「菜根譚」夜話

第1話  矜恃を持つ (「菜根譚」前集第1項)

棲守道徳者 寂寞一時 依阿権勢者 凄涼万古 達人観物外之物 思身後之身 寧受一時之寂寞 母取万古之凄涼

 道徳に棲守(せいしゅ)するは 一時に寂寞たり 権勢に依阿(いあ)するは 万古に凄涼(せいりょう)たり 達人は物外の物を観 身後の身を思う むしろ一時の寂寞を受くるも 万古の凄涼を取ることなかれ

 (意訳) 人として行うべき道を自己の本分として守ろうとすると、寂しい思いをすることもある。だが、それは一時のことだ。それに比べて、権力や勢威のある者にこびへつらうのは、一時はいい思いをするがいつまでも続くものでない。その後に訪れる寂しさはいつまでも続くものだ。物事の道理を究めた人は、俗世間の域を超えた天地万物を観(み)、解脱した後の身を思うものである。一時の寂寞を受けても、いつまでも続く寂しさを選んではいけない。
 

第2話 世才の有り様 (「菜根譚」前集第2項)

渉世浅 点染亦浅 歴事深 機械亦深 故君子与其練達 不若朴稗 与其曲謹 不若疎狂

 世を渉(わた)ること浅ければ 点染もまた浅く 事を歴(ふ)ること深ければ 機械もまた深し ゆえに君子はその練達ならんよりは 朴魯なるにしかず その曲謹ならんよりは 疎狂(そきょう)なるにしかず

(意訳) 世渡りもほどほどの気持ちで収めていれば、変な色には染まらない。諸事遍歴も過ぎれば変な世才が身についてしまう。変な色に染まって変な世才を巧みに働かせることに汲々するよりは、飾り気もなく世渡りべたの方がいい。そして原理原則を杓子定規に振りかざすような生き方よりは、相手に警戒心を起こさせない一見そそっかしくて軽めの生き方がいい。


第3話 「染まらず弄せず」~染まりもしないし嘲ることもしない (「菜根譚」前集第4項)

勢利紛華 不近者為潔 近之而不染者尤潔  智械機巧 不知者為高 知之而不用者為尤高

 勢利紛華(せいりふんか=権勢や財力が華やかなこと)に近ざる者潔(いさぎよ)しとす 近づきて而も染まらざる者尤(もっと)も潔(いさぎよ)しとす
 智械機巧(謀や罠に才知をめぐらすこと)を知らざる者高しとす 知りて而も用いざる者尤(もっと)も高しとす

(意訳) 権勢や財力を誇る者になびかない者は潔癖である。近づきながらもそれに染まらない者はとりわけ精神が気高く清い。
 権謀術数を知らない者は尊敬される。知りながらこれを嘲ることもしない者はとりわけ仰望される。

~反権勢・非主流で意固地にやるだけが能でない。「染まらず、弄せず」生きていく方がもっと大変である。

第4話 諫言と甘言 (「菜根譚」前集第5項)

耳常聞逆耳之言 心中常有払心之事 纔是進徳修行的砥石  若言言悦耳 事事快心 便把此生埋在鴆毒中矣

 耳中常に耳に逆らうの言を聞き 心中常に心を払る(もとる=曇り、汚れを取り去ること)事あれば 纔(わずか)にこれ徳に進み行いを修むるの砥石(しせき)なり
 若(も)し言言耳を悦(よろこ)ばし 事事心に快(こころよ)ければ すなわち生を把(と)りて鴆毒(ちんどく)の中に埋在せん

(意訳)
 耳に痛い言葉を常に聞き(腹が立つこともあるかも知れないが)、心の中を常に澄んだようにしてこの言葉に耳を傾けていれば、多少だが人としての修養ともなる。
 もし耳障りのよい言葉ばかり聞こえ、やることなすことが抵抗もなく受け入れられるならば、その生を猛毒をもっている鴆(ちん)の羽毛に埋在するようなもので、身を滅ぼすことになる。

~誰でも嫌がることを言いたくないものだ。諫言する人は、その人の人生(栄達、出世等)をかけて言っているかも知れない。その重さを考えよう。


第5話 よろこび (「菜根譚」前集第6項)


疾風怒雨 禽鳥戚戚 霽日光風 草木欣欣 可見天地不可一日無和気 人心不可一日無喜神

 疾風怒雨には 禽鳥も戚々(せきせき)たり 霽実(せいじつ)光風には 草木も欣々(きんきん)たり 見るべし天地に一日も和気なかるべからず 人心に一日も喜神なかるべからざるを

菜根譚

(意訳) 激しい雨風には猛々しい鳥でさえくよくよと気に病む。そして雨が止み空がすっきり晴れ渡り、雨露の光りを帯びた草葉の上を風がそよぎ、草木もたいそう喜ぶ。大地に一日たりとも欠かせぬものは、こののどやかで温かな日和だ。丁度、人の心に喜びの気持ちをいつも抱くことが欠かせぬのと同じように……。


第6話 万事に備える (「菜根譚」前集第8項)

天地寂然不動 而気機無息少停 日月昼夜奔馳 而貞明万古不易 故君子 閒時要有喫緊的心思 忙処要有悠閒的趣味

 天地は寂然(せきぜん)として動かず 而して気機は息(や)むことなく 停(とど)まること少なし 日月(じつげつ)は昼夜に奔馳(ほんち)す 而して貞明は万古に易(かわ)らず ゆえに君子は閒時(かんじ)に喫緊(きっきん)の心思あるを要し 忙処に悠閒の趣味あるを要す

(意訳) 天地は寂然としていても、その中では陰陽二気が充ち満ちて止むことはない。太陽も月も昼夜分かたず勢いよく走り駆けているが、そのために光輝きが変わることはない。静即動の気構えを常に持ちながら、また忙殺されるような時こそ落ち着いた気持ちで平生の情趣・雅趣に意を用いたいものである。

第7話 自分を見つめる (「菜根譚」前集第9項)

夜深人静 独坐観心 始覚妄窮而真独露 毎於此中 得大磯趣 既覚真現而妄難逃 又於此中 得大慚忸

 夜深く人静かなるとき 独り坐して心を観ずれば 始めて妄窮まりて 真独り露わるるを覚ゆ つねにこのうちにおいて 大機趣を得
 すでに真現われて妄逃れがたきを覚ゆれば またこのうちにおいて 大慚忸(ざんぢく)を得

(意訳) 夜の帳が深くなり、漆黒の闇の中に人の気配もない。ただ在るのは己のみである。独り座って心を澄ましてみれば、そのうちに雑念や妄想が雲散霧消し、なにものにもとらわれないすがすがしい心の有様をみ(観)ることができる。
 ただ凡人故に、その様な真心を得ても、満月光を曇らす行雲のように、思い悩んでいることや迷いがいつの間にか現れ、なかなか振り払い難い。その葛藤の中で自らの至らなさを知り、修養の念をさらに深めることができる。

夜話

(詳解) 夜深くして人静かに萬籟(ばんらい=静寂を破る色々な音)寂たるの時、獨(ひと)り短檠(たんけい=油皿の灯明具)の下に座して吾、我が心を観ず、此の時には外界の心を動かすものなくして心海波平らかに、見聞(けんもく)覺知するところの事物に対して妄動する心は盡きて聖人君子と相同じき眞心(しんしん)が現れる。眞心は妄動することのない心で萬人悉(ことごと)くその心の奥底には存して居るのであるが、常には見聞し覺知する事物に動かされて行く妄心のみ騒ぎ廻るが、今は夜深く人静かにして見聞覺知の心を動かすものもなく獨朗(どくろう=なにものにもとらわれることのないすがすがしさ)の眞心は露(あら)われるのである。〔中略〕 妄心の雲盡きて真如(しんにょ)=永久不変の真理)の月現れ八面玲瓏(はちめんれいろう=少しのくもりもなく、透きとおっている)、月影の到らぬ隈もなく、鷹用自在のはたらきが出来るのを毎(つね)に此の中に於いて大機趣を得(う)といふたので、さて此の眞心の光明は立派に心の暗(やみ)を照らせども、妄心のなかなかに除き難きを思へば、ここに大慚忸とて慚(ざん)も忸(ぢく)も共にはづるの義(ぎ=意味)で恥づかしいといふ氣が起る、此の慚(はづ)かしいと云ふ心が向上發展の動機で、これがなければ精神の修養が出来るものではない(「菜根譚講話」から参照)

第8話 何事もほどほどに (「菜根譚」前集第23項)

攻人之悪 母太厳 要思其堪受 教人以善 母過高 当使其可従

 人の悪を攻むるは 太(はなは)だ厳なることなかれ その受くるに堪えんことを思うを要す 人に教うるに善をもってするは  高きに過ぐることなかれ それをして従うべからしむべし

(意訳) 他人の到らぬところへの批判は、余り厳しすぎてはいけない。その批判が相手に堪え得るものか考えることが必要だ。また、他人を道徳的に正しい行いに導こうとするさいには、あまりに高徳過ぎてはならない。その教えが理解され実践できる程度でないといけない。

第9話 相観対治 (「菜根譚」前集第53項)

人之際遇 有斉有不斉 而能使己独斉乎 己之情理 有順有不順 而能使人皆順乎 以此相観対治 亦是一方便法門

 人の際遇(さいぐう)は 斉(ひと)しきあり斉しからざるあり 而してよく己をして独り斉しからしめんや 己の情理は 順なるあり順ならざるあり 而してよく人をして皆順ならしめんや 此を以て相観対治せば 亦是一つの方便なる法門なり

(意訳) 人それぞれの巡り合わせはさまざまであり、過不足もなく何事もうまくいく場合もあればそうでない場合もある。それにもかかわらず他の人を顧みず自分だけよい巡り合わせを求めるのはいかがであろうか。
 人としての自然な感情や道理もさまざまであり、相手が都合よくこちらの思いや意図に従うこともあればそうでない場合もある。それにもかかわらず全ての人に自分の思いや意図に従わさせるのはいかがなものか。
 このような考えを以て、自己と他者の有り様を相観(あいみ)て、その中にある矛盾を取り除くことは、これもまた真実の教えに至るための一つの方法である。

第10話 虚と実 (「菜根譚」前集第56項)

読書不見聖賢 為鉛槧傭 居官不愛子民 為衣冠盗 講学不尚躬行 為口頭禅 立業不思種徳 為眼前花

 書を読みて聖賢を見ざれば 鉛槧(えんざん=詩や文章の創作を職業とする)の傭(よう=雇われ人)となる 官に居て子民を愛せざれば 衣冠の盗となる 学を講じて躬行(きゅうこう=実践)を尚(とおと)ばざれば 口頭の禅となる 業を立てて徳を種(う)うるを思わざれば 眼前の花となる

(意訳) 古今東西万巻の書に通暁しながら、その行間にある聖人や賢人の教えに学ばなければ、述作しても三文文筆の徒となる。
 高位の官として身を処しても、人民を我が子のように可愛がって人民のためのまつりごとができなければ、自分にそれだけの能力がないのに禄を食む盗人となる。
 学問を研究して修めたとしても、実践を旨としなければ、口先の言葉だけで内容のない修行となる。
 事業を為しても、その業の社会に果たすべき責任を一顧だにしなければ、目の前で咲き乱れる徒花(あだばな)と同じように華麗であってもその栄華は儚(はかな)い。

第11話 一苦一楽 (「菜根譚」前集第74項)


一苦一楽相磨練 練極而成福者 其福始久 一疑一信相参勘 勘極而成知者 其知始真

 一苦一楽相(あ)い磨練し 練極まりて福を成(な)すものは その福始めて久し 一疑一信相い参勘し 勘極まりて知を成すものは その知始めて真なり

(意訳) 苦労もあれば楽しみもあり、そのような苦楽があざなう縄のように相交わり心の内面を磨き上げてゆく。心の内面の磨き上げを極めて得た幸福は久しく続き、潰(つい)えることはない。
 時には疑い時には信じる、そのような信疑が心の中に入り交じり相互いに比べ合わせていくなかでより奥深い真理へと突き詰めていく。深い思案の末に得た物事を正しく見抜く知識は信疑のはざまを超えたまことの知識である。


第12話 風の音も雁行も過ぎれば空(むな)し (「菜根譚」前集第82項)

前集


風来疎竹 風過而竹不留声 雁度寒潭 雁去而潭不留影 故君子事来而心始現 事去而心随空

 風 疎竹に来たる 風過ぎて竹に声を留めず 雁 寒潭(かんたん)を度(わた)る 雁去りて潭に影を留めず ゆえに君子は事来たりて心始めて現れ、事去りて心随(したが)って空し

(意訳) 竹の葉をそよがせる心地よい風も、通り過ぎればその風音は竹の葉に留まらない。雁行が冬の淵辺に影を沈めて飛び渡っても、淵辺にその影を留めることはない。
 竹の葉の風音や淵辺の雁影のように、万物全て因縁により生ずるものでそのもの本体は何もない。何事か起これば対処し、事が収まれば空に帰す。このような砥礪(しれい=研ぎ磨くこと)を踏まえて、千古不易の真理を悟りたいものだ。

第13話 過ぎたるは及ばざるが如し(「菜根譚」前集第196項)

山之高峻処無木 而谿谷廻環則草木叢生 水之湍急処無魚 而渕潭停蓄則魚鼈聚集 此高絶之行 褊急之衷 君子重有戒焉

 山の高峻なる処には木なくして 谿谷(けいこく)廻環(かいかん=めぐる)すれば草木叢生す 水の湍急(たんきゅう)の処には魚なくして 渕潭(えんたん=水の深いところ)停蓄すれば魚龜(ぎょべつ)聚集(じゅしゅう)す これ高絶(=高尚過ぎる)の行 褊急(へんきゅう=余裕がなく、焦る)の衷(ちゅう=心の内面)は 君子重く戒(いま)しむるあれ

 

後集

(意訳)俊嶺(高い山)には、その険しさ故に灌木も生えない。しかしその山の渓谷が麓までたゆたうように巡るところでは草木が群がり生える。
 湍瀬(たんらい=流れが急なところ)には、その急流故に魚影もない。しかしその流れが淵となり留まるところでは魚も亀も群がり集まる。
 このように余りにも高みを究めようとする修行は時として高尚すぎて何も得るところがなく、心にゆとりがなく焦っていてはその学問を広く深く究めることもできない。重い戒めとして心に留めおきたい。


第14話 自在の妙(「菜根譚」後集第33項)


嗜寂者 観白雲幽石而通玄 趨栄者 見清歌妙舞而忘倦 唯自得之士 無喧寂 無栄枯 無往非自適之天

 寂を嗜(たしな)むものは 白雲幽石(=深山幽谷の処)を観て玄(=深遠な道理)に通じ 栄に趨(はし)るものは 清歌妙舞を見て倦(う)むを忘る ただ自得(=道理を自ずと悟る)の士は 喧寂なく 栄枯なく 往くとして自適の天にあらざるなし

(意訳) 静寂を好んで親しむ者は、深山幽谷の処を観て深遠な道理を悟る。栄華に走る者は、酒宴の歌舞音曲や妙なる舞に時を忘れて倦むことがない。それはそれで一面の極みであり、ことさら云うこともない。
 ただ、物事の道理を自ずから知り悟った人には、騒がしさや静寂さにもこだわりがなく、世間の栄華の浮き沈みも関係がない。
自分の思うままの世界に身を処することができるのだ。

第15話 自然と人の心(「菜根譚」後集第92項)


当雪夜月天 心境便爾澄徹 遇春風和気 意界亦自沖融 造化人心 混合無間

 雪夜月天に当たっては 心境すなわちしかく澄徹し 春風和気に遭えば 意界もまた自ずから冲融(ちゅうゆう= 溶け和らぐ)す 造化(=自然)人心 混合間なし

(意訳) しんしんと降り積もった雪の上には少しの塵もない。夜半になると、月光に照らされて澄みきった白銀の世界がますます冴え渡り、見る人の心を瞬時に澄んで透きとおった、穢れのないものにしてくれる。
 おだやかで暖かい春風が人の心をのどやかな、むつまじい気持ちに誘い、とけやわらいだ気分が自然と心に満ちあふれる。
 自然のなりわいと人の心は、このように相交わり溶け合っていて一つのものになっている。

 

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