福井市風巻町の伝承

清水南地区の名所や伝承の紹介

昭和61年8月、旧清水町が発行した「清水町のむかしばなし」の中に収録されている、「各区の伝承」をとりまとめた「しみずっペディア」から引用しています。

風巻町の伝承

地名といわれ

風が巻きこむという意味から風巻の地名ができたらしい。小羽山とかみ山にはさまれた谷 あいで、北風はもちろん、南風もはげしく巻きこむ所にあたる。

大むかし(一二〇〇年以前)すでに風巻村(風巻町)に牧場があったらしいことが古書に記されているなど、むかしから開けた村といえよう。

日吉神社

この社一円は杉の老木が茂り、昼でも暗いので、村人は聖地(たっとい土地)だとして入山をひかえた土地である。

ある日越前国河和田(鯖江市)の住人、重次郎・森之助兄弟が数十名の木こりといっしょに風巻(風巻町)へ来て、連日酒樽(酒を入れる木の入れもの)用の材木を伐採した。

ところが、ある夜木こりの兄弟の枕元に白髪の老人が現われて言うには「わが住居を荒らすことなかれ」と言ってスーッと消えた。このことはそれから後もたびたび同じことがあったので、木をきる事を中止して、社殿を建てて日吉神社と号して日吉大神を祭った。

白山神社
 千百五十年前にまつられた杜であったが、織田信長時代に兵火にかかり焼失した。のち元和二年(一六一六年)に今の地へ造営した。
地蔵堂(斉藤清兵衛家氏神)
 伊藤恵造家の溜池を掘ったとき地蔵菩薩が出たのでその石像を社殿にまつった。
浄明寺
 開基は本願寺綽如上人の三男周覚法師という人の四男の祐存で、田尻に草庵を営んだ。その後朝倉氏の子孫日下部西玄が、住職となり跡をついだが、織田信長の一揆征伐の時、風巻(風巻町)へ逃れ奥谷垣内(おくたんがいち)に移った。  その後、江戸時代になって風巻が福井藩の家老稲葉妥女(いなばうねめ)という人の知行地(領地)になった時、大谷に寺屋敷と山一か所の寄進を受け、寺を再建した。それで、元禄二年に、稲葉妥女の墓を建て、毎年命日には墓参りを続けているとの事である。
乱れ橋
 八百年のむかし、小羽(小羽町)から風巻へ通じる橋の所で、木曽義仲の軍と平家方の軍と戦った。ここは沼地で義仲軍が苦戦し大混乱となったので、その後、乱れ橋と呼ぶようになった。そしてこの橋の下の魚は片目であったという。  この橋も最近の土地改良工事でなくなって今はない。
塚の越し古墳(つかのこしこふん)
 町営グランド(きららパーク多目的グラウンド)の敷地内にあって、高台に築かれた円墳であった。この円墳の近くでむかしは瓦焼きをした。この辺の赤土は瓦に適した粘土地帯であった。  古墳からは、冠頭太刀(かんとうたち)・管玉(くだだま)・朱(しゅ)などが出土して東京国立博物館に陳列されている。
灰塚(はいづか)
 風巻(風巻町)の西火葬場の墓地に「灰塚」が四基たてられている。天保・文化・文久時代、村の有志によって建てられたものである。飢饉・はやり病によって、一時に多くの死者がでたので、大量の骨灰の処理に灰塚を建て丁寧に葬ってある。
明寺の地蔵堂
 明寺橋東北づめのあたりは、むかしは杉・松の大木が生い茂り、昼でも暗い気味の悪い道であった。  特に風巻(風巻町)の火葬場が近くにあり松の木から、首つり縄が下るとのことで小走りで通り過ぎた。  明治十年ごろ、風巻の有志、杉崎郡内・斉藤勘太夫・酒井忠右エ門の三人の寄進によって、通行人の心を安める護り本尊として、石造地蔵菩薩を安置した。
斉藤清兵衛
 明治十年二月八日風巻村(風巻町)の素封(そほう)家に次男として生れ、幼名を清といった。明治三十七年父の隠居により家督を相続して清兵衛を襲名した。  彼は福井中学を経て、東京高等商業学校に入学したが病気のため中退した。のちに慶応義塾大学の理財科に入学したが、ここでも病気のために中退し、風巻で療養した。  正義感、責任感が強く、県会議員として十年、村長(旧天津村村長)を十一年、その間の村民の信頼は絶大であった。
織田信博
 慶応二年十一月風巻(風巻町)の織田信三の長男として生れた。幼少から学問を好み、教員になったが、明治四十二年から四十五年まで村長として活やくした。  在職中に天津小学校(清水南小学校)を真栗(真栗町)に建てるなど、厳然(げんぜん)とした態度で立ち向った。また福井・西田中間のバス路線開発にも献身的に努力した。彼は一生を通じて公共事業に貢献して偉大な業績をのこした。
周辺
清水南公民館、清水図書館、清水郷土資料館、きらら館、 きららパーク(多目的グラウンド)