある。
新保の八幡神社と、湯立ての火事
 通称「だんご山」の頂上に八幡神社が祀られてある。阿弥陀如来(あみだにょらい)と聖観音(しょうかんのん)が安置されている。
 このお宮さんには、湯立ての行事というお祭りが行われていた。これは春祭りに鍋を持ち寄り、境内で湯をわかして、その湯を笹の葉で仏様にかけ「みそぎ」をして豊作を祈るわけである。
 ところが、今から二百十年ほど前の、安永三年四月、春祭りの湯立ての行事の折、火が枯草に燃え移って大火事となった。この時十三軒が焼けたので「八幡十三軒の大火事」といっている。
 昔から近在の者が、湯に入りたがらない子どもに、「新保の神様んてになるぞ」とか「新保の神様んてな真黒スケじゃ」と言って叱られた。
 これは、御神体の阿弥陀如来が黒仏さんであったためか、湯立ての行事があったので、お湯をかけて清めたことから「新保の神様んてな」という喩え話が生れた。
中埜(の)山専伝寺
 昔は天台宗で山干飯郷丸岡(やまがれいのごうまるおか)(現越前市)にあったが、その後、親鷲聖人が越後へ配流(はいる)の折、帰依(きえ)し弟子となり、越中(富山県)までお送りし教えを受けた。その時、良山という法名を賜わり、足羽郡中野村(中野町)へ移り開基(かいき)となった。その頃、中野には専照寺という三門徒派の本山があったので、その末寺となり中埜(の)山専蓮寺という山号であった。
 天正十一年には、寺号を専伝寺と改め、元禄三年今から二百九十六年前に、三門徒派から本派本願寺へ転派し、清水山(清水山町)の奥の谷に寺を移し今日に至っている。
百か寺騒動と清水山同行
 今から約三百年前の天和三年に、福井の東別院の宗務を預かっていた本瑞寺と、後見役の二寺の独断専横(どくだんせんおう)に対して不満をもつ百か寺との間で、大騒動が起こった。この争いを「百か寺騒動」と呼んでいる。
 反対派の百か寺の中、お東からお西へ転派する寺院が次々とでてきた。
 清水山(清水山町)には、東派の笹谷乗線寺(じょうせんじ)門徒が百戸近くあった。この頃、専伝寺はまだ中野村(中野町)にあった。ところが、乗泉寺の住職は、強硬派で、お西へ転派することにした。しかし同行の者は、あくまでお東にとどまって東別院の直参(じきさん)になる者が出てきた。
 清水山の同行の者も大勢、東御坊へ直参願いのため福井へ出かけた。ちょうどその日は雨風が強かったので、途中の万徳寺で雨やどりしていた。その時、訳を話したところ、それではこの寺の同行になってはどうかと言われ、万徳寺の同行となった。 また正蔵寺で雨やどりしていた者は、正蔵寺の同行となったと伝えられている。
三尾野・清水山村境争い
 清水山(清水山町)の南「中浜」「辻浜」地籍は、三尾野村(三尾野町)との村境で、日野川増水のたびに川筋が変わるので、争いが絶えなかった。元禄十四年の川欠け事件で、新川の中央を村境にきめられた。その後明和二年今から二百二十年ほど前に大水が出て、清水山の田地一町九反余りが新川になり、反対側の三尾野に砂浜が移ってしまった。
 そこで幕府へ訴え出て裁判となった。三尾野では新川の中央が村境であると言い張ったが、幕府評定所では、太閤検地の図面を出して調べたところ、清水山の言い分が通って、三尾野側に移った砂浜は清水山の田地であるとの裁きがあった。
 三尾野の村役人は嘘を言ったため、庄屋に過料銭(かりょうせん)三貫目、長百姓(おさひゃくしょう)は「急度(きっと)叱り」百姓代は「お叱り」仰せつけられた。
周辺
市指定文化財(史跡) 清水山城跡
市指定文化財(天然記念物) 石造八幡神社古式鳥居、大杉